第2部:デビスカップ
第7章 埋め合わせは難しい


リヨンの記憶を持ち続ける事。それは、フォルジェがあのフォアハンド・ボレーをオープンコートに放ち、サンプラスの背後でバウンドした瞬間から、彼が直面した事だった。時にアメリカ人を捕らえるデビスカップの苦境に、サンプラスは陥った。プレーしたいと望む、どちらかと言えば。そして突然、腰までの水につかり、生来的に自分よりはるかに沸き返るモチベーションを魂に抱く何者かと対戦している。もしたじろぐと、驚くべき感情的代価が表面化する。初めから大して気にかけておらずとも、デビスカップは破滅をもたらすものとなり得るのだ。恐らく、失敗した場合はさらに。

「デビスカップがフランス国民とチームにとってどれほど意味があるか、アメリカ人は理解していない」とフォルジェは言った。

その基本を教え込まれて、サンプラスはすぐさまやり直しに取りかかった。1991年決勝戦の2週後に、彼はアガシと共に合衆国チームのメンバーに指名され、1992年にハワイで行われる1回戦でアルゼンチンと対戦する事になった。

屋外のハードコート、日焼けした観客は、彼のルーツであるカリフォルニアを思い出させた。サンプラスはマーチン・ Jaite を4セットで、アルベルト・マンシーニを2セットで破った。後者の勝利は「デッド・ラバー」――デビスカップでは、対戦の勝敗が決まった後にプレーされる試合をこう呼ぶ――だったが。合衆国が5-0で完封勝ちした。

それはリヨンの後、デビスカップでの自分の位置を取り戻すために、まさにサンプラスが必要としたものであった。そしてフォートマイヤースで行われる対チェコ戦の準々決勝チームに指名される事になった。この週末、サンプラスはアガシに敬服し、 彼自身もカレル・ノバチェクをストレートで下して驚嘆に値するように見えた。アガシはペトル・コルダをさんざんに打ちのめし、合衆国は2-0リードとした。

「(リヨン以来)初めて、デビスカップのコート上で快適に感じたよ」とサンプラスは語った。「これは(償いの)ほんの少しだったけどね」

しかし翌日、絶対有利と思われたマッケンロー / リック・リーチの合衆国ダブルスチームは惨めなプレー――主にリーチが――をして、コルダ / クリス・スク組に敗れた。そしてプレッシャーはサンプラスに掛かってきた。彼は最終日、コルダと対戦する事になっていた。

サーブの不調に苦しみ、絶好調の波に乗ったコルダの犠牲となり、サンプラスは4セットで敗れた。2時間17分の試合は、リヨンの再現だった。幸いにも、アガシは挑戦に耐えて、ノバチェクをストレートで下した。最後の2セットは6-0というスコアだった。

「彼のためにも、ピートには勝ってほしかったよ」とアガシは言った。「我々がダブルスで負けてからの流れを、続けさせたくもなかった。1日半の間は、(楽に)勝てると思っていたんだ。だが、こんなに接戦になると、何でも起こりうるからね」

「ピートが負けた時は、とても落胆した。自分の試合に関してはポジティブだったけど、ただ頑張るだけだった」

ゴーマン(監督)は次のラウンドの対スウェーデン戦に向け、変化をつけた。アメリカ側に競技の主催権が移行したのを生かして、彼はサーフェスにレッドクレーを採用し、ミネアポリスのターゲット・センターに通常では考えられない設定をしたのだ。まれな、しかし正しい選択だった。シングルスをプレーする選手の選択も。すなわちアガシとジム・クーリエに変えたのだった。クーリエは4カ月前、2年連続でフレンチ・オープンのタイトルを獲得していた。アガシは1990〜91年にフレンチで準優勝だった。

サンプラスとマッケンローはダブルスでペアを組む事になった。興味深い、しかし不安定なペアだった。2人ともクレーが嫌いで、サンプラスとデビスカップは水と油の関係に見え始めていた事実を考えると。ゴーマンはまたしても意表をつかれた。彼が想定していたチームは、練習ではパッとしなかったのだ。クーリエをマッケンローと組ませようかと最後の瞬間まで迷うほどに。

なんとタレント揃いだった事か。ステファン・エドバーグは2週間前にUSオープン決勝でサンプラスを下し、世界1位だった。クーリエ、サンプラス、アガシはそれぞれ2位、3位、6位だった。そしてマッケンローは、史上最高のデビスカップ勝者だったのだ。

1日目、アガシはエドバーグを下し、クーリエはニコラス・クルチを破って、合衆国は2-0リードとした。2日目、サンプラス / マッケンロー組はエドバーグ / アンダース・ヤリード組と対戦し、サンプラスのひどい一時的不調で傷はついたが、5セットで勝ち、チームの勝利を確定した。1セット・オール、4-5というサンプラスのサービスゲームで、彼はダブルフォールトを犯し、スウェーデンにセットを与えてしまったのだ。当然、サンプラスの動揺は顕著だったが、今回は少なくとも許された。

スイスとの決勝戦は、テキサス州フォートワースのハードコートで行われ、同じ4人のアメリカ人が招集された。初日のシングルスは1勝1敗――クーリエが過去の天敵マルク・ロセに敗れ、アガシはヤコブ・ラセクを下した――で、ダブルスでの勝利が不可欠となった。

サンプラスは試合の最中、マッケンローの典型的な爆発を経験した。1回はロッカールームで。ロセ / ラセク組に対し、タイブレークで最初の2セットを落とした後、アメリカチームは第12ゲームでロセのサービスゲームを破り、第3セットを7-5で勝ち取った。マックがフォアハンド・リターンを炸裂してブレークを掴んだおよそ8分後に、10分の休憩があった。

「彼は『奴らをぶっ飛ばそう』とか、そんな感じで、意気込んでいたよ」とサンプラスは言った。「彼は怒鳴ったり喚きたてたり、とても意気込んでいて、我々はその後、途轍もなく素晴らしいテニスをしたわけさ」

最後の2セットは6-1、6-2で勝ち取り、合衆国の2-1リードとなった。翌日の午後、クーリエは乱調気味のプレーをしたが、4セットでラセクを下した。しかし優勝を確定するには充分であり、サンプラスは2回連続で、自分に対して良い思いを味わえた。

*    *    *

1993年、サンプラスは世界1位の座を狙う事に集中したいと、デビスカップ不参加を願い出た。彼は4月12日にその目標を達成し、1973年にランキング制度が始まって以来、第11代目のナンバー1プレーヤーとなった。

他のトップ選手たちも同様に1回戦を休み、ブラッド・ギルバートとデビッド・ウィートンにオーストラリアでのラウンドを委ねた。合衆国チームはたちどころに解散となった。

1994年にはチームへ戻る事を宣言し、準々決勝オランダ戦のためにサンプラスはロッテルダムへ向かった。今日に至るまで、彼が後悔する決定であり、その後のデビスカップへの参加に影響を及ぼすものとなった。

2年連続のウインブルドン優勝で幕を閉じた芝での1カ月間の後、準々決勝のため急にハードコートへ移行したのは、不適当だったと判明した。その週末、サンプラスの左足首は腱炎のため腫れ上がってきた。彼はヤッコ・エルティンには勝利したが、ビッグサーバーのリチャード・クライチェクに敗れた。スコアは2-2のタイで勝敗を決するシングルスに突入し、クーリエがエルティンを下して勝利した。

サンプラスはタンパの自宅に戻ったが、夏のシーズンは困難な状態になったと考えていた。足首は治らなかった。大会の競技に復帰できるほどには。彼の心肺機能は衰え、(USオープンでは)イサガに敗れた。

オープンの1週間後、ヴィタス・ゲルレイティスが一酸化炭素中毒で亡くなった。ゲルレイティスとサンプラスは仲の良い友人で、彼の死はひどく堪えた。それでも9月下旬、イエテボリで行われた準決勝の対スウェーデン戦に招集されると、サンプラスはそこにいた。合衆国チームの全メンバーは、ヴィタスを偲んでシャツに「V」の文字を付けた。

サンプラスは初日にマグナス・ラーソンを破った。エドバーグに対するトッド・マーチンの番狂わせ的勝利もあって、合衆国は2-0とリードした。だが、デビスカップの勝利が容易に訪れる事は滅多にない。サンプラスが知りすぎるほど知っている、明文化されていない法則である。チームメイトのジアード・パーマー / ジョナサン・スターク組は、ヤン・アペル / ヨナス・ビヨルクマン組に4セットで敗れた。問題となる翌日の事を考えると、サンプラスの顔は歪んだ。

サンプラスはラーソン戦で、右の膝腱(ひかがみの腱)を痛めていたのだ。エドバーグと対戦して第1セットを6-3で落とすと、サンプラスは途中棄権した。スコアは2-2となった。マーチンは―― 3年前のサンプラスのように――力を出し切れなかった。彼は自信なさげにプレーし、チームの勝敗を決する試合でラーソンに敗れた。スウェーデンが3-2で勝利し、決勝に進出した。そしてロシアを破り、優勝したのだった。

サンプラスの怪我は、致し方なかった。「彼がびっこを引いていたのは、見るからに明らかだった」と、USTA(アメリカ・テニス協会)のキャンベルは思い出す。またしても残念なデビスカップでの経験だった。しかし今回に限っては、彼には逃げ道があった。

それはともかく、途中棄権はサンプラスの戦績をさらに損なった。デビスカップの歴史でただ一度、それが競技の結果に重大な意味をもたらした唯一のものとして。