第1部:USオープン
第1章 フルサークル


アンドレ・アガシはアスレティックか?
ほぼいつでも、ピート・サンプラスがこう言うのを聞く筈だ。「うん、そうだよ」と。
1995年USオープン決勝のウォーミングアップで、ネットを挟んでサンプラスと対峙していたアガシは、彼の人生でベストの体調だったかもしれない。彼の人生で最高のテニスをしていたかもしれない。しかし、アガシについてはいつもの事だが、彼はその間じゅうずっと、錯覚、イメージを働かせてきた。サンプラスを抜いて世界ランク1位へと、苦労して前進する間さえも。

両方をする事ができたのは、彼の手柄である。
完璧を渇望し、新コーチのブラッド・ギルバートに煽られ、コート後方から前例がないようなボールを打ち、ナショナル・テニスセンターのスタジアムコートへと大股で歩いていくアガシは、畏敬の念を覚えさせるようだった。
だが、常にそうであったように、何かが欠けていた。
驚異的なテニスプレーヤー、アガシは、ごく平凡な運動選手であると暴かれる時もあり得るのだ。

ピート・サンプラスは、それは彼の手柄だが、この事を知っていた。それまでも常に知っていたように。
そして、勝つとは予想されていなかったUSオープン決勝でアガシを叩きのめした5年後、ピートはそれを繰り返した。かなり異なった方法ではあったが。
1990年に19歳だった時、彼はただアガシを圧倒した。合計で9ゲームしか失わず、ストレートセットで勝ったのだ。
今回、彼は思慮に富んだ4セットの勝利を生み出した。恐らくアガシにはできず、サンプラスにはできる事によって。
それは美しかった。

現場の代理コーチであるポール・アナコーンと、正式なコーチのティム・ガリクソン−−彼は脳腫瘍と闘い続けながら、電話で彼にできる事を提供していた−−を加えた試合前の協議により、明確な統一見解がもたらされた。目指すべきはアスレティックで、コート全体を使ったポイントであると。三頭政治はそう判断した。すなわち、もし多才さと順応性がプレーに生かされるなら、アンドレにチャンスはないであろうと。そして、まさにそうなった。

「アンドレが自分の快適な領域にいると、たいていの男を倒すだろう。そして僕は彼をその領域から引きずり出すための事を試みる必要がある、とティムは言った」
数カ月後、7つ目のグランドスラム・タイトルを思い起こし、サンプラスは語った。そのタイトルにより、彼は(ロイ)エマーソン、(ロッド)レーバー、(ケン)ローズウォールに、そして切望する不滅の存在への仲間入りに一歩近付いた。公には控えめにしか口にしないが。

「アンドレと僕が対戦する時はいつでも、主導権を先に握る者がポイントを勝ち取るように思う」と、サンプラスは付け加えた。「だが、アンドレは動かされている時、少しばかり苦労する。それが、僕のやろうとした事だ」

そしてサンプラスの計画は、強みであるサーブとボレーを目立たせ、一方オールコート面でのアガシの相対的弱みを利用したが、最も記憶に残っているのは、それらの要素に反した1ポイントだった。
第1セットのセットポイントである。バックコートでの22本のラリー、それはあらゆる意味でアガシを物語っていた。サンプラスは何本ものウィナー級ショットを無効にし、最後にはクロスへのバックハンド・ウィナーで、そのポイントを終わらせた。

「あのポイントはむかついた……。本当にいやったらしいポイントだった」
試合後の記者会見でアガシは語った。その記者会見で、彼は最もまずい弁解をした。気が抜けたように感じていたと言ったのだ。
今や、その発言がむかつく。
気が抜けた? グランドスラムの決勝戦に向けて?
錯覚について話していればいいさ。

*    *    *

サンプラスは、5年前とは明らかに異なる魔法を行使した。1990年のUSオープンには、彼は第12シードとして臨んだ。その年の始め、彼はどこからともなく現れた、強烈なサーブと滑らかなスタイル、静かな物腰を備えた、ひょろっとした猫背の子供にすぎなかった。巧みさと無頓着さを併せ持ったサンプラスは、カリフォルニアのジュニア・サーキット出身だった。彼のジュニアキャリアは、バックハンドを両手打ちから片手打ちに変えた事により、上昇を阻まれていた。その変更には新しく、ネットプレーの重視が伴っていた。

その変更は、最初のコーチであるピート・フィッシャーに説得されてのものだった。彼はまずサンプラスのゲームを形成した。それから、過去の偉人たち−−オーストラリア選手が主だったが−−、および彼らのグランドスラムにおける業績に対する彼の高い評価を形にしたのだった。

USオープンは、1988年にサンプラスがプロとしてプレーした初めてのグランドスラム大会だった。1回戦で敗退し、世界97位で終えたデビューの年における、心許ないハイライトだった。

彼は初めてのUSオープンに、ワイルドカードを得て出場した。その年4回目のワイルドカードだった。特権だとの見方もあるが、事実上、毎週のように番狂わせを案じる必要もなく上昇への道が開かれ、サンプラスのツアーへの加入をかなり困難の少ないものにした。

その主張にはある程度の正当性がある。しかし同時に、サンプラスはデビューシーズンに、それなりの責務を果たした事も意味している。

彼は最初の3大会で、震え上がるようなドローをプレーし、そして生き残ったのだ。フィラデルフィア、インディアンウェルズ、そして現在は無くなったニューヨーク市のチャンピオン大会で。彼は5回の本戦試合のうち2回勝利した。

ノースカロライナ州ローリーの USTA(アメリカ・テニス協会)チャレンジャー大会では初のワイルドカードを得て、1週間低レベルの暮らしをした。ワールドツアーに対するチャレンジャー大会の位置づけは、野球のメジャーリーグにおけるトリプルAに相当する。サンプラスは2回戦で負けた。もし彼のスポーツが野球であったら、ダブルAに送り込まれていたかもしれない。

もう1つのワイルドカードは奏功した。今回はニューヨーク州シュネクタディでのワールドツアー大会だった。そこで彼は準決勝へ進出し、初めて真の成功を収めたのだ。ティム・メイヨットには敗れたが、彼から「注目すべき選手だ」とのお墨付きをもらった。

シュネクタディでの成功はサンプラスのランキングを押し上げ、シアトルのチャレンジャー大会では初の本戦ドロー入り −−しかも第3シード−−を果たした。ああ、しかし、さらなる1回戦敗退。翌週のチャレンジャー大会では、4度目の1回戦敗退。そして5度目は、シンシナティの ATP 選手権大会でだった。サンプラスはワイルドカード出場だったが、経験豊富なブラッド・ギルバートの手に落ちた。それはUSオープンにおける早期敗退の序章だった。

1990年までには、有望な若手への特別待遇に対する論議は、無意味なものとなっていた。ワイルドカードはもう必要なかった。

サンプラスは1990年を81位で始めていた。オープンの6カ月前、彼はUSインドア決勝でアンドレス・ゴメスを下し、プロ・トーナメントで初の優勝を遂げた。6月には、ウインブルドン前哨戦であるマンチェスターの芝生で優勝した。だがウインブルドンでは1回戦敗退を喫した。

晩夏……USオープン、思いがけない幸運……が訪れた。時速125マイルの目を見張るサーブ、力強いファーストボレー、ランニング・フォアハンドを含む、どんな対戦相手をも圧倒しうるグラウンドストロークの形をとって。ランニング・フォアハンドは再三再四トラブルを勝利に変え、やがて彼のトレードマーク・ショットとなるであろう事を初めて暗示させた。

イワン・レンドルは準々決勝で敗れ、9年連続オープン決勝進出への夢はついえた。4度のチャンピオンであるジョン・マッケンロー最後の抵抗は、4セットの準決勝で終わった。

合わせて7回のオープン優勝を遂げていた2人の男を破り、サンプラスはアガシに照準を定めた。アガシは20歳で世界第4位だったが、その年のフレンチ・オープン決勝で、すでに盛りを過ぎたゴメスに敗れ、アンダーアチーバーと見なされていた。大方の目には、アガシはゴメスに対して平静を失っていたように見えたのだ。

しかし誰に聞いても、今回の場合は、彼を責める事はできなかった。それはあっけない決勝戦だった。1時間42分しかかからず、サンプラスのサーブが−−13本のエース、12本のサービス・ウィナー−−明白な鍵だった。

「僕はとても良いサーブを打ち、相手の心に『まずいゲームを1度でもすれば、セットは終わる』という種をまいたんだ」とサンプラスは語った。「僕ができうる最高のプレーであり、これ以上はないという機会だったかもしれない。僕は試合をコントロールし、プレーの主導権を握っていた。僕を負かせる人がいたかどうか、分からないくらいだよ」

確かに、圧倒されたアガシには無理だった。イメージには何の価値もなかった。

「時速120マイルのサーブをラインに打つ事ができれば、すべき事は大してないよ」とアガシは言った。「まさに、時代遅れの路上強盗みたいだったね」

まことに、時代遅れであった。

マッケンローのウッドの代わりにグラファイト製のウィルソン・プロスタッフで強化され、そして最高のストローカーと−−アガシや昔風のストローカーとさえ−−ステイバックして打ち合う能力を付加されてはいるが、古めかしいサーブ&ボレー・スタイルでプレーする中で、サンプラスは昔を思い起こさせるスタイルに加え、もう1つの要素を明らかにした。

彼はオフコートでは寡黙で、コート上ではさらに静かだった。彼は優雅さをもって取り組んだのだった。我々はそれを9月に学んだ。かつてそうだったように、アメリカ人的なケツ野郎の系譜からのきっぱりした別れを象徴していたのだ。(コナーズはマッケンローを生み出し、マッケンローは至る所に無数の不作法なテニス小僧を生み出していた)サンプラスは芝居がかったしぐさ(histrionics)をする暇もなかった。

彼が追っていたのは歴史(history)であり、ナンバー1だったからだ。
「これはテニスで最高のものだ」とサンプラスは語った。彼は1966年にノーシードのフレッド・ストールが優勝して以降、オープンで優勝した最も低いシード選手となった。

彼はまた、大会の最年少男子チャンピオンにもなった。19歳28日で優勝し、1890年の優勝者、オリバー・S・キャンベルに取って代わったのだ。 キャンベルは弱いサーブ、そこそこのスライスを持つオランダ系の頑健なニューヨーク市民だった。5カ月の差で伝説は消えた。

「これより凄い事なんてないよ。今後のキャリアで僕が何をしようとも、僕はずっとUSオープンのチャンピオンとして記憶されるんだ」とサンプラスは言った。
振り返ってみれば、まったくもって世間知らずであった。6年後、すでにサンプラスはそれ以上の存在と見なされているのだ。そして行く手には、さらに多くが待っている。

伝説は、進行中のようである。それがどれほど大きくなろうとも、伝説は永遠に、あの最初のUSオープン・タイトルと結びついているだろう。

「1990年の事については、あまり考えない」
タンパの自宅から20マイル北にある、フロリダ州ウェスリー・チャペルのトレーニング基地で練習する前に、サンプラスは語った。「でも毎年オープンに到着して、会場を歩き回っていると、僕は『「おい、ここは僕の人生が変わった場所だ』と考え始めるんだ。1990年には、僕はいわば、突然どこからともなく現れた奴にすぎなかったんだよ」

そしてしばらくの間、ただ素早く、彼は戻ってくるかのようだった。