第2部:デビスカップ
第6章 窒息


世界のおおかたは、デビスカップが好きだ。アメリカを除けば。その事実は、敵地に乗り込み、周りが全て敵という雰囲気を経験し、自国へ戻るとどうなるのかと考えるアメリカ人選手に対して、意味がなくはない。合衆国において、デビスカップは話題を集めるのが難しい事がある。特に、チームがサンプラスあるいはアガシを欠いている時には。

多分その事は、相手国で時折アメリカチームがへまをやる部分的な説明、あるいは弁明になるかも知れない。アガシはいつも、身を入れるためにアメリカのファンがいる事を切望していた。「正直言うと、僕はデビスカップをアテネとかジョージアのような場所に持って行きたいよ」ジョージア大学のスタジアムに触れてアガシが言った。そこでは NCAA(全米大学競技協会)の男子選手権が、騒々しい、大歓声の群衆の前でプレーされるのだ。

「そうだな、南部出身者がチームにいたら、いいだろうね。大学町。ビールが売られる会場。そういうのが僕にはいいね。だがもちろん、他にも考慮すべき事柄はあるよ」

アガシは歴史上最も活気のないデビスカップの週末に、そう語った。チェコスロバキアとの準々決勝は、フロリダ州フォートマイヤースで行われた。そこではゾンビのダンスが進行中で、特にデビスカップのようなハイブローのイベントでは、観客の平均年齢は65歳で、庶民は高いチケットを買う事が難しいのだ。このような観客を興奮させるには、入場前にダブル・エスプレッソを飲む事を義務づけるべきであろう。びん入りの水は禁止だ。それはアメリカのテニス観客には命取りになるかも知れない。それをダブルのバーボンにすべきだ。

「我が国の観客は、あまり愛国的ではない傾向がある」と、USTA(アメリカ・テニス協会)のコミュニケーション分野の委員、アート・キャンベルは語った。「我が国の観客は自国の選手を応援しはするが、ヨーロッパで見られるほどには熱狂的――発狂寸前――ではない」

それで、しょっちゅうアメリカ人選手たちは、他国での対戦に充分な準備をしていない口実にする。1987年にパラグアイのアスンシオンで行われた対戦時のような、金を投げつけるほどの群衆である必要はないのだ。その時は合衆国が3 - 2で敗れ、競技から脱落した。愛国的な熱狂は、誰をも動転させるに充分である。デビスカップの新人は? 特に危険だ。デビスカップの歴史において、決勝戦でシングルス・デビューをしたアメリカ人選手はたった4人である。3人が敗戦を喫した。マッケンローだけがその呪いから逃れ、1978年に英国のジョン・ロイドを倒した。

それでは、1991年11月にフランスのリヨンで、何がピート・サンプラスを破滅させたのか? 当時、彼には分からなかった。今でも分かっていない。

不適切な場所、不適切な機会。その週末、サンプラスは運命の道に踏み出した。だが、誰がそれを知り得ただろうか?

合衆国チームの監督トム・ゴーマンは、サンプラスとアガシを選んだが、ごく当然の事だった。サンプラスは世界第6位であり、8月以降の成績は36勝8敗で、最もホットな選手だったのだ。アガシはデビスカップの戦績が11勝4敗で、当然の選択だった。その選択は、何も間違っていない。もちろん、サンプラスについては懸念があった。だが彼を選ぶのは避けがたい状況だった。その上、どんな不安が存在しようとも、ダブルス要員が必要だった。ゴーマンはケン・フラックとロビー・セグソを指名し、マッケンローは選ばなかった。彼はチームの一員になるべく、盛んにロビー活動をしていたのだが。

フランスには、トップ選手のギ・フォルジェが言及したように、大衆を真に興奮させる3つのスポーツ・イベントがある。ワールドカップ、ツール・ド・フランス、そしてデビスカップである。フランス人は四銃士――ルネ・ラコステ、アンリ・コシェ、ジーン・ボロトラ、ジャック・ブルニョン――がテニス界を席巻した時代の栄光を、決して忘れない。この4人は、アメリカ人を倒して1927年にカップを勝ち取り、1933年にイギリスに敗れるまで、5年間カップを保持していた。

その後は、厳しい時代が続いた。フランスは1982年にもう一度決勝へ進出しただけで、マッケンロー率いるアメリカチームに4-1で敗れたのだった。

8,300席あるリヨンのパレ・ド・スポーツに、フランスチームは速いスプレーム・インドアコートを設えた。これはサンプラスとアガシに好都合だったが、派手な攻撃的スタイルの地元チーム選手、フォルジェとアンリ・ルコントにも向いていた。闘いに向けて、31歳のルコントの出来が鍵と言えるようだった。背中の手術から4カ月しか経過しておらず、彼の順位は159位まで落ちていて、良いプレーを期待するのは難しかった。だが同時に、彼はその途を見いだすだろうとも考えられた。

プレーのオーダーが決まった時、合衆国チームは見るからにホッとしていた。アガシとフォルジェが最初のシングルスで対戦し、サンプラス対ルコント戦がそれに続いていたのだ。

「アンドレが戦って勝ち、観客を静まらせてくれる事を期待している」とサンプラスは語った。「それは、少しばかり僕の助けとなるだろう」

「こんな風になって、僕は嬉しいよ」とアガシは言った。「僕は気楽に構えている。ピートよりも、あそこで起こるだろう事を知っているからね。初めてプレーする時は、緊張や不安も関わってくるだろう。僕はすでに数回、それを経験してきた。これは、我々がリードするのに手を貸してくれると思うよ」

ヤニック・ノアは、もはや現役ではなかったが、頭脳ゲームではまだ上手くやっていた。ドローにおいて、彼はフォルジェとダブルスを組むためにアルノー・ブッチを指名したが、フラックとセグソは、ノアはきっとルコントに切り替えるだろうと、笑いぐさにした。ノアは、自分がダブルスに出るかも知れないとさえほのめかした。だが ITF(国際テニス連盟)はそれを否定した。ドローが発表される前に、彼は出場資格を得ていなかったからだ。

もし代理があるとすれば、それはルコントになるだろう。彼はテニス界の素晴らしいショットメーカーの1人で、フランス人観客の賞賛を取り戻したいと、決勝に向けて発奮していた。彼の結果が冴えなくなるにつれて、観客たちは彼を少々見限っていたのだ。

「アンリは、誰をも、どこででも、倒す事ができるタイプの選手だ」とノアは語った。「彼はこれまで、死んだも同然だった。今、彼は生き返った。彼はできる限り全てを捧げようとしている、と信じている」

サンプラスにチャンスはなかった。

アガシはタイブレークで第1セットを落とした後、次の3セットをストレートで取り、初戦でフォルジェに勝った。彼にできる全ての援助をサンプラスに与えた。2時間24分後、競争は1-1のタイにされた。ルコントはストレート・セットで勝利し、サンプラスがデビスカップ経験の足りない新人である事を暴き出したのだ。

「これまでコートに立った時とは、全く違った気分だった」とサンプラスは語った。「今までになかったような、とても多くの事が頭の中を行き交った。厳しい経験だった」

それはさらに厳しくなった。ノアはもちろん選手を入れ替え、ダブルスにルコントを投入した。そうしなければならなかった。ブッチは今日のような完成したプレーヤーにはほど遠かった。その上フラックとセグソ――1987〜88年のウインブルドン・ダブルス・チャンピオン――は、フランスチームに対して7勝0敗だったのだ。

サンプラスを倒した後、ルコントはこれほど完璧なプレーをした記憶はないと語った。彼はダブルスの後にも、同じ事を言えた筈だ。彼とフォルジェは4セットで勝利した。ルコントはヨーロッパ版コナーズだった。ウィナーを放った後は拳を振り上げ、観客のリズミカルな拍手、愛国心の高揚、「アンリ」の声援を煽動した。

競技が始まる前、ホームゆえプレッシャーはフランスチームにある、とフラックは語っていた。今やプレッシャーは、サンプラスのますます落ち込む肩に、まともに移っていた。彼はホームにいない、不慣れな20歳の若者だったからだ。

何週間か前にパリオープンの決勝戦で、サンプラスは多才な左利きのフォルジェと対戦していた。フォルジェが5セットで勝利した。フォルジェは8月の ATP 選手権でもサンプラスを負かしていた。したがって、状況はアメリカ人にとって芳しくなかった。8,000人のパルチザンが彼のあらゆる動きを意地の悪い目で睨み、あらゆるエラーを囃したてずとも。

ルコントが持っていたものは全て、フォルジェに伝播した。彼は17本のエースを決めたが、多くは肝心かなめの時だった。そして4セットでサンプラスを倒し、荒々しく長い勝利の祝いが爆発した。ノアは自分のビデオカメラでそれを記録した。それから、ノアとルコントはチームを率いて、コンガ-ライン・ダンスを踊りながら会場を巡った。フランス大統領のフランソワ・ミッテランは、チームを祝してすぐさま電報を送った。

彼はサンプラスにも電報を送るべきだった。

なぜなら、熱烈で酔ったようなフランス的雰囲気、 ルコントの英雄伝説、フォルジェのピンチでのサーブ、どれをとっても、その週末は重大なさるぐつわも同然となったのだ。アガシを表舞台に残し、サンプラスは吹き飛ばされた。

「僕はただ用意ができていなかったんだ」サンプラスは後に言った。