第1部:USオープン
第4章 死闘とアガシ(The Agony And The Agassi)(2)


アガシ。サンプラスは彼が戻ってくると知っていた。ある時点で。彼はそうしなければならないと、サンプラスは判断していた。その判断は、1992年デビスカップ準々決勝に遡る事ができる。チェコスロバキアに3-2の勝利を収めた際、アガシは勝敗決定試合を含めて2試合に勝ち、サンプラスを――そして合衆国を――きまり悪さから救ったのだ。

対戦は3月にフロリダ州フォートマイヤースで行われたが、地獄よりも暑かった。勝利を決める好機に、サンプラスはリバース・シングルスで疲れて弱り、大きな鳥そっくりのペトル・コルダに敗れた。アガシは初日にコルダを叩きのめし、カレル・ノバチェクにも同じ事をした。サンプラスは大いに感銘を受け、現在のところ彼が常に感じている事を判断する参考とした。つまり、ランキング・トップの自分にアガシが迫ってくるのは避けられないと。

「試合での彼のプレーぶりを見て、もし彼が毎週あんなプレーをしたら、世界ナンバー1になっていた筈だと言ったんだ」と、サンプラスは『テニス・マガジン』誌に語った。

「(彼のプレーを見て)、なぜ彼は毎週毎週あれができないのか、理解できなかったよ」

「彼はまさに信じがたいテニスをした。その週、彼の準備を見ていた。試合に備える様子は、本当に集中し、プレーのためにギアを上げているようだった」

その1994年の秋、プロテニス界はアガシを求めて叫んでいた。女子テニスは混乱状態にあった。モニカ・セレシュは1993年に刺され、未だ戻っていなかった。シュテフィ・グラフは背中の不調と戦っていた。ジェニファー・カプリアティは前年に2度、逮捕されていた。1度目は万引きで、2度目はマリファナ所持で。

『スポーツ・イラストレイテッド』誌の春の特集では、「テニスは死につつあるか?」のタイトルで、テニス界の様々な問題をあげつらっていた。そこには男子ツアーの事や、やる気のない選手たちは、試合を「投げたり」「事実上、放棄する」事が多発している、という評判も含まれていた。

そして、サンプラスがいた。彼の圧倒的支配は、才能を見えにくくしていた。

ある者にとっては、アガシを救済者候補として認めるのは苦痛であった。94年USオープン決勝での、ミハエル・シュティッヒに対する壮快な勝利の後でさえ。アガシはそのオープンでノーシードだった。93年後半に手首を痛め、続く外科手術のために ATP ツアーから遠ざかり、トップ20から脱落していたのだ。サンプラスがいないオープン2週目のフィールドをアガシが駆け抜けた時、それが不合理であるのは、もちろん、非常に明確であった。

1995年に入り、プロテニス界はさらなる手助けを必要とした。テニス界における無数の問題への解決は、長期的なものであろう。しかしアガシ - サンプラスのライバル関係――今や両者とも、それぞれの全く異なるゲームを極めている――は、少なくとも1つの迅速な解決策となった。

フロリダ州キービスケーンで行われた、94年リプトン・チャンピオンシップの決勝では、ライバル関係となり得る暗示が既にあった。サンプラスは目覚めた時、ひどく胃の具合が悪かった。間もなく、パスタとレッドソースのルームサービスに問題があったようだと明らかにされた。決勝でプレーしたいと、サンプラスはクランドン・パーク・テニスセンターにやって来た。しかし試合時間が近づくにつれて、出来そうもない事は明白になった。

アガシは彼の回復を待とうと申し出た。それは貴重なスポーツマンシップの行為として、広く、そして過度に称賛された。アガシはただ、その年2度目の決勝に進出すべく、努力してドローを勝ち上がってきたので、プレーしたかっただけなのだが。

サンプラスとの対戦、その時点では遙かに遠い世界ナンバー1との試合は、その時点で彼の手首・ゲーム・頭脳がどの辺りにあるかを示す、この上ない指標であったろう。彼はサンプラスよりもずっと、その試合を必要としていた。

だから彼は待ったのだ。サンプラスは症状が落ち着き、ゆっくりと試合に活路を見いだしていった。そして3セット(フルセット)で勝利した。「ピートが病気の時に彼を倒せないなら、僕は大会で優勝するには値しない」とアガシは言った。

彼らは94年にもう3回対戦し、ATP ツアー・チャンピオンシップ準決勝を含めてサンプラスが2度勝った。サンプラス7勝5敗のアドバンテージで、彼らは95年に臨んだ。

*     *     *

オーストラリアン・オープンで、ライバル関係は対決というラベルを正当に貼られる筈だった。アガシはガールフレンドの女優ブルック・シールズがニューヨークに持つアパートで、シャンパンに彩られた晩、肩までの長さの髪をついに切った。それは彼を以前よりさらに過激に見せる効果があった。アガシはロックスターから海賊になった。彼は噂の髪型をバンダナで覆うようになった。彼のナイキのウェアは、いっそう風変りになっていた。

サンプラスは完璧できちんとした男として存在していた。同じくナイキがスポンサーになって以降は特に。彼のウェアは控えめで、主に白とベージュが基本となっていた。彼のシューズもノーマルに見えた。一方アガシのものは、飾り立てたハイキング・ブーツのようだった。ナイキはこの2人と共に、アパレル市場を独占する勢いだった。

95年には、人為的ながら真に迫ったマーケティング戦略が、2人の個性の違いを際立たせるばかりで、テニスの重要性をぼやけさせる時もあった。

しかし、テニスは常に戻ってきた。正反対なゆえに、それは結局のところ、このライバル関係の基盤だったのだ。サンプラスのサーブ。アガシのリターン。ネットのサンプラス、ベースラインのアガシ。サンプラスの滑らかなアスレティシズム。アガシの断固たる強打のスタイル。

全豪決勝ではアガシはサンプラスに4セットで勝利したが、正当な評価を受けなかった。皆は未だに、サンプラスがジム・クーリエと対戦した準々決勝の話をしていた。ティム・ガリクソンは脳腫瘍と診断され、18カ月にわたる生命を懸けた悲運の闘いを始めるべく、合衆国に戻っていた。サンプラスがクーリエに苦戦していた時、1人のファンがガリクソンのために勝てと叫んだ。そしてサンプラスは泣き崩れ、どうにか涙をこらえつつショットを打ち続けた。

同じく、95年2度目の対決は、軽い扱いを受けた。だが、それはサンプラスに責任がある。インディアンウェルズ決勝では、彼は生涯最高ともいえるグラウンド・ストロークを打ち、ストレートで勝ったのだ。リプトンではリターン・マッチとなり、セットを分け合った後にアガシが勝った。

大会の最中、この後すぐにイタリアへ飛び、デビスカップ第2ラウンドで合衆国の代表を務めると、両者が発表した。この時点で、ライバル関係は親しい間柄だと喧伝され始めていた。ATP ツアーとナイキ、そして2人が出場するどんな大会も、この男たちは、ゴングが鳴るまでは相棒であると信じさせたがった。

アガシはより容易くこの芝居に乗った。サンプラスも同調し、リプトン決勝後には、アガシのプライベート・ジェット機でニューヨークへ飛ぶ事さえしてみせた。2人の選手はブロードウェイで、シールズが出演する「グリース」を観た。それから、コンコルドに乗ってロンドン経由でパレルモへ行き、イタリア戦を勝利に導いた。

サンプラスはパレルモへ行く事を望んでいなかった。少なくともアガシと一緒には。コート上でライバル関係を迫真のものにする2人の相違は、オフコートでの関係を事実上、不可能にする。大会、あるいはプロモーション以外では、2人は話をしないとサンプラスは言う。「ちょっと電話をかけて、そして話をする、そんな感じかって?」サンプラスは言った。「いいや。しないね」

その時点では、アガシはシールズと一緒にいた。取りまきもいる。ボディガード。お喋りなコーチ、ブラッド・ギルバート。彼のバッグを運ぶ者。サンプラスには、病で倒れるまではガリクソンがいた。今、それは寡黙なポール・アナコーンである。頭の切れる男だが、彼の主な仕事は、サンプラスのラケットにガットを保つよう気に懸ける事かも知れない。トッド・シュナイダー、元 ATP のトレーナーは、サンプラスと組んで2年目になるが、見かけるのは現場でだ。デレイナ・マルケイは、姿を見せる機会を選んでいる。もう1つ。サンプラスは自分でバッグを運ぶ。ボディガードについては、あり得ない。

アガシにとっては、人生はショーである。サンプラスにとっては、あたかもテニスが彼の存在に入り込んでいるようである。

「彼らはまさに、全く異なる人間――けれども、上手くやっていけるのよ」と、ベテランのテニス記者サンドラ・ハーウィットは言う。相違は「ピートはとても自信に満ちている。彼は自分の成功を知るために、アンドレのように、うわべの装飾を必要とはしない」という事実である。

95年、テニスがショーに変わった時、サンプラスがそれに合わせたのは確かだった。ライバル関係は金を生み、テニスの手助けとなり、そして時には、確かにとても愉快だった。たとえアガシの芝居が少しばかりくどかろうが。彼らがサンフランシスコとロンドンで作ったコマーシャルは、典型的だった。車から飛び降り、交通を止め、道路の真ん中にネットを張って、そこでラリーを始めたのだ。

その上、時には、たとえ深くはないにせよ、友情は本物のように見えた。サンプラスはシンシナティの ATP 選手権大会の最中、24歳になった。アガシは彼の誕生日だと知り、ケーキとプレーヤーズ・ホテルでの即席パーティーを手配した。まあ、レーバーや(ジョン)ニューカム、そして皆が、ちょいと飲んで、その日のプレーについて談笑した旧き良き時代のように。それはアガシが競争の範囲内という条件のもとで、友情をできるだけ本物にしたいと望んでいた、もう1つの証拠であった。

「このライバル関係のある面は、とても清々しいわ」とハーウィットは言う。「例えば、彼らが実際にそれなりの親密な関係を持てる事。シンシナティでのように。彼らがあらゆる大会でそうするかって? いいえ。でも多分、1年に2回くらいは会うかも知れないわ。ジョン・マッケンローとジミー・コナーズが一緒に出かけるのを見た事はなかった。ピートとアンドレはそれができる。打ち解けた交際ができる。彼らの間に真の反感があるとは思わないわ」

マッケンローがライバル関係について、トップのライバル同士が友情を抱くのは事実上不可能で、ライバル関係が真に充実するためには、四六時中ライバルでなければならないとコメントしたのをアガシが聞いた時、それはより明確になった。

「ジョンは人生における人間関係で、緊張状態が好きなタイプの男なんだろう」と、オープンの直前にアガシは語った。「彼は何事につけても、ゆったり構えるのが得意ではないのかも知れないね」

「彼はコナーズと同じホテルに泊まった事がないし、それには否定的側面もある。残念だね。このゲームがどんなものであるかについて、まずい印象を与えると思うから」

それは本心なのか、あるいはイメージに操られたのか? アガシについて断言するのは難しい。だが何であれ、いい感じだった。オープンの前夜には。そして、同時期に発表されたライバル関係の暴露レポート――そしてサンプラス――に、確実にクリーンヒットした。『ニューヨーク・タイムズ・サンデー・マガジン』に載った、彼についての数少ない真に否定的なプロフィール記事を、サンプラスは熟考する事になった。もちろん、ロンドンは数に入れていない。

*    *    *

「あれに関しては、メディアについて大いに学んだよ」数カ月後、サンプラスは頭を振って言った。「僕について書かれた事……ばち当たりな言葉を使うとか、その手の事……」

くつろいだ会話をいじって印刷物にされたとサンプラスは主張する。もしそれが本当なら、未だにたいした弁明になっていない。  

つまり、サンプラスは叩かれたという事である。そして彼はそれが気に入らなかった。

陽気なスタイルであろうとも、有名な四文字の悪い言葉を使ったとして、再びやられたのだ。デレイナの感情を軽んじたと――彼は冗談ぽく彼女に金目当ての女の役を振り当てたのだ。冷たく、横柄に振る舞ったと。大方の人が知っているサンプラスのアンチテーゼだと。テニスの戦略が話題に出た時、彼の臨時コーチ、アナコーンを侮辱したと。

その記事の辛辣さは見事だった。そして著しくサンプラスに影響を与えた。彼はもはや、メディアがいる場では不敬な様子を見せない。最も信頼する者に対してさえ。今や、一種のダメージ・コントロール心理が彼の構文法を管理する。彼はトルーマンからレーガンに移行した。

その記事はタイミングも完璧だった。ライバル関係に、心をそそる刺激的な付録を加え、ともかくも2人のUSオープン決勝戦を、回りくどく無遠慮な雰囲気に仕立て上げた。もちろん、世界じゅうのジャーナリストも同じ事をしていた。それほど効果的ではなかったかも知れないが。各々の本分を尽くす事は、サンプラスとアガシに任せられた。

アガシはこの春、サンプラスに取って代わって世界1位になったが、オープンのちょうど2週前、モントリオール決勝で彼を負かした。ガッカリする日だった。サンプラスは第1セットを取ったが、アガシとのストローク対決に巻き込まれ、次の2セットを落としたのだ。

それはサンプラスにとって、ぱっとしないウインブルドン後・オープン前のシーズン開始だった。モントリオールの後は、シンシナティ準々決勝でミハイル・シュティッヒに敗れ、インディアナポリス準決勝ではブレント・カールバッヒャーに敗戦を喫した。2人のドイツ人は、アメリカの中枢地域でボリス・ベッカーのために、いささかの復讐を遂げたのである。

一方アガシは、1〜2のマイナーなへま以外は、ウインブルドン以降すべてを勝ち取っていた。いかにも当てにならない見かけにしては、一般には人を打ちのめす恐ろしく暑いハードコート上でベストのプレーするべく、彼は本気で仕事に取りかかっていた。

タイトルはアガシに転がり込んだ。そして彼に対して最も頑固な批評家さえ、見直しを考えねばならなかった。アガシはワシントン D.C. から始め、ツアーの歴史でもベストと言える夏を過ごした。そこではステファン・エドバーグを片付ける前、彼は暑さにやられかかっていたのだ。競技者としてのアガシの進化が伺える決勝戦だった。彼はコートチェンジの間に数回吐いた。キャリア初期ならば、間違いなく敗北を意味したであろう状態だった。

7日後にはモントリオールで、サンプラスに対する勝利がやって来た。アガシは1週間休み、その後さらに2つのタイトルを獲得した。シンシナティの ATP 選手権ではマイケル・チャンを破り、コネチカット州ニューヘイブンのボルボ・インターナショナルでは、リチャード・クライチェクを倒したのだ。

だがサンプラスは、オープン前のアガシの勢いには懐疑的だった。タンパの自宅に近いサドルブルック・リゾートのプールサイドにサンプラスが座り、アガシの勢いを92年の自分にたとえた時、初めは珍しくも少しばかり虚勢のように聞こえた。その年、彼はキッツビューエル、シンシナティ、インディアナポリスで優勝していたのだ。その夏を振り返り、彼は成功の代償がどのようなものだったかを思い出していた。ニューヨークではなく中西部でピークに達するのがどういう事かを。

サンプラスはアガシについて気を揉んで過ごした訳ではなかった。サンプラスは、概して、サンプラスについて気を揉むのだ。ピート・フィッシャーに仕込まれた心構えである。ごく幼い時期、彼は生徒に、テニスコートに踏み出したからには、自分で自分の運命をコントロールすべきであり、そうできるのだという意識を植え付けた。

だがサンプラスは同じく、もう1つの運命の現実に直面していた。いささかも変える事のできない、コントロール不能の空転をする運命の。ガリクソンの病状は悪化していた。化学療法の新しい、激しいラウンドに入るため、彼は95年のオープンに出席する計画を中止した。

同時にサンプラスは、少なくとも前年よりは良い準備ができたという思いに勇気づけられていた。前年はコンディション調整の不足で、イサガに捕まったのだった。

「僕はもっとプレーしたし、準備ができているように感じる」大会が始まる前の週末に彼は言った。「現時点では何があろうと、僕はフィットしているし、暑い中でベスト・オブ・5セットを闘う用意がある。確かにティムはいない……彼は夏の大会の1つと、オープンに来たがっていたんだけど。それが僕たちの計画だった」

「だから(1994年に)比べると、僕はもっと準備ができている。(あの時は)僕は身体的にベストの状態ではなかった。足を引きずっているような感じだった」

*    *    *
<続く>