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2003年8月11日
ピート・サンプラス:伝説的キャリアの最終章
文:Greg Laub


1971年8月は、USオープンにおける歴史的な時であった。その年、ビリー・ジーン・キングとスタン・スミスが優勝し、16年ぶりに男女両方のタイトルを合衆国にもたらした。

準決勝で、キングは16歳のアメリカ人、クリス・エバートを破った。彼女はこの年USオープンデビューを果たし、その後6回チャンピオンになった。

そして男子トップシードのジョン・ニューカムは、1928年以来初の1回戦負けを喫した1位の選手となった。

しかしその8月、USオープンに起こったおそらく最も意義深い出来事は、2〜3週間前にさかのぼる。
ニューヨークの200〜300マイル南、ワシントンD.C.の病院で、サム&ジョージア・サンプラス夫妻の間に、未来の伝説的選手が生まれたのだ。


17年後の1988年、ピート・サンプラスは、目に浮かぶ自信と同じくらいちょっぴりしかない脂肪を身につけ、初めてグランドスラム大会のコートに立った --- まさにここ、フラッシング・メドウで。彼は1回戦でペルーのハイメ・イサガに敗れたが、5セットの接戦を戦い抜き、有望さと可能性を見せた。その試合に勝つチャンスさえあった……新人ならではのいくつかのエラーがなければ。

翌年、彼はUSオープンに戻ってきた。フレンチ・オープン1回戦で得た、グランドスラム大会での1勝を携えて。その時点における彼のグランドスラム成績は1勝3敗だったが、1週間で3倍の勝利数を挙げた。USオープンで3回勝ち、初の主たる成功を収めたのだ。ハイライトとして、2回戦ではディフェンディング・チャンピオンのマッツ・ビランデルを破り、3回戦ではイサガにリベンジを果たした。一方まさに翌日、別のコートでクリス・エバートはUSオープン最後の試合を戦った。

そして1990年、サンプラスのキャリアに衝撃が起こった。ピートはその年を61位で始め、シドニーではオーストラリアン・オープンのウォームアップ大会出場をかけ、予選を戦わなければならなかった。その後フレンチ・オープンはスキップし、ウインブルドンでは1回戦で敗退した。

有望な若者ではあったが、事はピートにとって容易ではなかった。テニス界は彼の静かで面白みのないプレースタイルに魅了されもせず、才能は勝利に結びつかなかった。彼は試合に勝つ事もなく、テニス界のファンを勝ち得てもいなかった。

それから、すべてが変わった。サンプラスが3回目のUSオープンに戻ってきた時、19歳になったばかりだった。そしてニューヨークは間もなく、その冷静な表情の後ろに、多くの魔法の力がある事を発見するのだった。

前年の4回戦進出が、それまでのグランドスラム大会における最高成績だったが、1990年の4回戦では6位のトーマス・ムスターを破って初の準々決勝進出を果たし、多くの人に衝撃を与えた。彼の静かなスタイルにも関わらず、周りには突然ざわめきが起こった。

準々決勝でもピートは快進撃を続け、5セットでイワン・レンドルの度肝を抜き、8年連続USオープン決勝進出という伝説的選手の驚くべき記録に終焉をもたらした。ざわめきはますます騒がしくなった。

そして、準決勝では観客がベテランのジョン・マッケンローを後押しする中、ピートはかなり簡単にファンのご贔屓を片づけ、突然、観客は新しいアメリカの英雄を得た。

サンプラスは物静かで、控えめで、そしてプロフェッショナルであるかもしれないが、あと1勝で、彼はまた非常に特別な何かであり得ると、人々は気づいていた。

そしてピートは失望させなかった。彼は引き続き、もう1人のトップランクのアメリカ人、アンドレ・アガシという名の、同じく若い期待の星に対して番狂わせを演じた。それは1979年以来初の、アメリカ人同士の決勝戦だった。

そしてこの勝利で、ピートはUSオープン最年少チャンピオンとなった。また第12シードとして、彼はオープン時代における最も低いシードの男子優勝者ともなった。

アガシとの決勝戦は、後に伝説的なライバル関係となったものの原型であった。2人の男たちはその後何年も戦い、ボルグ/マッケンロー、エバート/ナヴラチロワ、レーバー/ローズウォールのように、現在USオープンの歴史において結びついている。

アガシはマスコミに作られたイメージを持つ派手な子供で、フレンチ・オープン決勝進出を果たしたところだった。そしてピートは昨年の4回戦進出で少しばかり注目されてはいたが、アンドレは昨年の準々決勝で6位のジミー・コナーズ(「あなたは伝説、彼はチンピラ」という見出しで有名)に勝ち、準決勝で1位のレンドルに敗れるという躍進もあって、さらに騒がれていた。

しかし最初のタイトルを獲得しようという段では、物静かなサンプラスがアンドレの希望をぺちゃんこにした --- これが1回目だった。

しかしながら、アンドレはそれが最後になると考えた。彼は他の多くの人同様、1990年のピートの魔法のような快進撃は、ただのまぐれだと信じた。「ここで調子に乗りすぎないようにしよう」と、アガシは敗戦の後に言った。 「彼は1回やってのけた。彼がここからどこへ行くか、見てみようじゃないか」

まあ、予想できない事を予測できなかったからと、アンドレを非難はできない。ピートは頂点を目指して努力し続け、1993年から1998年までの間、世界1位のプレーヤーとなった。彼はキャリア通算で、さらに63のATPタイトルと4,300万ドル以上を獲得した。それらのうち、世界記録である14はグランドスラム・タイトル、その5つはここフラッシングのもので、ジミー・コナーズのオープン時代の記録と並ぶ。

さらに、サンプラスが獲得した5つのUSオープン・タイトルの3つが、アガシとの決勝戦で得たものである(他の2回では、ピートは*アガシを破った選手を負かした)。
訳注:実際には1993年、アガシを1回戦で破ったトーマス・エンクウィストとは、ピートは対戦していない。

しかし最初は、アンドレのコメントはそれほど的外れとは見えなかった。ピートは1990年USオープン優勝後、少しばかり苦労した。その後2年間、グランドスラム決勝に進出する事もなく、不安定だった。1991年USオープン準々決勝では、ジム・クーリエにストレートで敗れた。

しかしそれでアンドレが満悦できたわけではなかった。彼は全くもってダメになった。1991年から1993年の間、USオープンで合計4試合しか勝てなかった。

一方サンプラスは1992年、再び自分のゲームを取り戻す事ができた。準決勝で1位のクーリエにリベンジを果たし、決勝まで努力して戻ってきた。だがエネルギーを使い果たし、決勝で2位のステファン・エドバーグに敗れた。しかし魔法の力は戻っていた。

1993年、アガシはいまだ苦闘する中、サンプラスは再び決勝に戻った。そして今回は難関を脱し、2度目のタイトルを持ち帰った。実際は、彼は大会を勢いよく勝ち進み、決勝でセドリック・ピオリーンをストレートで下すまでの間、2セットしか落とさなかった。

一方1994年、アガシは立ち直り、批評家を驚かせ、ついにUSオープンの栄冠を手に入れた。それは振り出しに戻って1989年のようであった。アンドレは絶好調で飛ばし、ピートは再びハイメ・イサガに、今回は4回戦で敗れた。

しかし5年前にしたように、翌年ピートはカムバックし、決勝への途上でイサガを打ち負かした。そしていま一度、彼は決勝で絶好調のアガシと相まみえた。そして1990年と全く同じように、ピートはアンドレにタイトルを与えなかった。

ただ今回は、連続チャンピオンになる事をも拒否したのだ。アンドレは再び夢をピートに潰された。そして再び、自分のゲームを見いだすのに翌数年を費やした。さらに悪い事に、次の年ピートは連続チャンピオンになった。

1996年USオープンでは、サンプラスはアガシと対戦する事はなかったが、特別な瞬間がなかったわけではない。ピートはコート上でもコート外でも、非常に辛いシーズンを送っていた。コーチであり良き友人でもあるティム・ガリクソンの死も影響し、彼のプレーは調子が下がっていたのだ。

ピートは準々決勝でスペインのアレックス・コレチャに対し、ガッツ溢れる5セットの勝利をもぎ取った。そこでピートが示した勇気とハートは忘れがたいものだった。引き続き彼はチャンを決勝で破り、友人に勝利を捧げるために空を仰いだ。

試合後、ピートは語った。「生きていれば彼は今日45歳になっていた。今日、僕は一日じゅう彼の事を考えていた。そして試合の間じゅう、コート上でするよう彼が教えてくれた事を考えていた。

いまでも彼のスピリットを感じた。もう彼はいないが、いまでもまさに僕の心の中にいる。もし彼の助けがなかったら、僕はここにいなかっただろう。トロフィーを掲げた時、トムを見た。素晴らしい瞬間だった」

アガシについては、彼はキャリア二度目のカムバックを果たし、1999年、ついにセンターコートの決勝に戻ってくる道を見つけた。*1993年 (訳注:1993年ではなく1994年)の時同様、優勝への道のりで彼の大敵に出会う必要はなかった。今回は椎間板ヘルニアのため、ピートは欠場していたからだ。

ピートは背中の怪我から力強く回復した。そして次の2年間、タイトルを勝ち取れはしなかったが、2000年、2001年と連続して決勝に進出した。

興味深い事に、2000年には決勝でマラト・サフィンに負ける前に、準決勝で レイトン・ヒューイットを負かし、2001年には準決勝でサフィンを負かして、そして決勝でヒューイットに敗れた。

もう1つ面白い事実がある。2001年の準々決勝では、持てるすべてをぶつけ、タイブレークに継ぐタイブレークで、ピートを*第5セット(訳注:実際は6-7、7-6、7-6、7-6の4セットで勝利)まで追い詰めた相手と当たり、最も困難な試合に打ち勝ったのだ。結局、アガシはいまだに大試合でピートを負かす事ができなかった。

そこで終わったのか? もちろんそうではない。最高のクライマックス無しでは、物語が完全になるはずがない。ハリウッドもこれ以上うまくは書けなかっただろう。

2002年、ピートはついに終わりを迎えたように見えた。心身をすり減らすような年月の報いがきた。そして彼のまずいプレーと目に浮かぶ絶望感は、いよいよ明白になっていった。

8月にUSオープンが巡ってきた時には、彼は*32歳(訳注:31歳)になっており、準々決勝に達する事さえ見込み薄と思われた。彼は第17シードだったが、多くの者はそれさえ上出来の順位と感じた。サンプラス以外の皆は。

彼は次々と記憶に残る試合を勝ち抜き、再び決勝までたどり着いた。グレッグ・ルゼツキーにはフルセットの大接戦で勝利したが、カナダ生まれのイギリス人は、自分が劣った選手に負けたとほのめかした。

より高いシードのトミー・ハースとアンディ・ロディックを倒した。準決勝ではシェーン・シャルケンに快勝した。そして、決勝ではアンドレ・アガシ。

1990年USオープンで、サンプラスは最も若い優勝者になった。2002年の幕が降り、何が起こったのかとアガシが再び考える中、ピートは史上2番目に年長の優勝者となっていた(ケン・ローズウォールは1970年に35歳で優勝した)。

ピートはそれ以来、試合をしていない。おそらく始まりと同じやり方で、キャリアを終わらせるのだろう。華やかな宣伝も大してなく。それは道理にかなう。

彼はキャリアを通じて、ハートを持つのにイメージは必要ない事を、すべての勝利で世界に証明してきたのだから。彼は願望を示すために感情を見せる必要がなかった。しかし最も重要なのは、彼はそれを証明する必要がなかったという事だ。

1993年、3回チャンピオンになった事をどのように感じるか、ピートは質問された。「まあ、もし僕が10年間このレベルを維持できるなら、いい所まで行けるだろう。

でも、僕は3つのグランドスラム・タイトルを持っているが、目標はいつかレーバーやローズウォールと同じ所にいる事だ。彼らは一流だった。それは僕がプレーする時、心がけている事だ」

いま10年が経ち、一流の人間が、それが始まったまさにその場所で、魔法を終わらせようとしている。彼は絨毯に乗り、1周して元に戻った。一度ならず、伝説で名高いキャリアの中で何度もその伝説を繰り返し、そして毎回、それを予想する人々さえ驚嘆させてきたキャリアだった。

伝説的選手から、他のどんな結末を期待できるだろう。