ニューヨーク・タイムズ
2006年7月8日
テニスへ戻り、サンプラスは笑う事に焦点をおく
文:Karen Crouse


ロサンジェルス、7月7日 ―― かつて自分自身を、孤独を好むハワード・ヒューズになぞらえ、ヒューズが恐怖症に対してそうしたように、主要なタイトルを溜め込んでいたテニスプレーヤーは、見違えるような微笑を浮かべて、その辺で練習をしていた。

記録である14のメジャー・シングルス・タイトルを獲得した後、ピート・サンプラスは2003年に引退を発表した。彼はテニスに戻ってきた。以前は決して持っていなかった何かを得たくて:ファンからの称賛。

「今でも僕がこれをできるかどうか、見てみよう」と、ピート・サンプラスは笑って言った。彼は水曜日の朝、ベル - エアー・カントリークラブ・コートのベースラインへと向かい、ハイギアのポルシェのように、ヒッティング・パートナーのクリス・クウィンタを吹き飛ばさんばかりのサーブを放った。その前には、クウィンタを凍り付かせる、教科書のごときランニング・フォアハンドを打ち、「これで僕は家を建てたんだよ!」と叫んだ。

サンプラスの陽気な一面は、15年のプロ・キャリアの間、脇に置かれていた。記録的な14のメジャー・シングルス優勝を重ね、世界1位の座をしっかり握っていた頃は、彼はそこへ近づかないようにし、意図的にその周辺で励んでいた。

ツアー最後の試合、2002年USオープン決勝アンドレ・アガシ戦に4セットで勝利した4年後、サンプラスは、世界チームテニス( W.T.T. )のニューポートビーチ・ブレーカーズと限定的な契約をして、今月には競技アリーナに戻っている。彼が戻ってきたのには多数の理由があるが、自己の別面である「スマイリー(にこやかな)」をお披露目したいからでは決してなかった。

「多分、ファンと、メディアと、スポンサーと、もっと触れ合って、少しばかりスポーツにお返しする僕なりのやり方だね」とサンプラスは語った。

妻のブリジット・ウィルソン - サンプラス、息子である3歳のクリスチャン、11カ月のライアンと暮らすビバリーヒルズの自宅には、テニスコートがある。しかしサンプラスは家から出て、大衆と交わる事を望んだ。実は2003年6月に引退を発表するずっと前から始まっていた、自己亡命とも言うべき生活の後に。

「僕はいつだって自分の立場には居心地よくなかった」とサンプラスは言った。
それが、長い年月、彼を称賛する人々を避けるのに多くのエネルギーを使ってきた理由、彼がバックハンドへのボールにそうしてきたように、いつも称賛を回り込んで(避けて)きた理由であった。

修道僧のような取り組み方は、彼に64のシングルス・タイトルをもたらした。だが、気まぐれなスポーツファンはあまり得られなかった。それは悪循環となっていた。サンプラスは勝利するために感情を押し隠し、大衆は彼に親愛の情を差し控えてきた。彼はそれほど熱い人間には見えなかったからだ。

「年齢を重ね、支配的になるにつれて、僕はもう少しばかり陽気になれたかも知れないね」とサンプラスは語った。弁明として彼はつけ加えた。「僕はロボットみたいで、機械のようだと言われた。だが皆が僕を見るのはメジャー大会の時で、それは僕が最も集中している時だったんだ」

世界チームテニスは、そのチーム形式と、娯楽と素晴らしさに焦点を合わせる全体像ゆえに、34歳のサンプラスがガードを下げるのには完ぺきな舞台である。夏のリーグでプレーするという種は、ビリー・ジーン・キングによって何年も前に、サンプラスの心に植えつけられた。彼女は W.T.T. の創設者であり、サンプラスとはかなり親しく、彼が持つ「スマイリー」の存在に気付いていたのだ。

サンプラスが子供だった頃、カリフォルニア州ローリング・ヒルズ地区のジャック・クレーマー・クラブにいた者は誰でも、スマイリーを知っていた。それは年長の子供たちがサンプラスにつけたあだ名だった。彼はいつも機嫌良くコート周辺をうろうろしていたからである。彼のゲームが成熟するにつれて、彼はそのあだ名から離れていくようだった。10代の後半、世界のトップ10では不充分で、1位の座だけが満足のいくものだと決心した後、サンプラスは新しい段階の態度を受け入れた。彼はテニス界のバスター・キートン、偉大なる無表情になった。

「僕がコート上で競っていた時は、楽しいゲームのための時ではなかった」とサンプラスは語った。彼は1990年、19歳の時にUSオープンでメジャー初タイトルを獲得した。「僕はとても真面目だった。それは僕の勝負だったんだ」

1993年から1998年まで、記録となる6年連続1位の座をサンプラスが守っていた頃、キングは毎夏、自分の陽気なプレーヤーの一団に合流させるべく彼をリクルートしようとしていた。彼が礼儀正しく断っても、彼女は思いとどまらなかった。彼女はサンプラス自身が気づく何年も前に認識していたのだ。恐らく世界チームテニスが彼を必要とするよりも、彼には世界チームテニスが必要だと。

「彼はとんでもなく愉快な人よ」と、最近の電話インタビューでキングは語った。「私はいつも思っていたの。大衆が彼のそんな面を知らないのは残念だと。彼はまさに素晴らしい男だけど、それを知るには時間がかかるの。彼をすぐに理解する事はできないわ」

サンプラスは愉快な面を見せるために品性を失ったりはしないだろうが―― 彼はあまりにも躾の良さを身につけていた―― 卓越への彼のレシピが、一般大衆の食欲をそれほどそそらない事には悩ませられた。「僕はそれを理解していなかった」と彼は言った。かつてジョン・ニューカムが、サンプラスは「陽気になる」必要があると言い、「もしそうしたら、僕は自分の鋭さを失うだろう」と考えていたのを彼は覚えていた。

1999年、カリフォルニア州パームスプリングスで行われたプロ・アマ合同ゴルフ大会「ボブ・ホープ・クラシック」にサンプラスは出場し、ゴルフ界の伝説的偉人アーノルド・パーマーとペアを組んだ。最初から最後のホールまで、カリスマ的なパーマーがギャラリーロープを歓迎の列に変えるのを見るにつれて、サンプラスは思い焦がれるようになった。「僕もそうできたらいいなあ」パーマーが次々にファンと握手を交わすのを見て、そう思った事を覚えていた。「僕も微笑んで、人々の目をじっと見る事ができたらいいのに」

パーマーがファンに投げかけた温かさは彼への関心を生み出しており、サンプラスはそれに気づいたのだ。何年も世間の注目を浴びてきた後、パーマーの陰にいる間に、サンプラスは光を見たのだ。「ファンが望むのは、アスリートと交流を持つ事だ」と彼は言った。

引退したサンプラスが望んだのは、日々の暮らしに組織だったものを見いだす事だった。彼は週に5〜6回ゴルフをし、週に1晩ポーカーを楽しんだ。だがサンプラスは、ありがたくも生来の勤勉さゆえに、それらの事は1日を有益に過ごす褒美ではあっても、寝床から起き出す理由ではないと考えていた。

キングの毎年の誘いは、彼が日々の練習を再開する理由となった。彼は充足感を得られ、そしてファンと交流を持つ事もできた。

水曜日、80分の練習の間、サンプラスのストロークは鋭かったが、表情は穏やかだった。

彼のヒッティング・パートナー、ポーランド出身のクウィンタは、元 U.C.L.A.(カリフォルニア大学ロサンジェルス校)の選手で、サンプラスに好印象を与えたいと明らかに望んでいた。サンプラスは彼のアイドルだったのだ。バックハンドをネットに引っかけるたび、クウィンタは自分を叱咤した。「このゲームは」と、サンプラスがある時点で言った。彼の言葉はドロップショットと同じくらい穏やかだった。「全然ネガティブじゃないよ」

クウィンタは真面目に頷いた。彼が次に放った何本かのストロークはウィナーになった。後でクウィンタは、サンプラスと打ち合うのは光栄だと語った。「いつもコート上でピートのように平静でいたかった」と付け加えた。

練習セッションの終わり頃、BMW のセダンが駐車場に乗りつけ、ひょろっとした10代の少年が運転席から現れた。彼は離れたコートで昼からレッスンを受ける事になっていた。彼は(コーチの)プロの所へ行くためにフェンスの外側を歩かず、サンプラスとクウィンタがポイント終えるまで待ってから、彼らのコートを大股で横切った。

彼のエチケットがなってないのは明らかだった。サンプラスが放つ時速120マイルのサーブがまともに飛んできかねないコースに身を置いている事に、彼は留意していなかった。多分、サーブしようとしているプレーヤーが誰だか、彼は気づかなかったのだろう。それがビッグ・フォアハンドとにこやかな笑みを持つ人物だとは。