第4部:フレンチ・オープン
第16章 求めるにはあまりにも


少ないほど望ましい。それは1996年フレンチ・オープンへ向けて、サンプラスの新しい、そして願わくば改善された取り組み方を要約していた。自分はビョルン・ボルグの生まれ変わりであり、フレンチに先立つあらゆるヨーロッパの大会に参加するという、極端で馬鹿げた考えに取り憑かれた95年の再現はないであろう。サンプラスは別の方向へ進み、レッドクレーはできるだけ見ないと決めていた。

奇抜な着想ではあったが、ともあれ彼はそのように考えた。確かに、他の方法は効果がなかった。その上、ガリクソンの病状は日々悪化しており、クレーへの出征を控えめにする事は、他の理由からも頷けた。

かくしてサンプラスは、パリに先だってはイタリアン・オープンと世界チームカップの2週間で充分だと決定した。ガリクソンの死により、イタリアン・オープンは割愛されたが。

この背景にある思考は、サンプラスを芸術家タイプと見なす同僚選手たちのイメージを反映している。恐らくサンプラスはツアーのどの選手よりも、彼がテニスを感じるほどにはテニスをプレーしていない。彼の才能は本能的なものなのだ。そして、95年のやり方は誤りだったとサンプラスに考えさせたものも、本能であった。

今、彼は誤りを正した。
過ぎたるは及ばざるがごとし、と。

サンプラスは95年春のサンプラスではなかった。あまりにクレーコート的なスタイルは、彼の強みには不適切である。彼はラリーを増やし、攻撃を減らし始めたのだ。彼が苦闘したのは言うまでもなかった。

そこで、96年には「自分のやり方」でフレンチを戦うという宣言になった。勝とうが負けようが、それが最も道理に叶ったピート・サンプラスであろう。評論家は主な要素を予想できた。ビッグサーブと徹底的なリターン――特にラリーを早めに打ち切る、あるいはサーブを無効にするよう意図したチップ&チャージ――そしてネットプレーの多用。

1回戦でのマグナス・グスタフソンへの勝利が、方向性を整えた。サンプラスは23本のエース――3本は試合の第1ゲームで――を決めた。そしてサービスゲームを1度しか失わなかった。曇りで気温は華氏50度台、雨による中断という、パワーの助けにはならない日に、この出来は本当に印象的だった。

サンプラスは語った。「厳しいコンディションだった。とても重くて遅い。サーブ&ボレーをするのは難しかった」

グスタフソンは、サンプラスが問題を抱えているとは気付かなかった。

「1年全体を通しても、これほど多くのエースを喰らうとは思わないね」と軽口を叩いた。

一方、サンプラスが仕掛けたリターンからの攻撃――デュースコートのダウン・ザ・ラインを狙った厳しいスライスのバックハンドは極めつきだった――は、スウェーデン人から4回のブレークを奪った。

彼のやり方で。

「僕は(そのやり方を)心がけていくつもりだ。攻撃的になり、以前みたいにあまり受け身にならないよう努める。普段の、だがコントロールの利いたゲームをする必要がある。僕が見定めようとしているのは、微妙な限界線だ」

微妙な限界線に関するサンプラスの概要:

「クレーの試合では、相手を片付けるのが難しい時がある。サーブ&ボレーをするのか? ステイバックするのか? 攻撃的でありたいが、不適切なボールで前に詰めたくはない。攻撃的に行くべきショットを、もっと厳密に選ばなければならない。クレーでトラブルに陥ると、僕は受け身になり始める。ベースラインの6フィートも後ろから、ウィナーを狙ってしまう。ハードコートかインドアでなら慣れっこだが。今年、僕はもう少し賢くなろうとしているんだ」

ブルゲラ――クレーにおける知性の試金石だった。1993〜94年チャンピオンのブルゲラは、95年準決勝でマイケル・チャンに敗れ、その後は怪我で思うようなプレーができていなかった。96年のフレンチにやって来た時、彼の成績は9勝9敗だったが、それでも脅威と見なされていた。有力者ではないとしても。

サンプラスには、間違いなく脅威の存在だった。ブルゲラは対戦成績で2勝1敗と上回っていた。93年フレンチの準々決勝を含め、どちらもクレーでの勝利だった。サンプラスにチャンスがあると考える者は、殆どいなかった。そして彼自身もまた、さほど楽観的ではないようだった。

他に考慮すべきもの、それはサンプラスの心理状態。グスタフソン戦の最中、彼のボディ・ランゲージは憂鬱を暗示していた。ポイントの間、サンプラスはコートをのろのろと歩き、肩はいつも以上に前屈みだった。彼の印象は陰気で孤独だった。

ティム・ガリクソンは24日前に亡くなったばかりだった。

「辛かった」とサンプラスは言った。「それについては、あまり多くを語りたくない。きっと涙が出てくるだろうから。その事を話すのは辛いんだ。まだ早すぎる」

トム・ガリクソンが語ったところの、サンプラスが働かせていた感情は、グスタフソンに対しては充分以上のものだった。しかしプレーされるべきテニスは、あまりにも多かった。

*     *     *

ブルゲラに関する情報:素晴らしいグラウンドストローク、驚くべきサーブ、最良のランチセット。この男と対戦すると、途轍もなく長い時間になる事が約束されている。

彼はサンプラスに余りある試練を与えた。彼らが2回戦で当たったという事実は、個々のメジャー大会は世界ランキングよりも、むしろ実績に基づいてシードを決めるべきだという理由の適例であった。ウインブルドンは独自の方式を採り、芝生を苦手とする者が、そのサーフェスで過去に成功を収めた者よりも上に位置づけられる、という決まり悪い事態を避けている。ランキングが23位まで落ちていたからと、ブルゲラが16のシードから除外されるのは言語道断だった。

サンプラスはエースで試合を始めた。しかし1回戦とは対照的に、大半は大砲を抑え気味にし、プレースメントを重視して抜け目ない敵に態勢を整えさせなかった。

ちょうど1時間で、サンプラスは最初の2セットを6-3、6-4であっさりものにした。全てサーブ&ボレーでプレーした。「恐らく自己最高のサーブ&ボレーテニス」とサンプラスは言った。

それから、試合をしてこなかった事が影響を与え始めた。彼は疲れ、タイブレークで脅かされ、そして7-2で失った。ブルゲラは勢いを取り戻して第4セットを6-2で簡単に取り、優勝した頃のフォームを披露した。

第5セットは、ブルゲラの第2ゲームのサービスブレークが決め手となった。ブレークを果たす前に、サンプラスは5つのブレークポイントを得ていた。ゲームは14ポイント続いたが、サンプラスがネットに詰め、バックハンドの柔らかなドロップボレーを決めて終わった。サンプラスは2-0リードとし、6-3でセットを終えた。

サンプラスは語った。「これははるかに、僕の最高の(フレンチ・オープン)勝利だ。セルジほど能力のある者、過去に2度ここで優勝した者をクレーで倒した事は、なにがしかの自信を与えてくれる。僕は(クレーで)ブルゲラとでも誰とでも、ネットを挟んで戦えるという自信をね。試合には様々な思い、あらゆるものがあった」

ブルゲラの側からいうと、彼にはブレークチャンスが20あったが、ものにできたのは2回だけだった。カギとなる数値である。他に2つ挙げてみよう。サンプラスには43のサービスウィナーがあり、ファーストサーブの確率は59パーセントだった。

「僕のサーブがカギだった」とサンプラスは言った。「サーブが良くて安定していれば、そして鋭いボレーを打てれば、クレーで上手くプレーする事ができる。サーブが土台だった。リターンゲームに少しばかりリラックスして臨めた。サービスゲームをかなり楽にキープしていたからね」

サンプラスはサービスのパワーをいささか抑え――エースは14本と比較的少なめで、相手と同数だった――確率を重視した。サンプラスがあれほど良いサーブを打つのは見た事がない、とブルゲラは語った。さらに、誰であれ、あのようなサーブを打つのはこのところ見た事がないと付け加えた。

ブルゲラはサンプラスへの簡潔な絶賛を打ち切ると、足の怪我に言及し、彼を煩わせるほど速く動けなかったと語った。だが、これがサンプラスのキャリア・ハイライトの1つであると判断するのに、ブルゲラの発言は必要なかった。

サンプラスは語った。「グランドスラム大会の2回戦としては、これまでで最も厳しい試合だった。僕はまだ残っているが、ここには優勝する可能性のある者がとてもたくさんいる。使い古された決まり文句だが、1試合ずつだ。先の事は考えていない」

サンプラス側のドローを見ると、信じがたい事に、3人の不吉な対戦相手候補が3回戦に進出していた。トッド・マーチン、クーリエ、そしてエフゲニー・カフェルニコフ。

マーチンとサンプラスは親友で、共にビッグヒッターである。実質的にはラリーが、いわんやドラマが欠けていると批判される同タイプである。フレンチにおける彼らの3回戦は、まさにその型どおりで、マーチンが放つ29本のエースに直面しつつ、サンプラスが5セットで勝利した。

次のラウンド。オーストラリアの若手スコット・ドレーパーとの対戦は、多少なりとも休憩と言えた。3セットでのあざやかな勝利の後、サンプラスはクーリエとの試合を見据えた。彼はクーリエを最近の4試合でいずれも破っていた。

「ポイントをコントロールしようとする(のは厳しい)」とサンプラスは語った。「ジムはビッグサーブでコート中央を支配し、強烈なフォアハンドを打つ。僕はボールをコート中央から遠ざけ、攻撃的になり、争う必要がある。ブルゲラに対してやったようにね。クレーで可能な限り攻撃的になり、彼に違う様相を披露するんだ」

サンプラスの試合後の記者会見には、優勝を意識した話が入り込み始めていた。ティム・ガリクソンに関するもってまわった質問と同様に。2週間のイメージは、使命を負った男。ある記者は、サンプラスは優勝する運命にあり、ガリクソンの精神とでもいったものから、何らかの超常的な助力を得ているのかも知れないという、突飛な考えを思い付きさえした。彼は大胆にもクーリエに、その可能性はあると思うかと尋ねた。

「あるかも知れないし……ないかも知れない」とクーリエは言った。

サンプラスが実際に得ていた助力は、 ガリクソンが亡くなって以降単独でサンプラスをコーチする、ポール・アナコーンからのものだった。「困難な状況の下で、ポールは本当に優れた仕事をしてきた」とトム・ガリクソンは言った。元 ATP ツアー・トレーナーで、現在はサンプラスの専属トレーナーを務めるトッド・シュナイダーも同行していた。

サンプラスは今まで以上にネットへ詰めたいと望んで、フレンチにやって来た。そのアドバイスにアナコーンほどふさわしい人物はいないだろう。彼は1980年代に世界のトップ20に達したサーブ&ボレーヤーである。

「彼はあらゆる機会に中へ入り込んだ――すべてに」とサンプラスは冗談を言う。

それはテニス以外に殆ど時間を費やさない、チームとしての取り組みだった。マルケイは同行していたが。試合のない時はどのように過ごすかと尋ねられ、サンプラスは信じがたい様子だった。彼はどの大会でも、ホテルの部屋にいるか、適当なレストランを探すくらいだったからだ。大会の第1週に、彼とトッド・マーチンがシャンゼリゼで見つけたピザ・レストランのような店を。

「我々は大いに食べたよ」と、マーチンは真面目くさった顔で答えた。

サンプラスはローラン・ギャロスから車で20〜30分の、高級ホテルに滞在していた。1995年よりは良い手配だった。95年、彼はメリディアンに滞在した。サンプラスはエレベーター近くの部屋を提供され、かなりの騒音に悩まされたのだ。彼は抗議して別の部屋にしてもらったが、結果的に長期間は必要なかった。(サンプラスが95年フレンチ・オープンの1回戦で負けた相手)ジルベール・シャラーは、メリディアンと関係があったのかも知れない。

メリディアンの支配人は、部屋のもめ事はホテルを替えた事と関係がないと語った。「彼は昨年負けたので、同じ場所に戻りたくなかったのだわ」と彼女は言った。

ナイキ - アガシの新しいコマーシャルは、こんな宣伝文句である。「勝つために大会にいるのでなければ、観光客だ」宣伝スローガンだが、まさにサンプラスに当てはまるだろう。彼は観光客ではない。そしてそれが、観光客のように行動するという示唆を、彼が軽蔑的に見なす理由だ。

サンプラスは答えた。「残念ながら、テニスが優先事項だからね。僕が(ローラン・ギャロスに)いないなら、休んでいるか、練習しているかだ。外出して観光をする時間は大してない。僕がここにいるのはテニスのためだ。休暇ではない。これは僕の仕事だ。準備のためにすべき事をするだけだよ」

大会中、準備は一貫していた。彼の練習相手はティエリー・グアルディオラという23歳のフランス人で、最高順位は111位だが、クレーでの戦い方を心得ている。グアルディオラは極端なトップスピンをかけず、良いボールを打つ――ビッグヒッターの練習相手には最適である。

試合のない日は一般的に、サンプラスは午後1時頃ローラン・ギャロスに現われ、コートは少なくとも90分間予約されていた。彼とアナコーン、シュナイダーは物静かに現われ、ファンが後ろについてきているのも気づかなかった。グアルディオラと彼のコーチを一瞥し、言葉も交わさずに練習は始められた。簡素だが体系だっていた。たっぷり30分間のベースライン・ラリー。続いて1人が前、1人が後ろでの打ち合い。若干のサービス練習を経て、最後にポイント練習。

試合の日には1時間の予約で、サンプラスはもう少し早く、午前11時頃に現われた。時に、サンプラスが充分にほぐれたと感じれば、練習は短縮された。

フレンチ――そしてウインブルドン――におけるサンプラスのラケットは、78〜80ポンド(34〜35キロ)で張られていたが、わずかずつテンションを変えてあった。概してこれらの大会、さらに大部分の大会で、彼は手元に10本のラケットを用意する。10本を必要とする。彼は高いテンションを好むため、頻繁にストリングスを切るのだ。それにより、会場に詰めているバボラ(バボラはサンプラスが使用する VS ガットを製造している)のストリンガーは、てんてこ舞いとなる。

つまり、フレンチ・オープンのバボラ・ストリンガーは、サンプラスのファンではないという事だ。各試合で打たれるグラウンドストロークの数、クレーの粉がストリングスの間に入り込んでこすられていく事で、サンプラスがストリングスを切る回数は途方もない数に達する。

「ストリングスを切り、ラケットが足りるだろうかと考え、僕はコートでたっぷり神経をすり減らしてきた」とサンプラスは語った。「今年はラケットを10本用意し、すべてにストリングスを張っておこうと決めたんだ。僕はとても細いストリングスを非常に硬く張るので、(ストリングスが切れるのは)その代償だ。唯一そういうラケットを気に入っているからね」

サンプラスはストリングスには非常にこだわる。彼の前にはイワン・レンドルがそうだった。試合の朝にはラケットにストリングスが張られている事を要求する。

各練習セッションの間、アナコーンはサンプラスのコート後方を歩き回っていた。すべてのコーチがそうするように、ラケットを手にして。それが使われるのは、セッションでせいぜい1回だが。彼とサンプラスが何か話し合ったとしても、2人にしか聞こえなかった。しかし妥協は決して存在しないようだった。『テニス・マガジン』のピート・ボドは、アナコーンのコーチングを「抑制の利いた行動指針」と呼ぶ。サンプラスはコーチが口出ししすぎるのを好まないプレーヤーなのだ。

同じくシュナイダーは、作業が少なければ仕事は順調だと承知している。だがシュナイダーは、パリで忙しかった。大会中、サンプラスは再三のマッサージを必要としていた。

*     *     *

今回のサンプラス - クーリエ戦は、53ゲームの見ものだった。1つの決定的なゲームが突出していた。第4セット、クーリエがセット2-1でアップ、ゲーム4-3でリードの場面。サンプラスのサーブで、15-40を迎えていた。彼はエースでブレークポイントを1本セーブした。30-40、彼はストリングスをぶつっと切り、ファーストサーブは吹っ飛んでいった。

サンプラスは慎重にゆっくり歩いてコートサイドへ向かい、新しいラケットを取り出してサービスラインに戻った。その後、彼はセカンドサーブのエースを放ったのだ。アドコートの隅、ぴったりライン上に。

サンプラスはゲームをキープし、次にクーリエのゲームをブレークして、試合をセット2-2のイーブンにした。第5セットは、クーリエの第3ゲームをブレークした事で決まった。サンプラスは28本目のエース――クーリエは29本だった――で闘いを終わらせ、6-7(4-7)、4-6、6-4、6-4、6-4の勝利で決着を付けた。

「オーストラリアン・オープンの試合を思い出していた」と、サンプラスは1995年オーストラリアンの準々決勝に言及した。その試合でもクーリエが最初の2セットを取り、サンプラスが逆転勝ちしたのだった。

「以前に1回したのだから、たとえクレーであっても、僕が再び逆転勝ちできない理由はないとね。僕はいいボールを打っていると感じていた。サーブも良かった。ちょっと入れ込みすぎていた。この試合を彼に与えるつもりはなかった。そんな試合だった」

大会期間中で初めて、サンプラスは深刻な疲労のサインを見せた。彼にとって3回目の5セットマッチで、彼の様子はそれを伝えていた。最終セットの大半、サンプラスは今にも気を失いそうに見えたが、それでもなお頑張り続けた。

クーリエは驚かなかった。

「以前にもそんな様子を見てきたよ」とクーリエは始めた。「ピートは大した役者だ。そう言っておくよ。ある者は、自分はタフだと前面に出す。ピートは苦しんでいる事を前面に出す傾向がある。だが、それでもエースを放つようだ。彼はタフだよ。彼が疲れているように見えても、僕はあまり気に留めない。それは大して重要でないと分かっているからね。あのサーブがあれば、彼がどう見えようと関係ない」

クーリエの申し立てに対して、サンプラスは返した。「疲れていた、うん。第4・第5セットの途中でね。あの時点では、ただアドレナリンが僕を突き動かしていた。足が重く感じられた。最初の2セットのようなバネがなくなっていた。恐らく長時間プレーしてきたツケが来たんだろう。幸いにも、コートはわりに速かったし、サーブが僕に勝利をもたらしてくれたんだろうね」

そんな風に、ますます一方的になるサンプラス - クーリエのライバル関係は、また1章を閉じた。最新の勝利はサンプラスに15勝3敗のリードをもたらした。どれだけの試合が接戦だったか、さらにクーリエは元ナンバー1選手だった事を考えると、想像も及ばないほどの優勢だった。

クーリエは語った。「とにかく山を乗り越えなければならない。(彼に対する)僕の勝率は、彼と対戦し続けない限り向上しないんだからね。対戦し続け、好機を捕らえなければならない。そうすればいつか僕の側に勝利が巡ってくるだろう」

「いずれそれが巡ってくると信じているよ。まあ、去っていったものは、すぐに戻ってくるといいよね」

サンプラスの次の対戦相手エフゲニー・カフェルニコフは、昨年12月のデビスカップ決勝で、シングルス・ダブルス共に酷い目に遭ったお返しをしたいと考えていた。カフェルニコフはフレンチの前に、世界チームカップでサンプラスを破っていた。しかしそれは取るに足らないとサンプラスは語った。

「全く違った試合になるだろう。僕は彼がどんなプレーをするか知っているし、彼もそうだ。僕は彼の得意を承知している。前に彼を負かしたのだから、もう一度それをできない理由はない」

カフェルニコフは決勝戦へ進むさなか、対戦相手にもメディアの注目にも煩わされなかった。彼自身は、誰もが認める潜在能力を花開かせつつある注目の選手ではあったが。

カフェルニコフは当時21歳で、「カラシニコフ」と、ロシアのライフル銃から取ったあだ名をつけられていた。カフェルニコフのフォアハンドは全体の基盤だが、ゲームはオールラウンドである。フレンチに入った時、彼は世界6位だったが、5位のボリス・ベッカーが怪我で欠場したため第5シードになった。

決勝戦までに、彼は準々決勝でリチャード・クライチェクに対し、タイブレークで1セットを失っただけだった。それはサンプラスの「2週間にわたる地獄の苦役」とは、不吉な対照を呈していた。しかし準々決勝と準決勝の間に2日を挟み、サンプラスはもう1ラウンド赤土で闘えるまでに回復する、と考える者もいただろう。決勝戦に進出するという期待、デビスカップで若いロシア人を叩きのめしたという記憶に励まされて。

だが、同じく失速する可能性もあった。正直なところ。クーリエを倒す事、それは習慣となる一方で、常にサンプラスを疲弊させる。彼らは何回も対戦してきた。実質的には同じ年齢――クーリエはちょうど1歳上となるのに5日足りない――で、1988年、共にプロに転向した。そして、もちろん、2人ともナンバー1になっていた。どの試合にも、互いに通じるだけとしても、何らかの主張が込められている。親友であるにも関わらず、彼らは互いを倒そうとする激しい欲求を抱いている。彼らの闘いには私情が入るが、スポーツとしてのものである。

サンプラスが大望を甦らせたとしても、問題となるのは彼の持久力だろう。3回の5セットマッチを終え、それは涸渇しているに違いなかった。クーリエ戦の後、サンプラスは自分の「ガスタンク」は「空ではない。(準決勝の前に)2日あるのは、なにがしかのエネルギーを取り戻すのに好都合だ。休日が1日多いのはきっと助けになる。(僕のエンジンは)今でも動いているよ。まだガソリンが少しばかり残っている」と述べた。

それでは、彼の心、精神状態はどうだったのか? ガリクソンの事は、さらに重くのしかかってきていた。クーリエ戦の後、サンプラスはフランスのテレビ・インタビューで、ガリクソンについて質問された。彼は涙にむせび、すすり泣いた。彼の感情が、2週間で初めて公に晒された。落ち着きを取り戻すまで、印刷媒体との記者会見は遅らされた。ガリクソンへの直接的な言及を避け、注意深く言葉を選んで、キャリア最高となった準決勝進出について、サンプラスの心境に関する質問がなされた。

「様々な思い出が心に浮かんだ。良かった事も、悲しかった事も」と彼は答えた。「僕は懸命に戦った。それは、僕の周りにいる人々が誇りに思える事だ」

5試合が完了し、このような健闘自体が、すでにガリクソンへの最高の証明となっていた。

しかし、大会は終わっていなかった。

カフェルニコフはセンターコートでサンプラスとウォーミングアップしつつ、自信が気温によって高められていったに違いない。(華氏)80度台後半。雨は降らず、午後のスタートで、コンディションはサンプラスに有利だった。彼と決勝進出者のミハエル・シュティッヒ、準決勝に進出したマルク・ロセは、 バックコートの集いと見なされるこの社交界にデビューしたサーバーの一員であった。

サンプラスがカフェルニコフ戦を始め、1本のエースを含めてサービスゲームをキープした時、パーティーは再開した。しかしカフェルニコフもまた、やる気充分だった。彼はサンプラスと互角に渡り合い、1本のブレークポイントも与えずに6-6までゲームをキープした。サンプラスは第7ゲームで1本、第11ゲームで1本、ブレークポイントに直面した。両方とも、カフェルニコフのエラーで逃げのびた。

サンプラスはタイブレークをエースから始め、ロシア人がバックハンドを深くスライスしすぎた「ミニブレーク」で、2-1リードとした。だがセットが手中にあると意識したにしても、次のポイントでサンプラスがダブルフォールトを犯したのは、はなはだしく時宜を失したミスだった。

しかしサンプラスはそれを補い、バックハンドのボレー・ウィナーでもう1本ミニブレークを奪って4-3とした。そしてサーブに臨んだ――これ以上はない筋書き。

それからの90秒間で、タイブレークは手をすり抜けていった。サンプラスらしくもない2つのフォアハンドエラーで。試合、大会、使命も、それに続いた。

あっという間に、サンプラスは意気消沈状態になった。カフェルニコフはそれに気づき、ギアを上げた。45分のうちに、ロシア人は残り2セットを6-0、6-2というスコアで駆け抜けた。その間の大半、サンプラスはうなだれて、気乗りしないポイントをプレーするためにだけ視線を上げるという状態で、観客を敵に回さんばかりだった。フランス人観客は、トレードマークとも言える嘲りの口笛は控えたが、チェンジオーバーの最中には、失望と狼狽でざわめいた。それは気持ちをおのずと表していた。

口にしたくもない事だが、サンプラスは試合を投げたように見えた。「正直に言って、ショックを受けた」長年彼を見てきて友人でもある1人は、名前を明らかにしないよう頼んだうえで言った。その発言に自分の名を続けたくなかったからだ。「ピートは試合を捨てた」

「第1セットを失った後、ピートは限界に達したのだと思う」とトム・ガリクソンは語った。「これまでの5試合でかかった14時間の累積が、いわば彼を無力にした」

「感情に頼っていても、やがては尽きる」

しかし、これほどまでに? サンプラスにはエースが9本しかなく、散歩にも等しかった第2セットでは、1本もなかった。それはイボンヌ・グーラゴンのどんな仰天発言にも匹敵した。エースの代わりに、サンプラスは9つのダブルフォールトを記録した。進歩した彼のリターンは、その午後は鳴りを潜めていた。堅実ではあるが目を見張るほどでもないカフェルニコフのサーブに対して、ブレークポイントにさえ達しなかった。34のアンフォースト・エラーが、無理強いを補完した。

それは多分、空前とも言えるサンプラスの崩壊だった。過去5試合の奮闘を考えると、さらに悪くさえ見えた。

サンプラスは語った。「第1セットの後は、風船が割れたみたいだった。とにかく、もの凄く疲れていた。大会に来た時、僕はベストの体調ではなかった。それに過去1週半にわたる長い試合が(加わった)。とても失望している。ここへ到達するために、一生懸命に戦ってきたからね」

疲労を訴える彼の主張は、必ずしも納得のいくものではなかった。3回戦でマーチンに勝利した後、5セットを終えたばかりにも関わらず、かなり元気なのでもっと長くプレーする事もできそうだと話していたからだ。

大会第2週の火曜日に行われたクーリエ戦の後、サンプラスは1日休んだ。木曜日の午後、彼は1時間ヒッティングをした。金曜日の朝、さらに30分ボールを打った。

「気分は悪くなかった」と彼は言った。「第1セットはかなり良い調子だった。だがたとえ僕が第1セットを取ったとしても、試合に勝つまでは長い道のりだっただろう。もう少し涼しければ、助けになったかも知れない」

フロリダの住民が暑さに悩まされたと主張するのは、まあ、ロシア人がウオツカを辞退するようなものだろう。

カフェルニコフは、優勝祝いについて考えるにはまだ2日あったが、サンプラスは怪我をしたのかと思っていた。彼のボディ・ランゲージはそれほど消極的だった――サンプラスが否定した要因。しかしロシア人は、昨年12月のデビスカップ前、そして最中にはひどく生意気で、サンプラスのクレーコート技能を無遠慮にけなしていたが、それはさておき、対戦相手は何かがおかしいと気づいていた。

カフェルニコフは言った。「ピートがコートでどれほど速く動くか、みんな知っている。何かが起きていたんだと思うよ、きっとね。もしかしたら背中。彼はコートで見慣れているいつものピートではなかった」

「今日は、ピートを倒すチャンスが少しはあると考えていた。僕は万全の態勢で、試合中はずっと集中していた。そして、それは起こった。僕は彼を3つのストレートセットで破ったんだ」

カフェルニコフのプレーは傑出していたが、サンプラスはその事から小さな慰めを得た。彼の見いだした慰めの源がなんであれ、それはここまで5回の勝利、特にブルゲラに対する勝利から来るものに違いなかった。そしてティム・ガリクソンが棺に納まったイメージと向き合いながらも、可能な限り長く踏み止まったという事実から。彼は葬儀の場で、その棺を最終的な安らぎの場へ運ぶ一員を務めたのだ。

『テニスマガジン』のピート・ボドは述べた。「ピートは明らかに、非常に神経をすり減らしていた。カフェルニコフ戦の出来で、彼をこき下ろす事もできる。しかし確かに、選手にとって『限界』というものは存在するのだ」

そしてトム・ガリクソンと同様、サンプラスはそれにまともに出くわしたのだとボドは感じた。

サンプラスは事態の説明を委ねられた。そして少なくとも、かなり励みとなるものが窺えた。

彼は語った。「ここで優勝するチャンスを得るところまで迫ったのだから、もちろん非常に気落ちしている。だがこんな状況の下で、僕は全力を尽くして戦い、何人かのとても優れた選手を倒したように思う。自分のクレーコートゲームについて良い感触を持って、ここを去る事ができる。多くの感情的な試合……。こんなのは経験した事がない。精神的にも、肉体的にも、そして感情的にも、恐らくキャリアを通して(これほど疲れた事はない)。夏に長い試合をした後、肉体的に疲れを感じた事はあるが、今回は恐らく最悪だったと思う」

その証拠に、サンプラスは次の週にロンドンで始まるクイーンズクラブ・グラスコート大会を欠場した。「家に帰って、ラケットを手放し、そしてコートは見ないと決めた――特にクレーコートはね」



<関連記事>
テニスマガジン
1996年7月20日号
サンプラスの涙



サンプラス - クーリエ:対戦成績

勝利という点では、ピート・サンプラスはジム・クーリエを圧倒してきた。しかし彼らの試合は、大半が信じがたいほどの接戦だった。

サンプラス vs クーリエ
1996年8月:サンプラス15勝、クーリエ3勝

大会
サーフェス
勝者
スコア
1988スコッツデール 2回戦
ハード
サンプラス
6-3、6-1
1991シンシナティ 準決勝
ハード
サンプラス
6-2、7-5
1991インディアナポリス 準決勝
ハード
サンプラス
6-3、7-6
1991USオープン 準々決勝
ハード
クーリエ
6-2、7-6、7-6
1991ATP最終戦 決勝
カーペット
サンプラス
3-6、7-6、6-3、6-4
1992インディアナポリス 決勝
ハード
サンプラス
6-4、6-4
1992USオープン 準決勝
ハード
サンプラス
6-1、3-6、6-2、6-2
1992ATP最終戦 準決勝
カーペット
クーリエ
7-6、7-6
1993香港 決勝
ハード
サンプラス
6-3、6-7、7-6
1993ウインブルドン 決勝
芝生
サンプラス
7-6、7-6、3-6、6-3
1994オーストラリアン 準決勝
ハード
サンプラス
6-3、6-4、6-4
1994リプトン 準決勝
ハード
サンプラス
6-4、7-6
1994フレンチ 準々決勝
クレー
クーリエ
6-4、5-7、6-4、6-4
1995オーストラリアン 準々決勝
ハード
サンプラス
6-4、6-7、6-3、6-4、6-3
1995USオープン 準決勝
ハード
サンプラス
7-5、4-6、6-4、7-5
1995エッセン 準々決勝
カーペット
サンプラス
6-2、7-6
1995パリ・インドア 準決勝
カーペット
サンプラス
6-4、3-6、6-3
1996フレンチ 準々決勝
クレー
サンプラス
6-7、4-6、6-4、6-4、6-4