アトランタ・ジャーナル機構
2006年12月10日
サンプラス - ジネプリ戦はケネソーで4,000人を引き寄せる
文:Steve Hummer




プロ・テニス――真剣勝負ではないが――が、土曜日の夜にアトランタ地区に戻ってきた。ピート・サンプラスとロビー・ジネプリは、ケネソー州立大学評議会センター内の SportCourt で、3セットのシャドー・ボクシングを行った。それは緊張する大会のドラマというよりは、世代間の練習試合という趣だった。

ウォークマン対 i-ポッド。ポケットベル対携帯電話。マドンナ対アギレラ。いわばお楽しみ興業。
訳注:クリスティーナ・アギレラ。合衆国のシンガーソングライター。1980年生まれ。

今回は、旧式の方が優っていた。35歳のサンプラスが24歳のジネプリを6-3、2-6、6-3で破ったのだ。彼は3回のエキシビションで2度、その若者を負かした。

それはまさしくかつてのサンプラスという訳ではなかったが、良く言えばその片鱗はあった。彼は観客と会話を交わし、気さくな一面を披露した。それは彼が14のグランドスラム・タイトル――半数はウインブルドンでのものである――を獲得する間、巧みに覆い隠してきたものだった

「僕は今でも物置に少し道具をしまってあるんだ」その後、彼は観客に言った。

「子供の頃から、テレビで彼の試合をたくさん見てきた。そして今、彼と対戦している。事情は全く変わっている」と、ケネソー出身のジネプリは語った。彼は現在51位である。「コート上、そしてオフコートでの彼の振るまい方を見るのは興味深い。あれほどの業績を挙げた彼のそばにいるなんて、素晴らしいよ」

アメリカの偉大なテニスタウンにおけるテニスの祝典と宣伝され、土曜夜の「フェデックス・シュートアウト」には、評議会センターの定員である4,000人の観客が集まった。2人のプロがセンターステージに登場する前には、地域のテニスを代表する多数のプレーヤーが、タイブレーク形式の親善試合を行った。

その数は、観客のスポーツに対する変わらぬ関心を物語っていた。よって、何年間もアトランタを悩ませてきた疑問が持ち上がる。

これだけプレー人口があるのに、プロ大会は開催されないのか?

その日の試合のためにテニスシューズ代わりの靴を買うような(ALTA)アトランタ・テニス協会のプレーヤーを批判せずに、甘い事を期待するのは如何なものか。洗練された人間として知られるレクリエーショナル・テニスプレーヤーの最大グループ( ALTA には80,000人以上の会員がおり、 USTA――アメリカ・テニス協会の会員は45,000人以上いる)を誇らしげに有する地下鉄区域の住民が、実のところボイシ(アイダホ州)と同じくプロの登場を楽しむのだ。

ジネプリは長年にわたり、次のように告発してきた。「ここにいる人たちは、テニスを見に行くのではなく、する事を望むんだ」

ATP ツアーの AT&T チャレンジ大会は17年間続いた後、2001年に失くなり、カレンダー上のそのスポットは、中古のトラクターのようにアルゼンチンに売り払われた。

1991年と92年に世界チームテニスのチャンピオンとなった、マルチナ・ナヴラチロワ率いる「アトランタ・サンダー」を誰が忘れられるだろうか? あるいは、芳しからぬ観客数により駄目になったデビスカップと U.S. 女子ハードコート選手権を? アトランタの過去の遺物はすべて、風と共に去りぬ。ガット(ナチュラル・ストリングス)のように、テニスの歴史へと追いやられた。

しかし、郊外の即席テニスアリーナにファンが詰めかけた夜、支部は非難されすぎだったかも知れない。

「それはひどい言いがかりだ」とビル・オークスは言った。彼は AT&T チャレンジ大会の元ディレクターで、今はこの地域のアメリカ・テニス協会で働き、テレビ、ラジオでテニスについて語っている。「最悪の年――1998年――でも、我々は9日間で67,000人の観客を集めた。合衆国で現在行われている大会、ヒューストン、ニューポート、ラスベガス、サンホセなどでは、67,000人を超えた事はない」

1994年、全てが計画通りに進み、サンプラス、アンドレ・アガシ、トッド・マーチン、マイケル・チャンが準決勝に進出した当時、AT&T 大会の観客総数は10万人を超えた。それは過去最高であった。

オークスは語った。プロツアーのカレンダーにアトランタが入れるスポットがあるかどうか、常にマーケットを厳密に調べてきた。その過程は、NFL(アメフト・リーグ)のフランチャイズ権を買おうとするようなものではない。次のチャンスは、ヒューストンの大会が移転を予想される2008年まで来ないかも知れない、と。

「それは恐ろしい交渉だろうが、大会を取り戻し、我々の力を示せる時が来るまで、常に我々の胸にある」と彼は語った。

「野球とバスケットボールでも同様だ。プレーオフの間、ブレーブスは観客を集められず、誰もホークスを見に行かない。マイケル・ヴィックが現われるまで、ファルコンズを見に行く者はいなかった」

「そして『同じく、誰もテニスを支援しない』という嘆き節が、いわば付け加えられるのさ」

一晩の間、ジネプリは手腕を――調子が下がっていた時期のため、ベストという訳ではなかったが――地元の人々に披露する事ができた。彼は AT&T 大会には、10代の時に予選で1回プレーしただけだった。前のミレニアムにそびえ立つ存在とエキシビションで対戦するというささやかな経験から、地元でさらに有意義な試合をするという明確なビジョンを作り上げる事が、果たして可能だろうか?

「僕たちがもっとたくさん、こういったイベントをすれば、あるいは良い事が起こるかも知れないね」と彼は言った。