ESPN.com
2007年11月29日
元デビスカップ監督が決勝戦を考察する
文:Joel Drucker


オレゴン州ポートランド――元デビスカップ監督のトム・ゴーマンは、9年の在任期間(1985〜93年)中にカップ史上いかなるアメリカの監督よりも多くのタイで指揮を執り、1990年と1992年にはチームを優勝に導いた。92年にフォートワースで行われたその決勝戦――10歳のアンディ・ロディックが観戦に来ていた――は、アメリカがカップ決勝戦を主催した最後の機会だった。ゴーマンはまた、1972年にルーマニアのブカレストで開催され、大いに論争を呼んだ一戦を含めて、2回の決勝戦でプレーした。

トム・ガリクソンは1994年に監督となり、6年間の在任期間中に合衆国は最も最近のタイトルを獲得した――今週の相手と同じロシアに対して。

今週行われるデビスカップ決勝戦の前夜、2人の監督はデビスカップのユニークな挑戦、そして個人スポーツにおける監督の立場について ESPN.com と話し合った。


決勝戦の雰囲気とはどんなものですか?

ゴーマン:
それはスーパーボウルだ。何回も決勝に進出すると考えたいが、それは恐らく現実的でないと承知している。従って決勝戦での行動にはすべて特別な切迫感があるのだ。

ガリクソン:歴史のためにプレーしている―― 荘厳なデビスカップ・トロフィーに、自分の名前を永久に留めるために。それはスポーツの中でも最も特別なトロフィーの1つだ。

監督の使命は何ですか?

ゴーマン:
デニス・ラルストン監督の下でプレーした時に、多くの事を学んだ。コーチングというよりも、情況を管理する事についてだ。私が監督を務めていた頃には、多くの選手のコーチがゲームに関わっていた。そして取りまき連も。従って、それぞれの選手について、練習時間をいつにすべきか、どんな指導法を好むか等を理解しなければならなかった。ピート・サンプラスにはティム・ガリクソン、ジム・クーリエにはホセ・ヒゲラス、アンドレ・アガシにはニック・ボロテリー、マイケル・チャンには兄のカールがいた。これらの男たちは多くの事を知っていた――だがそれぞれ異なった方法でコミュニケーションを取っていた。私はそれらすべての方法に馴染まなければならなかった。一例を挙げると、1990年デビスカップ決勝戦では、アンドレのヒッティングは非常に気楽で短かいものだった――そして私は彼のヒッティング・パートナーを務めたのだ。ツアーを去って10年も経った後に。

ガリクソン:アンドレは確実に変わった。私が監督になった頃には、彼は練習に多くのエネルギーを向けるのが好きになっていた。コートに出て張り切って練習し、ベースライン・ゲームをし――それに勝とうとしていた。ゴーマンの言う通りだ。監督の役目は、各プレーヤーが求める快適で集中しやすい、ふさわしい雰囲気づくりだ。例えば、ジムもかなり熱烈な、正真正銘のデビスカップ戦士だった。彼は朝の8時30分にストレッチをして、9時には2人の練習相手と鋭いボールを打ち始めていた。もし彼らが集中していないと、ジムは吠えていたよ。そして午後には、2〜3セットをプレーして、さらに90分間ジムでトレーニングしていた。水曜日までには昼食時に、練習を減らしていくよう話をしたよ。

サンプラスは非常に異なっていましたね。

ガリクソン:
ピートは10時30〜45分頃に現われ、ジムの練習の終盤を見ていた。私に言った事があったよ。「クーリエがしている事には敬服している。トップにいるためにはあれだけの事をしなければならなかったら、僕にはできなかった」とね。ピートは心地よい、緩やかなウォームアップをした。彼のヒッティングパートナーには、ピートの2ステップ以内にすべてのボールを打つよう言った。それ以上だと、彼は追わないからね。彼はセット練習もしたが、練習セットで勝つ事にはこだわらなかった。
1995年の決勝戦で、ピート・サンプラスの体調は100パーセント以下だった。しかしトム・ガリクソンにダブルスをできるかと尋ねられると、サンプラスは「あなたは監督だ」と答えた。

ゴーマン:ピートがデビスカップ・プレーヤーとして進化していく様は興味深いものだった。彼は私が監督だった91年に、リヨンの決勝戦でデビューした。あれは私がもっと良いコーチングをすべきだった情況だろう。ピートほど素晴らしいプレーヤーでさえ、デビスカップの熾烈さに圧倒されていた(サンプラスは2試合とも負けた)。私は自分に何ができるかを考えていた。彼が学び、より優れた競技者になっていく様子を見るのは素晴らしかった。

ゴーマン、あなたはアメリカが最後に決勝戦を主催した時の監督でした。フォートワースでの週末について話してください。

ゴーマン:
素晴らしいチーム・スピリットだった――アガシ、クーリエ、サンプラス、ジョン・マッケンロー――だが、これらの男たちが1年の大半にしていた事を考えると、我々はのんびり鼻歌を歌って過ごしてきた訳ではなかった。ダブルスに入るまでは1勝1敗だった。そしてピートとジョンが組んでプレーしていたのだ――性格的には水と油、だがもちろん、どちらも素晴らしいプレーヤーだ。秘訣は2人を一緒に機能させる事だった。ピートはより感情的になるように、ジョンは冷静さを保つように。我々は2セット・ダウンの状況で、私はジョンに託した。彼のコントロールと集中力は一流だった。そして間もなく、ピートも奮起してくれた。彼らが勝利して、タイの流れを変えたのは素晴らしかったよ。

ガリクソン、アメリカの最後のカップ優勝について話してください。

ガリクソン:
ピートは初日、激烈な5セットマッチに勝利した――そして全身ケイレンを起こして倒れ込んだ。状況は明るくなかった。その夜、ピートはマッサージを受けていたが、私は「おい、ピストル、友人のトッド・マーチンと一緒にダブルスをするってのはどうだい?」と言ったんだ。彼はうつむいていたが、マッサージテーブルから私を見上げて、この1年ダブルスをしていないし、ひどい気分だと言った。それで彼は「トッドとリッチー(レネバーグ)に準備してもらって。様子を見てみよう」と言った。翌日、ピートと私は少し打ち合ってから腰を下ろした。彼はそれほど良い気分ではないと言ったが、「あなたが監督だ」とも言った。そこで1秒後に、私は彼をラインナップに入れた。彼とトッドは勝利し、ピートは翌日も勝った――時速130マイルのエースですべてを終えた瞬間を、私は決して忘れないよ。

あなた方がチームを動かしていた時から、何が変化しましたか?

ゴーマン:
ずっと多くの国が競争力をつけている。

ガリクソン:一般の人はフォーマットについて今でも混乱している。オリンピックのない年に、1年おきに開催されたらいいと思う。

今週末、監督のパトリック・マッケンローにアドバイスするとしたら、どんなものでしょうか?

ゴーマン:
今までしてきた事を続けてほしい。見事だった――素晴らしいチーム、大いなる仲間意識。そして試合中には全体像を念頭におく事。すべてのポイントが重要性なため、試合の流れよりも些末な事柄に囚われすぎる可能性もある。

ガリクソン:楽しんでほしい。特別な機会だから、ただリラックスした状態で楽しむ事だ。そうは言っても、とても重要なものではあるがね。