第2部:デビスカップ
第8章 ピート大帝


1995年12月、ロシアチームはサンプラスに立ち向かうプランを練ってあった。彼らは、時に疑わしい彼のスタミナを、同じく疑わしいクレーコートゲームを暴きたいと望んでいた。それは道理にかなっていた。

サンプラスのキャリア優勝36のうち、クレーでの優勝は2回だった――1994年イタリアン・オープンと1992年キッツビューエル。7回はグランドスラムでの優勝だったが、フレンチ・オープンでは優勝しておらず、95年にはジルベール・シャラーに1回戦で敗れ、フレンチでの優勝は今後もないように見えた。それは長い春のレッドクレー・キャンペーン後の出来事だった。

(デビスカップ決勝では)どちらのシングルスもタフな試合が予想された。カフェルニコフは1992年にプロへ転向して以降、早くも世界のトップ・プレーヤーの1人になっており、厳しい相手である事は明白だった。21歳という年齢で、彼の未来は明るく、意気軒昂であった。サンプラスは彼に対して3勝0敗だったが、1994年オーストラリアン・オープンの2回戦、第5セット9-7という記念すべき勝利で始まった。他の2回は94年の世界チームカップと、1995年 ATP ファイナルでの勝利だった。前者はクレーで、明るい材料と言えた。後者はほんの2週間前に行われたが、明らかに室内カーペットはサンプラスへ有利に作用した。

チェスノコフは91位だったが、順位は大して意味がなかった。1987年以来、彼がトップ50から外れたのは1995年が初めてだったのだ。7大会で優勝していたが、チェスノコフが最も得意とするのはクレーだった。そこでは、猟犬のような彼の特質が、とりわけ真価を発揮する。マーク・ウィンタースは言う。「チェスノコフは、男子プロテニス界におけるアランチャ・サンチェス・ヴィカリオである」

サンプラスとチェスノコフは初戦を戦う事になり、試合はロシア側にとって完璧な展開となった。サンプラスは2-1と1セットをリードし、第4セットでは4-2リード、彼のサーブで 40-15 として、試合を終わらせる筈だった。それからどうにかして、チェスノコフはタイブレークで第4セットを勝ち取ったのだ。

アガシのいないチームを率いる負担を感じて、サンプラスのプレーは神経質になっていた。チェスノコフは自分のゲームをしていた。つまり、あらゆるショットを拾いまくり、対戦相手に自分を倒させるというものである。

「チェスノコフの奇跡は準決勝で終わったと思っていた。しかし彼は、もう1つの奇跡を引き出そうとしていた」と、トム・ガリクソンは語った。

最終セットの第6ゲームが鍵となった。それは17ポイント続いたが、サンプラスは自分のサービスゲームをキープして3-3とした。それから、サンプラスを痙攣が襲った。まず膝腱(ひかがみの腱)が痙攣し始めた。それでも彼はサービスブレークを得て、5-4リードとした。

「競い合った素晴らしい試合だった」とウィンタースは振り返った。「チェンジオーバーでは、ピートの脚は痙攣していた。ポイント間の彼の動作も、とても奇妙だった。彼は膝を深く曲げたりし始めた。ピートはきちょうめんなプレーをする選手ではないが、この試合ではそうしていた。彼の動きはまるでチェスノコフのようになっていた」

最後のゲームまでは。

「それは、うむ、魅惑的だった」とウィンタースは語った。「ピートはウィナーを放った。ウィナーを打たなければならなかったのだ。試合は終わり、そして突然、ピートはコートから引きずられていった」

3-6、6-4、6-3、6-7、6-4で勝利した最後のポイントから数秒も経たずに、サンプラスは倒れた。彼の筋肉は痙攣でコントロールが利かなくなっていたのだ。彼にそれ以上の貢献ができるのか、疑わしくなった。だが筋肉をほぐし、マッサージと水分補給を受けると彼は元気を取り戻し、何を持ち堪えてきたかを考えるにつけ、驚くばかりに平然として試合後の記者会見に現れた。

「僕は少しばかり事を難しくしてしまったようだね」とサンプラスは語った。「4-2、40 - 15 の場面で、僕は勝利を意識して、彼に窮地を逃れさせてしまった。そしてタイブレークでは、僕はせっかちなプレーをした」

「アンドレイは(レッドクレーで)上手くプレーする全ての要素を持っている。試合にあたり、自分が勝敗を決める事になると承知していた。彼は僕にプレーさせようとしていたからね。最後の2ゲームでは、僕は良いショットを続けて打ったが、それが決め手だった」

そういう事だった。確かに――数時間後、クーリエがカフェルニコフにストレートで敗れ去るまでは。

カフェルニコフは再び尊大になった。決勝戦はダブルスで決するだろうと言った。そしてダブルスについて、彼はすでに勝った気になっていた。

サンプラスはホテルに戻り、ステーキとポテトを食べた。それはビョルン・ボルグが全盛期に好んだ食事だった。しかし象徴的意味をないがしろにはできないのだ。旧き良きアメリカの食事がロシアの心臓部で供されるという事。あらゆる華美と超然たる態度が、いわばラスベガス的と見なされていた冷戦が終結した、90年代のロシアであっても。

サンプラスの食事は、恐らく彼の肉体よりも精神を増強した。3時間の肉体労働をする前の晩に、赤身肉の大きな塊を食べたというだけではないのだ。

だが、待ち受けているものを考えると、彼には肉体と精神の両方が必要だったであろう。

*    *    *

ロシアチームはよく眠れたに違いない。彼らはクーリエを叩きのめしていた。そして確かに、彼らはサンプラスをほぼやっつけたかのように見えた。まどろみの中、彼らの頭にはトッド・マーチンの夢が踊っていた。

土曜日の朝、カフェルニコフと彼のコーチ / 監督であるアナトリー・レペシンは、ダブルスの前に早く出掛けてきたが、サンプラスが既にヴィンス・スペイディアと練習しているのを見て、ショックを受けた。 スペイディアはフロリダ州ボカラトン出身の前途有望な選手で、決勝戦のヒッティング・パートナーとしてガリクソンに選ばれていた。

「ピートがヒッティングしているのを見て、カフェルニコフとコーチは共に『まさか』という顔をしていたよ」とウィンタースは語った。

サンプラスはガリクソンに、身体は強ばっているが、プレーする用意はできていると告げたのだ。ガリクソンはメンバーを変更し、レネバーグに替えてサンプラスを投入した。選択の余地はあったか? ガリクソンの見解では、なかった。

彼は世界ナンバー1の選手を抱えていて、神かけて、その選手を使おうとしていた。

「ピートは『もしあなたが本当に望むなら、僕はプレーするよ』と言ったのだ」とガリクソンは語った。

土壇場での決定だったため、ガリクソンは試合用として、サンプラスに2枚の白いナイキシャツを貸与しなければならなかったが、構わなかった。

早い段階でマーチンが少しまごついたが、彼とサンプラスはカフェルニコフ / オルホフスキー組を3セットで破った。弱点についての話を覚えているだろうか? この試合では、そのレッテルはカフェルニコフのためにあった。

カフェルニコフが最初にサンプラスを見た瞬間、ダブルスの結果に効力が働いたのだとウィンタースは考えている。ウィンタースは語った。「疑いの余地はないね。ロシアチームは怖じ気づいたのだろう。カフェルニコフは非常に早い時点で、基本的に試合から脱落していた。彼はボールに小言を言っていたよ」

カフェルニコフはそれでも頑固だった。試合の始まりに、マーチンのサーブはブレークされた。カフェルニコフはその事を深読みしすぎた。少なくとも、彼は後でそう認めた。彼は激しく落ち込むか何かしていたのか?

「第1ゲームの後、僕はリラックスしすぎた」と彼は言った。「恐らく対戦相手を過小評価したのだろう」

ガリクソンは、テニスを知る大方の者同様、誰であれ、いつであれ、ピート・サンプラスを過小評価できるとは信じ難いと感じた。

「私は、この男がいかに有能なプレーヤーであるかをよく承知している」とガリクソンは語った。「彼をコートに出せる時はいつでも、そうするよ」

カフェルニコフのサーブは第1セットで2回、試合全体では4回ブレークされた。「我々が試合に入り込んだ途端に、彼らは幾つかミスをして、我々はより良いプレーをし始めた」とマーチンが言った。彼は素晴らしい追い上げを見せた。

サンプラスは言った。「僕は(シングルスの後)疲れ切っていた。だがこれはデビスカップだ、決勝戦だ。我々は(勝利して)カップを掲げたいよ。僕はそのために何でもする用意ができていた。ひとたびアドレナリンが湧き出せば、どう感じているかなんて問題じゃない」

マーチンがつけ加えた。「僕にとっては、ピートには浪費できるエネルギーがあまりないと承知していたのは良かった。僕をより一生懸命にさせたからだ。そして、彼にとっても良かった。彼をとても能率的にしたからね」

合衆国は2勝1敗とリードした。だが、カフェルニコフの話に耳を傾ける限り、チャンスは疑わしいままだった。彼はダブルスの敗戦から立ち直り、またしても、オリジナルの戦略をべらべらと喋りまくっていたのだ。

「(シングルスの試合後)、サンプラスの弱点は、あまり長い間コートに留まれないという事だと僕は分かっている」と、カフェルニコフは語った。「だから、僕が長くプレーできればできるほど、都合が良くなる」

*  *  *

1982年にジョン・マッケンローが成して以降、1回のデビスカップで3試合に勝利したアメリカ人はいない。しかし今、1つの決定的な制限付きで、それが再び起こりえる兆しがあった。サンプラスはカフェルニコフに対し、ハードコートテニスに近いプレーをする必要があった。

ロシア人の毒舌は的を射ていた。サンプラスはある時点で、ガソリンを使い果たすに違いなかった。速いスタートと、試合を通して比較的速いポイントが絶対必要だった。

14,000人の群衆が見守る中、サンプラスは登場し、チェスノコフに対してした事を続けた。必要充分な辛抱強さを見せつつも、サンプラスはチャンスを逃さず、徹底的なウィナーでカフェルニコフの度肝を抜いた。そして常に、サーブがあった。今回は16本のエースを放った。

サンプラスは6-2、6-4で、2セットを駆け抜けた。それから、ついに、彼は奮闘の影響を見せ始めた。ポイントの間に疼く膝腱をストレッチし、カフェルニコフが時折放つショットを追わずに見送った。

彼は第3セットのタイブレークをエースで終わらせた。カフェルニコフは、ついに言葉を失った。「彼は僕にチャンスをくれなかった」自慢をバックアップできなかった彼の無能ぶりについて質問しようとする、居並ぶロシアのリポーターに立ち向かう前に、彼は英語で言った。

「僕が今までにプレーした最高のクレーコート試合」というのが、サンプラスの要約だった。

「最初の2セットについては、これ以上のテニスを見た事がないよ」と、ガリクソンは言った。「デビスカップ決勝戦、ピートにとって、これ以上素晴らしい機会はなかっただろうね」

「ピートはあっという間にカフェルニコフを試合から放り出した」と、ウィンタースは語った。「カフェルニコフはフォアハンドを打ったが、ピートはフォアハンドを炸裂させたのだ。もしピートが肉体的にもっと良い状態だったら、さらに悲惨な事になっていただろう」

「ロシアチームは僕を弱点と見ていた」とサンプラスは語った。「ここに来て、最も苦手とするサーフェスで、タフな対戦相手と非常にタフな群衆を相手にプレーするのは難しかった。だが僕は、クレーで良いテニスができると思う。そうでなければならないよ、アンドレイとエフゲニーを倒すためには」

「今週は、彼がプレーするのを見てきた中でベストの試合だった」と、ウィンタースは付け加えた。彼は、サンプラスのモチベーションは現在よりも過去――リヨン、赤土で玉砕した歴史、ガリクソン兄弟への親愛――に根ざしていると考えていた。

ロシアチームは自惚れているように見えたかも知れないが、サンプラスは殆ど気に懸けなかった。

「ピートはその類の事に囚われてプレーしたりはしない」とウィンタース言った。「しかしながら、彼には証明すべき点があった。いいかい、相手の自国で敵を倒す事、打ちひしぎ、面目をつぶす事……そりゃ、気持ちいいに違いないよ」

クーリエは最終戦、チェスノコフとの(優勝が決まった後の)無意味な試合を落とした。そして合衆国チームはホテルへ戻った。もう1つの伝統的なアメリカ流ごちそうに向かうために。すなわち、ピザとビール。

デビスカップの面白いところ。1つのラウンドが決するとすぐに、監督と選手たちは次のラウンドについて、あるいは決勝戦後の場合は次の年について、質問攻めに遭うのだ。

合衆国に31回目のタイトルをもたらしたサンプラスの英雄譚を、ガリクソンは殆ど味わう暇もなかった。モスクワでメディアから、1996年の綱領を求められたのだ。

すでに彼には、不穏なニュースがあった。

「ピートは1回戦を休みたがっているのを承知している。それは受け入れられるに値する」とガリクソンは言った。「カップはアメリカに戻ってきた。来年はオリンピックがあるので複雑だ。それでなくても混み合ったスケジュールが、さらに混み合う。私の目標は、すべてのトップ選手を参加させる事だ」

あらら。

1996年、ガリクソンは事実上、トップ選手を参加させるのに手こずった。第1ラウンドでは、合衆国はマイケル・チャンとトッド・マーチンがシングルスを戦い、メキシコを5-0で退けた。しかし4月、準々決勝のプラハ行きは、脱落に終わった。ガリクソンは前年12月の精鋭に代わって、メジャーリーグに喩えれば8番・9番バッターに相当するシングルスのラインナップを連れて行った。つまりマーチンとマリバイ・ワシントンである。ダブルスチームはパトリック・マッケンロー / パトリック・ガルブレイス組で、意外にも陣容の支柱に見えたが、それはガリクソンの苦境を示していた。

チェコはペトル・コルダとダニエル・バチェクの2人チームだった。マーチンは勇敢に戦い、シングルスで両者を倒した。チェコに3-2の番狂わせをもたらした勝敗決定戦を含め、ワシントンは2試合とも敗れた。

「B」チームとなった背景には、種々の要因があった。クーリエはフレンチ・オープンの準備を始めたいと望んだ。アガシはコマーシャル撮影に忙しかった。聞こえは良くないが、これまでの貢献を考慮すると、彼をあまり責める事はできなかった。チャンは? アジアに遠征していた、サンプラスも然り。同じく両者ともフレンチを見据えていた。

だが全員が、果てしなく断固とした献身を要求するデビスカップのシステムに、失望感を抱いているようだった。サンプラスとアガシは最も率直に意見を述べた。両者とも1996年のオリンピックに参加する――サンプラスはアキレス腱の怪我で出場を取り止めたが――予定を立てていた。彼らは共に、オリンピックの年にはデビスカップを取り止めるべきだと考えていた。

サンプラスにはもう1つ、考慮されるべき理由があった。94年の夏はオランダ戦で負った怪我に苦しみ、USオープン / イサガ戦の大難へと繋がったのだ。メジャー大会で勝つという事以外、何もサンプラスを興奮させないのと同様に、その機会をふいにする事ほど彼を悩ませるものはないのだ。94年、デビスカップは彼にとって高いものについた。

「僕はある意味で、(プレーする事に対して)高い代償を払った」とサンプラスは語った。1996年3月下旬のリプトン選手権で2回戦敗退する1週間前だった。

「今年、最初の2ラウンドに出場する事は考えていなかった。僕にとって上手くいかないんだ――リプトンのすぐ後、アジアに行く事になっている。もし(第2ラウンドのために)上手くやってのけるとすると、僕はリプトン、ヨーロッパ、アジアと回り、そしてアメリカに戻らねばならない。きつすぎるよ。(1995年に)リプトンの決勝で負けた後、いちばんしたくなかったのは、飛行機に飛び乗ってパレルモに行く事だった。最終的に、良い結果になったけれどね」

「僕の気持ちとしては、オリンピックの年にはデビスカップを行うべきだとは思わない。僕はいつも、デビスカップは2年ごとに開催されるべきだと考えてきた。より注目を集めるという点でも、このやり方ならトップ選手たちは毎回参加できるだろう。毎年開催されると、それは不可能だ。それが第2ラウンドにあたっての状況だ。なぜ皆が参加しない事に決めたかの主な理由だ」

素晴らしい1995年決勝戦に対する、なんと奇妙な続報だろうか。だがそれは、1991年に始まったサンプラスのパターンには合う。彼にとってデビスカップでは、失望と成功は交互に訪れる。メジャー・タイトルとメジャー賞金への見通しに、それが不利に作用する時、競技への彼の気分も然り。

「もしデビスカップの前後に1週間の休みが保証されるなら、参加するのに問題はないだろう」と彼は言った。「つまり、休息と回復のために、充分な時間が確保されるという事だ。そうなるとは思えないけれどね」

それでも、1995年の成功に対して払った代償は報われた、とサンプラスは語った。

「もちろんだよ。あの結末、そして最後の2試合で僕がしたプレーは、僕とデビスカップにとって素晴らしい思い出となる。デビスカップで、僕はあまりパッとした経歴じゃなかった」

「だが、僕が(モスクワで)したようなプレーは、……恐らく僕についての見方を変えられるかも知れないね」


デビスカップの記録:ピート・サンプラス

デビスカップにおけるピート・サンプラスの名望は、フルサークルであった。1991年に対フランス戦でデビューした時のガッカリするような出来から、1995年決勝ロシア戦における、危機を救った3日間のテニスまで。

デビスカップの記録

シングルス
対戦国・相手
勝敗
スコア
1991年決勝:対フランス 1勝3敗
アンリ・ルコント(Henri Leconte)

4-6、5-7、4-6
ギー・フォルジェ(Guy Forget)

6-7、6-3、3-6、4-6
1992年第1ラウンド:対アルゼンチン 5勝0敗
マルティン・ハイト(Martin Jaite)

3-6、6-4、6-2、6-4
アルベルト・マンシーニ(Alberto Mancini)

6-4、6-1
1992年準々決勝:対チェコスロバキア 3勝2敗
カレル・ノバチェク(Karel Novacek)

6-3、6-4、6-2
ペトル・コルダ(Petr Korda)

4-6、3-6、6-2、3-6
1994年準々決勝:対オランダ 3勝2敗
ヤッコ・エルティン(Jacco Eltingh)

6-2、6-2、6-0
リチャード・クライチェク(Richard Krajicek)

6-2、5-7、6-7、5-7
1994年準決勝:対スウェーデン 2勝3敗
マグナス・ラーソン(Magnus Larsson)

6-7、6-4、6-2、7-6
ステファン・エドバーグ(Stefan Edberg)

3-6、途中棄権(怪我)
1995年準々決勝:対イタリア 5勝0敗
レンゾー・ファーラン(Renzo Furlan)

7-6、6-3、6-0
アンドレア・ガウデンツィ(Andrea Gaudenzi)

6-3、1-6、6-3
1995年準決勝:対スウェーデン 4勝1敗
トーマス・エンクウィスト(Thomas Enqvist)

6-3、6-4、3-6、6-3
マッツ・ビランデル(Mats Wilander)

2-6、7-6、6-3
1995年決勝・対ロシア 3勝2敗
アンドレイ・チェスノコフ(Andrei Chesnokov)

3-6、6-4、6-3、6-7、6-4
エフゲニー・カフェルニコフ(Yevgeny Kafelnikov)

6-2、6-4、7-6

ダブルス
パートナー
対戦相手
勝敗
スコア
1992年準決勝:対スウェーデン 4勝1敗
ジョン・マッケンロー
(John McEnroe)
アンダース・ヤリード(Anders Jarryd)
ステファン・エドバーグ(Stefan Edberg)

6-1、6-7、4-6、6-3、6-3
1992年決勝:対スイス 3勝1敗
ジョン・マッケンロー
(John McEnroe)
マルク・ロセ(Marc Rosset)
ヤコブ・ラセク(Jakob Hlasek)

6-7、6-7、7-5、6-1、6-2
1995年決勝:対ロシア 3勝2敗
トッド・マーチン
(Todd Martin)
エフゲニー・カフェルニコフ
(Yevgeny Kafelnikov)
アンドレイ・オルホフスキー
(Andrei Olhovskiy)

7-5、6-4、6-3