ヒューストン・クロニクル
2006年4月5日
サンプラスにとり、引退は容易ではなかった
文:Dale Robertson


結局のところ、後悔があったように見える。ピート・サンプラスは偉大なアスリートの殆ど誰もしない事をしたが―― 彼は山頂の高みから別れを告げた――、その台本は、我々が思うほど整然としたものではなかった。

自国が提供する最大のテニスステージで優勝した後、サンプラスはラケットを下ろしたが、いつ「いつ」と言うのか、徹底的に急かされたからだ。より上手い唯一の方法は、示唆されたように、ライバルのアンドレ・アガシを下して2002年USオープンで優勝した直後に、引退を世界に告げる事だったのかも知れない。

結局のところ、サンプラスはこんなにも極端に完璧な、キャリアを終わらせる時機の後に、プレーし続ける事をよもや推測できなかったのではないか? 確かに、そのオープンに臨むに際し、2シーズン耐えてきたしつこい侮辱を考え合わせると、そんなにも華々しく名声をよみがえらせた後には、夢見心地で去る事を強いられていると理解していたに違いない。

実際は、彼はまったく理解していなかった。正反対だった。アーサー・アッシュ・スタジアムの薄暮の中、アガシが屈服した魔法のような瞬間以降、初めて観客の前で仲間のプロと対戦する試合に備えて練習しながら、彼は認める。先へ進み、長い、勝利を祝う自己満足のウイニングランをすれば良かった、と。

「僕は自分がオープンで優勝し、それから終局へ向かうとは予測していなかった」今夜『リバー・オークス・カントリークラブ』で、ロビー・ジネプリと3セットのエキシビションを行うサンプラスは語る。「ただ起こったんだ。僕は2年間苦しんできて、そして、あの2週間を切り抜けた。あの2年はとても厳しかった――僕個人への、そして結婚への重荷となっていた」

「だから、あの大会で優勝し、そのまま続ける気持ちを持ちたかったよ。プレッシャーはなくなり、テニスが再び楽しいものになっただろうからね。僕は記者会見に出て『それ見たことか』と言うような人間ではない。でも僕の大部分は、そうしたいと望んでいたよ」

言い換えれば、アガシを一蹴した後、サンプラスの心には終わったという認識は微塵もなかったのだ。何カ月も、サンプラスは心の裡でその問題を熟慮した。大会には出場しなかったが、再びプレーする事はないだろうと公式に認めはしなかった。翌年の夏、ウインブルドンの準備を始める時が来るまで、彼は確信を持てないままだった。

心が彼にノーと告げる

彼は語った。「みんなは僕が(オープンの)コート上で引退すべきだったと言う。そんなに簡単な事じゃないよ。僕はゲームを離れるに際し、あらゆる感情を体験しなければならなかった。これは僕の人生を捧げてきたもの、7歳の時から続けてきたものなんだからね。予定表なんてない。ただ去るんだ。オープンで優勝したら、本当に続けたくなったんだ。でも僕の心はそこになかった」

「ウインブルドンで日曜日の2時にプレーする事? それは易しい部分だ。難しいのは、準備、ランニング、トレーニング、旅行、家族から離れている事だ。ただラケットを握って試合をするだけじゃなく、もっと多くの事があるんだ」

「それでも翌年のウインブルドンまでかかった。再び始める気になれなかった時、僕は終わったんだと知ったよ。それが、僕はタンクに何も残っていないと悟った時だった」

2003年8月、サンプラスは公式に引退した。そしてラケットをしまい込むと決めたら、そのままになった。時折、息子のクリスチャン――よちよち歩きの幼児で、年老いた男の脅威ではない――と遊びでする以外には、彼は決してコートに近づかなかった。もし何かプレーしたい気になったら、彼はゴルフコースに向かった。ハンデが5になるまで、充分に「たくさん」ゴルフをしたと彼は認める。

しかし昨年のクリスマス頃、サンプラスは鏡の中に、退屈し、何らかの組織立った事と集中を必要とする34歳の男を見つけた。つまり、彼は再びテニスを必要としていた。妻のブリジットも賛成し、囚われる事なく、むずむずする心をかき消す方法を模索し始めた。

「少しプレーしてもいいかな、と考えるようになった」とサンプラスは語った。
「家族と自分のスケジュールに差し障りのないものならね。体調を整え、競争意欲を再び湧かせたくなったんだ」

『リバー・オークス』の提案は、彼が受け入れるには最適だった。快い環境での1試合、隣には壮大なゴルフコースもある。オーケー、サーフェスはクレーではある――「ちょっと皮肉だね、クレーでの僕の歴史を考えると」と彼は思いを巡らす。しかしそれは、漠然とではあれ、青春期から愛情を込めて覚えていた場所に戻るチャンスを彼に与えた。1988年、サンプラスが青白くてひょろっとした17歳の子供だった時、『リバー・オークス』でリッチー・レネバーグに敗れはしたが、彼はクラブメンバーから歓待を受けたのだ。そういう事は影響を与えがちだ。

楽しくやる

今夜ジネプリとの対戦を始めるにあたり、テニスは再び彼にとって楽しみ以外の何物でもない。3年半の休止から戻ってくる者にとって、ジネプリは手強い相手ではあるが――サンプラスにとってさえ。

「みんなに楽しんでもらいたい、それと怪我したくないね」サンプラスは言った。「カムバックではない。競技というよりは、僕がかつて得意だった事を再びするって感じだ。テニスなら、僕は少なくとも、ボールを打ったらどこに飛んで行くか知っているよ。ゴルフとは違ってね」

それでも、8年で7回ウインブルドンに優勝した男、テニス界で史上最高の選手と真剣に考慮されるべき男は、観客の前で、少なくとも最初は、緊張するだろうと予想している。

「ドキドキすると思うよ」彼は言った。「どうなるか分からない。テニスは自転車に乗るようなものだと言ったけど……」

「ロビーは厳しい相手だ、クレーでストロークを打ち続ける。それでも、コートに出て観客の前でボールを打つという事にワクワクしているよ」

目的をもって練習する

契約に署名した後、サンプラスはジャスティン・ギメルストブ、およ UCLA(カリフォルニア大学ロサンジェルス校) の代表と練習し、本気でトレーニングを始めた。週に4〜5日、1日2時間コートで過ごしてきたと彼は言う。つまるところ、彼はピート・サンプラスである。高い基準、ユニークな期待がある。

「テニスコートに踏み出す時には、いつだって尊大さがあるんだよ」と彼は認める。「練習している時でも、僕は今でも自分を仰天させたいんだ」

2001〜02年、皆が彼を見て頭を振り、なぜ彼はこんな衰えた状態でしがみつこうとしているのか疑問視していたのを、それがどんな感じかを、サンプラスはあまりにも強く覚えている。それからUSオープン(の優勝)が巡ってきて、それと共に救い、正当性の立証、そしておとぎ話のような終局が訪れた。

「プレッシャーや、トップに居続けるストレスは恋しくないね」サンプラスは言った。「キャリアの大半、僕の胸には標的があったように思う」

もちろん、そうだった。14回グランドスラムで優勝するには、代償はつきものなのだ。