ワシントン・ポスト
2003年8月25日
偉大な人物が上品に去る、彼ならではの流儀で
文:Sally Jenkins


ピート・サンプラスがテニス界を去る。彼のプレーと同じやり方で……慎み深く、容易に、史上最高の偉人として。スポーツ界ではあらゆる種類の引退を目にするが、ほとんどは不様にも感傷的で見苦しい。涙ながらの記者会見。果てしない儀式ばった「僕を惜しんで」ツアー。つっかえつっかえの引退。注目を切望する、あるいはお金を必要とするアスリートは、引退してもまたそれを撤回するだけだ。うまく身を引く者はほとんど誰もいない。

しかしサンプラスは自制心をもって優雅に引退しようとしている。今晩、彼はUSオープンのセレモニーで引退を告げる予定だ。そして多くの人は疑問に思う。なぜサンプラスはもっとイベントをしないのか、より念入りに称賛されようとしないのか。答えは単純、サンプラスはそれを必要としないからだ。

彼は最後のアドレナリン効果、あるいは一服のお追従を必要としない。長くうぬぼれに浸る事を必要としない。さらなるお金、あるいはトロフィーは必要ない。他のアスリートにとっては手放しがたいあらゆるものを、彼は必要としない。彼は満足している。

その満足は、それ自体が1つの偉業である。昨年のUSオープン優勝以来、サンプラスは姿を現さなかった。14番目のメジャー優勝は、いま彼のキャリア最後の試合となった。完璧な終局である。

彼はもう大会でプレーしなかった。いっさいのインタビューを辞退した。彼はただ、妻と生まれたばかりのベビーと共に家にいた。典型的にも、彼は発表に際し、今大会の最終日ではなく、クライマックスとは正反対の第1夜を選んだ。セッションは売り切れてさえいない。

ある者はこれを期待はずれと見るかもしれない。しかし私は、それがまさしくサンプラスという人だと感じる。彼は決して名声を信用しなかった。そして常に閉じこもり、自我を守った。

サンプラスについて、ここに2つの真実の物語がある。そこからは、19歳で初めてUSオープンに優勝した時から32歳での最後の登場まで、彼がいかに首尾一貫して成功に対処してきたかが読みとれる。

1996年、サンプラスは国内線ジェット機のファーストクラスで、バリー・ボンズの隣の席に座っていた。ボンズは彼を知らず、そしてサンプラスは、はにかんで自己紹介をしなかった。サンプラスの後ろにはボンズの友人が座っており、ボンズのそばに座りたがっていた。ボンズはサンプラスを指さして「もしこの子が席を立てば、君はこっちに移れる」と言った。サンプラスは肩をすくめ、無言で席を移動した。

同じ頃、彼はフロリダのステーキハウスで食事しようとしていたが、テーブルのための列はドアの外まで続いていた。サンプラスは、事によると人生でただ一度、彼の威光を利用しようとした。彼は女主人のところへ歩み寄り、テーブルを頼んだ。女主人は彼が誰か知らなかった。サンプラスは決まり悪い思いで列の後ろへ戻り、そして二度とそういう事をしなかった。

サンプラスはキャリアを通じて、控えめで几帳面な選手だった。どれだけたくさんの大会で優勝しようと、あるいは記録を作ろうと。どの偉業が最も長く保たれるだろうか? 14のグランドスラム・タイトル記録? 7つのウインブルドン・タイトル? 6年連続年末ナンバー1プレーヤーの記録? 

サンプラスが最も誇りに思っているかもしれないのは後者である。なぜならそれは、ゲームの全哲学、倫理としてのテニスを物語っているからだ。彼はただ偉大だったのではない。信頼のおける偉大な人だった。彼は決して試合を捨てなかった。決して責任を回避せず、真剣にすべてのボールを打った。彼の仕事ぶりは彼の才能と等しかった。

このため彼は退屈とレッテルを貼られた。そのレッテルは、プロ意識を芸術的手腕に換えた選手にとってはあだとなった。逆もまた同様であった。彼は完成されたプレーをし、テニスを深く理解していた。しかし彼のゲームの静謐な美しさは催眠術のようで、観客はそれが汗と努力によるものとは想像できなかった。

実際は、それは断固とした集中、自己損失、鍛錬の成果であった。彼は勝ちたいと熱望するあまり胃潰瘍になった。フロリダの冷房がないガレージで、何時間もウェイト・トレーニングに汗を流した。「USオープンのコートには冷房がないからね」と彼は言った。

彼は世界を旅しても、その国々を見る事はなかった。練習のため以外にはめったにホテルから出かけず、何年もの間、修道士のように同じトレーニング・ダイエット、ソースをかけないパスタとチキンを食べた。「好きか否かにかかわらず、すべての食事を呑み込むんだ」と彼は言った。まれな散財は、ブラックジャックをしに週末ベガスへ行くか、ニューヨークでは Peter Luger のステーキハウスに行く事だった。しかしたいていは、胃がむかつく結果となった。彼はこんなこってりした食事に慣れていなかったからだ。

容易さの陰にどれほどの骨折りがあるか観客が理解しないという事は、彼にとってはフラストレーションの源であった。「人々は彼が勝つのを見て、あまり大変そうではないと考える」と、彼のコーチ、ポール ・アナコーンは語った。「しかし彼は、それがどれほどむずかしいか、理解してほしいと思っている」

問題は、サンプラスが理解と引き換えに、寡黙さを放棄したがらない事だった。もしそれが代償なら、彼はむしろ誤解される事を選んだ。オーストラリアン・オープンで、彼は珍しく公の場で取り乱した事があった。コーチ・友人であるティム・ガリクソンが末期の脳腫瘍であると知り、対ジム・クーリエ戦の最中にコート上で涙に暮れたのだ。しかし後には、そのエピソードの結果として生まれた、新たな人気に煩わされた。「あのような事がなければ、僕が人間的だと分かってもらえないという事が、僕を苛立たせた」

彼はロサンジェルスの丘に建つ自宅で、引っ込んで暮らす事の方を好んだ。宮殿のようではないが快適な家で、そびえ立つ年数を経た木々の後ろに隠されていた。「誰も中を見られない、そして僕は外が見えない、そんな風なのが好きなんだ。僕はハワード・ヒューズさ」
彼はテレビルームの棚にトロフィーを置いていて、それらを見せるのを楽しんだ。しかし彼らしく謙遜して。「思ったほど重くないんだよ」

マスコミはいつも、サンプラスを正確に描写するのはむずかしいと考えた。彼はとても節度があり、きちんとしていたからだ。彼の天才にはマッケンロー風の感情的苦悩が伴わず、それゆえにドラマチックではなかった。彼はヒロイックでも悪辣でもなかった。ひたすら優秀だった。卓越が彼の唯一の、本物の度を超すものであった。

悪党あるいは苦悩する天才の方が、描写するにはより容易だっただろう。彼はまた観客の感情にとって、良い指揮者でもなかった。なぜなら彼の特質すべては、いつも素晴らしいという事だったからだ。そして観客がスポーツイベントで最も望まないのが「いつも」であったからだ。

しかし私は、個人的にも職業的にも、彼がいないのを寂しく感じるだろう。私は彼の、あの怠け者的な物腰で覆い隠された、大望を抱くゲームを惜しむ。けたはずれの眠り屋、この15年間、プレーヤーズ・ラウンジでうたた寝し、ゴムぞうりを引きずってウロウロしていた、前かがみのヒョロッとした眠そうな子供を恋しく思う。

痛みを押し隠しつつ、脇からはみ出てくるのを抑えられなかった、意志の強い、しかめっ面のアスリートがいないのを寂しく思う。努力は才能に匹敵すべきと決心する事で、自分をチャンピオンへと作り上げた、ひたむきなプレーヤーを惜しむ。彼の古風な魅力、秘められたユーモア、本質的な品位、はにかみがちな好意を恋しく思う。

再び喝采を聞けるからと、サンプラスが引退を撤回し、いま一度の準々決勝のためにあがくのを見るだろうとは思わない。数年後に、シニアテニスのサーキットでみすぼらしい、腹の出たバージョンの彼を見る事はないだろう。彼を見かけそうな唯一の場所は、レイカーズ・ゲームのコートサイドだ。もしくは満足そうに、公園で彼のベビーを散歩させているか。

しかし、サンプラスは見られるのを望んだ事がなかった。彼はただ偉大である事を望んだだけであった。