第5部:ウインブルドン
第21章 疾走(1)


今やサンプラスはついに優勝候補としての地位を確立し、今度はイギリスのマスコミが腰を据えて、注意を払い、そして攻撃する番だった。それが93年ウインブルドンにおけるサンプラスの記憶である。彼の公的な人格が非難を受けたのだった。それは基本的に存在しなかったが、彼が常に持っていた同じ人格であった。

彼が潜在能力を発揮し、非常に厳しかった1試合――前回優勝者のアガシに5セットで勝利した準々決勝――を含めて、ドローを勝ち上がっていこうとも、大した事ではなかった。その試合は、かつてサドルブルックで練習仲間だったクーリエと対する決勝戦への途上で、唯一の障害だった。クーリエはこの一度だけ、自分のフォームをグラスコートの上に見いだしていた。

サンプラスは伯仲した4セットで決勝戦に勝利し、今でもアガシに夢中の国で、一度も受けた事のない称賛を待ち受けた。アガシは最近の世論調査で、イギリスのご贔屓アスリートに指名されていた。アガシの新しい交際相手、女優のバーブラ・ストライザンドが見守る中、準々決勝でサンプラスはアガシをフルセットの末に下した。

「ウインブルドンで最も人気のない男である事について、どう思うかい?」その後、1人のイギリス人レポーターがサンプラスに尋ねた。

1984年にマッケンローがコナーズを破って以来、オール・イングランド・クラブにおける初のアメリカ人同士の決勝戦は、サンプラスが放った22本のエースと、センターコートの一部観客が示す無関心ばかりが目立った。

ダイアナ妃は除外される。彼女は3時間近い決勝戦を通して、熱心にサンプラスを応援していたのだ。彼女が応援していたと聞き、サンプラスはとても素敵だと考えた。

「きっと彼女は僕にまいっちゃったんだね」と彼は言った。

残念ながら、タブロイド紙はそうでなかった。決勝戦のレポートは、現在に至るまでつきまとう簡潔なレッテルをサンプラスに貼り付けた。

スラム大会は全面的に取り上げられていた。「ピート Samprazzzz;独立記念日の退屈」と、デイリー・ミラー紙の見出しが踊った。

「テニスはもはや快い音楽ではない」と、デイリー・テレグラフ紙のコラムニストは書いた。「パワーがその精神を堕落させた」と。

二日酔いの攻撃は2つの事をした。第1に、それらはサンプラスから――そして幾分はクーリエからも――2週間の上首尾に対する正当な称賛を奪った。第2に、テニススターの質を決定するに際し、サンプラスの個性、および個性の重要性についての議論を引き起こした。以上。

サンプラスは右肩の腱炎による痛みを克服し、彼のゲームにかなり有利なサーフェスで長年の友人と対戦していたが、この試合では、かつてないプレッシャーを感じていた。

「芝生ではジムに対してチャンスがあると考えていた」とサンプラスは語った。「ウインブルドン決勝戦で負けていたら、乗り越えるには多分6カ月か1年を要しただろう」

サンプラスが90年USオープンで初のメジャータイトルを獲得してから、ほぼ3年が過ぎていた。時が経つにつれて、それはますますまぐれ当たりのように見えていた。

92年のオープン決勝でサンプラスがステファン・エドバーグに敗れてから、10カ月が過ぎていた。その敗北はサンプラスを押しつぶし、彼につきまとった。まさに、彼がクーリエに対する2回目のマッチポイントをものにするまで。ついに、彼は解放された。

もしクーリエに負けていたら、自分のキャリアは急落していただろうとサンプラスは考えている。

「自分にかけていた重責は甚だしいものだった」と彼はニューヨーク・タイムズ紙に語った。「その日、僕はものを食べられなかった。前の晩は眠れなかった。92年USオープンは僕に、誰も準優勝者など気にかけないと教えてくれたよ」

クーリエは、2回連続でメジャー大会の決勝に敗北し、それを学ぶ事になっていた。
数週間前、彼はフレンチ・オープンでセルジ・ブルゲラに敗れて、3年連続でタイトルを獲得する事に失敗したのだ。肯定的に捉えれば、彼はオーストラリアン・オープン優勝で1年を始め、これまで行われた93年のグランドスラム3大会すべてで決勝戦に達していた。

「僕は負かされたんだ」とクーリエは言った。

彼の前に、準決勝でボリス・ベッカーが語ったように。そしてその前には、バーブラが落胆した事にアガシもまた。サンプラスは最大の大会で優勝し、ピート・フィッシャーの信仰を実証するために、ベストの選手たちを倒していた。

しかし多くの者にとって、それは充分ではなかった。彼らはグラウンドストロークの派手さを求めていた。サンプラスは敬愛してきた偉大な選手たちの伝統にのっとり、卓越のみを提供したのだ。93年ウインブルドンが終わって、彼のスタイルに関する論議が再燃した時に、偉人たちは擁護に乗り出した。

「彼のサーブをリターンできないのは退屈かも知れない。しかしピートを退屈だと言うべきではない」サンプラスの模範であるレーバーは語った。彼は恐らくサンプラスへの批判を、幾分かは自分へのものと受け止めたのかも知れない。そして当然ながらそうであった。

「我々はピートの能力、そしてその能力を我々に披露しているという事実に敬意を表するべきだ。ピートは彼自身が退屈なテニスをするという濡れ衣を着せられてきたのだ」

「テニスはもっと多くのカリスマが必要だとする人々には同意しない」とフレッド・ストールは語った。「ピートは世界ナンバー1選手になったが、基本的に同じ人間であり続けている」

「僕はコート上できまり悪い思いをしたくない」とサンプラスは語った。「あそこで自分の感情を見せるのは心地よくないんだ」

「ピートの性格には多くの面があると思う」とジャーナリストのサンドラ・ハーウィットは語った。「ツアーに参加する時点で、選手の多くは子供なのに、皆は(テニス以外の事にまで)多くを期待しすぎているわ」

「多くの人はピートを退屈だと誤解している。彼はステファン・エドバーグと同じイメージ状況におかれていると思う。ステファンは素晴らしい、イギリス・スタイルの辛辣なユーモア感覚を持っている。ピートもそんな感じだわ」

*    *    *

1994年、サンプラスはディフェンディング・チャンピオンとしてウインブルドンに戻ってきた。93年4月に初めて世界ナンバー1の座に就いてから、その地位は盤石なものとなっていた。

彼は初のウインブルドン・タイトルを獲得した後、フレンチの準々決勝でクーリエに敗れるまで、93年USオープンと94年オーストラリアン・オープンに続けて優勝していた。彼を好きであろうとなかろうと、皆がピート・サンプラスにより馴染んできていたのは明白だった。

ウインブルドンは1年の中間に開催されるが、その年サンプラスはキャリア最高の10タイトルを獲得し、他の2大会では決勝で敗れた。年末には、怪我でウインブルドンに続く夏をふいにした――足首を痛めたために6大会を欠場した――にも関わらず、1年を通してナンバー1の座を守り通した。これは87年のレンドル以来の事だった。また年間10勝を挙げたのも、89年のレンドル以来だった。

退屈な男にしては悪くなかった。

今やサンプラスは4つのグランドスラム・タイトルを保持していた。偉大なオーストラリア選手の話をするだけでなく、彼らと同じ場所へと歩んでいた。

「サンプラスのような若者が我々を認めていると知ると、我々はみんな非常に誇らしく感じる」とストールは語った。「現在サンプラスは、ゲームの歴史を熟知しているごく少ない選手の1人だ」

「彼らはツアーの基礎を作り上げたんだ」とサンプラスは語った。「称賛に値するよ」

「憂鬱なロボット」――93年にイギリスのある新聞がサンプラスをそう呼んだ――もまた、そうであった。ウインブルドンでの前進を含む、彼が進行させているプロジェクトに対して。サンプラスが早期に抱いていたグラスコートについての疑念――「僕は不当なサーフェスだと思っていたよ」と彼は言った――は、チャンピオンの自信に代わっていった。94年ウインブルドンの初試合で証明されたように。

サンプラスと同国人でタンパに住むジアード・パーマー――彼の一家は、 ジュニア育成のメッカとして知られる「パーマー・テニス・アカデミー」を運営している――は、センターコートで大会のオープニング・マッチを演じる栄誉に浴した。パーマーは NCAA(全米大学体育協会)の元シングルス・チャンピオンで、世界トップのダブルスプレーヤーの1人だが、サンプラスを小型化したような選手だ。彼のゲームはクラシックで、サンプラスよりスマートでさえある。しかし彼は全体的なパワー、トップ10選手に必要とされる印象的な武器に欠けている。パーマーが行うのは非常に上手くすべてのボールを打つ事であり、さらに彼はほぼ誰よりも上手くボレーをする。芝生では、充分に競い合える。

サンプラスは第1セットのタイブレークを制して、その後はイギリスのファンと ATP ツアーの他選手が憎みたがるサービスパターンに落ち着いた。サンプラスは56位のパーマー相手に25本のエースを放った――たったの3セットで。

「僕がリズムを掴むと、彼はどうすべきか分からなかったようだ」とサンプラスは語った。

翌朝、イギリスの新聞は通りいっぺんの批評を書きたてた。しかしデイリー・ミラー紙は、サンプラスをこきおろすために別の手段をとった。紙面全体にシャツを脱いだ男子プロ選手の写真を掲載したのだ。アガシは、もちろん「セクシー・シード1」の座を与えられた。

サンプラスは、もちろん「最良の胸ではない」との説明入りで、「セクシー・シード7」の最下位に配された。

さらに2回ストレートセットの勝利を挙げて、サンプラスは4回戦へと駒を進めたが、ほとんど誰も気に留めなかった。状況は「ザ・チャンピオンシップス」の初めから悪事に満ちていたが、その結果サンプラスはメディアの注目に妨げられる事なく、タイトル防衛の仕事に取り組む事ができた。

2日目には、トップシードで前回優勝者のシュテフィ・グラフがロリ・マクニールに敗れ、9回チャンピオンのマルチナ・ナヴラチロワが、最後のウインブルドンでそれを10にする扉が開かれた。グラフが去った事で、これはナヴラチロワの大会であると言えた。彼女が負けるまでは。

その後は、番狂わせの連続が注目を集めた。1991年チャンピオンのミハエル・シュティッヒは、ブライアン・シェルトンに敗れた。彼はマクニールと同じく黒人だった。その結果「ウインブルドンにおける黒人」の物語が、奔流のように溢れかえった。クーリエはフランスのギ・フォルジェに敗れた。衰えゆくステファン・エドバーグは2度のチャンピオンだったが、2回戦でケネス・カールセンに敗れ、クーリエに合流した。

3度のチャンピオン、ボリス・ベッカーは勝ち続けていたが、一度は代償を払わなければならなかった。ハビエル・フラナとの3回戦に勝利する途上で、ベッカーはトイレット・ブレークの間にマッサージを受けていたのだ。彼は1,000ドルの罰金を科された。複数の対戦相手から、駆け引きに関するさらなる申し立てがなされ、ボリスを激高させた。

コート外で起こった馬鹿げた騒動も加わった。とりわけ風の強い日だった。「おしゃれなパンティ」として知られる、カトリーナ・アダムスの派手な色合いのアンダースコートは、ホットで悩ましい話題となった。翌日には、イギリスのタブロイド紙がいわゆる「ページ3」に「 Wimble - bum(どんちゃん騒ぎ)」の見出しで、同タイプのパンティを身につけたトップレスの女性たちを並べた。

ナヴラチロワは記者会見で、母親になる考えがあると述べ、フリート街(主要な新聞社が集まるロンドンの街)を勢いづかせた。ナヴラチロワは同性愛者であるため、その発言は轟き渡ったのだ。同じく彼女の新しい伴侶ダンダ Jaroljmek と、前の伴侶、ポップ・シンガーの k.d. ラングも話題を集めた。Jaroljmek とラングが腕を組んで、オール・イングランド・クラブを歩いている写真が撮られた。付けられたキャプションは「Les be friends(レズは友人)」。

名の通ったレスビアンほど、ウインブルドンを陽気にさせるものはなかった。

サンプラスは? 付録に等しかった。

センターコートの開幕試合を行った後は、彼はより小さいコート1とコート2に追いやられ、リッチー・レネバーグ、チャック・アダムス、ダニエル・バチェクに対する勝利を挙げていた。それはチャンピオンのイメージに関して、すべてを物語っていた。

しかしイメージがすべてではない。準々決勝でマイケル・チャンを下すまでに、サンプラスは5試合で1セットも失っておらず、試合時間は7時間をほんの少し超えるだけだった。

準決勝では、サンプラスは――センターコートに戻った――もっと長く留まる事になると予測していた。対戦相手のトッド・マーチンは、オーストラリアンの決勝戦では激しく戦って敗れ、ウインブルドン前週のクイーンズ・クラブ決勝戦では、さらに激しく戦い、サンプラスを破っていたのだ。

「(クイーンズ・クラブで)経験したような山あり谷ありの戦いには、しないつもりだと言っておくよ」とサンプラスは語った。

「多分ウインブルドンのためには、もっとやる気が起こるんだ。僕はクイーンズで勝とうとしなかった訳じゃない。だがウインブルドンは我々にとって最大の大会なんだ」

サンプラス対マーチン。第1シードと第6シードで、礼儀作法の順位では1位と2位。マーチンが1位となる。恐らくマーチンは、ツアーで唯一のより礼儀正しい――当然、より退屈だと言う者もいるだろう――人物である。サンプラスよりも。イギリス人はこの、礼儀作法の薬2服を受けるに足りた。その午後は短い、サーブが支配するポイントが続き、両選手ともほとんど言葉を発しなかった。

サンプラスは勝利したが、思いがけない事が起こった――彼はセットを落としたのだ。サンプラスはランニング・フォアハンドを打つ際に足を滑らせ、右の足首を軽く捻った。その後は3-3からマーチンが3連続ゲームをとって、第3セットを勝ち取った。彼の右足は、今や緑がかった茶色になった芝生をこすり、溝を堀った。

「ごく軽い捻りを感じたので、僕は少し呆然とした」とサンプラスは語った。「だが試合の残りは問題なかった。(決勝戦のために)テーピングをするかも知れない」

「リードしている時、ピートはより優れたプレーをするんだ。僕はその特性を身につける必要がある」とマーチンは語った。

もう一方の準決勝では、ゴラン・イワニセビッチが射撃練習場スタイルのテニスを続けていた。それはサンプラスのテニスより遙かに退屈なものだった。イワニセビッチは一面的なプレーの選手だ。しかしウインブルドンにおいては、その一面がサーブなら、仕事は軌道に乗っているのだ。

ベッカーをストレートセットで下すに際し、イワニセビッチは大会最速のサーブを打ち、時速136マイルを叩きだした。彼は22本のエースを放ち、大会合計エースを140本に引き上げた。らしからぬ素晴らしいバックコートのプレーが、試合を決めるサービスブレークに繋がった。

今やサンプラスは、彼のウインブルドン進化論を完成する機会に恵まれた。まさに、彼の競技的進化を。1992年準決勝におけるイワニセビッチへの敗戦は、両者の成長パターンを妨げた。

サンプラスとの対戦成績はイワニセビッチの5勝3敗で、彼はサーブと同じくらい大きな口をきいた。

「ピートは俺と対戦するのが好きじゃないんだ」とイワニセビッチは語った。「ピートは俺を簡単に倒す事も可能だ。だが芝生では、左利きのサーブが好きじゃない。彼はいつも左利きには問題を抱えているんだ」

筋の通った意見を表明した後に、イワニセビッチはこの13日間、別の大会を戦ってきたのかと思わせるような、奇妙な考えを開陳した。

「ピートは今のところ自信に満ちている。だが彼も負け知らずという訳ではない。マーチン戦を見たが、彼もまた人間だったね。彼もミスをする事がある」

サンプラスの返答。

「僕がベストのプレーをするか、あるいは良いプレーをすれば、僕を倒すのはかなり難しいだろう。僕はすべてを上手くやっていると思う。リターンもいいし、サーブも好調だ」

2人の強烈なサーバーによる決勝戦は、 バックコートでのラリーを切望している者たちには、またしても不満の残るものになった。だが、その筋書きは不可避だった。最初の2セット間、いずれのプレーヤーもサービスをブレークできなかったが、サンプラスが両セットともタイブレークを制した。その時点で、イワニセビッチの野望はぷっつり切れた。最後のセットは6-0で屈服した。

ラブゲームのセットは憎まれるものに違いなかった。94年ウインブルドンへの些細な努力と不運な脚注ではあるが、前日の女子決勝戦でコンチータ・マルチネスが3セットで勝利し、ナヴラチロワのドリーム・ランを終わらせたのは、それなりに大会のピークではあった。

「2セットを7-6で失うと、プレッシャーが掛かってくる」とイワニセビッチは語った。「そして俺はベストを保たなければならなかった。ファーストサーブか易しいボレーを何回かミスすると、それで終わりだ。彼が(第3セットで)初めて俺をブレークしたら、それで充分だった」

第3セットは19分しかかからなかった。屈服というしかなかった。ウインブルドン・タイトルが危なくなると、イワニセビッチは自分自身を、そしてファンとサンプラスを欺き、決勝戦という場の品位を落とした。

「第3セットに入ると、彼のサーブは恐らく時速10マイルくらい遅くなったようだった」とサンプラスは語った。「彼はただただ自分に失望し、そして僕は自分のテニスを一段階レベルアップしたんだ。それが、第3セットが6-0という結果になった理由だ。僕はあれ以上のプレーはできなかったよ」

「今日、ピートはあまりにも良すぎた」とイワニセビッチは認めた。

一度だけ、ウインブルドンのファンも同意したようだった。試合が済んで、トロフィー授与式の前に、両選手はラケットと汗に濡れたシャツをスタンドに放り投げた。その後にサンプラスがセンターコートを巡ると、観客は賑やかに喝采を送った。

「僕は彼らの心を勝ち得ていると思う」とサンプラスは語った。「だが僕にとって大事なのは(試合に)勝つ事だ。僕が自分のテニスに取り組む様を、みんなが理解してくれたらいいなあ。みんなは好きな事を好きな時に書く事ができる。だが事実は、僕は2年連続でウインブルドンに優勝したという事だ。そして、それは僕について回るんだ」

不運なことに、足首の怪我もまたそうだった。ウインブルドンから、サンプラスはデビスカップを戦うために、オランダのハードコートへと向かった。足首はその衝撃に耐えられなかった。腱炎を起こし、6大会を欠場する事になった。その結果、USオープンから早々と姿を消す事へと繋がった。

彼が2年連続でウインブルドンの戦い方を見いだしたという事実は、その辛い記憶を慰めてくれる。

*    *    *
<続く>