第5部:ウインブルドン
第20章 増大する苦悩


誰のゲームも完璧ではない。ピート・サンプラスのゲームでさえも。最近では、1989〜1991年に希望を抱いてウインブルドンを訪れたサンプラスは、不完全さの見本だった。初め、彼には芝生が酸っぱいレモンのようにさえ見えた。

しかし当時、彼は完全にハードコートで育った少年だったのだ。ジュニア時代の彼は、規則的なバウンドのサーフェスから離れた事は滅多になかった。堅実なグラウンドストロークに頼る10代前のゲームをしていた頃も、クレーコートにさえ不安を抱いていたのだ。

芝生はさらに未知のものだったが、魅惑的だった。17歳を迎える頃には、サンプラスは強烈なサーブを身につけつつあり、それをバックアップするボレーに馴染んできていた。サーブ&ボレー、それは彼がウインブルドンで優勝するために必要とした全てであった。そうですね?

うーん。

武器を持っていれば、芝生はその威力を一段階上げる。同様に、問題のある分野は、典型的な短いポイントという条件の下では広がる。そして、サンプラスには問題の分野があったのだ。

現代のゲームでは、1つのショットがグラスコートの鍵となっていた。それは優勝を望むなら、マスターしなければならないショットだ。1992年にアンドレ・アガシが披露したように、サービスリターンはウインブルドンを制する――あるいは失うのだ。

サンプラスのリターンはお粗末で、それではウインブルドンで試合に勝つ事はできなかった。89年のデビューでは、彼はウッドブリッジに負けた。翌年、派手なショットメーカーのクリスト・バン・レンズバーグは、彼にストレートセットのレッスンを授けた。

91年、一里塚を迎えた。伝説的なダニロ・マリセリーノに対するウインブルドンでの初勝利。だが次のラウンドでは、堅実なグラスコート・プレーヤーのデリック・ロスターニョがサンプラスを退けた。

サンプラスは90年に、うんざりするほどの攻撃ショーでUSオープンに優勝した。しかし攻撃者にうってつけのサーフェスでは、スタートを切る事ができていなかった。それは、彼は易々とグラスコートゲームに滑り込むであろうと思っていた人々を当惑させた。3回(1934〜36年)の優勝者で、サンプラスを未来のチャンピオンと目していたフレッド・ペリーのような人々を。

96年ウインブルドンで、ペリーの予言がなんと的はずれに見えたかを、サンプラスは冗談ぽく振り返った。

「フレッドのコメントを聞いたが、『ワオ、僕はウインブルドンの3年間で1試合に勝っただけだ。人間は自分の限界を知るべきなんだな』って感じだったよ」

「だがそもそも、僕が初めてウインブルドンを訪れた1〜2年は、リターンができなかったんだ。サーブは上手く打てて、大半のサービスゲームはキープできていたが。数年かけて、リターンの仕方、パスや動き方を学んでいったんだと思うよ。それまで芝生で本格的にプレーした事がなかったからね。ほぼハードコートばかりだった。僕は少しずつ芝生を理解して、かなり気分良く感じるようになっていったんだ」

「でも最初の3年間は、自分が上手くプレーできないのに驚いたよ」

ティム・ガリクソンは違った。1992年にサンプラスのコーチを引き受けた時、彼は自分の成功を参考にしてリターンに目標を定めた。ガリクソン兄弟はウインブルドン・ダブルスの決勝に進出していた。別の年には、ガリクソンはマッケンローを倒していたのだ。

ボドは語った。「ピートにとってリターンの変更がどれほど重要であったか、見過ごす事はできない。そしてティムは、ゲームの基本的なテクニックを取り扱うのが信じられないほど得意だったのだ」

「ティムは非常に優れたグラスコート・プレーヤーだった。だから僕がウインブルドンで勝つのを助けてくれるだろうと考えたんだ」とサンプラスは語った。

ガリクソンはサンプラスを説きつけて、ストロークを少し短くし、リターンでパーセンテージを重視させるようにした。彼のスイングパターンは長すぎ、ゆったりしすぎて、滅多に威嚇的なボールを生み出していなかったのだ。70年代のビョルン・ボルグに有効だったものは、もはや上手くいかないだろう。増大したパワー、芝生で急速に成長したパワーを誰もが身につけていたからだ。

ガリクソンの考えは野球から借用したものだった。ゴロに応対する技。ボールにプレーさせられるのではなく、ボールをプレーさせる事。秘訣は、制御したやり方でサーブを攻撃する事だった。

ガリクソンはまた、エースに対しての楽観主義を説き聞かせた。サンプラスが受け手に回った際に悩まされてきた、グラスコートの現実。サンプラスの心構えが向上するにつれて、彼のテニスもそうなっていった。

92年ウインブルドンは、前進と位置づけられるだろう。準決勝でイワニセビッチに負けたとはいえ。準々決勝で前回優勝者のミハエル・シュティッヒに対して、9ゲームしか失わずにストレートセットの勝利を収めたのは、その時点までのサンプラスのウインブルドンにおけるハイライトとなった。しかしイワニセビッチに対しては退行した。つまりお手上げ状態で、エースとサービスウィナーを連発されて打ちのめされたのだ。2週間でそれを味わったのは、彼1人ではなかったが。イワニセビッチ――彼は決勝戦でひどく平静を失ってアガシに敗れた――は7試合で、大会記録である206本のエースを炸裂させたのだ。

「あの試合は、精神的にいっぱいいっぱいで、ただもう降伏すると言ってもよいほどの時間だった」とサンプラスは『テニス・マガジン』誌に語った。

「リターンを打つチャンスが殆どなくて、自分に対して本当にがっかりさせられた。彼のあのサーブがどれほど破壊的か、みんなが本当に理解しているかは分からないが。ラインへステップし、ボールに触れられず、そして30-0となる。あるいは、ラケットを振るって彼のサーブで30に達すると、次にはエースを2本打たれてイーブンとなる」

「抗しがたくて、フラストレーションが溜まるよ」

サンプラスは将来における同様の挫折を避ける事に専念した。特に、ウインブルドンで確実に再び当たるであろうイワニセビッチに対して。長い間追ってきた目標を成し遂げる間近まで来て、サンプラスは埋め合わせをし、そして恐らく、歴史を変えたいと切望した。あるいは、少なくともその一部になる事を。

ウインブルドンは、すでに彼の手に届くところへ来ていた。ピート・フィッシャーが承知していたように。

「それは門の中へと歩んでいく時から始まっているんだ」とサンプラスは語った。「センターコートの特性とグラウンドの特性を感じる。それは他のいかなるグランドスラム大会とも違うんだ」

「それは子供の頃から、優勝したいと常に望んできた大会だ。センターコートに響くボールの音を聞き、ボルグの5年連続優勝を思い出し、それは僕にとって常に特別なものだった」