第5部:ウインブルドン
第21章 疾走(2)


1995年6月には、ウインブルドンはとりわけ待ち望まれる場所だった。物事はある時点で改善されるべきだった。そして多分、ここがその場所なのだろう。サンプラスはそう望んでいた。

ガリクソンが癌の診断を受けてから6カ月が経過していた。サンプラスがフレンチ・オープンの1回戦で敗退してから3週間が経っていた。その後、彼は未だかつてないほど落ち込んでいた。ランキングは彼が今でも世界ナンバー2の選手だと告げてさえ。アガシの次。

「僕はフレンチで負けて、タンパの自宅に戻った。家の中に入り、バッグを下ろし――そして、ただただ意気消沈していた」とサンプラスは語った。「そんな風に感じたのは、記憶する限り人生で初めてだった。僕は落ち込んでいた。その年は上手く行ってなかった。あの時点では、本当に坂を転げ落ちているみたいだった。オーストラリアンの決勝戦で負け、ティムの病状に直面し、クレーでは上手くプレーできなかった……」

「長年の間、僕の人生は整然としていた。それから突然、親友の人生(終わりに向かっているかも知れない)に対処する必要に迫られていた。(診断の)後の2〜3カ月は、感情的にとても辛かった。何が起こっているのか、それがどれほど深刻なのか、誰もよく分かっていなかったからね。現在、彼は治療に臨んでいて、とても順調だ。彼がツアーに戻れるといいね。だが今はもちろん、彼の健康状態が最もたいせつだ。僕はできる限り彼をサポートしようと努めている」

ガリクソンにできる事は、電話でのコーチングに限られていた――「僕たちは週に3〜4回、僕のテニスについて、そして人生全般について話し合っている」とサンプラスは語った――が、サンプラスの精神状態を整えていた。どうにかして、彼はサンプラスを立ち直らせた。ちょうどウインブルドンに間に合った。

「僕は新しい心構えでウインブルドンに行く必要がある、とティムは言ったんだ」とサンプラスは振り返った。「僕は決勝戦まで進み、オーストラリアンでは順調にやった。フレンチではそうでなかった。だが僕にはもう2回チャンス――ウインブルドンとUSオープン――があり、それが僕の1年を救ってくれる。それが彼の受け止め方だった」

「なんと皮肉な事か。ティムは自分の人生を懸けて戦っていたのに、僕よりも良い心構えだったんだ」

何かがカチッと音を立てた。サンプラスはロンドンに飛び、そしてクウィーンズ・クラブでシングルスとダブルス両方に優勝した。トッド・マーチンが彼のパートナーで、珍しいダブルス出場だった。

「僕はクウィーンズでまったく新しいスタートを切ったんだ」とサンプラスは語った。

彼のウインブルドンの始め方は新しかった。そして異なっていた。サンプラスが1回戦で引き当てたのは120位のカールステン・ブラーシュだった。七色のスピンを持つ男、喫煙するアスリート――彼はチェンジオーバーでタバコに火を付けたものだった――そして飲酒をし、2度続けて同じショットを打つ事はない。

「彼との対戦は苦痛だ」4セットで勝利した後、サンプラスはにやりと笑って言った。最初の2セットはタイブレークを分け合い、2セット目はブラーシュに行った。

「第2セットを失った後は、とても幸せって訳にはいかなかったよ。落ち着きを取り戻す必要があった。第3セットで彼をブレークするまで、僕はリズムを掴んでいなかった」

イギリスの期待を背負ったティム・ヘンマンと2回戦で対戦したストレートセットの勝利、そして4セットかかった3回戦でのジアード・パーマーとの再戦でも、落ち着きとリズムはまだ欠けていた。少なくともこんな風に見えた。それは恐らく、サンプラスの出来は永遠に、94年を規準として測られるからであろうと。

卓越の代償である。

「うん、もし誰かに対してセットを落とすと、突然みんなは僕が危ういと思うんだ」と彼は語った。「でも芝生では、僕は母親に対してだってセットを落とす事もあり得るんだよ」

まあ、恐らく彼の姉、ステラになら。彼女は1988年の NCAA ダブルス・チャンピオンで、UCLA(カリフォルニア大学ロサンジェルス校)で監督を務めている。しかしサンプラスの馬鹿げた言葉は当を得ていた。芝生は物事を同等にするのだ。たとえ世界最高のプレーヤーが関わっていても。

「僕は(パーマーに対しては)素晴らしいスタートを切らなかった」と彼は語った。「だが大会を通じて、自分のフォームは向上していくと思っているよ。これが、今のところ望んでいる状態だ。それなりに上手くプレーする事。でも確かに、改善の余地はある」

スタートを切る完璧なタイミングが4回戦のグレッグ・ルゼツキー戦でやって来た。彼もサドルブルックでトレーニングをしており、顔を合わせた時には、サンプラスとヒッティングをしていた。

ルゼツキーはテニス界の最速サーバーで、今や彼はイギリス人となったため、3回の勝利を挙げただけでウインブルドンの観客を味方につけていた。

生まれはカナダだが、長年イギリスのパスポートを保有――彼の母親はイギリス人である――し、ルゼツキーは最近になってイギリス国籍を取得して、デビスカップ・チームに選ばれる資格を有したと宣言した。世界60位の彼は、ただちに帰化した国のナンバー1になったのだ。彼がウインブルドンの直前に国籍を変更したという事実は、計算ずくと見えた。明らかに。

そしてルゼツキーはウインブルドンにやって来て、イギリス人らしく振る舞うため最善を尽くした。些細な言葉遣い――たとえば「telly(テレビ)」――が、スピーチに交じるようになった。センターコートで勝利を挙げた後、彼は巻いていたユニオンジャックのヘッドバンドをほどき、観客を煽動するように振り回し始めた。同時に、タブロイド紙はそれに食いついた。人によっては、ルゼツキーが既に2度ウインブルドンで優勝していると思っただろう。彼が対戦しようとする男ではなく。

大会中、ロッカールームでのルゼツキーは受けが良くなかった。誰もが飽きたようだ――素早く――彼のニュースを聞く事に。誇大なでっち上げを終わらせるチャンスが巡ってきて、サンプラスは3セットでそれを実行した。それからルゼツキーのやり方に、さらに2〜3の砲火を浴びせた。彼をサーブ以外は「ごく平凡」で、「彼のゲームには穴があり、改善すべき事柄がある」と評して。

「僕にも多くのチャンスがあると感じたが、重要なポイントの大半はピートが取った」とルゼツキーは語った。「それが、彼が世界ナンバー1であり、2年連続でこの大会に優勝した理由なのだろう」

準々決勝へと進み、他の出来事のために、サンプラスは再びメディアの注目とプレッシャーから解放されるという恩恵に浴した。

アンドレ・アガシはスムースに勝ち進み、ウインブルドンでは常に歓迎されていた。バンダナ、イヤリング、顎髭の揃った「アガシ・キット」が子供たちに配られた。ボリス・ベッカーも頑強に見え、そしてまだ誰をも悩ませていなかった。それはビッグニュースだった。女子のサイドでは、チャンダ・ルビンが女子の大会史上最長試合、58ゲームでパトリシア・ヒー - ボーラスを破った。

そしてジェフ・タランゴは?

大会第1週の土曜日、タランゴはライン判定でもめて試合を途中放棄した。そして主審のブルーノ・ルボーを「テニス界で最も不正な役員」と呼んだ。タランゴは試合後の記者会見に臨み、ルボーはこれまで、特定の選手たちが試合に勝つよう肩入れしてきたと主張した。ルボーはタランゴ夫人にも遭遇した。ベネディクトという名前の激しやすいフランス女性。彼女はルボーに平手打ちを喰らわせ、それから記者会見に出席し、問題に介入し続けた。結果として、合計15,500ドルの罰金と1年のウインブルドン出場禁止が申し渡された。

サンプラスは準々決勝で、もう1人のサドルブルック利用者で日本のトップ選手、 松岡修造と対戦する事になった。試合には興味深い付随事項があった。松岡の当時のコーチはアルバロ・ベッタンコだったが、サンプラスがサドルブルックでトレーニングをする時、頻繁にヒッティングをするのは誰とか? そう、ベッタンコである。サンプラスと松岡もまた、一緒に練習していた。

ベッタンコはサンプラスのゲームについて何かを知っていたに違いない。松岡は第1セットをタイブレークで取り、セカンドセットでも4-3リードの場面で3本のブレークポイントを握ったのだから。結局サンプラスは4セットの勝利で逃げ切った。以後、ベッタンコはインサイダー情報説についてコメントはしないだろう。後に、彼はサンプラスを怒らせたくなかったと釈明した。

準決勝ではまたしてもゴラン・イワニセビッチと対戦したが、94年の決勝よりも遙かに競い合うものとなった。ぎりぎりの大接戦で、サンプラスがトータルで1ポイント多く――146対145――勝ち取り、5セットでの勝利を収めた 。

より多いセットは、より多くのエースを意味した。イワニセビッチが38本、サンプラスが21本だった。試合の高い質を示す最良の例証はファーストサーブの確率だが、サンプラスが63パーセント、イワニセビッチは61パーセントだった。

素晴らしい戦いだったが、良き事を破壊するのはイワニセビッチに任せよう。それ以来の決まり文句となったが、彼は敗北を「不運」のせいにした。第1セットのブレークポイントでサンプラスのボレーがネットに触れてインとなった他には、この試合に運は関係なかったように思われた。しかしイワニセビッチの見解は違った。

「俺がブレークポイントを握るたびに、俺は良いショットを打ち、そして彼には何らかの運があった」とイワニセビッチは語った。「よく分からないが……ミスヒットか何かが」

この試合は2人が対戦した92年の準決勝に似ていた。1つの例外を除いて。今回、サンプラスはエラーとエースの山を受け入れて、イワニセビッチが崩れるのを待った。長い目で見れば、彼のやり方もぐらついてくると考えたのだ。

「ゴランと対戦するのは、いわばジェットコースターに乗っているようなものだ」とサンプラスは語った。

「恐しいジェットコースター。彼は途轍もない、テニス界最強のサーブを持っている。恐らくテニス史上で最強の。僕はただ可能な限りそれをリターンして、彼が1ゲームで2〜3本のエースを打つ事に落胆しすぎないよう努めたんだ」

サンプラスは勝利の後、アガシとベッカーによるもう1つの準決勝の結果を待ち受けた。そして彼の「シューズメーカー仲間」が抜け出すだろうと予測していた。アガシはベッカーに対して、5年間で8連勝していた。彼が第1セットを取り、第2セットでも4-1リード――2ブレークアップ――とした時、ドリーム・ファイナル、「90年代のライバル関係」がついに復活するのは確実と思われた。

それから、突然ベッカーは戦略を変えた。わずかな調整だった。彼は攻撃一辺倒の戦術を断念し、ベースラインからもう少しアガシとラリーをし始めたのだ。ベッカーはネットへ攻撃する機会を選ぶようになった。アガシのショットは、しばしばネットに掛かるようになっていった。

ベッカーは挽回し、1ポイントを失っただけで、第2セットをタイブレークで勝ち取った。それから彼は最後の2セットを6-4、7-6で奪い、勝負をつけた。2回目のタイブレークでは、またしても1ポイントしか失わなかった。

「僕はいつも(ネットにいて)彼に標的を与えていると思ったんだ。それはアンドレが大好きなものだからね」とベッカーは語った。「人生において、芝生のコートでこれほど走り回った事はないと思うよ。確かに、ベースラインからは彼の方が僕よりも少しばかり上手いだろう。だが僕だって彼とやり合えるつもりだ」

「あのリードが消え去るまでは、すべてが順調だった」とアガシは語った。「僕は2セットを先取できると感じていた。それから彼は逃れ、そして結局のところ、彼はレベルを上げ、僕はレベルを上げられなかった」

アガシがベッカーに代わったが、彼も決勝戦でセンターコートの観客に心地よい存在となるだろう。11年前、彼は17歳で初めてのタイトルを獲得していた。彼がドイツ人である故にイギリスのメディアから突飛な攻撃を受けようとも、彼の人気とファンは永遠に結びついているのだ。さらに2回の優勝を重ねるにつれて、彼はセンターコートを自分の庭として語るまでになった。「僕はあそこで成長してきた」と彼は言った。やがて、彼はほぼ皆に迎え入れられ、彼がウインブルドンに対して抱く親近感は、ボルグのような神秘性を帯びた。

95年、彼が4時間、5セット――第5セット9-7――の準々決勝でセドリック・ピオリーンを退けた時にはその魔法が戻ってきて、アガシを呑み込んだ時にも留まっていた。

「劣勢にある時でも、僕には(ウインブルドンで)チャンスがある」とベッカーは語った。「ウインブルドンでは僕を過小評価すべきでない」

サンプラスはしないだろう。テニスの歴史に対する彼の敬意は、その助けとなった。ベッカーは1989年以降はこの大会で優勝していないが、今でもある意味で、ウインブルドンにおけるみんなのチャンピオンという座を保っている、と彼は認めていた。ベッカー――彼はナンバー1の座に就いた1991年以降、グランドスラム大会の決勝に進出していなかった――は、ジョン・マッケンロー、ジミー・コナーズといった前の時代を終わらせた男だった。

決勝戦でベッカーを破る事によって、サンプラスはウインブルドンを真に自分のものにするという、もう1つの結末を提示できた。そしてまた、再び、彼が真にオール・イングランド・クラブのエリートに属するという事を人々に納得させ得た。94年の大会では、サンプラスは観客を甘やかしたのだ。95年、彼がブラーシュ、パーマー、松岡にセットを落とした時、ウインブルドンの死亡記事が準備された。

「僕は今でも、芝生ではかなりタフだと思うよ」とサンプラスは準決勝の後に語った。「昨年はすべてがとても順調に行き、僕は申し分のない相手と対戦して(容易に勝利して)いたのに対して、今年はかなり苦労した。だが、それでも僕は勝ってきた」

ベッカーはアガシを破った後、自分のゲームは「10年前より良くなっている。もし(当時)バックコートからあれほどプレーしなければならなかったら、無理だっただろう。僕にはストロークがなかったし、(走り回る)足もなかった。今でもサーブ&ボレーをするし、劣勢の時でも踏み止まる事が可能だ」と述べた。

「これは僕にとって何を意味するか? 何を言える?」

3度目のタイトルへの欲求について訊かれた時、サンプラスは言う事ができた。「僕は飢えきっている」と。

ベッカーの返答。「2人の飢えた少年が対戦しようとしているみたいだ」

しかしながら、飢えと欲求は、決勝戦に何の影響もなかった。試合は2人の偉大な選手を披露する一方で、ベッカーがテニス界に躍り出てパワーゲームを見せつけてから、テニスがどれほど変化したかを示すものだった。そして今、そのゲームは彼をも越えていった。

ベッカーは良いプレーをした。サンプラスはさらに優れたプレーをした。エースで23対16、ウィナーで88対68と上回った。6-7、6-2、6-4、6-2で勝利する間、サンプラスは1回もブレークポイントに直面しなかった。

「ピートが本当にサーブを好調だと感じている時には、ファースト、セカンド両方のサーブで勝負してくる」とベッカーは語った。「それが問題だった。僕には適切なリターンがなかった」

「今は(10年前とは)全く異なったゲームだ。そして自分が両方(の時代)でなんとか上手くプレーできたのは嬉しい。自分の子供たちに話してやりたい経験だ」

ベッカーがウインブルドン決勝に到達する事は、もうないかも知れない。彼とセンターコートの後援者いずれにも失念されていた現実。決勝戦後の式典に出席するのはこれが最後になるかも知れないと、恐らく感じ取ったのだろう。ベッカーはチャンピオンから記念すべき瞬間を奪い取った。残念賞。

ベッカーはロイヤルボックスのダイアナ妃に、素速く、陽気に手を振った。それから、サンプラスがトロフィーを掲げて歩き回った後に、ベッカーは観客の要請に応えて、小さめの準優勝プレートを手にしてコートの周りを足早に巡った。敗者がこれをした前例はなかった。

感動的な場面だった、確かに。だがサンプラスと彼の支持者にとっては、収まらない理由があった。大きかったのは拍手喝采の不公平さだった。サンプラスへの喝采は限定されていて、儀礼的だった。それは無礼だと言うべきだろう。

観客はベッカーに目を眩ませられ、彼らの曇った視界の前に展開したその時、素晴らしい物語に、気付いていなかった。

もし彼らが見守ってさえいれば。本当に見えたのだ。さらに、ただ彼らが耳を澄ませていたら、聞いただろう。ポイントの間に聞こえる1人の、ただ1つの声を。彼の本質の深いところにある何かの引き金を引く事で、サンプラスを駆り立てていた声を。

だがその時は、それを聞いた人々にとってさえ、恐らくその意味はよく分からなかっただろう。

「カモン、ピストル」

サンプラスにとっては、それがすべてだった。

その声はガリクソンから発せられた。

病に倒れた方ではなく、双子の兄弟、トムから。彼はファミリーボックスの後方に座り、センターコートの片側を見下ろしていた。駆り立てる彼の声は静寂を分け、スタジアムの向こう側に撃ち込まれ、そして跡をつけた。哀れなベッカー。世界で最も偉大なプレーヤーがこのような激励を得ては、彼にはチャンスがなかった。

「ティムの声のように響いた」試合後、イリノイ州の自宅にいるティムへ電話をかけた後に、サンプラスは静かに語った。

「トムは素晴らしい友人で、僕たちは共にとても公な形でティムの病状に関わってきた。トムはこの2週間そばにいて、僕のテニスを助けてくれた。だが彼がここにいてくれる事、彼のサポートを受ける事だけで、コート上でとても良い心地だった。『ピストル』と呼ぶ声を聞いた時、僕はそれが彼だと分かった」

「いつピートがそのニックネームを聞き取ったかは、よく分からない」とトムは語った。「だが彼は確かに引き金を引いた」

すべてに渡る、たいそう多くの感情。多くの慈愛、両者の、特にベッカーの。

「ピートが成した事は、驚くべき偉業だ」とベッカーは語った。

「昨年の彼の試合を見たが、本当に簡単そうだった。もしウインブルドンの優勝を簡単と呼べるならば。だが今年は、彼は苦闘しなければならなかった。彼はあまり良いプレーをしておらず、多くの試合で挽回しなければならなかった。それを上手くやれるという事は、本当に、本当に特別な何かだ」

その場にふさわしく、サンプラスは語った。「この勝利をティムに捧げた。彼は正真正銘のチャンピオンだからだ。彼が病気に立ち向かう様には、多くを教えられる。試合が終わるたびに彼と話をした。フレンチ・オープンで負けた後、彼は僕に挑み続けてくれ、そして自分のために『3ピート』を勝ち取ってくれと励ましてくれたんだ」

1995年後半、ウインブルドンに続いて3回目のUSオープン優勝を果たし、そしてデビスカップで合衆国を率いた後に、サンプラスは振り返ってウインブルドンを触媒と呼んだ。

「ウインブルドンは僕の1年を救ってくれた」とサンプラスは語った。「決勝戦の最中に『僕は3年連続優勝を果たす事で、歴史を作るんだ』と考えたのを覚えているよ」

敗れたベッカーが、最も上手く言い表した。

「かつてセンターコートは僕のものだった。……だが、今はピートのものだ」