ロサンジェルス・タイムズ
2006年6月27日
サンプラスが甘美な7回のウインブルドンをツアーガイドする
文:Bill Dwyre


ピート・サンプラスは体内に小さな張力を感じている。年に1度、彼はそれを感じるのだ。8時間の時差がある大陸と大洋の向こう側で、ウインブルドンは進行中である。

史上最高のテニスチャンピオンの1人として、そしてオール・イングランド・クラブにおける2人の最も偉大な男子記録達成者の1人として、彼には思い出がある。

7回、彼は最終日にセンターコートに立ち、頭上にトロフィーを掲げ、イギリスの王族にお辞儀をし、そして静かに脇の部屋へと向かった。そこではトロフィーに彼の名前が刻まれた。その間に、彼はパロス・ヴェルデスに住む両親へ電話をした。

実際のところ、7回目、記録を樹立した日、彼は電話をしなくてもよかった。彼がプレーするのを見るという不安と心配をついに克服して、両親はその場にいたのだ。彼はスタンドの中を登り、両親と抱き合った。

彼は、勝利の後のぼんやりとした時といった、他の事を考えている。マスコミと相対し、シャワーを浴び、 オール・イングランド・クラブが魔法のように提供するタキシード――いったい何サイズを揃えているのか?――を身につけ、会員やお偉いさん達と一緒に晩餐会へ出向き、そしてスピーチをするのだ。

「最後の頃には、僕のスピーチも少しばかり長くなっていたよ」
今、サンプラスは冗談を言う。

彼は言う。あまりにも気持ちが張りつめて眠れないので、やがてベッドの縁に座り、そのすべての意味を理解しようとするんだ、と。

他の者たちもウインブルドンで優勝した事はある。だがサンプラスと同じくらい頻繁にその気持ちを味わったのは、他に1人しかいない。白い長ズボン、長袖のシャツに、ごく小さいウッドラケットを携えたイギリスのウィリアム・レンショーが、時代のギャップを越えて現れる。レンショーはサンプラスのように、頻繁に素速くネットへと詰め、1889年に双子のアーネストを下して7回目、そして最後のタイトルを獲得した。彼は1904年に亡くなった。

2001年、ウィリーがファイナルセットをラブゲームでアーニーを下し、7回目のタイトルを獲得してからちょうど112年後、カリフォルニア出身のサンプラスは、スイスからやって来た19歳の選手との4回戦のために、センターコートへと向かった。ロジャー・フェデラーは前途有望な選手だった。しかしツアーにいる多くの19歳の選手たちもまた、そうであった。

ウィリー・レンショーに向けられるべき敬意をもって、フェデラーは彼らが立つ場所の実質的な所有者と対戦していた。ドイツのボリス・ベッカー、3度のチャンピオンであり7回の決勝進出者は、かつてウインブルドンのセンターコートについて「以前は僕の家だったが、サンプラスはその鍵を盗んだ」と語った。

フェデラーもまた、スポーツ界の驚くべき統計的偉業の1つ、*ウーデンのなにがしかとディマジオ風の調和に対抗していた。試合が始まった段階で、ウインブルドンにおけるサンプラスの記録は、初タイトルを獲った1993年から56勝1敗であった。
訳注:ジョン・R・ウーデン(John R. Wooden)か? 1960〜70年代に NCAA 全米大学バスケットボール選手権大会で全盛を誇った UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の名将。指導の一貫性、系統性を説くコーチング哲学は、今も全米の指導者の間に受け継がれている。

なんという勢いだったか。現在34歳となり、ビバリーヒルズに暮らすサンプラスは、我々にそれを追体験させてくれる。



1993年
「決勝戦は厳しかった。なぜなら相手はジムだったからだ」

サンプラスは7-6、7-6、3-6、6-3でジム・クーリエを下す。
「アンドレ(アガシ)が前年に優勝していた。そして彼との準々決勝では、観客は彼の味方だった。だが、彼はその事でプレッシャーを感じていたと思う。そして僕は5セットで勝った。準決勝ではベッカーを負かした。ボリスと対戦するのは好きだった。僕たちのゲームは似ていたんだ。サーブを打って攻撃する。でもいつも、僕の方がほんの少しだけ彼よりも上手くやっていると感じていた」


「決勝戦は厳しかった。なぜなら相手はジムだったからだ。僕たちは親しい友人で、彼は僕にフロリダへ行くよう勧め、どのようにトレーニングすべきかを示してくれた。だが彼が就くナンバー1の座に僕が近づくにつれて、少しばかり厳しくなっていった。かつてのように、いつも一緒に夕食へ出かけるという事はなくなった。テニスは一風変わったスポーツだ。ゴルフでは、コースをプレーする。テニスでは、ネットの向こう(の対戦相手)を見る、するとジムがいるんだ」

「今、僕たちは再び素晴らしい関係だ。お互いに連絡を取り合っているよ」

*     *     *

1994年
「最も難しいのは、メジャー大会でタイトルを防衛する事だ」

サンプラスは7-6、7-6、6-0でゴラン・イワニセビッチを下す。
「最も難しいのは、メジャー大会でタイトルを防衛する事だ。みんなの標的となっているんだ。うん。(スコアは)6、6、0 だったね。ウインブルドンで本当に硬いボールを使った最後の年だった。そしてゴランは銃弾を放っていた。あそこでは、彼のサーブはいつだって返球不能だったが、僕はそれなりに返して勝つ事ができたんだ」

「あの後、自分が真に支配し始めたように感じていたね。素晴らしかったよ」

*     *     *

1995年
「僕は最良の次くらいに素晴らしいという事になっていた」

サンプラスは6-7、6-2、6-4、6-2でベッカーを下す。
「滑稽だったね。僕の連続3回目のタイトルだった。そして今や、違ったふうに認識されたんだ。最初の年、僕はあまり面白くなかった。2年目、テニスはそれほど面白くなかった。3年目、僕は最良の次くらいに素晴らしいという事になっていた」
*     *     *

1997年
僕は「自分の中ではそれまでで最高のサーブ&ボレーをした」

サンプラスは6-4、6-2、6-4でセドリック・ピオリーンを下す。
「僕は96年の準々決勝でリチャード・クライチェクに負け、そのまま彼は優勝した。彼は素晴らしいプレーをしていた――雨が降り、試合は2日にわたった――そして彼は、ウインブルドンで勝つために必要とする最も重要なストロークを打ち始めた。強力なセカンドサーブを」

「そこで97年を迎えた時、僕は準備ができていた。大会を通して、僕はサービスゲームを2回しか落とさなかった。そして自分の中ではそれまでで最高のサーブ&ボレーをした」

*     *     *

1998年
「見苦しく勝ってもいいんだ」

サンプラスは6-7、7-6、6-4、3-6、6-2でイワニセビッチを下す。
「彼は1セット取り、次のセットも2つのセットポイントを握っていた。そして僕はどうにかそれを逃れた。観客は彼に味方していた。そして僕はそれを理解していた。彼は何度も、もう少しというところまで来ていたんだからね。だから、彼が(2001年に)ついに優勝した時は、僕も彼を祝福したよ」

「僕にとって98年の決勝は、*ジョニー・ミラーが先日のゴルフ大会で言ったような感じだった。4番ウッドを取り出してもいい。見苦しく勝ってもいいんだ」
訳注:ジョニー・ミラー(Johnny Miller)。アメリカの殿堂入りゴルファー。1970年代、アメリカン打法で一世を風靡。1973年全米オープンでは大逆転優勝、1976年全英オープンにも優勝。現在はテレビ解説者で、その語りには定評がある。

*     *     *

1999年
「僕は今までで最高のテニスをした」

サンプラスは6-3、6-4、7-5でアガシを下す。
「準々決勝は運が良かった。(マーク)フィリポウシスは第1セットを取っていたが、滑って転び、途中棄権しなければならなかったんだ。そんなふうに勝ちたくはないが、身体を休める事はできるよ」

「アンドレと決勝で対戦した時、僕は今までで最高のテニスをした。決勝戦ではナーバスになるから、ゾーンに入り込む事は滅多にないんだ。だがこの時は、僕はゾーン状態だった」

「僕のサーブで 3 - 3、0 - 40 の時だった。僕はそのゲームを勝ち取り、その後は決して振り返らなかった」

「少しばかりステイバックして、何ポイントかベースラインからプレーした時も、僕はすべてのパッケージを持っていると披露したような感じだったよ」

*     *     *

2000年
「気合いで乗り切れと医者に言われた」

サンプラスは6-7、7-6、6-4、6-2でパトリック・ラフターを下す。グランドスラム大会における、記録的な13回目のタイトルである。
「この大会をどうやって乗り切ったのか、未だによく分からないよ。大会序盤から、向こう脛に痛みを感じ始めていた。重いランニングシューズを履いているみたいだった。そして MRI(磁気共鳴画像法)で撮影したら、脛骨の上に水が溜まっていたんだ」

「それで、乗り切れるかも知れない唯一の方法は、各試合の前に注射をする事だと医者に言われた。プレーの後はほとんど歩けなかった。試合と試合の間に練習する事も、充分なウォームアップをする事さえできなかった。僕の日課は決まっていた。プレーして、足を引きずってコートを離れ、アイシングで冷やして、眠って、鍼治療を受け、さらにアイシングをして、コートに出る約10分前に注射をしてもらう、とね」

「ラフターは第1セットを取り、タイブレークでも 4 -1 とリードしていた。僕はそれを切り抜けたが、雨が降ってきて試合は中断になった。注射の効き目は1時間だったから、雨が降り続けて、翌日に戻って来られるようにと願っていた。だが8時頃に、太陽が姿を現した。そして日没まで1時間あった。もう1回注射を受けられるか医者に尋ねたら、気合いで乗り切れと言われた」

「マッチポイントでは、ほっとして、死ぬほど疲れていて、そして感極まって物が言えなくなったよ。それから、両親を探し出して、彼らのところまで登っていこうと決心した。ちょっとの間、自分の殻から出ようと決心したんだ」



翌年、フェデラーがサンプラスを破った時、サンプラスはまだ30歳になっていなかった。だが新記録となった13回目のタイトルへの苦闘は、彼を消耗させていた。次の2シーズン、彼はもがき苦しみ、名もない選手たちに敗戦を喫した。2002年ウインブルドンの2回戦では、ジョージ・バストルという予選上がりの選手に敗れた。ハイライトといえば、2000年と2001年の US オープン決勝敗退だけだった。

US オープン決勝戦、それが2002年の9月に彼がいた場所であった。その時、彼は最後の傑作を披露した。1歩遅くなり、自信は弱まったように見えたが、ともかくも彼は決勝戦でアガシを下した。

その後、彼は二度とプレーしなかった。重い足取りで歩み続けるべきか、あるいは軽やかな靴をはいたシンデレラとして去るべきか思い悩む事に、翌年の大半を費やした。

今、その悩みがなくなって幸せだと彼は言う。彼は女優のブリジット・ウィルソンと結婚していて、2人の息子がいる。誰もが羨むほどの財産があり、ゴルフのハンデは1桁である。

ピート・サンプラスにとっては、なんという事もない1日が、すこぶる満足なのだ。

しかし、うずうずする気持ちは、決して完全には消え去らないだろう。クーリエは自分が主催するシニアツアーに参加するよう、熱心に勧めている。そしてサンプラスは、エキシビションでプレーする事を考えている。彼は『チームテニス』で何試合かプレーする契約もした。それはレンブラントに壁塗りをさせるのに、少しばかり似ている。

もうすぐ、よく知っている場所での『朝食』が始まる。そこでは フェデラーという名前の子供が、連続4回目のタイトルを目指している。
訳注:アメリカではウインブルドン放送は朝に始まるので、「ウインブルドンでの朝食」という言い方をする事がある。

「彼は素晴らしい選手だ。僕はファンだよ」と、サンプラスは言う。

ところで、彼はどれくらい見るのだろうか?

「それほどは」と、彼は言う。「難しいよね、僕はそこにいたくなるから」