第5部:ウインブルドン
第22章 オランダ人の試練


サンプラスは96年ウインブルドンに向けて、アガシの方式に倣った。必要に迫られるまでは芝生を避ける、それがアガシの哲学である。

「彼はただ大会に臨み、才能で切り抜けていく唯一のプレーヤーだ」とサンプラスは驚嘆していた。

サンプラスはグラスコートでの練習をほとんどせずに、ウインブルドンに臨む事はこれまでなかった。その影響は彼の初戦、レネバーグ戦で窺えた。サンプラスは4セットで逃げ切ったが、第1セットを失い、第2セットでも先にサービスブレークされて、セットを落としそうになったのだ。

早い段階でのレネバーグのリターンは、目を見張るようった。ダブルスにおける着実な努力の証だった。この数年、合衆国デビスカップ・チームのメンバーとして、彼とサンプラスがしばしば一緒に練習してきたという事実も、同じく関係していた。

「彼は僕が何をしようとするか知っていたし、逆もまた同様だ」とサンプラスは語り、自分の限られたグラスコートに対する準備への不安を認めた。

「しばらく試合をしていなかったし、簡単な試合ではなかった。リッチーは優秀なオールラウンド・プレーヤーだし、僕は昨年(決勝)以来、芝生で戦うのは初めてだった。立ち上がりは少しスローだった。彼は僕のセカンドサーブを事もなげにリターンし、右に左にウィナーを放っていた。彼は僕が対戦してきた選手の中でも、最高のリターンを持つ1人だ」

「(彼が第1セットを取った時)パニックに陥らないよう自分に言い聞かせたよ。だが第2セットでブレークされた時は、少し慌てた。あの時点では彼のリターン、プレーに、ちょっと不安になっていた。でもブレークバックして、そして試合が進むにつれて、ようやく落ち着いたと思う。僕はいいプレーをし始めた」

まあ、それなりに。確かに彼は、1回戦でハビエル・フラナに打ち勝ったフィリポウシスに対しては、より断固たる努力を必要としただろう。

この早いラウンドでの肝を冷やすようなテストは、サンプラスに神経質な冗談を言わしめた。「僕が何をしてこうなったかは知らないが、単なるドローの成り行きだ」と彼は語った。「ただコートに出て、戦うのみだ」

サンプラスは声明を出すのが好きだ。彼はそれを認めないとしても。復讐は彼のエンジンを活発にする。それがメジャー大会においてなら、さらに良い。世界が見守る中で、彼らを元の場所へ返すほど良い事はない。95年USオープンのイサガ戦、95年ウインブルドンのルゼツキー戦、95年ウインブルドンのイワニセビッチ戦――3つの例を挙げておこう。

フィリポウシス戦はさらなる1例となる可能性を秘めていた。したがってウインブルドン4日目、彼らがセンターコートに現れた――フィリポウシスにとっては初体験――時、サンプラスはやる気を漲らせていた

「誰かに負けるといつも、その相手との再戦を楽しみにするんだ」とサンプラスは語った。「ドローを見た時に、ある意味でこの試合を待ち望んでいた。また、彼のサーブは非常に危険だ。まるで2本のファーストサーブを打っているみたいだ。彼は狙ってくる。リターンとパッシングショットでは強打してくる。だから彼が2本ほどクリーンなウィナーを打ってブレークすると、こちらにできる事は何もない。とにかく踏み止まり、彼のサーブで辛抱強く、ブレークするチャンスを掴もうとする以外にはね」

サンプラスは7回のチャンスを得て、2回ブレークした。それがストレートで勝利するのに必要なすべてだった。彼は1本もブレークポイントを与えなかったからだ。

「あれこれの作戦はないよ」と彼は語った。

数字は彼の言葉を立証していた。フィリポウシスのサービスの平均速度は、ファーストサーブで時速122マイル、セカンドで111マイルだった。サンプラスの平均速度は117マイルと100マイルだった。エースの数でもフィリポウシスは28本対15本とサンプラスを上回ったが、サンプラスの抜け目ないプレースメントのリターンに対応しようとするあまり、時に乱れた。

「エースは何の意味もないと思う」とフィリポウシスは語った。彼が現在エースに依存する度合いを考えると、奇妙な申し立てだった。

「500本のエースを打って試合に負けるよりは、エースなしで試合に勝つ方がいい。エースよりもファーストサーブの確実性の方が大切だと思う。さらに、サーブを叩きつける事よりも、ファーストサーブとファーストボレーの方が重要だ。でも僕はまだ若いし、きっと徐々にそれを学んでいくよ」

フィリポウシスはサンプラスの闘志にも気付いていた。

「この試合は(オーストラリアン・オープンとは)極めて異なっていたと思う」と フィリポウシスは語った。「ピートは確かに、お返しをすると決意していたのだろう。前回に僕が彼を破ったのは、多分まぐれか何かだったと皆に分からせるためにね。奇妙な事だが、僕はホームの観客の前でよりも、(ウインブルドンの)センターコートでの方が神経質になっていたと思う」

「マークがオーストラリアで見せたプレーは、目を見張るようだった」とサンプラスは語った。「彼は言わば僕を破壊したんだ。それに自信に満ちたプレーをしていた。あそこはリバウンドエース(ハードコート)で、ここは芝生だったから、テニスも違うしね。オーストラリアでは、バックコートからのプレーが多かった。そしてこの試合はよりサーブにかかっていた。違いは、僕は大事なポイントで少しばかり良いプレーをして、リターンも良かったという事だ。だがとにかく、僕は彼のサーブを、彼は僕のサーブをリターンしようとする事にかかっていた」

小さな相違。大きな派生的結果。ウインブルドンはサンプラスとフィリポウシスにとって、3回目の対戦だった。そのすべてがグランドスラム大会だった。はっきりしているのは、彼らが再びスラム大会で対戦するという事である。もしかしたら決勝戦で。今回の勝利によって、この先に予想される対戦で、サンプラスは優位に立っている。

この特定の機会に勝利する事で、彼はフィリポウシスをグランドスラム・スクールへと導いた。

「僕はもっとタフになる事を学べたと思う」とフィリポウシスは語った。「ピートのような男は、相手に楽なポイントを与えない。彼はあらゆる事について相手を懸命に働かせる。僕はそれを学ばなければならないのだろう。相手に楽なポイントを与えないために」

「これをレッスンと呼ぶ事が適当なのかは分からない」とサンプラスは語った。
「僕はセンターコートに何回も立った事があり、とても快適なコートだというように感じていた。だが、とてもシンプルな事だ。僕は大事なポイントを勝ち取ったという事だよ」

サンプラスの大会優勝に関して存在していた懸念が何であれ、フィリポウシスを片付けた事で消え失せた。対戦相手を考慮すると、それは1994年の決勝戦以降、ウインブルドンにおけるサンプラスのベストマッチだったかも知れない。

それから、カロル・クチェラという印象的な存在が現われた。堅実な、しかし得体の知れないスロバキア選手は大会を勝ち上がり、彼に対してサンプラスは珍しくしくじりを犯した。

サンプラスは最初の2セットを取り、そして第3セットでつまずいた。オープンコートへのバックハンド・ボレーをミスした後、タイブレーク(7-5)を取りそこねたのだ。第4セットもタイブレークに入り、サンプラスは初対戦の相手から7-3で逃げ切った。冷たい雨模様のコンディションで、サーブには厳しい日だった。すべてについて厳しい日だった。

「僕のフォームは1、2回戦ほど良くなかったようだ」とサンプラスは語った。「だが僕は切り抜けた。いい出来ではなかった。何とか切り抜けて留まりたいと願う試合の1つだ」

さらに厳しい試合が控えていた。しかし決勝戦は、盛り上がりに欠く可能性が見えてきた。サンプラスとは反対側の、ドローの下半分では、初日にアガシが消え、3回戦では第2シードのボリス・ベッカーが、予選上がりのネヴィル・ゴドウィンと対戦中に、ひどく手首を痛めて途中棄権した。

「まだ素晴らしい選手がたくさんいるし、僕も残っているよ」とサンプラスは語った。「だから対戦する相手、自分が成し遂げようとしている事、そして自分のテニスをする事だけに気をもむよ」

セドリック・ピオリーンは、95年の雄々しい敗戦ではベッカーをセンターコートの至る所に追い詰めたが、それを繰り返そうとはしていなかった。サンプラスとの4回戦は再びセンターコートで行われたが、ウインブルドンを支配し始めた雨のため、まる1日延期された。

サンプラスは第16シードのフランス選手に8ゲームしか失わず、 フィリポウシス戦を忘れて2週間で最高の試合だったと言明した。

「リターンは最高だった」と彼は語った。「サーブはそれほど良くなかった(ファーストサーブの確率は52パーセント)が、とても堅実な出来だった。セドリックは非常に才能あるプレーヤーだ。芝生は彼の最も得意なサーフェスではないが、昨年はここでボリスを倒す寸前まで行った。だから彼をかなり納得のいく出来で負かした事は、僕を幸せにしてくれたよ」

ピオリーン戦におけるサンプラス最大のピンチは、第2セットの途中に訪れた。彼はピオリーンの短いショットを追っていたが、勢いを止められず、サイドラインに置かれた椅子に突っ込んでいった。サンプラスは走りながら椅子を跳び越え、テニスボールが納められた大きなコンテナの上に着地した。

「行くべき場所が上方に1つしかなくて、それで椅子を跳び越えてボールの……何と呼ぶのか知らないけど、その上に降りたんだ」とサンプラスは語った。「ほんの少し背中を捻ったみたいだったが、大した事はなかったよ。でも、あれは少しおっかなかったね」

「『うわーっ』って感じで――着地点を探していたよ」

その後サンプラスは連続で11ポイントを勝ち取った。

「それほど悪くなかったようだね」と彼は言った。

*        *        *

「私は何年間もリチャード・クライチェクを待っていた」と、現在テレビ解説者を務めるジョン・マッケンローが男子準々決勝の前日に言った。

彼だけではなかった。

クライチェク、世界最強サーバーの1人である6フィート5インチのオランダ人――時速134マイルの、キャリア最速にして史上第3位のサーブで1996年を始めた――は、過去5回のウインブルドンでは、グラスコートにおける近代で最大の役立たずの1人として、自分の適所を得ていた。

1991年から95年まで、彼は4回戦を越えた事がなかった。その最高成績は93年に挙げたものだった。94年と95年には、彼は1回戦で敗退した。優勝候補とも伝えられる者としては、最高の屈辱だった。96年、ウインブルドンのシード委員会は、彼らならではの独自の判断を下した。13位という世界ランキングにもかかわらず、クライチェクはシードから除外された。しかし本来は7位のトーマス・ムスターが怪我で棄権すると、委員会はクライチェクを非公式な第17シードとして、ドロー表のムスターの位置に入れた。

クライチェクはウインブルドンでの不首尾以外の事でも知られていた。主にウインブルドンでの記者会見である。1992年、女子のプロテニスが話題に上り、クライチェクは、女子プロの大半は「怠け者の太った豚」だと論評したのだ。

彼はまた、怪我をしやすいという特技を持っていた。アンドレ・アガシはその事で彼を揶揄した。オーストラリアン・オープンの3回戦でクライチェクが棄権した後に、彼がしなければならなかった全ては、怪我をするために「テニスコートを見る」事だと言った。

いわゆるアンダー・アチーバー。3つの単語で要約されるロッテルダム出身の24歳の男は、27勝16敗という1996年の成績を引っさげてウインブルドンにやって来た。奇妙にもベストの結果――イタリアン・オープンで準優勝、フレンチ・オープンで準々決勝進出――は、遅いレッドクレーで挙げたものだった。

しかし何かは存在した。準々決勝でクライチェクと対戦するサンプラスは、それを請け合うだろう。彼とオランダ人は4試合の対戦成績を分け合っていたのだ。

だがウインブルドンでの初対戦、サンプラスはそれを強調したがった。センターコートがもたらす要素という望ましい考えを持ち出して。

「誰かが僕にプレーで優らなければならないというように感じている」と彼は語った。

「僕はいいプレーをしていて、あのコートではとても快適だ。そして過去3〜4年にわたり、何度もあのコートに立ってきた。僕を倒すためには、いいプレーをする誰かが必要だ」

クライチェクはその資格を得ていた。彼は4試合を通して89本のエースを放ち、確率は64パーセントだった。2つを考え合わせると、異常に高い数字だった。2回戦でデリック・ロスターニョに勝利した時には、 クライチェクはビッグ・サーバーにはあり得ない数字を叩きだした。20本のエース、ダブルフォートは0回。4回戦で1991年チャンピオンのミハエル・シュティッヒ相手に番狂わせを演じた時には、エースは13本だったものの、ファーストサーブでのポイント獲得率は88パーセントに達した。

サンプラスのような数字を挙げ、クライチェクは2週間でユーロ・サンプラスへの変身を遂げていた。なにしろ、クライチェクもまた、ジュニアの頃に両手バックハンドを手放していたのだ。彼もゴルフ好きで、ロサンジェルス・レイカーズのファンだ。同じくテニス界の偉人、マッケンローをアイドルとしている。そしてさらに、彼の恋人であるオランダのテレビスター、ダフネ・デッカーズは、デレイナ・マルケイのように才女だった。ウェアも同様だった。2人のナイキ契約者は同じウェアを身につけていた。

彼らの試合は当然、ウインブルドンのハイライトになる筈だった。ドロー表の下半分は荒れに荒れて、決勝戦にはノーシード選手、あるいは良くても第13シードのトッド・マーチンが進出してくる運命と思われたのだから。しかしウインブルドンの第2週は、間違いなく雨が、プレーの予定を左右し、その質にも影響を与えていた。

サンプラスとクライチェクは、ウインブルドン第2週の水曜日に登場した。大会中で最もひどい雨のために30分遅れだった。雨が再び降り始める前に、彼らは4ゲームを分け合った。サンプラスはすでに、普段は万力のような握りから6つのブレークポイントを逃していた。

中断は3時間30分続き、その間はウインブルドンそのものが観客を楽しませていた。1番コートでは、ボランティアの案内係を務めるイギリス軍のメンバーが、観客を歌とジェスチャー・ゲームに誘い入れた。センターコートでは本物のショーが展開していた。年老いたポップ・スターのクリフ・リチャード――サー・クリフ――が、ワイヤレス・マイクを付けてロイヤルボックスの後方に現れ、彼のヒット曲のアカペラ・メドレーを歌い始めた。

彼の後ろには元選手のグループが列をなして繰り出し、踊ったりバックコーラスを務めた。その中には元チャンピオンのバージニア・ウェイド、コンチータ・マルティネス、パム・シュライバー・ジジ・フェルナンデスもおり――最後には、大喝采に迎えられてマルチナ・ナヴラチロワも登場した。リチャードは彼女たちを自分の「*スプリームス」と呼んだ。
訳注:アメリカの3人組女性ボーカル・グループ。1959年結成、1977年解散。日本では「シュープリームス」とも呼ぶ。「ドリームガールズ」は彼女たちをモデルとしたミュージカル。

リチャードが彼のセット――「自分がセンターコートでプレーするとは、考えた事もなかったよ」と観客に語りかけた――を終えると、タイミング良く雨が上がり、再び太陽が顔を出した。それは憂鬱な1日の楽しい幕間だった。しかしサンプラスにとっては、間もなくさらに憂鬱な日となった

サンプラスは座って、逃したブレークポイント・チャンスに腹を立てていた。セットの均衡に対してはさらに。今やクライチェクは弾みをつけて、大会通算100本目と101本目のエースで6-5アップとしていたのだ。

しかしサンプラスは、1本のブレークポイントも与えずに5回のサービスゲームを切り抜けてきた。だが6回目のサービスゲームでは、 彼の頭はぐるぐる回っていた。クライチェクがフォアハンドのクロスコート・ウィナー、次にバックハンドのストレートを叩き込み、0 - 40としたのだ。サンプラスはファーストサーブを入れたが、クライチェクはまたしてもフォアのダウン・ザ・ライン・パスを決めて、そのセットに決着をつけた。

以前にもサンプラスが第1セットを失った事はあった。しかし今回の状況は良くないようだった。彼はかつての敗北主義者的な足どりの兆候――フレンチでカフェルニコフに対して陥ったような――を示し、好ましい様子ではなかった。まだ試合の序盤だったとはいえ。

彼らは第2セットを始め、3ゲームはサービスをキープし合った。クライチェクの2-1アップとなった後、雨が戻ってきて2回目の中断となった。中断は1時間40分にわたった。再開後、試合は6-6まで均衡を保ち、5-6のサービスゲームでは、サンプラスはバックハンドのボレーウィナーでセットポイントを1本逃れていた。クライチェクはアウトだと主張したが。

タイブレークに突入すると、クライチェクは2本のエース、鮮やかなバックのパッシング・ショット、そしてサンプラスのダブルフォールトで、立て続けに5ポイントを連取した。サンプラスは5-3まで戻したが、それから彼が得意のグラウンドストローク――ランニング・フォアハンド――をワイドにミスし、クライチェクに6-3のセットポイントを与える事になった。

サンプラスはサーブを打ち、ボレーをしようとした。しかし、またしてもストレートにバックハンド・リターンを打たれ、手も届かなかった。セットはクライチェクの手に渡った。

第3セットで2ゲームを分け合った後、さらにもう1回、雨による中断が訪れた――しかも、大会110年の歴史でも最も奇異な事故が加わった。

グラウンド整備員は、ものすごいスピードでコートをカバーすべく大いに訓練されているが、センターコートに駆け込んできて1列に並び、防水布を引っ張りながら芝生を後ろ向きに走るという、何回もリハーサルされた儀式を始めた。1人の整備員が滑って転んだ。手続きに従って――ウインブルドンでは手続きが全てである。芝生の維持管理に関してさえ――カバーリングは続けられた。転んだ整備員はカバーの下から這い出て、防水布を確保し続ける義務を要求されていた。

しかし防水布の下の目障りなこぶが示すように、マーク・ヒラビーは動いていなかった。観客が静まりかえる中、整備員たちはカバーを持って戻った。倒れたヒラビーが弱々しく片手で合図して、助けを必要としている姿が露わになった。

彼は頭を打っていた。コートサイドに防水布を留め付ける重い金属クリップの1つが当たったと言った。ヒラビーは担架でセンターコートから運び去られ、近所の病院で検査を受けた後に解放された

担架を待つ間に、小雨がセンターコートを濡らした。ヒラビーのおかげで半分が開いたままだったのだ。

従って、雨は間もなく上がったが、プレーは再開できなかった。その時点でのサンプラスの苦境を考えると、恐らく良かったのかも知れない。ヒラビーはサンプラスにかなりのポンドを賭けていたので、飛び込んだのだろうという冗談が広まった。

サンプラスは家へと向かった。23本というクライチェクのエースの嵐から快適さを求めて――彼のエースはわずか5本だった。

マーク・ヒラビーに恵みあれ。

木曜日は7月4日でアメリカ独立記念日だった。そしてサンプラスは若干の花火と共にプレーを始めた。30オールから連続エースで3-2リードとし、彼の足取りには霧深い昨晩よりもほんの少しバネが戻っていた。

しかし第7ゲームで、サンプラスはぐらついた。30-15からのサーブで、彼はダブルフォールトを犯した。クライチェクのインサイドアウト・フォアハンドが、ネットコードの助けでウィナーとなった。ブレークポイントでは、自信なさげなサンプラスはサーブをレットし、そしてフォールトになった。セカンドサーブには何の非凡さもなく、リターンされた。再び、バックハンドのダウン・ザ・ラインへのウィナーで。

クライチェクはラブゲームで――さらに2本のエースで――キープし、5-3とした。サンプラスもキープし、それから最後の抵抗に向けて気を引き締めた。

最初のポイント、セカンドサーブへのスイングで、次にバックハンド・パスで、サンプラスは彼曰く手掛かりを得た。だがそれは長かった。数インチ。気をよくしたクライチェクはサーブを打ち、 冷静なフォアハンドのドロップボレーで30-0とした。

以下のように進んだ。デュースコートへワイドに30本目のエース、サンプラスの脇を通り抜けた31本目のエース。彼はアウトだと思ったが、申し立てる気はなかった。

この日、1ポイントでは何も変わらなかったのだ。

終わった。ウインブルドンでの25試合連続勝利、増大する神秘性、偉大なるボルグの追跡――すべては消え去った。後にサンプラスは、コート上でと同じくらい打ちのめされた様子に見えた。

「このような試合では、相違はそれほどない」と彼は語った。「僕は1インチのところで第2セットを取り損ねた。試合最初の2ゲームでは、たくさんのブレークチャンスがあった。僕は大事なポイントを勝ち取れなかった。そして彼はリターンもパスも、僕が思っていたよりずっと見事だった」

わずかな差? 極めて小さいと言おう。クライチェクははるかに優っているように見えたが、実際のところ試合は2回のブレークと、サンプラスは7つのブレークチャンスを1本もものにできなかったいう事実を表していた。

サンプラスのパレードに雨が降ったという事実も、助けとはならなかった。彼は中断に悩まされたが、クライチェクは上手く対処したと認めた。

「試合に入り込んでいるように感じられなかった」とサンプラスは語った。「散発的に中断となり、リズムを掴めなかった。厳しいコンディションだったが、リチャードには脱帽するよ」

「(最初の2セットを失った後)僕は落ち込んだ。もちろんガックリしていたよ。だが戻ってきた時には、僕はまだ試合にいるんだと、かなり良い心構えだった。彼は良いショットを2本ほど打って僕をブレークし、そして素晴らしいビッグサーブを打っていた。それが全てだ」

さらに、恐らく心の緊張を解消するため(cathartic カタルティック)の自認だろうが、サンプラスは3回のチャンピオンが瀬戸際に立たされているというプレッシャーを感じたと語った。「彼には失うものがなかった……僕はより緊張して、大いにプレッシャーを感じていた」

クライチェク――その後、準決勝でジェイソン・ストルテンバーグを、決勝でマル・ワシントンを、サンプラスに対した時と同様に圧倒した――は、第1セット2-2での雨による最初の中断が、自分を落ち着かせてくれたと語った。

「恐らく最初の4ゲームだけは、ピートの方が僕より優っていたと思う」とクライチェクは語った。彼はグランドスラム・タイトルを獲得した初のオランダ人となり、85年のベッカー以来、ウインブルドンで優勝した初のノーシード選手だった。

「最初の4ゲームでは、僕は少し神経質になっていた。センターコートに立ったのは3年ぶりだったし。あの夜は一晩じゅう、僕は2セットアップしているんだと考えていたよ。それで何らかのプレッシャーを感じていた。だがプレッシャーは(本当は)彼の方にあったんだ。この試合まで、僕たちの対戦成績は2勝2敗だった。そして自分が彼を倒すのは可能だと承知していた」

対戦成績でサンプラスを上回っている者は殆どいない。クライチェクは彼自身のスタイルでサンプラスを負かしてきた。「僕が攻撃し続ければ、彼はミスをし始めると気付いている」とクライチェクは語った。「彼は見事なパッシングショットを打つ事もできるが、とにかく彼を攻撃し続けなければならないんだ。彼はとても支配的なプレーヤーだからね。もし僕がステイバックすると、彼は僕をあちこちへと動かし始め、プレッシャーをかけてくる、そして僕にはチャンスがなくなると感じている。彼にパッシングショットを打たせ、プレッシャーをかけるためには、僕は大いに前へ詰めなければならないんだ。そうしないと、彼は襲いかかってくる」

ピート・フィッシャーは、カリフォルニアの自宅のテレビで試合を見ていた。そしてフレンチでカフェルニコフと対戦した時と同じく、ピート・サンプラスは「見せつける」事に失敗したのが分かった。

すべての事が信じられないほど容易くしぼんでいった。その後のサンプラスの声には、諦めの響きがあった。非常に厄介な兆候。

「ただそれが滑り落ちていくように感じられた」と彼は語った。「僕の時は去ったと感じたよ」

前年のように、トム・ガリクソンは観客席から見守っていたが、沈黙を保っていた。今回は「ピストル」の激励はなかった。前年には大いに助けとなったガリクソンの声は、発しないままの方が良かったのだろう。

「私は喋りすぎる事を望まなかった。何も引き起こしたくなかったのだ」とトムは語った。

*        *        *

ガリクソンの死後、サンプラスは自分自身を頼りすぎているように見えた。感情に任せていると、すぐに空っぽになってしまう。

「彼は確かに、今でもその影響を受けている。間違いなく」とトム・ガリクソンは語った。

残された兄弟がそうであるように。もしティムが生きていれば、1996年ウインブルドンはガリクソン兄弟にとって祝典になる筈であった。ティムは95年の大会を欠席していた。選手あるいはコーチとして20回目のウインブルドンだった。

しかし96年は、トムにとって20回目のウインブルドンであった。

「昨年は欠席したから、20回目のウインブルドンを一緒に祝う事ができる、とティムは言ったよ」と大会中にトムは語った。「それはできなかったが、彼は心の中で私と一緒にいる。私はここで彼の存在を感じる事ができる。ウインブルドンは常に彼のお気に入りの大会だったからね」

精神的な痛みを別にしても、クライチェク戦での不首尾、そして96年シーズン全体を通したむらのある結果には、より直接的で明白な理由が見いだし得るとトムは考えていた。

「ウインブルドンでピートと少し話をした。あそこで、あるいはどんなメジャー大会でも、優勝するカギの1つは良い準備だと。そしてピートは96年の(USオープン前の)メジャー大会では、適切な準備ができなかった」とトムは語った。

「オーストラリアンでは、彼はリバウンドエースで試合経験が持てなかった。病気にもなった。だからコンディション調整がつかず、フィリポウシスに放り出された。そしてフレンチの前には、ティムが危篤状態だった」

「しかし彼がウインブルドンで負けるとは、誰が予測しただろうか?」とフィッシャーは疑問を呈する。

「私はしなかった」

サンプラスもしなかった。

「ここはずっと僕にとって良い場所だった」とサンプラスは語った。「過去3年間、僕は多くの接戦にも勝ってきた。今回はそうならなかった」

「受け入れるのが難しい時もある。僕はウインブルドンや他のすべてのメジャー大会に、とても力を入れてきたから、このような敗戦を乗り越えるのは難しい。だが常に勝つというものではない。僕にとって今回のケースはそれだった」

「いつだって僕の夢は、ウインブルドンで一度優勝する事だった。3回連続で優勝するなんて、予想した事もなかった。それはただ起こったんだ。だが恥ずべき事は何もない。僕は今年、かなり良いプレーをしたと感じて去る事ができる。僕は勢いに乗った、そして素晴らしいプレーをした選手に当たったんだ。芝生でそのような誰かに負ける事……時にはそれを受け入れなければならない」

「世界の終わりという訳ではないよ」