第1部:USオープン
第2章 チャンピオンか、間抜けか?(Champ or Chump?)


その言葉が口から出た途端に、サンプラスはそれを引っ込めたくなった。彼はまさに、最も時宜を得ないアンフォースト・エラーを犯した。 1991年USオープン準々決勝、ジム・クーリエに6-2、7-6、7-6で負けた時に犯したどんなエラーよりも、はるかに重大なものだった。
「僕はなんだかホッとした」サンプラスは見てくれも響きも、悲しげな大きい弱虫のような様子で言ったのだ。
あれまあ。

ジミー・コナーズはその台詞と、チャンピオンである事のプレッシャーが苦痛だったというサンプラスの発言に飛びついた。
「ホッとした、だと。これまでに聞いた中で最大の戯言だ」
39歳でUSオープン準決勝に進出し、再び自信たっぷりとなったコナーズは言った。
「俺は7年連続オープンで優勝しようと、全人生でも何でも費やしてきたよ。USオープンのチャンピオンである事は、最高に素晴らしい気分である筈だ。そして再びそうなろうとするために生きているんだ。もし(今のツアーの)奴らがそのために生きていないのなら、何かが間違っている」

クーリエも、サンプラスの言葉が信じられなかった。
「いったい、ピートにどれほどのプレッシャーがあるっていうんだ?」クーリエは疑問を呈した。「彼は一生働かなくたっていいんだよ。20歳で銀行には何百万ドルも預金があり、恋人もいる。彼は伸び伸びとプレーし、ゲームを楽しむべきだと思うよ。誰だって彼と立場を代わりたがるだろう。彼は世界を支配しているんだ。それを楽しむべきだ。だが、どうプレッシャーに対処するかは、人それぞれだからね」

それに関して、サンプラスは惨めにも失敗していた。
1990年にオープンで優勝した後、彼は6勝4敗でその年を終え、1991年も出だしは冴えなかった。7月になっても、16勝11敗にすぎなかった。
「多分これで、僕は普通の生活に戻れるだろう」クーリエへの敗戦後、サンプラスは語った。「面倒はなくなった。すっかり元のようになる筈だ」

正直な感想だ。悪くもない。
しかし、ホッとしただと?

「気持ちが正確には伝わらなかったんだ」後にサンプラスは言った。「僕は負けて喜んでいると受け止められてしまった。負けてホッとした訳じゃなかった。だが僕はそう言ってしまったし、皆がその発言を叩いた」

サンプラスが試合後に言った言葉への不快感は、クーリエに対するコート上での自信なさげなプレーぶりが元になっていた。アガシを切り裂いたサーブを覚えているか? 見たところ、サンプラスはそのサーブを打てなかった。第1セットでは、サンプラスはダブルフォールトで2度ブレークされた。自信喪失ぶりを何よりも物語っているのは、クーリエの方がエースの数で彼を上回っていた事だろう。

「僕にはこれから先、まだ多くのテニスがあるよ」とサンプラスが言ったのは、心のもやもやを晴らす試合後の記者会見における、数少ない前向きな場面だった。

 *     *     *

92年のオープンに向かうにあたり、サンプラスはその事だけを示してきた。前哨戦である夏のハードコート大会では、シンシナティ(レンドルを下す)とインディアナポリス(クーリエを下す)で優勝したのだ。その前にはオーストリアにも行き、クレーコート大会の決勝でアルベルト・マンシーニを下していた。

彼は91年の夏を消し去っていた。自分の才能に居心地悪さを感じ、当初に与えられていた称賛に値しない、不機嫌でむっつりした若者というイメージを変えていた。

彼はその年を70勝18敗で終えて初の70勝を記録し、100万ドル以上の賞金を獲得する事になった。そして合衆国のデビスカップ優勝に貢献する事になった。−−昨冬リヨンで、 フランスが番狂わせでアメリカを打ち負かした時には、コチコチだったのだが。

彼にはティム・ガリクソンが付いていた。新しいコーチであり、真の友人だった。デレイナ・マルケイは彼の初恋の相手であり、正真正銘の恋人だった。確かに、初のUSオープン優勝はサンプラスの人生を変えたかもしれない。しかしデレイナとの初デートほどではなかった。サンプラスが誘い、彼らはリゾートで1週間にわたるデートをしたのだ。

私生活が順風満帆で、サンプラスは1992年のニューヨークに戻ってきた。第4シードで、自信に満ちていた。ステファン・エドバーグとの決勝に至る厳しい試合を切り抜けるためには、自信が必要だった。

3回戦では、危険な選手トッド・マーチンが、サンプラスを5セットマッチに引きずり込んだ。その後、もし91年に似たような危機に直面していたら、敗退していただろうとサンプラスは語った。

4回戦では、派手なプレーのフランス人、ギー・フォルジェを片づけるために、またしても5セットを必要とした。フォルジェは勝利する代わりに、大会におけるサンプラスの綱渡り的なプレーに関して、哲学的な考察を加えた。

「もしガラスの花瓶でプレーして、空中にそれを放り投げれば、ある日、それは割れるだろう」フォルジェは、サンプラスは脆いと遠回しに評した後、警告を発した。

サンプラスにはフォルジェを倒す必要があった。91年のデビスカップでは果たせなかっのだ。フォルジェは4セットで勝利し、フランスの番狂わせを確定した。「僕は勝つ途を見いださなければならなかった」サンプラスは言った。

選手として、チャンピオンとして、サンプラスが成長してきた新しい局面を予告する試合だった。ベストの出来ではなくとも、彼はとにかく切り抜けたのだ。

その後、このような決意が91年には欠けていた事を彼は認めた。「僕はもっとやる気に満ちているんだ。大会に優勝するかどうかは分からない。今のところ、あまりいいプレーをしていないし。でも僕は闘い、そして勝っている。それが僕には重要なんだ」

闘う事。勝利する事。それを重要だと言う事。これは新しいサンプラスではなく、甦ったサンプラスであった。今回、彼の努力あるいは決意には、何の疑いもなかっただろう。従って、準々決勝でアレクサンダー・ボルコフを6-4、6-1、6-0でやっつけ、対戦相手が最善を尽くさなかったと明白になった時、サンプラスは心地よく批判モードに入った。

ボルコフはもちろん、「*Tanks a lot」という追伸を添えて返信した。
訳注:「Thanks a lot」をもじって、Tank(わざと負ける、ダメになる)を使っている。

「彼はやる気を少しばかり失っていたね」サンプラスは言った。「こんな試合をどう思うかって? 大きなチャンスかって? 驚いたけど、チャンスは掴むよ」

当時1位だったクーリエとの再試合は、全く異なるものだった。サンプラスは4セットで勝ったが、重大な代償を払った。脱水症。腹痛。少なくとも、もう一方の準決勝でエドバーグがマイケル・チャンを退けるのに、5時間26分かかってはいたが。
スーパー・サタデーが大会の第2日曜に間をおかず移行するにつれ、サンプラスの発言は空疎な話になったようだった。

*     *     *

1992年の決勝戦がサンプラスにとっていかに重要であったとしても、男子テニス全体にとっては、さらに意義深いものであった。その所見を規定するために、いま一度、時間を超えてあと知恵が作用している。

エドバーグが間もなくトップ集団から姿を消していくとは、その時点で誰が予測できただろうか? サンプラスの普通より早い進化が、テニス界の歴史的偉人の1人へとなっていく事を、誰が予見できただろうか? そして確かに、これが彼らの唯一のグランドスラム決勝対決になるとは、誰も想像しえなかった筈だ。92年は単に1つの優れたオープン決勝戦でしかなく、世代交代の意味はほとんど重視されていなかった。

エドバーグは1996年の終わりに引退を予定している。彼とサンプラスがメジャー大会の決勝で定期的に対戦しなかった事実を嘆くべきである。彼らは5歳離れているが、スポーツマンシップとスタイルで常に結び付けられてきた。美しい人間、美しいテニスをする、両方の側面が自然に備わっている2人だ。

恐らく、真価を認められていないライバル関係であろう。特にサンプラス - アガシのマーケティング・マシンによる眩しい光を向けられると。サンプラス - エドバーグの関係は、テニス界のアリ - ノートンになる。他の試合の陰になってしまうが、それ自身がまばゆく輝いているのだ。

話を戻そう。サンプラスの使命には2つの面があった。タイトルを獲る事、そして92年の功績によって91年の言葉を取り消す事。しかしまた、単に生き残るための闘いは、既に付随的なものとなっていた。決勝戦に辿り着くまでに消耗し、特に準決勝が土曜、決勝が日曜に行われるオープン固有のきつい日程のため、彼の21歳の身体は疲労しきっていた。クーリエとの試合はそれを暗示していた。サンプラスは健康で運動能力も高かったが、肉体的に追い込まれすぎると脆いところがあったのだ。これはジュニア時代に遡る批判だが、トレーニングに関しては、彼は怠け者で不熱心だと見なされていた。

エドバーグは? ディフェンディング・チャンピオンは、3試合連続の5セットマッチに耐えてきた。そしてもちろん、チャン相手の5セットは、他の選手相手の7もしくは8セットに相当する。

「僕は人生を懸けて戦っているんだ」エドバーグは言った。「多くの困難をくぐり抜けてきたが、それは僕の気骨と心根を証明していると思う」

気骨。それはサンプラスが追い求めていたものではなかったか。あるいはむしろ、気骨があるというイメージ。そのイメージは、前の年に地獄へと追いやられていた。それを修復し、敬意を獲得するのに、この決勝戦よりふさわしい場はなかった。相手は申し分ないプロフェッショナルで、スウェーデンの至高を継承する者、ビョルン・ボルグの規範に匹敵する以上のものを有していた。

両選手とも、他のいかなるショットよりもサーブの強みで決勝戦まで勝ち上がってきた。それにふさわしく、事を決したのはサーブだったと言えるだろう。

最初の2セットを分け合った後、サンプラスは第3セットを獲るべくサービスゲームに入った。彼はダブルフォールトを2回犯した。しかも2度目はブレークポイントでだった。数分後のタイブレークでは、サンプラスは4-5の場面でダブルフォールトを犯し、スウェーデン人に2つのセットポイントを、そして事実上、試合を手渡した。

エドバーグは勝利を得た。−−3-6、6-4、7-6(7-5)、6-2で。クーリエがアシストを務めた。

「第4セットまでに、僕はガス欠になっていた」サンプラスが言った。「疲労困憊していた。何よりも、精神的に。自分のサーブには落ち込んだよ」

両選手ともこのタイトルに伴うナンバー1の順位に重きを置かず−− サンプラスは3位に落ち、クーリエは2位に落ちた−−、メジャー大会のタイトルが持つ意味にこだわった。

そして? ついに、その意味はサンプラスにとって明確になった。敗北にあたり、彼は言葉はチャンピオンのもののようだった。

「初め、僕はこの大会の歴史や重要性を理解していなかった」サンプラスは自分の知力を誤って伝えた。彼は歴史を知っていた。重要性をしっかり把握していた。それを正しく認識していなかっただけだ。

1991年に不用意な発言で世間のあざけりを受け、92年の決勝戦で敗北し、彼はそれを悟ったのだ。

「(92年に優勝していたら)1990年以上に意味があっただろう」とサンプラスは言った。
「あの時は、すべてがあまりにも速く起こったんだ」