ガゼット(カナダ)
2007年8月12日
ピストル・ピートはラケットに物を言わせた
文:Pete Alfano / Fort Worth Star-Telegram


ショーマンと激しやすい選手たちの時代に、ピストル・ピートは物静かな紳士だったが、
その情熱は彼のキャリアをテニスの殿堂へと導いた


彼はテニスコートを居丈高に歩き回ったり、主審を苦しめたり、あるいは著名なライバル、アンドレ・ザ・エンタテイナーのように、試合の終わりに観客へ向かって会釈したりはしなかった。

奇妙な話だが、ピート・サンプラスの物腰を特徴づけたものは、冷静な雰囲気と、物事が上手く運ばない時に見せる、元気のない様子だった――バネの壊れたバブルヘッド人形のような。

とはいえ、見かけは誤解を招く事もある。彼のボディ・ランゲージでサンプラスを評価する事は、彼のサーブを読むのと同じくらい難しかった。彼のサーブはスピード記録を破りはしなかったが、ネットの向こう側にいる選手の心を打ち砕いたのだった。

テニスのオープン時代、ジョン・マッケンローの癇癪、ジミー・コナーズの闘志満々な様子、アンドレ・アガシのショーマンシップにファンが馴染んできた時代に、ピート・サンプラスは先祖返り――白のウェアを心地よく感じ、今なお「僕はラケットに物を言わせる」と語る事を好む紳士のプレーヤーだった。

そして、ずっとそうだった。15年のキャリアを彩るのは、記録である14のグランドスラム・シングルスタイトル、合計64の大会優勝、そして男子テニスの歴史で恐らく最も競争の激しい時代に、6年連続で年度末世界ナンバー1を達成した記録である。

サンプラスが言うように、激しい努力なくしてそのすべてを成し遂げる事はできない。「それほど多くの人は知っていなかったが、心の奥深くに競争心があったんだ」と、彼は最近の電話インタビューで語った。「僕は自分を売り込んだり、見た目や態度を変えるつもりはなかった。だが多くの事を内に秘めていた。それがサンプラスという人間の本質なんだ」
文字通り、炎は彼の腹部で燃えていた。2年の間サンプラスは胃潰瘍を抱え、物を食べたりストレスの多い試合中にはいつも、吐き気を感じていた。

USオープンで最後のグランドスラム・タイトルを獲得し、31歳で引退してからほぼ5年後、サンプラスは先月ロードアイランド州ニューポートで「国際テニス名誉の殿堂」に叙せられ、スポーツ界最高の栄誉を受けた。

彼はそれを必然的結果であると承知してはいたが――「見込みはかなりあると思っていたよ」と彼は冗談を言った――その出来事は彼に記憶を遡る機会を与え、キャリアを総括的な視野で捉える事を可能にした。

「いろいろと考える事の多い週末だった」と、今日で36歳になるサンプラスは語った。「僕はすべてをストップして、自分のキャリアを振り返っていた」

「僕がここに到達するのを助けてくれた人々に感謝する時だ。僕は現役の間、自分自身を正しく評価する事さえしていなかった。優勝すると、すぐ次の大会に目を向けていたんだ」
サンプラスはテニスの学究である。彼は偉大なオーストラリア人プレーヤーを称え、彼らのようになろうとしてきたのだ。

「僕は歴史の大ファンで、ケン・ローズウォールやロッド・レーバーと共に殿堂に叙せられた事が嬉しいよ」

現在サンプラスは結婚し、2人の息子の父親である。

USオープン決勝戦でアガシに3度目の勝利を挙げた後に引退した時、サンプラスは史上最高のプレーヤーなのかという事に議論は集中した。現在は、もちろん、その命題は、26歳にして11のグランドスラム・タイトルを獲得したスイスのロジャー・フェデラーについて議論されている。サンプラスを凌ぐのは、ただ時間の問題だけのようだ。

サンプラスは最近ロサンジェルスでフェデラーとヒッティングを行い、冗談で彼に話したと語った。「君はもう2年くらい、僕にこれを楽しませてくれる事もできただろう」と。「彼は素晴らしい選手で、僕がしてきたよりもずっと遙かに支配的だ」とサンプラスは言った。「彼は穏和で、僕好みのプレーヤーであり人柄だ。誰かが彼を止めるとは思わないよ」

サンプラスの時代、トップ選手たちはもっと強かったという主張も成り立ちうる。とりわけアガシ、ジム・クーリエ、マイケル・チャン、ステファン・エドバーグ、ボリス・ベッカーのようなプレーヤーに関して。クレーコート専門家のきら星――グスタボ・クエルテン、エフゲニー・カフェルニコフ、セルジ・ブルゲラ、トーマス・ムスター、カルロス・モヤ――に加えて、ゴラン・イワニセビッチ、ミハエル・シュティッヒ、リチャード・クライチェクといった危険なサーブ&ボレーヤーもいた。

「90年代のゲームは(トップでは)より強かったと思う」とサンプラスは語った。「だが15位以下の選手たちは、現在の方が強いと思うよ」
違う世代の運動選手を比較するのは難しい。従ってスポーツ界では、数字によって成功を測る事になるのだ。

しかし偉大さというものは、別の問題である。それは「時」を定義する事だ。フェデラーは今年のウインブルドン決勝戦において、ラファエル・ナダルと対戦した第5セットで恐らく最初の機会を得たと言えるだろう。

皮肉なのは、控えめとされるサンプラスが、テニス史の中でより忘れがたい「時」を経験してきたという事だ。

メルボルンの1995年オーストラリアン・オープンで、コーチのティム・ガリクソンが、翌年には生命を奪う事になった悪性の脳腫瘍に倒れて帰国した後、同じアメリカ人ジム・クーリエとの試合中に彼が取り乱し、泣いた時を覚えているか? サンプラスはその試合に勝利した。

その年のUSオープン決勝で、サンプラスとアガシは22本のストローク・ラリーを演じ、観客を躍り上がらせた。見たところ両プレーヤーに、そのポイントを勝ち取りそうな場面が数回あるようだった。サンプラスがそのポイントを勝ち取った。そのラリーは、2人のナイキ・クライアントを主演させるテレビ・コマーシャルまで生み出した。

そして彼は12月に、その驚くべき年を締めくくった。モスクワのクレーで行われたデビスカップ決勝のシングルスマッチで、ケイレンと脱水症状を乗り越えてロシアのアンドレイ・チェスノコフを下したのだ。サンプラスは倒れ、コートから引きずられていった。しかし翌日には戻ってきて、トッド・マーチンとチームを組んでダブルスマッチに勝利した。それから彼は、カフェルニコフに対して圧倒的なストレートセットの勝利を挙げ、優勝を確定した。それは彼が最も苦手とするサーフェスにおける離れわざであった。

だが彼の決意と不屈の努力をいっそう忘れられないものにしたのは、1996年USオープンの準々決勝、スペインのアレックス・コレチャとの対戦だった。サンプラスは体調を崩し、第5セットのタイブレークでは、ポイント間にはラケットを杖にして寄りかかり、かろうじて立っている状態だった。

7オール、サンプラスは身体をまっすぐに立て、セカンドサーブでエースを放ってマッチポイントを握った。そして混乱したコレチャはダブルフォールトを犯し、サンプラスにタイブレーク9-7の勝利を与えて、4時間のマラソンは終わった。彼はそのオープンで優勝するに至った。

しかしこのような試合は代償を伴った。2000年USオープン決勝でロシアのマラト・サフィンに、そして2001年オープン決勝ではオーストラリアのレイトン・ヒューイット――新しいコナーズ――に敗れた時、サンプラスは自分が失速してきている事を知った。

「彼らはコートから僕を吹き飛ばした」とサンプラスは語った。かなり若い対戦相手と連日でプレーする状況を、彼は乗り越えられなくなっていた。

しかし、グランドスラム・タイトルを懸けたローズウォールとの(優勝年齢)タイ記録を破るまで、彼は辞めようとしなかった。そしてアガシは完璧な相手だった。

彼はサンプラスより1歳年上で、さらに彼らは、恐らく目隠しをしても対戦できただろう。サンプラスは2002年にそのオープン決勝で勝利し、そして年の残りを、将来をじっくり考えて過ごした。

「キャリア全体を通して、僕は常に目標を持っていた」と彼は語った。「それはナンバー1の座に留まる事だったり、もう1回メジャーで優勝する事だったりした。それが、僕に厳しい2年間をくぐり抜けさせたものだ」

「あのオープンの後、次に何があるかを知るのに6〜8カ月かかった。そして、自分自身に証明するものは、もう何も残っていないと悟ったんだ。それは胸を突く決断だった」
後悔は全くないとサンプラスは言った。彼は、もう1回ウインブルドンで優勝を狙いたいとは夢想しない。特にフェデラーがすぐ背後に迫るという現状で。フレンチ・オープンで優勝しなかった事は残念に思っている。しかしローラン・ギャロスと彼のグランドスラム・タイトルのどれ1つとさえ、交換したいとは思わないと語った。

「僕は決してリラックスし、成り行きに任せていた訳ではない。フレンチが近づくにつれて不安は増した。勝とうと懸命になりすぎていたんだ」
今、引退して3年間はめったにラケットにも触れなかった後、サンプラスはコートに戻り、ワールドチームテニスやエキシビションでプレーしている。それは調子を保ち、競争意識を満足させてくれると彼は語った。しかしウインブルドンでは自分が今でも手ごわい相手だろうと確信する一方で、彼は男子ツアーにカムバックする事には幻想を抱いていない。

彼はチャンピオンとして、選り抜きの一群へと歩み去った。

サンプラスは語った。「僕はいつも勝つためにプレーした。前へ進むべき時を知っていた。さよならツアーは望まなかった」