第4部:フレンチ・オープン
第14章 ドロー運


きっと、誰かが冗談を言ったに違いなかった。1981年ウインブルドンでマッケンローが叫んだ台詞を思い出すには充分だ。「真面目にやれ!」

厳しいドローというものは、確かによくある。しかしサンプラスの1996年フレンチ・オープンでの道のりは、信じられないほど苛酷だった。1回戦の相手がまずまずのスウェーデン選手、マグナス・グスタフソンというだけで、充分に厳しかった。それを通過すると、2回戦では1993〜94年のフレンチ・チャンピオン、セルジ・ブルゲラと対戦する見込みが濃厚だった。

ブルゲラは足首のひどい怪我から復帰する途上で、世界ランキングがトップ16外に落ちていたため、シードされていなかったのだ。フレンチ・オープンのシード委員会は、最新の ATP ツアー世界ランキングを厳密に遵守し、シード選手の配置リストから彼を除外していた。

ブルゲラに対する侮辱だったが、サンプラスにとっては、ノックアウトを喰らう大いなる可能性だった。ブルゲラの後は――先を見るならば――同僚のアメリカ人、トッド・マーチン、そしてジム・クーリエとの対戦が予想された。その全てに勝ったとして、ようやく彼は準決勝に辿り着き、タイトルまではなお2つの勝利が必要だった。

良い状況には見えなかった。前年の冬にサンプラスがデビスカップ決勝で見せたプレーは、イギリス人が「一回限り」と呼ぶものだと見なされた。いわば週末に演じ終わったドラマ、秘密の一撃で、2週間という期間に再現される事はありそうもないとされた。

前例。それはグランドスラム大会のチャンピオンたり得る者を見る時に、探すものである。サンプラスとフレンチを繋ぐものは、何も見いだし得なかった。

サンプラスは語った。「僕はあそこでいいプレーをしてきた。だが答えを見つけようとしている進行中の状態なんだ。僕があそこで勝つのは、ただ難しい、難しいんだ。今年がその年であればいいね」

偶然であろうがなかろうが、フレンチが近づくにつれて、サンプラスはデビスカップ決勝戦を思い返していた。

「僕がクレーで抱えている問題は、忍耐強さだ」と彼は認めた。「クレーに立つと、まったく新しい気分になる。デビスカップでカフェルニコフと対戦したやり方は、僕が(クレーで)プレーすべき方法だ。ネットへ詰め、自分の強みを使う。あの試合が6カ月以上保たれているといいな。でも何とも言えないね。僕はフレンチについて、そしてクレーで上手くプレーしようとする事について、たくさん話してきた。話をするのは止めて、ただプレーしなければならないんだ」

プレーするだけ――それはドローが発表された後、サンプラスのお決まりとなった。不運にも、痛めた背中にも、あるいは事態をいっそう面白くするのに間に合った突然の軽い風邪についても、不平を言わず、嘆かなかった。

その代わりに、サンプラスはティム・ガリクソンが植え付け、そして磨き上げた率直な態度を示した。

1回戦でグスタフソンを下した後、サンプラスはブルゲラに目を向けた。障害物コースとなった感のあるドロー全体を見据えた。運命を受け入れはしたが、今までのグランドスラム大会で最も厳しいドローだと指摘した。

「もちろん、第1週にはより易しい道のりがいいよ。だがそれはドロー運だ。セルジは厳しい相手だよ」

大いにモチベーションを持ち、サンプラスは大会優勝について話す大胆ささえ見いだした。次のラウンドを考えると、語るには驚くべき話題だった。

「確かに、4つ全てのメジャー大会に優勝する以上の事はないよ。それを全て1年でやる以外にはね。それをするのは非常に難しい」とサンプラスは語った。

「僕の考え方は、大きな挑戦だという事だ。でも僕には(フレンチで)上手くプレーするゲームがあるように思う。もしそれが今年なら、素晴らしいね。もし来年なら、やはり素晴らしい。ある日、難関を克服して、物事が言わばあるべき所に落ち着く事。誰と対戦するか、自分がどのようにプレーするかまで……。フレンチ・オープンは特別な1つの大会だ。ばぜならもちろん、僕は優勝していないからだ」

「僕はいつだってフレンチを狙ってきたんだ。それを(公には)口にしないかも知れないけれど。心の奥深くでは、状況が何であれ、僕は優勝できるように感じている」

ティムの話をしようか?

「自分を勝ち目の薄い側だとは思わない。僕は勝つ事を期待される者だと感じている。大会の優勝候補ではないが、非常に危険な存在になり得る者だと」

サンプラスは以前、ローラン・ギャロスでは危険な存在だった。マルク・ロセ、マル・ワシントン、マルセロ・リオスに対する勝利――1991年1回戦ではムスターにさえ――は、レッドクレーにおける何らかの可能性を示していた。

ガリクソンはクレーの福音を説き聞かせて、ポイントを重ね、ショットを重ね、思案を重ね、こつこつと試合を切り抜けていく事に誇りを持つようサンプラスを激励してきた。その福音が彼に染み渡ったというかすかな光、兆候はあった。だが全体的には、不完全なプロジェクトだった。

サンプラスは語った。「クレーでは、より賢明でなければならない。多分この数年、僕にはそれが欠けていたのだろう」



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