第1部:USオープン |
第3章 補償 |
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セドリック・ピオリーン。 テニス・トリビアにぴったりの名前について語ろう。 恐らくサンプラスとしては忘れたい名前である。 1993年USオープン決勝のピオリーン戦は、容易いストレートセットの勝利ではあったが。 そこに問題がある。 決勝に進出した時点で、 ピオリーンは大会のおとぎ話になった。サンプラスへの敗戦は関係なかった。彼はすでに充分すぎる事を成し遂げていた。4回戦でクーリエを、準決勝ではウォーリー・マスーを倒し、61年ぶりに決勝進出を果たしたフランス人となったのだ。 一方、ドローの反対側では、サンプラスが予想通り勝ち進んでいた。初のウインブルドン・タイトルに続く、2つ目のUSオープン・タイトルを獲得すべく。3度目、そして世界ナンバー1選手になってからは初めてのUSオープン決勝であった。子供時代の敵マイケル・チャン相手に4セットかかった戦いが、唯一のちょっとした障害だった。 サンプラスの1993年夏は素晴らしいもので、オープンの2週間が仕上げだった。日曜日の決勝の相手は、クーリエ、アガシ、エドバーグやらが確かにふさわしかった。 その代わりとして、彼の相手はピオリーンだったのだ。 フレンチ・トースト。ランクの低いノーシード選手。バックハンドをスライスさせる、大会優勝経験のない男。ボロトラやラコステを夢見る男。彼にとっては初めての−−そしてきっと最後の−−グランドスラム決勝であった。 大衆受け要素に乏しいメジャー大会の決勝。サンプラスにとっては、素晴らしくはあるが−−ひどく皮肉なものだった。彼は傑出したシーズンの後半に入っており、ひとたび獲得し、そして手放し、前年は心から望んだが、2度のチャンピオンであるエドバーグの手に落ちたタイトルを取り戻さんと、ギアを入れていたのだ。 我々はセドリック・ピオリーンを知らなかったとはいえ、彼がステファン・エドバーグでない事は知っていた。細身でハンサムで、せいぜいが右利きのアンリ・ルコントといった男。決勝戦におけるピオリーンの存在は、重要性を、サンプラスの「時」の価値を半減するであろう。それは疑いない。 この決勝戦には失敗というレッテルが至る所に貼り付けられ、他のゆゆしきグランドスラムの期待はずれと並べられる運命にあった。1983年ウインブルドンのマッケンロー - クリス・ルイス然り、1990年ウインブルドンのマルチナ・ナヴラチロワ - ジナ・ガリソンもまた然り。 だが、もっと悪い事にもなり得たのだ。 ウォーリー・マスーが決勝に進出する事もあり得たのだ。 |
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概して、メジャーの決勝戦が予想外のものとなる時には、ドローのどこかで重大な何かが前もって起こり、結果として最終日の成り行きに直接的な影響を及ぼす。 ナヴラチロワの9回目となるウインブルドン・シングルス優勝にとっては、 ガリソンは汚点とも言えた。しかしその前にガリソンは、モニカ・セレシュとシュテフィ・グラフを連続で倒していた。ルイスはマッケンローに一蹴されたが、準決勝ではキャノン・サーバーのケビン・カレンに勝ち、そのカレンは4回戦でコナーズを打ち負かしていたのだ。 同じく、93年のオープンはその好例だった。雨によりスケジュールは遅れ、消化されない試合が山積していた。 大人にとっては子供じみた事だ。 水曜日の深夜、サンプラスとチャンはライバル関係を更新していた。それは1980年にサンディエゴ近郊、少年10歳以下の大会決勝で始まった。 南カリフォルニアの記者マーク・ウィンターズは、ジュニア時代でさえそのライバル関係は「途方もなかった」と記憶している。だがウィンターズは付け加える。当時のサンプラス - チャンの関係は、いわゆるライバル関係と呼ぶほどのものではなかった。両者にとってジュニアテニスは、より雄大な未来への手段にすぎなかったからだと。 「2人とも(年齢区分で)自分より年上のグループでプレーしていた。彼らは、順位ではなく、自分のゲームを作り上げていたのだ」とウィンターズは語った。「マイケル・チャンは既にマイケル・チャンだった。(自滅を待つ事はできず)彼を打ちすえなければならなかった。ピートは時に少しの修正を必要とするショットメーカーだった。才能を間違って使っている子供だった」 サンプラスの進化を述べるには、チャンは完璧といえる確かな筋である。彼が覚えているのは別人のような選手だが、態度は「今と同じで、とても落ち着いていて、非常にリラックスしていた。だが、ピートだとは気付かなかっただろう。彼は(それほどパワーのない)サーブを入れるだけで、ネットには全く詰めなかったよ」 「共に8歳だった時から、僕の知る限り、マイケルは素晴らしい選手だった」とサンプラスは語った。 93年オープンの準々決勝に臨む時点で、プロツアーでの対戦8回の内、チャンが6回勝っていた。彼の粘り強いスタイルがサンプラスを苦しめたのだ。各々が、シンプルだが異なったアプローチを揺るぎないものにしていた。すなわち、サンプラスのパワー対チャンの堅実さ。そういう事である。この2人が対戦する時は、常にそうなるであろう。 その日、8時間の遅れを我慢したファンは、実際のところサンプラス - チャン戦で2つの試合を経験した。サンプラスは生涯の悩みのたねから試合を奪い取ったのだ−−サンプラスはそのレッテルをくせ者のカールステン・ブラーシュに貼ってきたが、まさにチャンにも付いている−−専制的な最後の2セットをもってして。それはチルデン、マッケンロー、レーバーさえをも忘れさせるようなテニスだった。 サンプラスは時折そのようなプレーをする。チャンがその犠牲になった時はいつでも、彼は直ちに何が起こったかを認める。オフコートのチャンはコート上の彼と変わらない。彼は言葉を的確に返す。突飛な事は言わない。事実だけを語る。根本的にまっとうな返答。彼の態度には常に−−常に−−サンプラス的な冷静さがある。 たとえ彼のテニスはそうでないとしても。 ゾーンに入ったサンプラスの犠牲者たちは、血まみれになるのを止めるには何ができた筈かとしょっちゅう尋ねられる。選手たちが質問者を−−そして恐らく自分自身をも?−−納得させようと試みるにつれて、もしそこここで調整に注意怠りなかったならば、チャンスはあった筈だという戯言が何度も垂れ流される。 かつて、完膚無きまでに叩きのめされた後、チャンはサンプラスの弱点を正確に指摘するよう頼まれた。 「彼は料理が得意じゃないよ」チャンは、サンプラスが作ったパスタを挙げて、10代の頃の苦しみについてうんざりと思い出を語った。 素晴らしい答えだ。 この試合の後は−−6-7、7-6、6-1、6-1でサンプラスが勝利−−チャンからこの答えが返ってきた。 「僕に何ができたかって? 分からない……もしかしたら、ネットを越えて彼のストリングスを切れば良かったのかな? できる事は何もなかったよ。彼がベストのプレーをすると、事実上負け知らずなんだ」 実際、チャンに対して負けを知らず、確かにピオリーンに対しても負けを知らなかった。サンプラスは11ゲームを失っただけで、世界1位の座をクーリエから取り戻した。そしてマッケンローが1984年に達成して以来、ウインブルドンとUSオープンに連続優勝した初のアメリカ人となった。 デレイナは、2人は共にウインブルドン以降ナチュラル・ハイの状態だったと語った。今やそれは天井知らずだった。サンプラスを頂上に導き、それから叩きのめした初のオープン・タイトルは、遙か遠くにあった。 サンプラスは語った。「1990年、僕はあっという間に全世界に認識された。いたる所で人に注目されたが、僕は注目の的になるのが好きじゃないんだ。極端から極端への変化だった。その後およそ6〜8カ月間、僕はコート上でもオフコートでももがいていた。いわば混乱だった」 衆目の見るところ、 ガリクソンは選手としてよりも優秀なコーチになり始めていた。サンプラスは1993年を世界ナンバー1選手として終え、大試合で時に彼を悩ませた不安定さをついに克服した。 「ピートはトップに居続ける事を真に渇望している」とガリクソンは語った。 その飢えを満たすのに、USオープンほど適した場所があるだろうか? |
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サンプラス - チャン:対戦成績 ピート・サンプラス - マイケル・チャンのライバル関係は、カリフォルニアでの10歳以下レベルの大会から始まり、当時はチャンが優勢だった。そしてそれが、両者のプロキャリアの端緒となった。サンプラスがプロでの順位を上げるにつれ、ついにチャンのゲームを征服し始めた。 |
サンプラス vs チャン 1989年〜1996年9月:サンプラス11勝、チャン7勝 |
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大会
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サーフェス
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勝者
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スコア
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1989ボルボ・インターナショナル |
ハード | チャン | 6-4、6-4 |
1989ボルボ・ロサンジェルス |
ハード | チャン | 7-6、6-0 |
1989フレンチ・オープン |
クレー | チャン | 6-1、6-1、6-1 |
1990カナディアン・オープン |
ハード | チャン | 3-6、7-6、7-5 |
1990ATPチャンピオンシップ |
ハード | チャン | 7-5、6-4 |
1990グランドスラム・カップ |
カーペット | サンプラス | 6-3、6-4、6-4 |
1991パリ・インドア |
カーペット | サンプラス | 2-6、6-4、6-3 |
1992リプトン・インターナショナル |
ハード | チャン | 6-4、7-6 |
1993グランドスラム・カップ |
カーペット | サンプラス | 7-6、6-3 |
1993USオープン |
ハード | サンプラス | 6-7、7-6、6-1、6-1 |
1994ジャパン・オープン |
ハード | サンプラス | 6-4、6-2 |
1994ウインブルドン |
芝生 | サンプラス | 6-4、6-1、6-3 |
1994グランドスラム・カップ |
カーペット | サンプラス | 6-4、6-3 |
1995オーストラリアン・オープン |
ハード | サンプラス | 6-7、6-3、6-4、6-4 |
1995ATPチャンピオンシップ |
カーペット | チャン | 6-4、6-4 |
1996クローガー/セイント・ジュード |
ハード | サンプラス | 6-3、6-2 |
1996セーラム・オープン |
ハード | サンプラス | 6-4、3-6、6-4 |
1996USオープン |
ハード | サンプラス | 6-1、6-4、7-6(7-3) |