第1部:USオープン
第4章 死闘とアガシ(The Agony And The Agassi)(4)


USオープンのテニスは、最も論議の多いものである。

観客には博識と無知、酔っぱらいと素面、無作法と遠慮が混在している。しかし大多数は、大会が第2週の日曜日を迎えるまでには、おおむねホットに、そして不愉快になる。テレビ視聴率を最高にするため、男子決勝が午後遅くに行われるという事実は、ムードを高める。

これは礼儀作法がチェックされるメジャー大会である。サーバーが重大なセカンドサーブをまさに打とうとしていても、やじり屋が叫ぶのを控えたりはしない。観客は特定の選手を味方するのに、何の痛痒も感じない。人気に基づいていようが、しばしばある事だが、努力に基づいていようが。彼らは血が流されるのを見たがるのだ。それゆえ、ここではコナーズの人気が高く、多少は及ばずともマッケンローも然りだったのだ。ビヨン・ボルグやイワン・レンドルを典型とする冷静さが、常に限られた称賛しか受けなかったのはそのためだ。

サンプラスは言う。「観客はとても騒がしい。常にざわめいていて、誰もが動き回っている。選手がテニスをしていても、彼らは試合をあまり見ていない。ずっと喋っているみたいだ。初めてスタジアム・コートに立った時、まずそれに気付いたよ。とても大きなスタジアムで、観客は熱中しているようだ。だが、例えばウインブルドンと比べると、妙な集団だね」

サンプラスは付け加えた。「でも、彼らが熱中すると、ニューヨークのファンほどエキサイティングな集団はいないよ。どのメジャー大会にも、ユニークな個性がある。それぞれ違うだけなんだ。メジャー大会という事で言えば、少しばかり不便だね。練習コートやスタジアムまで、かなり距離があるし、たいていは観客の間を歩く事になる。サインをするのは構わないが、時には独りになりたい事もあるし、煩わされずに練習コートへ行きたい時だってあるよ」

「でも、それはがUSオープンなんだ。対処しなくてはいけないし、色々な意味で大会をユニークなものにしているのだと理解しなければね」

オープンの観客とのロマンスに関していうと、アガシはコナーズやマッケンローの範疇に分類される。彼が時にならず者になるからではなく――確かにそうではあり得るが――、彼の派手さ、ファンと感情を共有するやり方ゆえである。サンプラスのスタイルは、後者の冷静なグループに分類されるだろう。しかし彼は、彼のゲームの純粋な華麗さによってそれを克服した。

サンプラスとアガシ、それはあらゆる普通の人々にとって闘技場の戦士であり、素晴らしい呼び物でもあるのだ。試合後、サンプラスはエースを打ってスタンドを見上げると、ジョン・F・ケネディ・ジュニアが目に入った事で冗談を言った。「誓って言うよ。僕は思ったね、『おい、彼はお馴染みみたいじゃないか』って」

もう1つ、試合の前半、サンプラスは後ろの観客席で動きがあるのに気付いた。驚くなかれ。アーノルド・シュワルツェネッガーが座席を探していた。「見渡したら、そこに彼が、『ターミネーター』がいたよ」とサンプラスは言った。

試合は初期の山場にさしかかっていた。アガシにとって非常に重要な場面だった。サンプラスのサービスゲームでは、彼が粘るほどうまくいった。殊にこの日は風が舞ってボールトスに苦労する事を考えると、サンプラスの攻撃的手腕にしばし綻びが生じ、アガシが付け入るチャンスは常に存在した。そして実際に、向かい風で打つ側が有利になる場合もあった。

9ゲームが終わった段階で、アガシは最初の11サービスポイントを取っていた。ベースラインからは――特にサンプラス相手には、稀な優越性であった。アガシのサーブで30オールの時、試合初の大チャンスがサンプラスに訪れた。フォアハンドがネットに触れ、それからポロリと落ちてウィナーになったのだ。

安全に返したサンプラスのサービスリターンがネットの真ん中にかかり、最初のセットポイントは消え去った。デュースで、アガシはフォアのハイボレーをふかした。1マイルも長く。緊張の兆候か? そうではない。ベースラインから引きずり出され、ショットを叩きつけるのではなく『感じ取る』事を強いられた時、アガシの弱点がはっきりと現れたのだ。

アガシは語った。「ボールは(風で)動き回っていた。僕には、ちょっと扱いにくかった。ボールは動き始め、僕は少しばかり先を読んだんだ。彼のランニング・フォアハンドを警戒したって事もあったと思う。彼はショットをカバーして、それをビッグショットにするのが得意だ。だから僕は(クロスコート・ボレーを)ミスをしたってだけだよ。僕はあそこでエラーをした。そういう事だ」

サンプラスに2回目のセットポイントが来た。22本のストロークで決したポイント――永遠に『ポイント』として記憶されるだろう―― 翌年、ナイキはこのポイントを基に、もう1つのサンプラス - アガシのコマーシャルを作ったのだった。

どれくらい良いポイントだったか? ジョン・マッケンローに「パワー、アングル、深さ、重要性……うわ〜お」と喚かせるほどだった。マッケンローは、過去最高のベースライン・ポイントとまで言った。

サンプラスは語った。「僕が今までに関わったベスト・ポイントの1つだったかも知れない。もしあのポイントを失っていたら、もっと気分が悪かっただろうね、それは確かだ。お互いに走り回り、僕がいいバックハンドを放っただけさ。あの後、かなり息が切れたけど、落ち着きをとり戻して、そして(第2セット最初のサービスゲームである)第1ゲームはかなり良いプレーをした。あれは重大なポイントだった。信じがたいほどさ。ありがたくも、僕がそのポイントを勝ち取ったんだ」

あの1つのラリー、1ポイントが、試合を決めたのか? 一概には言いがたい。確かに、この日におけるサンプラスの優越性の縮図であり、ある意味ではライバル関係全体の縮図でもあった。

初めてサンプラス対アガシ戦を見る者にとって、それは Cliffs Notes であった。

アガシは言った。「1ポイントはどうでもいい、と言うんじゃない。つまり、彼はそれで第1セットを手に入れたという事だ。でも結局のところ、それに尽きた」

「僕がピートを1ダースもコーナーに走らせようが、彼はあのポイントを欲しがり、それが彼の自信に多大な影響を与えると承知していた。彼はそのために一生懸命やり、それを得た。その事が、ピートをこんな素晴らしい選手にしているんだろう――彼の爆発力が。彼はどうやってチャンスを捕まえるかを知っているんだ」

アガシは何回もそのポイントの間、チャンスを掴むべく最善を尽くしていた。観衆がアガシに歓声を上げようとする度に、サンプラスはなんとかショットに届き、ラリーを続けた。

「(ショットは)ウィナー級のものだった。だが同時に、ボールは返ってくると予期しているんだ」とアガシは言った。

そのポイントの後、両者とも苦闘は続いた。どちらも呼吸を整えようと努力した。そしてしばしの間、そのポイントとセットは終わってしまったとはいえ、結果としてアガシに恩恵をもたらすかも知れないと考えられた。彼は決してサンプラスのようなアスリートではないが、 間違いなくより良いコンディションだったのだ。

ブラッド・ギルバートと組む前、アガシの体重は問題だった。しかし彼の上半身は確かにそうではなかった。彼は誰よりもバーベルを挙げ、厚い胸板をしていた。あらゆるボールへどうにかショートステップする貧弱ながにまたの足と比べると、それは際立っている。ギルバートと組んだ後のアガシは、忍耐力を身につけている。セットを勝ちとった後、サンプラスの調子が下がったのを見て、イサガ戦でのイメージが甦ってきた。

だが今回、それはなかった。サンプラスは第2セットの第2ゲームでサービス・ブレークした。1990年の決勝戦を思い出させるようなサーブの出来を保った。 しかもサンプラスが選手として、さらにチャンピオンとして成熟した事をも示していた。

3連続エースにより4-1にした。パワーボール。それは今までにも見てきた。だがそれから、サンプラスは第9ゲームのセットポイントで、アガシから遠ざかっていく時速76マイルの緩いスライスをアドコートの中央に放った。そのショットの後、サンプラスは叫んだ。アガシは大股でゆっくりと椅子へ向かった。

非凡な才能は、時に剥げやすい。しかしながら、それが、見ずにはいられない1つの理由でもあるのだ。元来、サンプラスは危険を冒す選手だが、リードしている時には、信じがたいほど大胆になる。彼は生来、自分は打ち負かされないと確信しているが、1〜2セットもリードすると、本当に「それを感じる」事ができるのだ。しかし、頓挫の危険性は常にある。結局のところ、サンプラスはボールを流し打ちした事があるのだろうか?

ガリクソンはかつて、状況が緊迫してくると「局面を打開する」ためにラケットを振り抜くレーバーの能力について、語ったものだった。サンプラスはそれを最初からする。それは(アメリカン)フットボール的な極意である。すなわち、攻撃は最大の防御なり。

サービスをブレークして、第3セットで2-1リードとなった時、サンプラスの攻撃は、ついにガタガタと音を立てた。ダブルフォールトを犯し、そしてハーフボレーをふかし、アガシにブレークバックを許したのだ。第10ゲームでアガシは再びブレークし、そのセットを取った。彼のベストショットであるフォアハンド・リターンが、サンプラスの時速122マイルのサーブを無効にし、いっそう強烈なフォアハンド・パスの準備が整ったのだった。

サンプラスは決定的となった第4ゲームを失ったが、ここはアガシに感銘を受けるべきだった。第3セットを取った事は、ギルバートの下で彼が変わったという、もう1つの証左であった。数年前だったら、2セット・ダウンの後、彼はそこから抜け出せなかっただろう。

アガシは語った。「厳しい対戦相手に対して、試合をきっちり終えるのは、いつだって大変だ。ピートが2セットをリードしようが、それでも僕を閉め出さなければならないと感じたんだ。僕はどこにも行く気はなかった。どこかで試合に入り込むチャンスを見つけようとしていた。第4ゲームでブレークすると、それが僕の激しさを高め、自分の内にある全てを吸い上げたんだと思う」

サンプラスは、それがもっとあるのを懸念した。

サンプラスは語った。「アンドレは自信を持ち始め、第3セットを取った。そして観客はまさに、彼の後押しをし始めた。でも僕はまだ1セットをリードしていたし、彼が僕を倒すには、長い道のりがあると感じた。あっさり片付けるには、彼は手強い男だ。3セット続けて高いレベルでプレーする必要がある。だが僕は少し硬くなってしまった。自分がトロフィーを持っているのが見えてしまったのかな」

第4セットでは、サンプラスのぼやけた視界は素速くクリアになった。オープニング・ゲームでは何ということもないフォアハンドをふかし、ブレークポイントを台なしにはしたが。間もなく彼はサーブの調子を高め、第6ゲームでは、4連続エースというピークに達した。

「ただ素晴らしい波に乗ったんだ」
野球との適切な対比をさしはさんで、サンプラスは彼の「完璧な」ゲームについて説明した。「3連続ストライクを投げるみたいにね。全てがカチッとはまって、トスを上げればラインへ打てるという風に感じ始める。それが、僕がアンドレに対してやらなければならない事だ。もしいいサーブを打たなければ、彼は僕にボレーをさせようとする。僕は少しばかり幸運を得て、何本かいいエースを放ったんだ」

アガシは、ガックリしたボディ・ランゲージからすると、終わりは近いと悟ったに違いない。彼が第11ゲームまでブレークされなかったのは、驚くべきである。ひどい事に0 - 30でダブルフォールトを犯し、ブレークに繋がってしまったが。サンプラスが第12ゲームのサービスに向かう時、そこに疑いはあったのだろうか?

最初のポイントにはなかった。時速118マイルのエース。確かに最後のポイントにもなかった。センターを突く120マイルのエース――大会における彼の142本目のエースだった。

アガシは決してたじろがなかった。

サンプラスは自分のサービスゲームで勝利を決した。スコアは6-4、6-3、4-6、7-5だった。

アガシは語った。「もちろん、読めないサーブだ。だが、時速123マイルのサーブをラインに打てば、それがどこへ行くのか、相手の男が承知していようがいまいが、関係ないよ。でも風が後方から吹く時には、彼のファーストサーブよりセカンドサーブの方が、僕は自由にラケットを振れる気がしなかった。6ゲームくらい続けて、彼は向かい風の状態でサーブを打った。ファーストサーブをミスして、セカンドサーブをコートに入れたが、僕のリターンはロングに浮いてしまった。だが、彼は途轍もなくいいサーブを打っていたと思うよ。何回か決定的なブレークポイントでは、強烈なファーストサーブで攻めてきた。彼の強みが上手く行っている時は、ガックリさせられるものだ。誰の強みに対しても、そうだけどね」

サンプラスは言った。「いいサーブが打てたのには、自分でも驚いたよ……。すごく風が強かったからね。トスはあちこちへ行った。サーブが、僕を救ってくれたショットだったね」

*     *     *

試合後の記者会見では、2つの論議がそれぞれの選手と共に展開した。1つはその日についての論議で、長く暑かった夏、そして決勝までの26連勝は高くついた、というアガシの主張についてであった。もう一方は全体像についてであった。世界1位の座は今でもアガシのものか、と両者ともが尋ねられた時、当然の事として、それはすぐにもサンプラスに移るべきものだとされた。――ボクシングのタイトル戦、あるいは大学フットボールの国内選手権と同様に。

消耗し、その年最大の試合、おそらくキャリア最大の試合に向けて、力がほとんど残っていなかったとするアガシの主張は、受け入れがたいものだった。大会の間じゅう、彼はただただ絶好調の様子だったのだ。アレックス・コレチャに対してフルセットを強いられた、2回戦を除いては。だがその時でさえ、最後の2セット――6-0、6-2――は、7-5で失った2つのセットを補って余りあるものだった。

「来年は、少しばかり負ける事にするよ……。今は、26勝の全てを放棄しても、1つを取り戻したい気分だ」とアガシは語った。

しかし、サンプラスは、部分的にアガシの主張を認めた。実際のところ、オープンが始まる前の段階で、サンプラスは既に、それをほぼ予測していた。彼は1992年の経験を語った。素晴らしい夏を過ごし、2大会でタイトルを獲得したが、オープンの決勝でステファン・エドバーグと対戦した時には、何も残っていなかったと。

ベッカーと対戦した準決勝での勝利以外は、全ての試合を苦闘のように感じていた、とアガシは言った。

「ボリスと対戦する前に2日休みがあったのは、とても助かった。だが、その翌日である今日、またプレーするのは……。つまり……第1セットの長いポイントの後、僕の足は……、試合中あんな風に感じるには、あまりに早い段階だった」

「だが、夏の大会でプレーする際、トライせずにはいられないよ。それは、多くの試合で勝つために払う代償だ。僕には少しばかり強さが欠けていて、ステップには、いわゆる元気が足らなかったのだろう。ベッカーと対戦する前、自分のステップがちょっと戻ったように感じていた。ピートに対して必要なもう少しには、及んでいなかった。だが、1対1のものだからね。逃れる事はできない。誰かに代わってもらう訳にはいかないよ」

最低限ではあるが、サンプラスは同意していた。自分のタイトルを傷つける気は毛頭なかったが。結局のところ、彼もまた疲れていたのだ。

「土曜日のスーパー・サタデーで、僕は先に準決勝をプレーし、彼は2番目だったという事実――彼が試合を終えたのは午後9時だった――きっと終わりには、彼は少し疲れていたのだろう。彼は長い夏を送ってきたからね。僕はかなり良い感じだったよ」

それから、サンプラスはその日の2人の差異を要約した。彼の言葉はその日のサービスのように痛烈で、的を射ていた。

「これは大きなチャンスだと僕は感じていた」
「痛いとか、疲れているとかの弁解をしている暇はないよ」
「持てる全てを出し尽くす必要がある」
「できる事は何でもするんだ」

この4行は、何を意味するのか?

それで、1位は誰であったのか? 順位表は1つの事を語っていた。だが現実は、他の事を示していた。サンプラスは、シーズン最後の2つのグランドスラム大会で優勝していた。アガシは最初のオーストラリアン・オープンで優勝し、サンプラスを5回の対戦で3回倒していた。そして素晴らしい夏を送った。この試合後に展開した論議は、興味深いものだった。アガシはサンプラス自身よりも、サンプラスが1位であると納得していたのだ。

だがサンプラスは基本的に、メジャータイトルに比べれば順位は二義的なものだと明確にしていた。彼は今、そのタイトルを7つ獲得した。

彼は語った。「史上最高の選手たちを振り返る時、彼らが勝ち取ったグランドスラム大会の数を見るものだ。順位は、それに伴ってくるものだよ。僕の考えでは、メジャータイトルは最も重要なものだ。自分が2つ獲得したという事実は、1年を素晴らしい気分で締めくくらせてくれるよ」

しかしサンプラスはまた、1位の順位はメジャータイトルと連携してしかるべきだと感じていた。それは道理にかなう。

「順位は、メジャー大会での成績を反映しているべきだ。もしウインブルドンやUSオープンで優勝するなら、その者が1位であるべき強い蓋然性があると思う」

アガシも同様に考えていた。「ピートは2つのスラム大会で優勝した。だから12月31日には、今年についてピートの方が僕よりいい気分だと言わざるを得ないだろう。キャリアが終わる時には、(自分の遺産として)スラム大会のタイトルを欲するものだと思う。1位であるとはどんな事なのか、1位の時に大会で優勝する事がどんなものなのか、僕は知っている。

それでもスラム大会のタイトルは欲しいものだよ。1位でいるのは素晴らしい。だが1時間もすれば、大した違いはなくなる。大会の全選手が、自分を倒そうとしているのは変わらないんだからね。大きい大会でピークに達したいと考える。それらのタイトルが、自分の記憶に残るものだからね」

サンプラスはこのタイトルを記憶しているだろう。幾分かは、誰よりも多くのスラム・タイトルを獲得するという彼の追求 ――口にはしないが、否定しがたい――の1つとして。 この話題が再浮上した。

彼の合計は7つ―― USオープンが3つ、ウインブルドンが3つ、オーストラリアン・オープンが1つ――で、ロイ・エマーソンより5つ、ビヨン・ボルグより4つ少ない。しかし24歳という年齢で、マッケンローに並んだのだ。

サンプラスは語った。「記録を破るという事は、それほど考えてはこなかった。僕はただ、自分がメジャー大会に向けて、できる限りベストの準備をしていると考えている。精神的にも、肉体的にも、それぞれの大会に備えるんだ。だが、僕はエマーソンの記録を破るつもりだ、と黒板に記している訳ではないよ」

今後のUSオープンは、サンプラスのチャンスにとり、欠く事のできないものになるだろう。ウインブルドンでの手腕が圧倒的であるにも関わらず、ミディアム・ペースのハードコートが最も好きなサーフェスだと彼は主張する。ニューヨークは反するものを提示するが、彼はどうにか自分を順応させ、それをほぼ生き甲斐にする。

30歳が近づくにつれ、サンプラスはオープンを、キャリアの拠り所としていくであろう。コナーズやマッケンローがそうしたように。

彼はその大会で3回優勝した。
容易にそれを倍にする事もできるだろう。

サンプラスがエマーソンの記録へと前進するにつれて、必然的に、それが本当に大切なゴールであると認めるであろう。

日々それを忘れないように、黒板を手に入れさえするかも知れない。
彼はUSオープンタイトルを丸で囲むであろう。


USオープンの記録:ピート・サンプラス

USオープンは、ピート・サンプラスが出場した初のグランドスラム大会である。そして彼が優勝した最初のグランドスラム大会であった。重要性という点で、彼はオープンをウインブルドンのほんの少し後に位置づけている。

USオープンの記録
1996年までのキャリア勝敗:44勝5敗

ラウンド
対戦相手
スコア
1988年
1回戦
ハイメ・イサガ(Jaime Yzaga)
6-3、5-7、6-4、6-1
1989年
1回戦
アグスティン・モレノ(Augustin Moreno)
6-3、5-7、6-4、6-1
2回戦
マッツ・ビランデル(Mats Wilander)
5-7、6-3、1-6、6-1、6-4
3回戦
ハイメ・イサガ(Jaime Yzaga)
4-6、6-4、6-3、6-3
4回戦
ジェイ・バーガー(Jay Berger)
7-5、6-2、6-1
1990年
1回戦
ダン・ゴルディ(Dan Goldie)
6-1、7-5、6-1
2回戦
ピーター・ラングドレン(Peter Lundgren)
6-4、6-3、6-3
3回戦
ヤコブ・ラセク(Jakob Hrasek)
6-3、6-4、6-1
4回戦
トーマス・ムスター(Thomas Muster)
6-7、7-6、6-4、6-3
準々決勝
イワン・レンドル(Jvan LendI)
7-6、3-6、4-6、6-2、6-4
準決勝
ジョン・マッケンロー(John McEnroe)
6-2、6-4、3-6、6-3
決勝
アンドレ・アガシ(Andre Agassi)
6-4、6-3、6-2
1991年
1回戦
クリスト・バン・レンズバーグ(Chrjsto Van Rensburg)
6-0、6-3、6-2
2回戦
ウェイン・フェレイラ(Wayne Ferreira)
6-1、6-2、2-2(途中棄権)
3回戦
ステファン・シミアン(Stephane Simian)
7-6、6-4、6-7、6-3
4回戦
デビッド・ウィートン(David Wheaton)
3-6、6-2、6-2、6-4
準々決勝
ジム・クーリエ(Jim Courier)
6-2、7-6、7-6
1992年
1回戦
デビッド・ディルシア(David Dirucia)
6-3、7-5、6-2
2回戦
マーチン・ダム(Martin Damm)
7-5、6-1、6-2
3回戦
トッド・マーチン(Todd Martin)
7-6、2-6、4-6、7-5、6-4
4回戦
ギー・フォルジェ(Guy Forget)
6-3、1-6、1-6、6-4、6-3
準々決勝
アレクサンドル・ボルコフ(Alexander Volkov)
6-4、6-1、6-0
準決勝
ジム・クーリエ(Jim Courier)
6-1、3-6、6-2、6-2
決勝
ステファン・エドバーグ(Stefan Edberg)
3-6、6-4、7-6、6-2
1993年
1回戦
ファブリス・サントーロ(Fabrice Santoro)
6-3、6-1、6-2
2回戦
ダニエル・バチェク(DanieJ Vacek)
6-4、5-7、6-2、7-6
3回戦
アルノー・ブッチ(Arnaud Boetsch)
6-4、6-3、6-1
4回戦
トーマス・エンクウィスト(Thomas Enqvist)
6-4、6-4、7-6
準々決勝
マイケル・チャン(Michael Chang)
6-7、7-6、6-1、6-1
準決勝
アレクサンドル・ボルコフ(Alexander Volkov)
6-4、6-3、6-2
決勝
セドリック・ピオリーン(Cedric Pioline)
6-4、6-4、6-3
1994年
1回戦
ケビン・ウイリエット(Kevin Urlyett)
6-2、6-2、6-2
2回戦
ダニエル・バチェク(Daniel Vacek)
6-3、6-4、6-4
3回戦
ロジャー・スミス(Roger Smith)
4-6、6-2、6-4、6-3
4回戦
ハイメ・イサガ(Jaime Yzaga)
3-6、6-3、4-6、7-6、7-5
1995年
1回戦
フェルナンド・メリジェニ(Fernando Meligeni)
6-0、6-3、6-4
2回戦
ハイメ・イサガ(Jaime Yzaga)
6-1、6-4、6-3
3回戦
マーク・フィリポウシス(Mark Philippoussis)
6-7、7-5、7-5、6-3
4回戦
トッド・マーチン(Todd Martin)
7-6、6-3、6-4
準々決勝
バイロン・ブラック(Byron BIack)
7-6、6-4、6-0
準決勝
ジム・クーリエ(Jim Courier)
7-5、4-6、6-4、7-5
決勝
アンドレ・アガシ(Andre Agassi)
6-4、6-3、4-6、7-5
1996年
1回戦 ジミー・シジマンスキー(Jimy Szymanski)
6-2、6-2、6-1
2回戦 ジリ・ノバク(Jiri Novak)
6-3、1-6、6-3、4-6、6-4
3回戦 アレクサンドル・ボルコフ(AIexander Volkov)
6-3、6-4、6-2
4回戦 マーク・フィリポウシス(Mark Philippoussis)
6-3、6-3、6-4
準々決勝 アレックス・コレチャ(AIex Corretja)
7-6(7-5)、5-7、5-7、6-4、7-6(9-7)
準決勝 ゴラン・イワニセビッチ(Goran Ivanisevic)
6-3、6-4、5-7(9-11)、6-3
決勝 マイケル・チャン(Michael Chang)
6-1、6-4、7-6(7-3)


サンプラス - アガシ:対戦成績

ピート・サンプラスはアンドレ・アガシに対して、全体的には優勢である。しかし7年間にわたる彼らのライバル関係は、グランドスラム大会での5回の対戦を含め、大きな大会における叙事詩的な闘いによって特色づけられている。

サンプラス vs アガシ
1996年8月時点:サンプラス10勝、アガシ8勝

大会
サーフェス
勝者
スコア
1989イタリアン・オープン
クレー
アガシ
6-2、6-1
1990 U.S. インドア
カーペット
サンプラス
5-7、7-5、途中棄権
1990 U.S. オープン
ハード
サンプラス
6-4、6-3、6-2
1990 ATP チャンピオンシップ
カーペット
アガシ
6-4、6-2
1991 ATP チャンピオンシップ
カーペット
サンプラス
6-3、1-6、6-3
1992 AT&T チャレンジ
クレー
アガシ
7-5、6-4
1992フレンチオープン
クレー
アガシ
7-6、6-2、6-1
1993ウインブルドン
芝生
サンプラス
6-2、6-2、3-6、3-6、6-4
1994リプトン・チャンピオンシップ
ハード
サンプラス
5-7、6-3、6-3
1994セーラム・オープン
ハード
サンプラス
6-3、6-1
1994パリ・インドア
カーペット
アガシ
7-6、7-5
1994 ATP チャンピオンシップ
カーペット
サンプラス
4-6、7-6、6-3
1995オーストラリアン・オープン
ハード
アガシ
4-6、6-1、7-6、6-4
1995チャンピオンズ・カップ
ハード
サンプラス
7-5、6-3、7-5
1995リプトン・チャンピオンシップ
ハード
アガシ
3-6、6-2、7-6
1995カナディアン・オープン
ハード
アガシ
3-6、6-2、6-3
1995 U.S. オープン
ハード
サンプラス
6-4、6-3、4-6、7-5
1996サイベース・オープン
ハード
サンプラス
6-2、6-3


いかにサンプラスは戦いに臨むか

ピート・サンプラスのアクセサリー――ラケット、ウェア、シューズ――は、常に彼のゲームを補完してきた。サンプラスは全体的にクラシックである。まずは彼のラケット、ウィルソン・プロスタッフ・ミッド、それを彼はこの9年間使ってきた。そのモデルは、平均的なミッドサイズより小さいフェース面積で、かつてのウッド・ラケットに、恐らく最も似通ったフィーリングを提供する。スイート・スポットのごく小さい、容赦のないもので、それを見いだす才能の持ち主だけに報いる1本である。

今日のプロスタッフはハイテクとグラファイトを付与され、同じ名を持つオリジナルの子孫に当たる。オリジナルは、アメリカトネリコの標準より硬い薄片を用い、コントロールの助けにはなるが、パワーには欠けていた。今日のものは、言うなれば、かつての「ウィルソン・ジャック・クレーマー」に、より弾力性を持たせたものである。

サンプラスのストリングス選択は? 何十年にもわたり、多くのプレーヤーがベストと見なしてきた。すなわち VS ガットである。特別に硬く張られ、サンプラスに攻撃する事を許す精確なパッケージを揃える。彼は妥協せず、自分のパワーを伝えるためにラケットを信頼している。

ウェアとシューズについては、サンプラスは上から下までセルジオ・タッキーニを身につけ、プロのキャリアを始めた。数年前、彼はナイキに切り替えた。シューズの優秀性を考慮したのが理由の一部だった。サンプラスは足の怪我が頻発した後、シューズを換える事を考えていたのだ。

どちらの会社も、彼の控えめなイメージと、かつての時代の選手と肩を並べたいという望みに適した、趣味の良い服装をサンプラスに提供してきた。ナイキの彼のシリーズは、アンドレ・アガシが身につける風変りなナイキのウェアと、意識的にコントラストを呈している。

サンプラスのラケット:ウィルソン・プロスタッフ Mid

大きさ:85平方インチ
重量:13 5/8オンス
メイン / クロス・ストリングス:16/18
ストリングス: VS ガット
ストリングス・テンション:74〜80ポンド(時に応じて)
グリップ・サイズ:4 7/8インチ
その他:トルナ・グリップ(Tourna - Grip)、「String-a-lings」振動止め、戦略上貼った1 1/8オンスの鉛テープ。