第3部:オーストラリアン・オープン
第10章 自然な親近感


サンプラスが考えるグランドスラムの序列で、オーストラリアン・オープンは、どの辺りに位置するだろうか? 残念ながら、それは4番目に違いない。

彼が大会に感じる自然な親近感は、往年のオーストラリア人選手たち――彼らの業績と彼らの心構え――に対して抱く感情と直結している。このような意外な事実は――他の3つのグランドスラムにはない位置づけではあるが――メルボルンにいる大勢のサンプラスファンを失望させるだろう。ここには大きなギリシャ人社会があり、半分ギリシャ人のサンプラスを自分たちの仲間と考えてきたのだ。

煩わしさがないという、より簡潔で、およそロマンチックとは言えない基準で、サンプラスはこの大会を気に入っている。サンプラスは煩わしさを嫌う。大会の最中、特にグランドスラム大会では、上質のルームサービスとテレビを必要不可欠として、彼は快適である事を好む。彼はまた、会場への容易なアクセスを気に入っている。それはオーストラリアン・オープンの大きな利点である。

「メジャー大会に関していうと、オーストラリアンが最も便利だね」とサンプラスは言った。「選手が滞在するホテルは、コートから5分の所にあるんだ」

便利さ。それが、全てを物語る。しかし実のところ、その便利さを可能にしたのは、オーストラリアン・オープンの全体的な新しさの一部であり、グランドスラム大会の中で適切なポジションをついに手に入れたものなのである。1905年に始まったこの大会は、当初、芝生でプレーされ、3つの異なった場所で開催されてきた。ようやく1988年に国立テニスセンターが建設され、リバウンドエース・ハードコートと、メインコートの上に格納式の屋根が設置された。

首尾一貫しないドローの歴史から脱却し、完全なフィールドが次に続いた。ドローは何年間も、オーストラリア人で占められていた。他大陸からの地理的孤立性のためだった。1月開催という時期の問題もあった。燃えるような真夏のオーストラリアに、1大会のために訪れるのは、多くの選手にとってハードルが高すぎたのだ。

1978〜1980年は最悪だった。ボルグ、マッケンロー、コナーズを始め、有力選手が欠場し、アルゼンチンのクレーコート・スペシャリスト、ギレルモ・ヴィラスの優勝を許した。大きなループ状のトップスピン・グラウンドストロークを打つ彼は、芝生で脅威となる事はめったになかったのだが。1年目はジョン・マークス、2年目はジョン・サドリを破って、78~79年に連続優勝を遂げた。1980年に、アメリカのブライアン・ティーチャーがキム・ウォーウィックを破ったのも、忘れられがちな決勝戦であった。

女子の側も同様だった。78年には、伝説のクリス・オニールがベッツィー Nagelsen を破ってタイトルを獲得した。79年には、ダブルス・スペシャリストのバーバラ・ジョーダンが、決勝戦でシャロン・ウォルシュを倒した。マルチナ・ナヴラチロワも、クリス・エバートも、トレーシー・オースチンも、ビリー・ジーン・キングも、出場していなかった。

サンプラス自身は1991〜92年、怪我のため大会を2回欠場している。その前の2年間は出場し、対照的な結果を残した。89年は1回戦敗退、90年には4回戦進出。後者の奮闘は、9月にUSオープンで訪れるものの前兆だった。

サンプラスは1990年オーストラリアンを、同国のティム・メイヨットに対する5セットの勝利から始めた。第5セットのスコアは12-10だった。全部で70ゲームを戦い、大会史上でも長い試合の1つだった。しかし最長にはほど遠かった。最長試合は94ゲームで、1970年の準々決勝、デニス・ラルストンがジョン・ニューカムを破った試合である。タイブレーク制が導入される前の時代で、19-17、20-18というセットがあった。

サンプラスが第1セットを6-0で落としていた事を考えると、ホルディ・アレッセに対する5セットの勝利も、同じく意義深かった。3回戦では観客全員がウッディを応援する中、オーストラリア人のトッド・ウッドブリッジをストレートで破った。4回戦でヤニック・ノアに敗れた事は、なんら不名誉ではなかった。ノアはワールドツアーから引退する前年にあり、グランドスラム・タイトルへの最後の快進撃を続けて、準決勝まで到達したのだ。

2年間の中断後、1993年、サンプラスはメルボルンに戻ってきた。そして、近づいたり遠ざかったりする世界ナンバー1の座を、全力を挙げて狙っていた。彼は準決勝に進出し、エドバーグとの7回目の対決を迎えた。前年のUSオープン決勝でスウェーデン人に敗れた後、サンプラスは ATP 選手権で雪辱を果たし、対戦成績を3-3の五分にしていた。今回、エドバーグはサンプラスにストレートで快勝し、2年連続でジム・クーリエとの決勝戦を迎えた。1992年と同様、クーリエはエドバーグを破ってタイトルを獲得した。

だが、サンプラスは明らかに進軍の途上だった。3カ月のうちに彼はクーリエに取って代わり、世界1位となったのだった。再びフリンダーズ・パークに戻ってきた時には、サンプラスはその座を確実なものにしていた。

サンプラスが1994年にオーストラリアンへやって来た時、彼は前の2つのグランドスラム、ウインブルドンとUSオープンで優勝していた。1993年に彼は8大会で優勝し、ATP ツアー・ランキング上で大いなるリードを取っていた。そして22歳という年齢で3つのグランドスラム・タイトルを獲得しており、史上最高の偉人たちとの比較が、突然持ち上がった。

サンプラスがストレートでトッド・マーチンを破った1994年の決勝戦後、その比較は留まるところを知らなかった。旧き良き日にも似た決勝戦であった。ひと言も喋らず、自分たちのテニスに物を語らせるサーブ&ボレーヤーの対戦。両者とも、有能ではあるが退屈だと、繰り返し非難されてきた。このような批判は、コート上で彼らのいずれもにも影響を与えない。

「ただコートに立ちテニスをする2人の男を観客が正当に評価してくれると、より楽しい気分になるね」とサンプラスは語った。「それがテニスのあるべき姿だと思うよ。品格を持ち、癇癪を起こしたり自分を辱めたりしないプレーが」

サンプラスは4つ目のグランドスラム・タイトルを獲得した事で、ロイ・エマーソンが1964〜65年に達成して以来、ウインブルドン、USオープン、オーストラリアン・オープンと続けて優勝した最初の男となった。