第4部:フレンチ・オープン
第15章 可能性を秘めた、クレーのカモ


もちろん、ピート・サンプラスがクレーに順応するには時間を要するだろう。カリフォルニアのパロス・ベルデスで育ち、ハードコートが全てだったのだ。子供時分にクレーコート大会でプレーしたのは、1年に1回くらいだったとサンプラスは見積もる。多くても。

また、当時サンプラスのコーチだったピート・フィッシャーが目論んだ、大いなる転換も考慮しなければならない。ウインブルドンやUSオープンのような速いサーフェスで、長期的展望に基づく結果を引き出すために、彼は両手バックハンドをやめて片手打ちに変えるという方針を告げた。振り返るに、フレンチ・オープンのタイトルは放棄していたのか?

恐らくそうではない。サンプラスが両手打ちで、こつこつ打ち続けるメンタリティを身につけていたら、結局は、画家がコマーシャル分野で仕事を求めざるを得ないような事態になっていただろう。

プロツアーにおけるサンプラスのクレーコートでの結果は、彼のジュニア時代の大会成績にたとえる事ができる。いずれもパッとしない、しかし共に進化を遂げる。

あるいは、消滅する? 1989年、サンプラスがフレンチ・オープンに初出場した時点では、進歩は遠い道のりに見えた。1回戦に勝った後、彼はマイケル・チャンと対戦した。チャンは17歳3カ月で、史上最年少フレンチ・チャンピオンとなる途上だった。チャンはサンプラスに3ゲーム――各セット1ゲーム――しか与えなかった。

サンプラスは90年にはフレンチをスキップしたが、翌年には出場して、またしても当惑するような結果を残した。彼は1回戦でトーマス・ムスターを5セットの末に破ったのだ。だが次のラウンドでは、フランスのティエリー・シャンピオンにストレートで敗れた。

1992年の大会までには、サンプラスはガリクソンと共に仕事を始めていた。そしてゆっくりと、風向きが変わり始めていた。その年パリで、突如として彼は強力な競技者となり、準々決勝まで進出してアガシに敗れた。彼はその年(クレーで)8大会に出場して、クレーでの成績は23勝8敗だった。

「僕は(今や)、クレーで1ポイントを勝ち取るためには20〜30回のラリーが必要だと理解したんだ。ステイバックしてグラウンドストロークを打ち合うのも平気さ」と、92年にサンプラスは語った。「クレーでプレーするには、より激しいメンタリティが必要だ。そして打ち続ける事を厭わない気持ちでいなければならない」

93年、初めてナンバー1の座に就いてからほんの4週間後、再び準々決勝で、彼はその年のチャンピオンとなったセルジ・ブルゲラに阻まれた。4セットでの敗戦だった。

3大会連続でメジャー大会に優勝し、94年のフレンチでは、彼は優勝候補の1人となっていた。クレーコートのタイトルは1つだけだったが。92年にオーストリアのキッツビューエルにおいて、彼は決勝でアルベルト・マンシーニを下して優勝したのだ。だがその年、彼は既に7大会で優勝し、ナンバー1の座を確固たるものにしていた。

順位ゆえに2年連続でフレンチのトップシードとなっていたが、サンプラスはその座を根拠あるものとする準備ができているように見えた。少なくとも可能性はあった。そして機は熟していた。

サンプラスにもう少し自分を信じる事ができさえすれば。そうは見えなかった。その春ヨーロッパへ出発する前、彼の慎重で楽天的な態度には、敗北主義的なトーンがあった。

「僕はクレーに立つと、いつもより少し脆いような気になるんだ。クレーで僕と対戦する相手は、自分にかなりチャンスがあると感じているだろう。基本的に、僕のゲームはあのサーフェスに向いていない。サーブはあまり効果的でなくなり、アガシのようにリターンの上手い相手とやると、多くの問題が生じる」

「僕がクレーで上手くプレーするには、極度に辛抱強くなり、ネットへ出る機会を選ばなければならない。でも徐々に良くなっていると思う。1992年は言わば、僕はクレーでプレーできるんだと自分自身に納得させるために越えるべき山だった。僕がいつかフレンチで優勝するには、まだ道のりがある。だが現実的な可能性だと考えている。それが今年、来年、あるいは5年後であれ、ある年に僕は乗り切る事ができるように感じている」

サンプラスはこれらの言葉を記者会見で弁護した。自虐的ではないが、どちらかと言えば「現実として。そうでなければいいと思うよ。でもそれが僕の感じ方なんだ。ハードコートでは、自分の(ベストの)テニスをすれば勝つ筈だと感じるのに対して、クレーだと僕は弱くなるように感じる。そういう事なんだ」

サンプラスのチャンスを値踏みするのは、94年のフレンチで最も興味をそそる事だった。そして概ね、本人よりも他の人々の方が、彼のチャンスに肯定的だった。

彼のアイドル、ロッド・レーバーは、自身の攻撃的ゲームを上手く調整して、1962年と69年の2度、フレンチで優勝していた。彼は『テニス・マガジン』誌に「サンプラスがフレンチで優勝できる方法」というタイトルで所見を述べた。

レーバーの概要:サンプラスはサーブをほんの少し抑え、もう少しリターンを追って、そして最大限ネットへ詰める必要がある。レーバーは精神の強靭さも説いた。時折サンプラスが見せるふとした気持ちの弛みは、クレーコートではあってはならないと指摘した。

レーバーはまた、サンプラスの堅実さは向上してきたと指摘した。少なくともその時点では、サンプラスは自信ありげな発言をしていた。

「僕は世界の誰とでもラリーをして、生き残る事ができると感じているよ。それにフレンチ・オープンのコートは充分に速くて、(大いに攻撃的な)選手が優勝する事も可能だと思っている」

*     *     *

93年のウインブルドンとUSオープンに引き続き、サンプラスは1994年オーストラリアン・オープンでも優勝し、3大会連続でメジャー優勝を遂げたところだった。その圧倒的な独走は、必然的に94年フレンチへと結びついていった。もう1つのグランドスラム・タイトルを獲得するという話題は、グランドスラム制覇という事ほどには盛り上がらなかったが。

グランド・スラム。かつて、それら2つの単語は、1年間に4つのメジャー大会を制覇する事を意味した。オーストラリアン、フレンチ、ウインブルドン、USオープン。ゴルフ界と同様(マスターズ、USオープン、全英オープン、PGA)に。1980年代には、その言葉は4つのメジャー大会の各々を指す呼称となった。

サンプラスがこのような閑話を呼び起こすには完璧なタイミングだった。25年前、レーバーは2度目のグランドスラムを制覇していた。最初の時から7年後の事だった。2回の画期的な偉業の間、レーバーはプロとしてプレーしていたため、テニス界がオープン化するまで大会から閉め出されていたのだ。そしてドン・バッジがテニス界で初めてグランドスラムを制覇してから31年が経っていた。

バッジとレーバーの他には、年間グランドスラムを制覇したのは3人だけである。1953年にモーリーン・「リトル・モー・」コノリー、70年にマーガレット・スミスコート、88年にシュテフィ・グラフ。

1994年5月、サンプラスもまた、確かにそれを成すチャンスがあるように見えた。レーバーに対するサンプラスの感情、かつての偉人達のスタイルと規範を呼び起こそうとするサンプラスの試みにレーバーが送る敬意を考え合わせると、なんと素晴らしい可能性に満ちた話だっただろう。

レーバーは過剰な騒ぎが起こるのを見越して、『テニス・マガジン』の記事で速成の対処法についても触れた。

「(テニスにおいて)自分が自分にかけるプレッシャーは、説明しがたいものがある」とレーバーは記した。「従って、ピートがグランドスラムを狙う事については、記者会見であまり語らない方が良い。そして……(そのような討議を避ける事が)彼のしている事だ。自分にプレッシャーをかけない方が望ましい」

特にメディアが食いつき始めている現状では。

1994年が始まると、既に報道陣の多くは「レーバーの69年」の記念記事に取りかかっていた。あるいは企画段階にあった。普通の状況においてなら、素晴らしい物語だ。男子テニス界は今日ほど選手層が厚くなかったとはいえ、やはり厳しかったのだ。特にメジャー大会の4回戦からは。さらにレーバーの69年が心を掴んで離さないのは、彼が62年に一度は去った場で、再び成し遂げたという事であった 。

しかし今、サンプラスが94年オーストラリアン・オープンで優勝すると、突然、新しい考察が表面化し、続けられた。フレンチが近づくにつれて、その話を避ける事はできなくなった。

「もちろん、(年間グランドスラム制覇は)大いなる事だ」とサンプラスは語った。「現在それを達成するのは、かなり厳しい偉業だと思う。僕にできないとは言わないが、1年間に4大会すべてで優勝するのは、レーバーの時代よりも難しいだろう。彼の成した事が偉大でないという意味じゃないよ。(今日それを成し遂げるのは)確かに何らかの素晴らしい物語だろう」

「(今のところ)僕はフレンチで1試合ずつ臨んでいくつもりだ。それが僕の目指しているものだ。1年のそんな先までは考えていない。だが僕はレーバーを尊敬してきたから、(グランドスラムを達成したら)もちろん最高だろうね。彼が成した事は……うん、これ以上の事はないよ」

レーバーのした事は何でも、サンプラスには結構な事だった。マッケンロー / コナーズ時代の後に訪れた不振にいまだ苦しみ、アガシのコマーシャリズムによって人工的に高揚させられた1990年代の基準に照らすと、ロケット(レーバー)は恐らく自分のように、退屈と見なされただろうと指摘するのを彼は好んでいるのだ。

グランドスラムを制覇する事は、レーバーとの最高の繋がりをもたらし、そして実際、カリスマ不足と言われる彼に最高の砦をもたらすであろう。

「メディアはこの25〜30年、選手がコートでする事よりも、性格とかオフコートでしている事に関心があるようだ」とサンプラスは語った。

「ロッドやローズウォールが活躍した時代、彼らはテニスをして、そして(その間)品格のある人間だったんだ。僕はそうありたい。僕に僕ではない別の誰かになる事を望む人もいるが、そういう事はしない。僕は(コート上でもオフコートでも)同じ人間だ。コートに出て全力を尽くし、勝とうとする。それがある人々にとっては不満足だとしても、僕はそれを受け入れていくしかない」

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"Putting out fire with gasoline."(ガソリンで火を消す)

デビッド・ボウイの不気味な歌の歌詞(映画「キャット・ピープル」よりPutting Out Fire)はさておき、それら5つの単語は、サンプラスがヨーロッパへ向かい、イタリアン・オープンで優勝した後に起こったグランドスラムに関する大騒ぎを要約していた。彼のキャリアで2回目のクレーコート大会優勝に過ぎなかったが、ボリス・ベッカーの初優勝を阻止した。

これは、非常に大きい。ローマはキッツビューエルではない。ローマはメジャー大会に次ぐ格付けで、過去の優勝者には並外れたクレーコーターから、いかなるサーフェスにおけるチャンピオンまでが名を連ねている。ビル・チルデンは1930年にイタリアン・オープンで初優勝した。レーバー、ビョルン・ボルグ、イリー・ナスターゼは2度タイトルを獲得した。そして、サンプラスには励みとも前例ともなるが、この大会を制したサーブ&ボレーヤーもいた。66年のトニー・ローチ、69年のジョン・ニューカムである。

だがフレンチ・オープンにおいては、パワー・プレーヤーには滅多に微笑まない歴史に、サンプラスは立ち向かう事になるだろう。ある意味でフレンチは、優勝した者よりも優勝しなかった者を見る方が、興味深いと言えるのだ。

チャンピオンのリストを見てみよう。ボレーヤーを見つける事、それはゲームだ。わずかな落ち穂拾い。

リストにない者の1人はマッケンローである。彼は一度、惜しいところまで来た。1984年の決勝戦で、イワン・レンドルに5セットでつぶされた。ニューカム? とんでもない。ステファン・エドバーグは1989年の決勝戦でマイケル・チャンに敗れ、以後はチャンスがなかった。

攻撃的プレーヤーをリストから見つけるには、1983年に遡らなければならない。それにさえ注釈が付く。フランス人のヤニック・ノアは実際のところオールコートの才人であり、その年はいちかばちか賭けてみる余裕があった。彼のライバル達は、その2週間に存在した愛国的な感傷と運命の紛れもない刻印によって、ひどく狼狽していたのだ。

今、サンプラスは運命に挑もうとしていた。イタリアン・オープンは彼のクレーにおける能力を証明し、そして彼がフロリダの燃えるような太陽の下、ガリクソンとフィットネスの権威エチェベリーに駆り立てられてきた長い時間を正当化していた。

もはやサンプラスはクレーのカモではなく、ようやく自信も高まり、最善を尽くしてレーバーを見習おうと決意し、パリへと飛んだのだ。

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サンプラスは易しいドローを望んでいた。

それを得る事はなかった。

1回戦の相手アルベルト・コスタは、19歳のバルセロナ出身のベースライン・プレーヤーで、ランキング表を駆け上がるプロ2年目の選手だった。彼は1993年を221位で終えたが、この年の年末には52位まで上がり、 ATP ツアーの1994年新人賞を獲得するに至った。

彼はまた、ローラン・ギャロスでの戦い方を心得ていた。前年、ジュニア最後のシーズンに、彼はフレンチ・ジュニアの男子決勝に進出していた。1993年の終わりには国際オレンジ・ボウルで優勝し、世界ジュニアの4位で終えた。

非常に恐しい存在。

しかしサンプラスは、接戦にもなり得た試合をストレートセットで簡単に勝利した。それから2回戦で待ち受ける似たような任務について思いを巡らした。マルセロ・リオス、18歳のチリ人は、さらにもう少し恐しかった。彼は1993年の世界ナンバー1ジュニアで、USオープン・ジュニアで優勝していた。コスタと同様に、ATP ランキングは急上昇中だった。

コスタと同様、彼もストレートセットで屈服した。しかし最初の2セットではサンプラスをタイブレークにまで追い込み、ショット・メイキングの能力と図太さで観客を味方にした。

このような励みになる結果を得て、サンプラスはオランダのポール・ハーフースとの3回戦に勇んで臨んだ。ハーフースはツアー8年目の選手で、世界のトップ・ダブルスプレーヤーを目指す一方、シングルスでは著名な対戦相手を打ち負かした事で名を上げていた。

1989年のUSオープンでは、メジャー大会2度目の出場にして、 ジョン・マッケンローから番狂わせの勝利を上げた。2年後のオープンでは、ボリス・ベッカーを打ち負かした。92年、彼はイワン・レンドルとマイケル・チャンを仕留めた。93年にはゴラン・イワニセビッチを捕らえた。

彼がサンプラスと対戦した事は一度もなかった。初対戦は忘れ難いものだった。サンプラスは大会で初めて気持ちよくプレーし、99分の圧勝で6ゲームを失っただけだった。サンプラスの10本のエースは、ほどほどの数だった。だがレーバーはどこかで微笑んでいた。サンプラスはサーブを少し抑える事で、多くのサービス・ウィナーを得たからだ。

サンプラスは語った。「(こんな風に)サービスを打つと、かなり楽になるね。多くの短い、容易なポイントを得る。僕はサーブが上手くいくと、残りの部分もより上手くやり遂げられるんだ」

「(この試合では)僕がクレーですべき方法でプレーできた。今はより自信を感じている。ここに着いたばかりの時は、(大会で優勝する)チャンスがあるとは思えなかった。今はその事について、もっと気分良く感じるよ」

「最初の2ラウンドでは、ボールをあまり上手く打てなかったが、(今回は)とても上手く打ったように思うよ。僕はハーフースに彼のゲームをするチャンスを与えたくなかった。それに関して僕は上手くやった」

優勝の見込みに関する「180度の転換」とも言うべきサンプラスの公式発言は、失墜への始まりだった。彼の4回戦に関する紙上の見解もまた。対戦相手のミカエル・ティルストロムは、本戦ドローに入るため予選を勝ち上がらなければならなかった。世界ランクは226位だった。彼はトップ10選手と対戦した事が一度もなかった。そしてサンプラスは、先の事、準々決勝で1991・92年のフレンチ・チャンピオンであるジム・クーリエと対戦する事を考えていたに違いなかった。

最初の2セットは順調に進み、どちらも6-4でサンプラスが取った。信じられない事に、その時点で試合が手から零れていった。ティルストロムが6-1で楽に取った第3セットは、サンプラスが大会で初めて失ったセットだった。第4セット、3-4サーブでは、サンプラスは4つのブレークポイントを凌いだ。彼はその後ラブ(0)ゲームでブレークして5-4リードとし、自分のサービスゲームで試合を首尾よく終えた。それから適切な釈明を探した。

「気持ちのよい出来ではなかったが、僕は仕事を片付けた」と彼は語った。「それが基本だ。まだ家には帰らないよ」

クーリエもまた4回戦で苦労したが、オリバー・デレートルを4セットで仕留めた。そして、サンプラス曰く「戦争」をお膳立てした。

それはサンプラスとクーリエにとって、13回目の対戦だった。サンプラスが10勝2敗でリードしていた。だが、彼らはクレーで対戦した事がなかった。それはサンプラスがいかにこのサーフェスで苦労してきたかを示唆している。クレー大会では、彼はクーリエと当たるまで長く残っていた事が滅多になかったのだ。

「恐らくジムは世界最高のクレーコート・プレーヤーだろう」とサンプラスは1993年に認めていた。「僕はこれまでよりずっと高いレベルでプレーしなければならない。僕たちは互いのベストを引き出し合う。厳しい試合があるとすれば、これがそうだ。そして彼の方が少し優勢だと考えねばならない。僕にとっては大きな挑戦になるだろう」

あまりにも大きな。クーリエによる4セットでの勝利は、レッドクレーの影響を説明していた。サンプラスのパワーはさほど重要ではなかった。クーリエは最も得意とする事ができた――ベースラインに留まり、とことん強打する事。サンプラスはグラウンドストロークの応酬に引きずり込まれ、ボレーウィナーは4つしか決められなかった。

年間グランドスラム制覇の夢は潰えた。そして「年間でない」グランドスラムの夢も――2年間にまたがって4大会連続でメジャーに優勝する事。本物のバージョンより価値は薄まるが、それでもなお堂々たる偉業である。

「クレーは僕のサーブを制限し、彼のフォアハンドを助けた」とサンプラスは語った。「僕は攻撃し、もっと前へ詰めるべきだった。自分にもチャンスがあると感じていた」

いずれにせよ、サンプラスが大会に優勝するのは困難を極めただろう。クーリエではなく、前回優勝者のセルジ・ブルゲラが、最高のクレーコーターとして名乗りを上げた。ブルゲラは準決勝でクーリエを、そして決勝でアルベルト・ベラサテギを下した。ブルゲラはほぼ間違いなく、熟練のパッシングショットでサンプラスを捌いただろう。

大会が終わると、サンプラスは世界のナンバー1選手ではあるだろうが、足元が汚れるボールパークでは、彼はクーリエ、あるいはブルゲラと同じレベルとは言えなかった。フレンチ・オープン優勝へ本格的に向かうには、少なくとも1〜2年――もしくは3年分――は離れていた。

多分もっと長く。

*     *     *

1995年フレンチ・オープンの基礎準備を始めると、サンプラスは全てが混乱する事になった。

3年連続で準々決勝進出を果たした94年の手堅い奮闘に元気づけられたのか、彼はフレンチに先立つヨーロッパのクレーコートシーズンに、いち早く飛び込む決心をした。さらにその前には、イタリアのパレルモへ行き、クレーで行われるデビスカップにも出場した。合衆国の完封勝利の中、彼は2試合とも勝利して、競争の激しいパリの2週間に向けて希望を膨らませた。

そこから彼は意欲的なスケジュールに乗り出し、そして大破した。彼はフレンチの前に4大会でプレーし、3大会で1回戦負けを喫した。1回は、足首の捻挫による途中棄権だった。ハンブルグでの準決勝進出が、この不運な冒険旅行のハイライトだった。たとえその一文は、全てを語ってはいないとしても……。

パリでは厳しい1回戦がサンプラスを待ち受けていた。ジルベール・シャラー、オーストリアのクレー・スペシャリストは世界24位で、シード選手にはならなかった。

シャラーには攻撃性はさほどなかったが、生涯を通して堅実さを保ち続けるようなタイプの選手だった。しかしクレーで、そもそもホームにおらず、さらに自信を欠いている相手にとっては不吉な前兆である。

シャラーの衝撃――2-1のセットダウンから、2日がかりでの5セットの勝利――は、再びサンプラスに荷造りさせ、タンパに帰らせる事になった。突如として魅力的に見えてきたウインブルドンとグラスコートへ向けて出直しを図るため、彼を自宅へ送り返す事になった。

サンプラスは語った。「この敗戦は尾を引くだろう。僕は年間スケジュールを変更して、クレーでの試合を増やした。そして自分のクレーコートゲームを進歩させようとしてきた。1回戦でタフな相手と当たり……チャンスもあったが、及ばなかった。今年のクレーコートシーズン全体が、そんな感じだった。これは不要なおまけといったところだ」

悲惨な春のシーズンとなったが、それでもサンプラスは、自分にはクレーコートテニスを会得する力があると主張した。サーフェスに関わらず彼のゲームの点火スイッチとなる、自分のサーブに責任を負わせた。「サーブの出来が悪いほど、僕はクレーで苦しむんだ」

これは荒廃ではなかったが、かけ離れてもいなかった。サンプラスは試合後の無味乾燥な記者会見の質疑にうんざりしていた。1995年の4月以降、サンプラスは4回ヨーロッパからタンパへと帰っていた。彼は翌日5回目の旅をし、ウインブルドンの前に休みをとる事になる。旅行と時差ぼけが悪影響を与えたのではないかと、ある記者は知りたがった。そして特に、ウインブルドンまで3週間しかないのに、なぜサンプラスが家に帰るのか疑問に感じていた。「身体に負担をかけすぎてはいませんか?」と彼は尋ねた。

サンプラスの返答:「今までで最悪の質問の1つだな」

素早い応酬の後、サンプラスは続けた。「僕はここで何をするんだい? ここにいろっていうのかい? ロッカールームにでもいろというのか。ヨーロッパに留まるつもりはないよ」