第5部:ウインブルドン
第19章 「それは常にウインブルドンだった」


偶然の出会いが、ピート・サンプラスと最初のコーチ、ピート・フィッシャー――ロサンジェルスの小児科医で、まずまずのクラブプレーヤー――の人生を絡み合わせた。とある午後、マンハッタンビーチにあるジャック・クレーマー・テニスクラブで、フィッシャーと9歳の子供はヒッティングする機会を持った。

間もなく、サムはフィッシャーに、息子と定期的にヒッティングをしてもらえるかと尋ねた。サムは代金を払うと申し出たが、フィッシャーは子供の才能に驚き、お金はいらないと答えた。彼は無料でするつもりだったのだ。プレーヤーとコーチのユニークな関係は、そのように始まった。

同じく、親が身を引くという称賛に値する、珍しい行動様式も始まった。

サム・サンプラスと妻のジョージアは、自分たちは運命の進展に干渉しないと早い時期に決心したのだ。彼らはある時点で、息子がテニスを体現する運命であると知ったに違いなかった。

サム――正式にはソテリオス――とジョージア。父親はアメリカ生まれのギリシャ系で、母親はスパルタ出身で合衆国に移住した。彼らはメリーランド州ポトマックで出会い、結婚した。そしてピートが生まれた。

サムは国防総省で働き、同時に小さなレストランを経営していた。店の客にも4人の子供たちにも、銀の匙はなかった。

1977年、サンプラス一家はカリフォルニア州パロス・ベルデスに移り住んだ。生活は向上していった。大きな驚き。パロス・ベルデスは様々な面で、ポトマックに優っているのだ。テニスはその1つである。

息子のテニス――それは地下室のレンガ壁に、見つけ出した古いラケットでボールを打つ事から始まった――が上達するにつれて、両親は見守りたいという衝動と戦った。サムはより激しく戦わなければならなかった。ジョージアの本能は、後ろに控えている事がベストだと告げていた。やがて彼女は、夫にもそれを納得させた。

「ピートのプレーを見ているのは素晴らしかったわ」と、彼女はエリオット・ベリー、1992年に編まれた名著『タフ・ドロー』の著者に語った。「けれども親が観客になるのは、ピートのために最良の事ではなかった」

この物語は古典的となった。息子が1990年USオープン決勝でアガシを打ち負かしていた日曜日、サムとジョージアは3,000マイル離れた場所で、買い物に出掛けていた。そう、時間をつぶし、神経をなだめるために。

ショッピングモールをそぞろ歩くうちに、ふたりはテレビが鳴り響く店のそばを通りかかった。画面を見ると、決勝戦は終わっていた。彼らの息子は優勝トロフィーを抱きしめていた。息子が運命の成就に向かって第一歩を踏み出したのを、彼らはそんな風に知ったのだった。大それた事ではなかった。結局のところ、すでに彼らは息子の真の第一歩を見ていたのだ。その事の方が大きかった。

事実上見えない存在でいるという決意を、彼らは滅多にたがえなかった。そして、息子の素晴らしい才能をひと目見ようと決めた時でさえ、目立たない存在でいた。

1995年の春、彼らはパレルモに行った。デビスカップ第2ラウンドで、息子とアガシがイタリアチームをレッドクレーで完敗させるのを見るために。彼らはひっそりと観戦した。その願いを合衆国テニス連盟( USTA )に伝えておく事さえした。目立たない姿勢。彼らは誰も煩わせず、自分たちだけでいる事を望んだのだ。

「私はデビスカップ決勝戦のために、モスクワへも行った。それだけだ」とサム・サンプラスは語った。

「彼らは私と同じ飛行機でパレルモへ行ったが、初めは誰一人それを知らなかった」と USTA のアート・キャンベルは語った。「彼らがそういうあり方を望んだのだ」

モスクワで、サムは「極力、目立たない存在である事を望んだ」

他の親とは対照的だった。ジョージアはベリーに、サムにこう話したと語った。「(ピートに)任せておきましょう。彼は立派にやっているわ」

注目を避けるテニス選手の親。それは見事だ。彼らの自己規制が生み出した最も目に見える副産物と同じく。ピート・サンプラスは非常に多くの面で、完全に親と同じである。

「私は長年一家を知っていて、自宅も訪問したが、それでもジョージアに会ったのは、恐らく合計で5回くらいだ」とウインタースは語った。「とても古いタイプの素晴らしい婦人だ。しかし彼女はテニスにあまり詳しくないのだ」

「サムかい? 感じの良い男だが、妻とほぼ同じだ。彼について語るべき事がないとは言わないが、社会的なパーソナリティはあまりない」

どんなトップランクのテニス選手に思えるだろうか?

サム・サンプラスは、これらについて論じる事を拒否した。「私はインタビューを受けない」と言い、その後30秒間、主張を強調するように電話口で沈黙した。

彼はノーコメントと伝える機会を得られて感謝していると付け加えた。丁寧に、飾りけなく率直に、そう言った。

いわば息子のスタイルのように。

ピート・サンプラスは特別な存在だとフィッシャーが即座に見抜いたのは、彼が予言者か、あるいは非常に幸運だったのだ。他の誰もが幼い少年と呼ぶであろう子供に、フィッシャーは未来のウインブルドン・チャンピオンを見いだしていた。

「彼を初めて見た時から、私には(彼は優勝できると)分かっていた」とフィッシャーは言った。

何年もの間、フィッシャーは教え子の進歩を綿密に計画したが、常に最初の直感を考慮に入れていた。結果として目標ができた。最初の、そして最も重要な目標は、ウインブルドン・タイトルであるとフィッシャーは決定した。

フィッシャーは語った。「それは常にウインブルドンだった」と。

「遠い昔から、ウインブルドンは、優勝した選手は世界最高だと見なされる大会だった」

その最優先の目標に向けて、フィッシャーは14歳のサンプラスを両手バックハンドから片手打ちに変えさせた。例の場所で優勝するため必要とされるサーブ&ボレーを容易にするためだった。片手打ちに変える前は、サンプラスは優秀なジュニアプレーヤーで、典型的なバックコートの粘り屋だったが、平凡な結果しか挙げていなかった。フィッシャーが常に彼を年上のカテゴリーで「背伸びさせる」ようにしたのが主な理由だった。重視すべきはトロフィーではなく、進歩にあった。同じく、年上の男たちに向かわせる事で、サンプラスにプレッシャーを感じずにプレーする機会を与えた。彼を今日プロツアーで際立った存在にしている、思い切ったスウィング・スタイルを形成するためだった。

マーク・ウィンタースは南カリフォルニアのテニスシーンで働いていたが、サンプラスの成長ぶりを間近で見る事ができた。初期のサンプラスに関する思い出は、フィッシャーの指導を反映している。

ウィンタースは語った。「私がピートのプレーを初めて見たのは、彼が9歳の時だった。その思い出はとても鮮明だ。当時の彼を『にこにこ笑い』と呼んでいた。彼はいつもにこにこ笑っていたんだ。また、学校の女の子たちは彼の濃い眉をからかうと言っていたよ。そして彼の身体、それは彼のショットに不釣り合いだった」

「当時でさえ、彼の滑らかさ、存在感は並はずれていた。だが……9歳の子供がどうやって存在感を身につけるというのだ? ピートのプレーを見る事は、新しい自動車を見ていて、それが優れた車であると知り、それから最高の車だと知るような感じだった」

恐らくフィッシャーなら、ある1人を除いてと付け加えるだろう。コート上でもコートの外でも、サンプラスのあらゆる進歩を測るには、ロッド・レーバーが卓越の規準となっていた。フィッシャーの計画では、レーバーとウインブルドンは密接に結びついていた。フィッシャーはサンプラスを、様々な面で過去を一新しうる未来のチャンピオンだと見なしていた。サンプラスは成長するにつれて、両手バックハンドに対したような少年時代の奇妙な癇癪を捨て去っていった。両者とも進歩の過程に存在していたものだった。

「僕のゲーム全体、性格全体は、バックハンドを変えた時に変わったんだ」とサンプラスは回想した。マイケル・チャンのような粘り屋は、絹のように滑らかで、サーブ&ボレーの肖像画を描き、バックコートからでも衝撃的なウィナーを創造する本能的なプレーヤーに取って代わった。サンプラスは彼の地ならし機をイーゼルと取り替えていた。コートはかつて檻だったが、今はカンバスだった。そしてそこから、60年代の優雅さと有効性ではなく、90年代のパワーゲームが進化していった。

「彼は美しい流れるようなゲームを持っている」とレーバーは語った。「彼は力強い。彼は正確だ――まったくもって正確だ。そして、彼は自分のしている事を気に入っている」

サンプラスが徐々にまとまっていったその年月は、いま思えば、運命によって定められていたように見える。他にどう説明がつくだろうか、テニスの伝統を尊ぶ禿げかかった中年の医者と、プレーを愛する以外に何も知らなかった子供との結びつきを?

「ゲームへの理解、ロッド・レーバーの重要性、年上の男たちと対戦する意義をピートにもたらそうと、フィッシャーは懸命に努めていた」とウィンタースは語った。

「それゆえに、我々は今ピートに、非常に稀なものを見ているのだ。正真正銘のチャンピオンというものを。ピート・サンプラスには目標があり、ピート・フィッシャーがそれを形作ったのだ」

「目標は、このうえないプロ選手になる事だった」

それはウインブルドン・トロフィーを掲げる事によってのみ、叶えられる目標だった。サンプラスはその気持ちを知るはるか以前に、その光景を熟知していた。

「ウインブルドンに関する最初の鮮やかな思い出は、ベッカーが17歳で優勝したのを見た事だった」とサンプラスは1995年の大会前に語った。

「僕は『ああ、あの大会で優勝するのは信じがたいほどの事に違いない』といった感じだったよ。ウインブルドンで優勝する以上の事はないと。だから僕は常に、ウインブルドンに重きを置いてきた。それはツアー最大の大会だ。いつもウインブルドンを、他の(メジャー)大会よりも1段階上に置いていた。その歴史性と、それは僕が優勝したいと常に望んでいた1つの大会だったからだ。できるだけ多く優勝できるといいなあ」

「子供の頃にテレビで見て、『センターコートに立つのは僕の目標だ』と思うが、それが現実になると本当に考えている訳ではない。それから僕はもっと上達して、17歳の時、ついに初めてウインブルドンでプレーしたんだ」

1回戦で、彼はトッド・ウッドブリッジに4セットで敗れた。控えめに言っても、不本意な始まり方だった。

向上していく前に、さらに悪くなった。

しかし、ピート・ボドが『テニス・マガジン』のウインブルドン96年プレビューで書いたように、「ウインブルドン優勝が容易だった者は誰もいなかった」のだ。

サンプラスはその全てを学んだ。いずれそうなるとピート・フィッシャーが承知していたように。何回かの早期敗退で、優勝のタイムテーブルは少しばかり迷走したが。

「彼は他とは違う」とフィッシャーは言った。「彼はピート・サンプラスだ。彼はテニスコートに属しているのだ」

特に、ウインブルドンのコートが緑であるなら。