ESPN.com :テニス
2007年7月11日
新しい「テニスの殿堂」入り選手は思ったより共通点が多い
文:Joel Drucker


今週の「国際テニス名誉の殿堂」に近年の選手のカテゴリーで叙せられるピート・サンプラスとアランチャ・サンチェス・ヴィカリオは、共に1971年生まれという事以外、表面上はほとんど共通点がないように見える。

サンプラスは10代の頃から、ほっそりした身体つきと流れるようなストロークで絶賛と期待を寄せられていた。元のダブルス・パートナーで同じく殿堂入り選手のジム・クーリエは、彼の生涯のライバルとして「ピートは常に危険な存在で、常に大らかで、ジュニアの頃でさえ、いずれ訪れるさらに大きな勝利のために励んでいるのだと承知していた」と語った。

間もなく、サンプラスは希望を叶えた。1990年、彼は19歳になったばかりでUSオープンの史上最年少チャンピオンとなった。2002年USオープンでは、14のグランドスラム・シングルス・タイトルの最後を獲得し、サンプラスは10代、20代、30代でグランドスラム・シングルスに優勝したテニス史上2人目の男として、オーストラリアの偉人ケン・ローズウォールに並んだ。テニス物語が進むにつれて、彼はレオ・トルストイにもふさわしい基準になった。それを「戦争とピート(War & Pete)」と呼ぼう。

サンチェス・ヴィカリオは、同じく10代でグランドスラムに優勝した。1989年フレンチ・オープンで、シュテフィ・グラフに第3セット3-5のビハインドから逆転で優勝した時、17歳の彼女は世界に衝撃を与えた。粘り強い小柄なスペイン人は、幸運な、まぐれ当たりにすぎない1回限りの短い成功を収めたと当時は考えられていた。

だが、そうではなかった。1994年、サンチェス・ヴィカリオはパリで2回目のタイトルを獲得し、さらに驚くべき事に、USオープン決勝戦でグラフを下した。そして間もなく、彼女は世界ナンバー1選手となった。翌年グラフはトップに返り咲いたとはいえ、サンチェス・ヴィカリオは1スラム・ワンダー以上の存在であると証明したのだ。さらに、1998年には心情的な優勝候補モニカ・セレシュを下して、ローラン・ギャロスで3回目の勝利を収めた。サンチェス・ヴィカリオの真髄とも言える言葉はこれである。「戦い続ければ、道は開けると思う」

従ってサンプラスは、有望さと莫大な成功の例である。サンチェス・ヴィカリオは、むしろ驚きと忍耐力の例と言えるだろう。サンプラスはほぼ攻撃により勝利した。サンチェス・ヴィカリオは守備でだった。

しかし、彼らには多くの共通点がある。ビリー・ジーン・キングはよく口にしてきた。「45歳になって過去を振り返り、『もし……だったら? もし私がテニスに全てを注ぎ込んでいたら?』などと自問したくない」

彼らのいずれも、決してそんな疑問を口にしないだろう。両者とも自分のテニスから、可能な限り全てを搾りだした。

彼らなりの方法で、一流のテニスをするために、己にあらゆる機会を与えると決意する最高のプロだった。見方によっては、彼らがスポーツと取り交わす忠誠心は、典型的な自分本位、あるいは無私無欲の様態を示した。前者については、両者とも断固として各々のニーズに専念し、テニスと成功への追求を妨げる何物に対しても、やみくもに、そして意図的に無関心だった。ある同僚は、かつてサンプラスを「ミニマリスト(最小限の要求で妥協する人)」と呼んだ。

無私という概念については、卓越性に忠実である事によって、両者ともファンと対戦相手に最高の敬意を払った。サンプラスもサンチェス・ヴィカリオも、プロとして求められる生活について泣き言を言ったりしなかった。競争の、有名である事の、苦闘の、旅行の、練習の、プレーのストレスを嘆いたりはしなかった。

もちろん、プレースタイルや性格(どちらが最初か答えられない「鶏と卵」の類の疑問)によって形成される相違もあった。サンチェス・ヴィカリオは元気で勇敢な小さいエンジンを備え、大衆に慕われて、そして永遠に敗者だった――世界ナンバー1であった時さえ。彼女が頂点に就いた事は、奇妙な状況によって突然、大統領執務室を占拠する事になった副大統領にも似た驚きであると、恐らく本人も承知していた。

サンチェス・ヴィカリオが1期限りの大統領なら――いずれにしても大統領ではあるが――サンプラスはフランクリン・ デラノ・ルーズベルトに類似していた。
訳注:フランクリン・ デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)。1882〜1945年。米国第32代大統領。在任1933〜45年。ニューディール政策を実施して大恐慌に対処。また、ラテンアメリカ諸国との善隣外交を推進。第二次大戦中は連合国の戦争指導に当たるとともに、戦後の国際連合の設立にも努力。終戦を間近にして急死。

ロジャー・フェデラーが史上最高だとする話はあれど、彼が年度末ナンバー1になったのは、これまでのところ3回である事に注目してほしい――サンプラスの記録的な6年連続トップの半分である。

さらに、サンプラスの優雅で力強いゲームは、感情を露わにし、火を噴くような2人の前任者アメリカ人チャンピオン、ジミー・コナーズとジョン・マッケンローの流儀では、正当に評価される事を困難にした。かつてサンプラスは語った。「自分のビデオを見ると、とても簡単そうに見える。そうなるまでに僕がどれくらい努力したか、皆に分かってもらえたらなあ」

多分ある意味で、フェデラーの流れるようなゲームへの現在の評価は、サンプラスに向けられた身代わりの抱擁なのだろう。ピート、我々はあなたを殆ど理解していなかった。

サンプラスは冷静で穏やかであったが、手に汗握る場面も数多くあった。グランドスラム・シングルス決勝における彼の記録は、眩いばかりの14勝4敗である。土曜日の式典では、彼が感情的になるのを目にするだろう。この男はテニスの歴史を深く理解し、ラケットを握って間もなく夢中になったゲームの本質を、豊かに認識しているのだ。こんなにも若くして彼が自分の夢に気付いていた――そしてそれを達成した――事は、傍目には見えにくい彼の情熱を強く物語っている。

この週末、シニアのカテゴリーで「国際テニス名誉の殿堂」入りするのは、デンマークのスベン・デビッドソンである。1957年ローラン・ギャロスのチャンピオン、上品な競技者で、1968年のテニス・オープン化に助力した。貢献者のカテゴリーでは、カメラマンのラス・アダムスが叙せられる。50年のベテランで、恐らく史上最高のテニス写真家である。