インベスターズ・ビジネス・デイリー
2007年6月29日
リーダー&成功
ピート・サンプラスはトップへの道を勝ち上がっていった
文:David Saito-Chung


1995年オーストラリアン・オープン――酷暑の中で選手が汗を流す事で有名な大会――の準々決勝で、ピート・サンプラスのタオルは涙で濡れていた。

通常はコート上のポーカーフェイスで知られているが、前回優勝者は何千もの観客を前にして、感情を抑える事ができなかった。大会が始まる前にコーチのティム・ガリクソンが倒れ、メルボルンの病院に急いで運ばれた。診断: 稀なケースの脳腫瘍がガリクソンにはあった。

大会の間じゅう、サンプラスは不安を押し隠していた。しかし今回、ジム・クーリエ戦の最中に涙が彼の頬を伝った。もちろん、長年のライバルであり友人でもあるクーリエは、ネットの向こう側から叫んだ。「ピート、大丈夫かい? 君が望むなら明日やってもいいんだよ」

クーリエの言葉は気力に火をつけた。サンプラスはそんな事は考えていなかっただろう。世界ナンバー1は素早く自分を取り戻し、ゲーム時の顔を取り戻し、そして20本目のエースを放った。彼はその夜クーリエを打ち負かし、続いて準決勝ではマイケル・チャンを下し、そして決勝戦でアンドレ・アガシと対戦して敗れた。

最愛のコーチは、もはやサンプラスの試合につき添う事ができなかったが、それでもアドバイスを与え続けた。サンプラスは大きなタイトルをさらに勝ち取ると誓った。1990年に史上最年少でUSオープン男子タイトルを獲得し、1993年と1994年にはウインブルドン・トロフィーを加え、94年にはオーストラリアンの栄冠を勝ち得ていたが、それだけでは充分でなかった。

南カリフォルニア出身のサーブ&ボレーの巨匠は、約束を守った。クーリエとの悲痛な試合の数カ月後、サンプラスはウインブルドンとUSオープンのシングルス・タイトルを手に入れたのだ。

1996年、ガリクソンが亡くなった年には、 アレックス・コレチャとの準々決勝マラソン・マッチの最中に嘔吐したにも関わらず、ピストル・ピートはUSオープン・タイトルを防衛した。サンプラスは勝利を亡くなったコーチに捧げた。

サンプラスは終わりにはほど遠かった。1997年から2000年まで、4年連続でウインブルドンに優勝した。

「たいていの男は、優勝の後は休息したいと考える」と、サンプラスの元フィットネス・コーチだったパット・エチェベリーは、1994年にテニスマガジンの記事の中で語った。「この男は違う」

1999年のウインブルドンで、サンプラスはロイ・エマーソンの持つ12の生涯グランドスラム・シングルスタイトル記録に並んだ。サンプラスの努力とゲームへの集中力は、さらに2つのタイトルを加える助けとなり、記録的な14のグランドスラム・シングルスタイトルを獲得して15年のキャリアを終えた。――ウインブルドンで7つ、USオープンで5つ、オーストラリアン・オープンで2つ。

メディア――特にイギリスのタブロイド紙――は、彼がジミー・コナーズ、ジョン・マッケンロー、アンドレ・アガシのように、人格をおおげさに表さない事を非難した。テニスファンはライバル関係と論争を欲していた。

実際は、サンプラスは個性に満ちていた。彼はすべてを捧げ、それをラケットに語らせたのだ。中でも、スポーツの頂点に立ち、その座に留まる事へ、サンプラスは燃えるような願望を示した。

彼はレポーターに語った。「2つのメジャー大会で優勝しないと、良い年とは言えない。それが意味あるものだ」

世界男子プロテニス選手会のランキングで、サンプラスは1993年から1998年まで年度末ナンバー1の座を保った。そしてオープン時代の男子で4位となる64の生涯タイトルを獲得した。

7月14日、ロードアイランド州ニューポートで、彼は「国際テニス名誉の殿堂」入りを果たす。

唯一サンプラスに欠けているトロフィーは、フレンチ・オープンであった。1996年に準決勝へ達したが、優勝者となったエフゲニー・カフェルニコフに敗れた。

サンプラスの努力は、今でも選手に影響を与えている。今年のフレンチ・オープンで、フランス生まれのマリオン・バルトリは女子4回戦に進出したが、成功へのインスピレーションとしてサンプラスの堅固な意志を見習ったと明かした。

サンプラスのテニスキャリアは、メリーランド州ポトマックの自宅で始まった。子供だった彼が地下室で古い木製のテニスラケットを見つけ、壁に向かってボールを打ち始めた時に。

6歳の時、サンプラスと家族はカリフォルニア州ランチョ・パロスベルデスに移り住んた。そこは1年を通して暖かい乾燥した気候で、屋外の公共テニスコートがたくさんあった。

航空宇宙エンジニアと元美容師の息子であるピートは、テニスの才能をいち早く示した。10歳の時、彼の目標はテニススターになる事だった。

一方、サンプラスはピート・フィッシャー、テニスの指導を真剣な趣味とする医者の目を引きつけた。フィッシャーは無料でサンプラスの指導を申し出て、サンプラスのキャリアに多大な影響を与えた。

フィッシャーはコートでサンプラスを熱心に教練した。また、サンプラスが世界チャンピオンとなるために必要な、精神構造を作り上げる手助けをした。

フィッシャーはサンプラス家を訪問して、かつての偉人ロッド・レーバーの16ミリ・フィルムを見せた。レーバーは年間グランドスラム優勝を2度成し遂げた、オーストラリアの驚異的テニス選手だった。レーバーはまた、冷静さを保つ事でも知られていた。サンプラスはコート上で感情を表さず、何を考えているのか対戦相手に悟らせないすべを学んだ。フィッシャーの考えでは、このような選手が最も恐れられていたのだ。

サンプラスは完成されたプレーヤーになった。その理由の一端は、彼には順応性があり、コーチを信頼していたからだ。

ピートが14歳になった時、フィッシャーは彼を両手バックハンドから片手打ちに換えさせた。この変更は、ウインブルドンで決定的となる彼のネットプレーを輝かせるだろうとコーチは考えたのだ。早い段階では、サンプラスは苦しんだ。1985年のイースターボール・ジュニア大会では、彼は1回戦で敗退した。他の選手は弱くなった彼のバックハンドを攻撃した。そしてピートは、元に戻すようコーチに嘆願した。

フィッシャーは拒絶した。時が経つうちに、サンプラスはストロークをマスターし、やがてストレートにバックのウィナーを放つ事が可能になった。バックハンドは武器となった。

カルビン・クレイグ・ミラー著の『ピート・サンプラス』によると、彼はこう語った。「それは自分がずっと打っていくショットであると、僕は受け入れたんだ。僕が成長し、より力強くなっていくにつれて、ショットは良くなっていった」

サンプラスは同じくフィッシャーから、サーブの狙いを隠す技を学んだ。サンプラスがトスを上げてから、フィッシャーはサーブの種類――フラットあるいはトップスピン――を指示した。サーブをワイドに、あるいはセンターに打とうが、サンプラスは同じサービスモーションで打つ事を学んだ。

想像するのは難しいかも知れないが、サンプラスは当初ベースライン・プレーヤーだった。彼はフィッシャーのアドバイスを取り入れてネットへと攻撃するようになり、爆発的なサーブ、スピード、長いリーチの利点を生かした。

ピートが18歳になった時、コーチング料と目標設定に関してサンプラスの家族とフィッシャーの間に口論が起こり、9年間の関係は終わりを迎えた。

サンプラスは優れたコーチを捜し、できる限り多くを学び続けた。ティム・ガリクソンは左利きの対戦相手に対する貴重なトレーニングを授けた。高校を中退した生徒に、ポイントごとの組み立て方を教えた。

ガリクソンはまた、「僕の成長を、競う事、集中する事、芝生でのプレーの習得を助けてくれた。多くの事は彼のおかげだ」と、サンプラスはバド・コリンズのコラムで語った。

トレーナーのエチェベリーと共に、サンプラスは最高のフィットネスを成し遂げた。コーチが見守る中で、サンプラスは週に6日間トレーニングを行った。腹筋を鍛え、500ポンドのレッグプレスをし、そしてメディシンボールを投げながら部屋を走り回った。

サンプラスがレッグプレスの重りを軽くするよう頼むと、エチェベリーはプレートをもう1つ加えたものだった。コーチはそれを「インフレーション」と呼んだ。

サンプラスは現在35歳だが、当時は細かい事柄にも注意を払っていた。1994年に行ったテニスマガジンのインタビューでは、望めば11時間眠る事もできると語った。次の事をした場合に限り:テレビスイッチの灯りを覆い、目覚まし時計の灯りを覆い、室温を冷蔵庫と同じくらいまで下げ、そして完璧に滑らかなシーツを使う。

「僕はワールドクラスの眠り屋なんだ。眠る事に取り憑かれているよ」と彼は語った。