第3部:オーストラリアン・オープン
第12章 撃ち落とされる


96年、サンプラスは95年の精神的重荷をオーストラリアに引きずっていた。彼はそれを認めたがらなかったが。そんな事を認めれば、上手くいかなかった場合、弁解と取られかねない。サンプラスは弁解をしない。彼は記憶の影響に動じない、平静で抑制の利いた態度を見せたいと望んでいた。

「たくさんの思い出が呼び戻されるだろう」と、彼は出発前に言った。「でも(大会においては)いつもと変わらないよ。1年経ったんだ」

大会が近づくにつれて、サンプラスの風邪は少し収まってきた。暑さに助けられたのかも知れない。1回戦ではリチャード・フロムバーグをストレートセットで下し、彼は健康に、だが練習不足で鈍く見えた。彼のサーブは安定せず、フロムバーグに10本のブレークポイントを許した。1本として成功はしなかったが。

「メジャー大会の1回戦は、いつだって通過するのが厳しいよ」とサンプラスは言った。「自分のフォームがどんな具合になるか不確かだった。現状では、僕はかなり上手くボールを打ったと思うよ。サーブは良くなかった。週が進むにつれて、僕のテニスがもっと良くなるといいなあ」

2回戦のジョイス戦は4セットでの勝利だったが、サーブの調子は良くなった。20本のエースがカギとなった。

「あれだけ多くのエースを打てば、自分のサーブを確実にキープしやすくなるよ」と彼は語った。

「サーブは最初の試合(フロムバーグ戦)よりずっと良かった。(全体的に)ボールはあまり上手く打てなかったが、サーブは調子良かった」

いいサーブを打つ事――サービス・エースを打つ事――から、たちまち次の試合、フィリポウシス戦に関する問答が始まった。

サンプラスは堅実である事が必要だと語った。テニス界でも有数のパワー・プレーヤーから、コート内にボールを返す事について頭を悩ますと聞くのは、フィリポウシスについて多くを物語っている。

「彼は危険だ。ツアーで最も危険な男の1人だ」とサンプラスは言った。

「彼はビッグサーブを持っていて、優れたグラウンドストロークでそれをバックアップする。USオープンでは危険な試合となった。第1セットを失った後、僕はいわば出直して、苦難を乗り越えて最終的に勝ったんだ。彼に対する僕のプランは、とにかくボールを捕らえて、できる限り彼にプレーさせる事。全てはそこからだ」

「マークは武器を持っている。それは新人が出てきた時、僕が最初に見る事だ。武器を持っているかどうかをね。(ニューヨークで)対戦した時、かなり感銘を受けたよ。彼を動かす事ができれば、素晴らしいね。僕はネットでできるだけ主導権を握る側になりたい。そうでないと、彼が主導権を握りたがるだろうからね」

さらに、ホームタウンの問題があった。サンプラスは今回、メルボルンのギリシャ人を当てにする事もできなかった。フィリポウシスは彼らの1人だからだ。

「USオープンで彼と対戦するのも厳しかったよ」とサンプラスは語った。「ファンは彼につくだろう。でも僕は以前にも、こういう状況を経験してきた。勝ち抜けられるといいなあ。(こういった状況では)良いスタートを切り、観客を試合から閉め出そうとするんだ。デビスカップの試合みたいになるとは思わないが、観客は彼に味方するだろうね」

フィリポウシスは、「サンプラスと対戦する事については考えない。結果は気にしない。素晴らしい雰囲気になるだろうから、僕はただ楽しむように努めて」うまく対処すると語った。

思いがけない展開があった。理屈上、試合は屋内でプレーされる事になった。センターコートの格納式屋根は、雨のためにその日の早い時点で閉じられたのだ。屋根は閉じられたままで、湿った空気を閉め出して、フィリポウシスのサーブをいっそう厳しいものにした。

彼はサンプラスに対して29本のエースを放った。向かってくる者にフォアハンドを叩きつけた。サンプラスは3セットで消えていった:6-4、7-6(11-9)、7-6(6-3)だった。

彼のナンバー1ランキングもまた然り。アンドレ・アガシは準決勝に進出し、短期間ではあったがその地位に就いた。2月初旬にはトーマス・ムスターがナンバー1の座に就き、ATP ツアー・ランキングの正当性に関する半年間の議論が始まった。

サンプラスとフィリポウシスの間で起きた事については、議論の余地はなかった。

「彼は今日、ただもう絶好調だった」とサンプラスは語った。「試合に臨むにあたって唯一気に掛けていたのは、彼が好調かどうかだったが、間違いなく最高潮だったよ。3セットの間、彼がそのレベルを維持できたのには驚いた。僕は彼のサーブを返せそうもなかった」

完全に正確という訳ではない。サンプラスは最初の2セットで、1本ずつブレークポイントを掴んだのだ。第3セットでは、サンプラス――彼は自分のサービスをブレークされたが、試合全体で1回だけだった――は、フィリポウシスのサービスで5ポイントしか取れなかった。

フィリポウシスはテニス・ニルバーナ(涅槃)、ゾーンとして知られるあの世に踏み込んでいたと語った。

「まるで望む時はいつでも、トスを上げてエースを取れるみたいに感じていた」と フィリポウシスは言った。「信じ難いほどの気分だった。つまり、前にも感じた事はあるけど、自分がサーブでミスをするとは思えなかったよ」

「良かったのは自分が試合の間じゅう、とても上手く集中していた事だ。集中力を失うかも知れないと思っていた。第3セットで何本かのブレークポイントを握り、それを取れなかった時にね。だが驚くべき事に、試合が進むにつれて、僕はどんどん良くなっていくかのようだった」

勝利へのチャンスが来た時、ただ上手くプレーするのではなく、それを狙いにいき、 フィリポウシスはUSオープンでの経験を生かした。

「グランドスラム大会の3回戦は初めての経験だったし、僕は巨大なセンターコートでピート・サンプラスと対戦していた」と彼は言った。「初めての時は、ただその場へ出て楽しみたいだけだった。(今回は)自分にチャンスを与えた。勝つチャンスを掴まないなら出場する意味はないからね。彼が誰なのかを忘れ、1人のプレーヤーにすぎないと考えたかったんだ」

行うより言うは易し。

「僕はピートをとても尊敬している」とフィリポウシスは語った。「ボリス・ベッカーもね。彼らがコート上で自分をコントロールするやり方ゆえに。ピートはとても冷静だ。やる気満々の時でも――きっと彼は内面で燃えているんだろう――それをあまり見せない」

「第2・第3セットを見たよ」とアガシは言った。「3回戦の試合で、ピートがあのレベルのプレーで多くの男を倒すのを見てきた。だが確かに、彼が70パーセントじゃなくて85パーセントでプレーしなければならなくなるようなドローの1つだったね。彼は70パーセントの状態だった。でも彼が試合全体で1回しか自分のサーブを失わなかったという事実は、彼がいかに競り合ったかを物語っているよ」

「しかし……フィリポウシスは殆どミスをしなかったようだ。ピートがその幾らかを当てにしていたのは確かだ」

「彼は確かにとても才能豊かだ」とサンプラスは言った。「彼が堅実性を保てるかは、時が語るだろう。USオープンで対戦した時は、彼にはアップダウンの波があって、僕はそれを生かす事ができた。今回は、彼はそういう機会をくれなかった。彼の1stサーブのパーセンテージは、90パーセントみたいに思えたよ。僕は拙いプレーをした訳じゃなかった。彼が強烈なサーブを打つと、できる事はあまりなかったね」

それは1990年と95年のUSオープン決勝戦の後、サンプラスについて語ったアガシのように響いた。

番狂わせによって、彼らの眉とサーブ以外にも、フィリポウシスとサンプラスの類似点探しが始まった。人々はサンプラスが19歳で初のオープンタイトルを獲得した時の事を思い出し、再臨を期待した。

「僕たちは共にギリシャ系だ」とサンプラスは言った。「それが共通点だね。共にサーブが良くて、ショットで攻めに出る。あの時点では、まだ僕はかなり未熟だったし、彼もそうだ。だが彼は相手を圧倒するようなゲームと強さを持っている」

「ピートを尊敬しているよ。彼は僕と同じギリシャの背景を持っているしね」とフィリポウシスは言った。

類似点探しは2日後に止んだ。フィリポウシスは同じオーストラリア人のマーク・ウッドフォードに4回戦で敗れたのだ。

再臨に関してはこれまで。

*    *    *

1993年オーストラリアンの準決勝でステファン・エドバーグに敗れて以降、サンプラスはストレートセットでグランドスラム大会の試合に負けた事はなかった。そして今、彼は情緒的かつ成功裡に終了したデビスカップ決勝後の、短すぎる休息を終えていた。

オーストラリアンの2カ月後、リプトン選手権で、サンプラスは最初の2回のデビスカップをスキップするという決断を強いられた。

展示物A:マーク・フィリポウシス。

「ロシアでの経験の後、僕は身体的には怪我をし、精神的には2週の間ラケットを握りたくなかった。トレーニングもあまりしたくなかった」と、彼は最も印象的で、意外な事実を語った。サンプラスは、2日休んだだけで落ち着かなくなる、ガット(ストリングス)がボールを打つ音が恋しくなる事で知られていたのだ。

「オーストラリアへ向かった時は準備不足だった。恐らく僕のテニスがそれを物語っていただろう」

「僕が望むのは、メジャー大会で自分に出来るだけのチャンスを与える事だ。デビスカップ決勝で消耗したのかどうかは何とも言えないが、僕は確かにやる気が湧かなかった」

にもかかわらず、サンプラスにナンバー1の座を明け渡す気はなかった。最初からずっと彼は「ナンバー1の座は所有するものではない、借りているだけだ」という常套句を持ち出していた。だがサンプラスは心の奥深くで、賃貸契約書は早々に無効になったと感じていたのだ。

「1年の終わりにナンバー1である事の方が重要だ。(1996年は)素晴らしいスタートではないが、テニスはまだまだ続く。僕はただこの敗戦を乗り越えて、これからの数カ月を良いものにしなければね。フレンチ・オープンが来る……楽しみにしているよ。乗り越えるには少し時間がかかるが、以前にも負けた事はあるし、立ち直らなければ。ナンバー1の座を取り戻せるといいね」

1位の座をアガシに奪われる事は、ムスターに取って代わられるほどにはサンプラスを悩ませなかった。ムスターは、もし全ての大会がハードコートでプレーされたなら、トップ20に入るために苦労するだろう男だ。ムスターは ATP ツアーの「ベスト14」ランキング・システムが正当でない理由の、生きた見本なのである。最も成績の良かった14大会だけをカウントする事により、ムスターのように一面的な選手も、得意なサーフェスを選んでポイントを稼ぐ事が可能になる。

ムスターはウインブルドンで4回しかプレーした事がないにもかかわらず、ナンバー1になったのだ。0-4という記録、それは注目されるべき――そして拒否されるべきものだ。未勝利――そして時には欠場する――ウインブルドンで。それでもなお世界のトップにランクされた選手。もしそれが水と油の関係でないなら、何がそうだというのか?

議論が起こると、すぐに退位させられたアガシは、サンプラスが唯一の正当なナンバー 1であるとたびたび持ち上げて、ムスターの上昇に対する最も率直な批評家に早速なった――もちろん、自分の他にはという意味で。しかし、これはアガシを正当に評価すべき時だった。サンプラスは、あまり声高に話そうとはしていなかった。そして実際、サンプラスの意見はアガシほどには広く耳を傾けられなかった。アガシはテニスに大衆の関心を集めるテニス界唯一の、真のスターなのだ。

「僕は自分がムスターより良いとか、ピートがムスターより良いと言ってるんじゃない」とアガシは語った。「僕がコートへ向かう時、ムスターとよりもピートとの対戦を99.9パーセントの割で恐れるだろうと知っているだけさ。それは誰にとってもショックではない筈だ。ピートは3年間、ゲームのトップにいたんだからね」

「いつだって僕はランキング・システムについて不満を持っていた。だがトーマスが打ち込んできた努力は否定できないよ」

これが1月のアガシだった。シーズンが春に差し掛かると、彼の言葉はいっそう痛烈になり、ムスターはそれに答えた。ある時、自分はポイントを稼いだからランキングを得たのだと言った。「ポイントはスーパーマーケットで買える訳じゃないよ」

サンプラスは時折考えを述べたが、影響力という点で良い事だった。口数は少ないほど意味があった。何につけサンプラスが遠慮なく話すという事自体が、かなりショッキングである。しかしムスター / ナンバー1問題に関して、サンプラスは24歳という年齢にしては思慮深く、まるでツアーのスポークスマンのようだった。

「ムスターはクレーで世界最高の選手だと思うよ」とサンプラスは1996年3月に語った。「彼がクレー以外でもベストの選手かとなると、あまり納得はいかないが。彼は(1995年)目を見張るようだった。フレンチ・オープンの他に10のクレーコート大会で優勝した。そして(前年に得た)ポイントを防御するというランキング・システムにより、彼は徐々に上がってきて、そしてナンバー1になった」

「だが僕は前にも言ったが、1年の終わりに決着するんだ。ポイントが加わったり引かれたりして、そして最終的な順位が決まる。それが、誰が世界最高の選手かを示すんだ。もしトーマスが1年の終わりにナンバー1だったら、僕にとってはもっと意味がある。個人的にも――テニス界にも――3月かどこかでナンバー1であるよりもね。(1年の終わりが)誰が最も堅実な年を送ったかという事を真に表示するんだ。ランキング・システムは……僕に言えるのは、誰をも満足させる完璧なシステムは見つからないだろうという事だ。僕がシステムに関して抱く唯一の問題は、コートに出た時は全てカウントされるべきだと思う事だ。現在はそうではない」


オーストラリアン・オープンの記録:ピート・サンプラス

ピート・サンプラスはオーストラリアン・オープンの伝統、ハードコート・サーフェス、第一級の利便性を気に入っている。彼がこの大会で一度優勝し、別の時には準優勝したのも不思議はない。

オーストラリアン・オープンの記録
1996年までのキャリア勝敗:23勝5敗

ラウンド
対戦相手
スコア
1989年
1回戦
クリスチャン・サソニュ(Christian Saceanu)
6-4、6-4、7-6
1990年
1回戦
ティム・メイヨット(Tim Mayotte)
7-6、6-7、4-6、7-5、12-10
2回戦
ホルディ・アレッセ(Jordi Arrese)
0-6、6-2、3-6、6-1、6-3
3回戦
トッド・ウッドブリッジ(Todd Woodbridge)
7-5、6-4、6-2
4回戦
ヤニック・ノア(Yannick Noah)
6-3、6-4、3-6、6-2
1991年
欠場
1992年
欠場
1993年
1回戦
カール・ウベ・シュテーブ(Carl-Uwe Steeb)
6-1、6-2、6-1
2回戦
マグナス・ラーソン(Magnus Larsson)
6-3、3-6、6-3、6-4
3回戦
アレックス・アントニッチ(Alex Antonitsch)
7-6、6-4、6-2
4回戦
マリバイ・ワシントン(Mal Washington)
6-3、6-4、6-4
準々決勝
ブレット・スティーブン(Brett Steven)
6-3、6-2、6-3
準決勝
ステファン・エドバーグ(Stefan Edberg)
7-6、6-3、7-6
1994年
1回戦
ジョシュ・イーグル(Josh Eagle)
6-4、6-0、7-6
2回戦
エフゲニー・カフェルニコフ(Yevgeny Kafelnikov)
6-3、2-6、6-3、1-6、9-7
3回戦
ステファン・シミアン(Stephane Simian)
7-5、6-1、1-6、6-4
4回戦
イワン・レンドル(Ivan Lendl)
7-6、6-2、7-6
準々決勝
マグナス・グスタフソン(Magnus Gustafsson)
7-6、2-6、6-3、7-6
準決勝
ジム・クーリエ(Jim Courier)
6-3、6-4、6-4
決勝
トッド・マーチン(Todd Martin)
7-6、6-4、6-4
1995年
1回戦
ジャンルーカ・ポッツィ(Gianlucca Pozzi)
6-3、6-2、6-0
2回戦
ヤン・クロスラック(Jan Kroslak)
6-2、6-0、6-1
3回戦
ラルス・ヨンソン(Lars Jonsson)
6-1、6-2、6-4
4回戦
マグナス・ラーソン(Magnus Larsson)
4-6、6-7、7-5、6-4、6-4
準々決勝
ジム・クーリエ(Jim Courier)
6-7、6-7、6-3、6-4、6-3
準決勝
マイケル・チャン(Michael Chang)
6-7、6-3、6-4、6-4
決勝
アンドレ・アガシ(Andre Agassi)
4-6、6-1、7-6、6-4
1996年
1回戦
リチャード・フロムバーグ(Richard Fromberg)
7-5、6-3、6-2
2回戦
マイケル・ジョイス(Michael Joyce)
3-6、6-3、6-4、6-4
3回戦
マーク・フィリポウシス(Mark Philippoussis)
6-4、7-6、7-6