アメリカ版TENNIS
2003年8月号
プロゲーム:ジム・クーリエが、友人・ライバルであるピートとアンドレについて語る2003年7月25日
文:Jim Courier


数年前、僕はアンドレ・アガシと一緒にゴルフをするために、チャリティ・エキジビションに行く途中ラスベガスに立ち寄った。彼のパートナー 、シュテフィ・グラフ(現在は妻)はカートを運転して同伴し、写真を撮っていた。我々が1ホールをプレーしていた時、キャディが尋ねた。「ところで、あなた方はいくつグランドスラム・タイトルを獲得したのですか?」

僕は肩をすくめて言った。「4つさ。アンドレ、君は?」
「6つ」彼は振り返り、シュテフィに呼びかけた。「シュテフィ、君はどうだい。君はいくつ獲得したの?」
彼女はちょっと思案し、そして言った。「22よ」

アンドレと僕はただお互いを見て、噴き出した。それは長年にわたり僕がアンドレと共有してきた、多くの素晴らしい時の1つだった。長い間それを覚えているだろう。自分が達成した事や自分自身を、距離を置いて見るのはいいものだと、思い出させてくれたからだ。僕らがしてきた事はただタイトルのためだけではないし、ましてやお金のためだけでもない。自分が何者だったのか、どのように自分の本分を果たしたのか、そして何をゲームにもたらしたのかという事でもあった。

その点では、アンドレは自信を持っていられる。

もう1人のライバル・友人であるピート・サンプラスも同様だ。僕はこれらの男たちと共に成長した。

彼らと競い合い、デビスカップ・チームでは一緒に戦った。僕たちは良い時と厳しい時を共有した。そしてピートとは、悲劇的な時さえも。

僕はまた、15年間の大半、彼らがゲームを担ってきたのを見てきた。これは僕にとっては驚きでもある。

ある時点ではアンドレにせよピートにせよ、この時代にゲームを確立する事のみならず、トッププロになるであろう事さえ確かではなかったのを覚えているからだ。

アンドレの才能は早い時期から明白だった。彼の目と手は素晴らしかった。驚くべきボール・ストライカーだったし、いまもそうだ。しかしアンドレは野放しの大砲だった。彼が自分の能力に見合う欲求あるいは忍耐力を持っているのか、我々には分からなかった。

子供の頃、僕たちの間の競争(僕らの世代には、マイケル・チャン、デビッド・ウィートン、マリバイ・ワシントン、トッド・マーチンもいた)はとても激しかった。あまりに激しくて、アンドレが1986年に16歳でプロツアー参加を試みた時は、彼がジュニア・ゲームのプレッシャーから逃げているようにさえ感じられた。彼はツアーでは失うものは何もなかったからだ。

しかしそれは、彼の才能が輝き始めた時だった。またたく間にアンドレはバーモントの Stratton Mountain 大会の準々決勝に進出したかのようで、我々は「これは僕たちが2週間前、一緒に練習していた男だ。僕らも(このレベルに)及ばないはずがない」と、思わずにはいられなかった。

しかし競技者としての資質の問題は、僕が1991年にローラン・ギャロスで彼と対戦した時まで、アンドレにつきまとっていた。彼は誇大宣伝された若いスターだった。それでもなお、大きな大会の決勝戦で勝つ能力があるのかどうか、不確かだと思われていた。今回は、僕が失うもののない立場だった。

その決勝で僕に負け、1年間アンドレは意気消沈した。それは彼の行動パターンの始まりだったと思っている。彼について認識されているこの欠点 --- 僕はそれを忍耐心の不足と呼ぶ --- が、彼がテニスで落胆した時、周期的にそこから離れて他の事にさまよい出るという行動を引き起こしたのだ(またそれゆえに、結果的に彼はバーンアウトを避けられたのだが)。

僕がアンドレに敬服する主な理由の1つは、彼は永久にテニスから離れる事も簡単にできたはずなのに、そうしなかった事だ。彼のカリスマ性と知性をもってすれば、「もし……ならば」というテニスの経歴を携えて、ハリウッドのような場所に進出する事もできたはずだ。

しかしアンドレはより厳しい道を選択した。彼は探求し、テニスで能力と責任に立ち向かった。粘り強くなった。アンドレは自分が才能に恵まれている事は承知していた。しかしその時点までは、きわめて少ししかそれに応えていなかった。彼はそれを正す事にキャリアの大部分を捧げた。彼はいまや最も慈善事業に熱心な選手だ。同じく地に足のついた家庭人で、堂々としたプロである。

ピートは異なった種である。そして彼らの関係におけるその対極の資質ゆえに、彼らのライバル関係はとても興味深かったのだ。ピートと僕はジュニア時代のライバルではなかった(1回対戦しただけだ)。それで僕たちはより親密な友人になった。

ピートについて言えるのは、彼はアンドレのようなタイプの知りたがり屋ではないという事だ。彼は自分自身に「なぜ僕はこれをしているのか?」と疑問を持ったりしない。

ピートにとっては、AプラスBは常にCなのだ。彼が準備をして、良い体調で、そして練習をしたら、たいていの選手を打ち負かす。それはまさに彼がしてきた事だ。

しかしピートがそれらのABCを理解するには、しばらく時間がかかった。初めのうち、ピートはアンドレではない(誰がなれる?)事で叩かれた。同じく、有力な勝者となるにはノンビリしすぎているように見えた。1990年USオープンでグランドスラム初優勝した後、たいていのチャンピオンが生き甲斐とする挑戦とプレッシャーに、ピートは怯んだ。

ピートが心許ない子供であると見抜いた男は、彼のコーチ、故ティム・ガリクソンだった。ピートがもがき、自分がどれほど優れているか、あるいはトップでいる事をどれほど快適に感じるか不確かだった頃、ティムはピートに彼が聞くべき事を言い聞かせた。「君は他の誰よりも多くの能力を持っている。いまはノンビリしてないで、それを生かして成功に向かう時だ」と。

ピートが再び成功を味わった後は、自分の最大の強みになるだろうもの、彼が本当に欲した唯一のもの --- メジャータイトルを勝ち取る事 --- に焦点を合わせる、ひたむきな心構えを進化させ始めた。

ひとたび大望が具体化したら、ピートはその焦点から決して逸脱しなかった。彼はその途上で、脳腫瘍のためにティムを失った。しかしその時でさえ歩みを止めなかった。

ピートは別の時代のヒーローを模範として、自分を作り上げた。そして彼は本当に50〜60年代の無口で、謙虚で、上品なオーストラリアのチャンピオンたちのようになった。

ピートはガードを高くして生きる術を学んだ。本当は全く構えずにいる事を楽しむのだが。公の場では手心を加えるこの男は、プライベートでは手加減しない。彼は鋭い、辛辣なウィットの持ち主だ。そして楽しい笑いを愛する。我々が公の場で決してこれを見ない事は、ピートの自制心について多くを物語っている。

しかしピートは、人に見せるものより多くを感じている。それは1995年オーストラリアン・オープンにおける、我々の準々決勝ではっきりと明らかにされた。ティムが亡くなる1年半前の事だった。ピートはその日、コート上で涙に暮れた。しかし彼は戦い続け、5セットの闘いに打ち勝った。彼は物事を無視したり関心を持たないのではなく、それを内に閉じこめている事の証拠だった。

その後、僕らは共にトレーナー・ルームに横たわり、腕や脚のケイレンを取るマッサージを受けていた。僕たちは試合の事や、ティム、人生について話をした。僕はその試合のすべてを誇りに思っている。ドラマ性から、僕たちが見せたスポーツマンシップ、プレーのレベル、友情まで。

ところでピートは、14のグランドスラム・シングルス・タイトルを持っている。それはアンドレと僕の合計より多い。しかしそれでもシュテフィより8つ少ない。
往々にして、数字は物語全体を語っていないものなのだ。