後記:1996年USオープン


ウインブルドン優勝はサンプラスの1995年シーズンを救った。1996年は、4回目のUSオープンタイトルだけが救いとなった。

7月にサンプラスがロンドンを去り、その後アキレス腱を痛めてオリンピックを欠場した時には、そうなるとはとても見えなかったが。

ところで、その怪我は本物だった。タンパに住むサンプラスの親しい友人、フランキー・マルチェシーニは請け合った。

怪我が癒えるや、サンプラスは専属トレーナーのトッド・シュナイダーと共に、サドルブルック・リゾートのハードコートでトレーニングに戻っていた。オープン前の大会出場スケジュールは軽めだったが、重要なものだった。シンシナティ、インディアナポリスの連続2大会で、前者―― ATP 選手権――はメルセデス・スーパー9シリーズの1つだった。

アガシはシンシナティでタイトルを防衛し、続くオリンピックでも金メダルを獲得した。そして突然、予告もなく、彼は再びUSオープンの優勝候補となっていた。

サンプラスはトーマス・エンクイストに準々決勝で敗れた。見るべきものはなかった。6-3、6-3というスコアも。ささやかな慰めは、エンクイストは4回戦でクライチェクも破っていたという事だった。

インディに入り、アガシは1回戦でバイ(シードによる不戦勝)となり、そしてバイと別れを告げた。

ダニエル・ネスターに6-1、2-3とリードしたところで、アガシは主審のダナ・ロコントと口論になり、強まっていた無作法な言動への趣味を発揮したのだ――衆目の見るところ、彼の言葉遣いは許容範囲を逸脱していた。幼いファンが見守る中、彼が下品な言葉を連発させても何の問題もない練習コートでさえ――あまりにも。

「ファック・ユー、ダナ」は侮辱だった。ロコントは ATP ツアーの監督官マーク・ダービーを呼んだが、彼が現われると、同じくアガシから悪態を浴びた。ダービーは大会から彼を放逐した。問題は、マジックワードが場の勢いで口からこぼれたのではなく、ロコントに直接向けられた事だった。

そして、アガシがいなくなり、大いなるライバル関係は別の週へ持ち越され、サンプラスは大会に優勝するという仕事に取り組んだ。ゴラン・イワニセビッチとの決勝戦における7-6(7-3)、7-5というぎりぎりの勝利は、彼もまたライバルと同様に、きわどい状態をさまよっている事を示唆していた。

サンプラスにとって3回目のインディ・タイトル、96年の5番目のタイトルは、4月のアジア以来初のものだった。

「今週はかなり良い感じだった」とサンプラスは語った。「(大会中は)とても上手くプレーした時もあれば、乗り切れていなかった時もあった。これからもっと調子を上げていけると思う( I feel like I can get better.)」

最後の言葉。

それはUSオープンに向けての、7つの単語による予告だった。

*        *        *

あのオープンにおける男子ドローの大失敗はどうなのか?

合衆国テニス連盟( USTA )は、世界ランキングを遵守すべき規準としてではなく、参考とするに留めてある種の強引さを示したが、大失策となったのだ。まるで他の112名がそれぞれの位置に割り振られた後に、シードされた16人の選手がドロー表に加えられたように見える。

採るべき方法ではなかった。そして残りのドローがどうなったかという結果に基づいて、USTA がシード順を調整したという罪状が明らかになった。特定の選手を有利にする可能性があった。特に、特定のアメリカ人を。

そこで彼らはドロー表を作り直した。それでもサンプラスは、またしてもマーク・フィリポウシスと早いラウンドで対戦する運命にあった。「ある男たちは、常に僕の山に入るみたいだね」とサンプラスは言った。

まず、サンプラスは何人かの無名選手を退けなければならなかった。ベネズエラのジミー・シジマンスキーはその命題に従い、3セットで5ゲームしか取れなかった。次はチェコスロバキアのジリ・ノバクだった。2回戦にしては奇妙にも苦労して、サンプラスは調子が上がったり下がったりした。ノバクはただ走った。走った。走った。世界ナンバー1選手は47位の選手を破るのに、延々と5セットを要した。スコアは6-1、1-6、6-3、4-6、6-4。

オープン1週目の金曜日の午後にしては、なんと説明しがたい大接戦だったか。後にサンプラスは、試合に負けるとは決して思っていなかったと語った。第4セットの間じゅう彼は足を引きずり、チェコ選手は番狂わせを目指して活気づいているように見えていた時でさえ。

「最後は僕の経験が役に立ったのかも知れないと思うよ」とサンプラスは語った。「うん、僕はミスをしていた。たくさんのエラーを犯していたよ。無理に攻撃しすぎていた場面もあった。だがそれが僕のプレー法だ。狙い続ければ、やがては何本か決まるという風にいつも感じているんだ。それが教わった方法であり、今後もプレーし続ける方法だ。僕がもっと調子を上げていけば、次の試合は……」

彼はそうした。ネットの向こう側にアレクサンダー・ボルコフがいたのも、彼の目的を助けた。ボルコフはサンプラスに対して試合を投げるという歴史を持っている。彼は、まあ言わば、それを再びやらかし、3セットで敗れた。

その後サンプラスはさらに調子を上げる必要があった。フィリポウシスがそれを要求するのだ。彼の年齢(19歳)と、サーブの不安定さにもかかわらず。彼に対するサンプラスの戦略は一定している。「彼にプレーをさせる事」。

それが実行されると、つまりフィリポウシスが厳しいボレーを打たされたり、あるいは何らかのラリーを強いられる時、サンプラスには何の恐れもない。

今回、彼らにとって今年3回目、そして全体で4回目の対戦――すべてがグランドスラム大会――では、フィリポウシスは始めから終わりまで「プレー」しなければならなかった。もう1つのストレートセット勝利、それは前回優勝者にとって、大会中でも最も壮観な勝利となった。

それはまた、2回戦でのサンプラスのイメージを大方の者に忘れさせるほど圧倒的だった。

しかし誰もが記憶喪失になった訳ではなかった。アレックス・コレチャもその1人だった。

*        *        *

コレチャ――そこらのファンなら何者か知らない男だが、95年のオープンでは一時的に注目を集めた。アガシに2セット対1セットとリードし、それから最後の2セットで叩き出されたのだ。しかしバルセロナ出身の22歳は、世界31位の選手、堂々とした男子スペイン軍団の一員としてニューヨークに戻ってきた。

オープンを迎える時点で6人のスペイン選手が世界トップ50に入り、コレチャはその最後にいた。このグループには2回のフレンチ・オープン・チャンピオンであるセルジ・ブルゲラは含まれていない。彼は今年、怪我のために順位を落とし、ツアーから離れてカムバックに努めていた。

この男たちは戦える。そして多くはバルセロナのハードコート――1992年オリンピック施設で――での練習に時間を費やしている。大方が想定するかも知れないレッド・クレーではなく。基本的には当世風のベースライン・プレーヤーで、大半は十二分なオールコート技能を備えている。多分アルベルト・ベラサテギと彼の特異なフライパン・フォアハンドを除いては。

サンプラスはコレチャに対して2勝0敗だった。どちらの勝利も、こともあろうにレッド・クレーでのものだった。サンプラスはまた96年チャンピオンズカップで、コレチャがを棄権したために不戦勝を得ていた。

名前、数字、理由――すべてが、蒸し暑い木曜日の午後が緊張に満ちた夜へと変わった国立テニスセンターのスタジアムコートでは、場違いなものとなった。スタジアムはおよそ4分の3が埋まっていたが、空席は大した問題ではなかった。

スタジアムの外では、デイ・セッションを手放す完璧なタイミングだと考えたファンが、選手のネームバリューに見合った良い席のチケットを売っていた。サンプラス対コレチャという名前と数字に基づいた見通しだった。

それは充分に、そう、筋の通った見通しだった。

名前が、業績や結果とは切り離され、さらに多くの数字を生み出すために作用し合うとは、誰が考えただろうか。本当に知る必要のあるただ1つの事は、戦いが始まって4時間8分後、それが最高潮に達したという事である。それは4時9分に始まり、ついに潮が引いた。コレチャがダブルフォールトを犯したのだ。セカンドサーブは2インチばかり長かった。そしてサンプラスに第5セットのタイブレークによる勝利がもたらされた。全体のスコアは7-6(7-5)、5-7、5-7、6-4、7-6(9-7)だった。

サンプラスは最終セットの大部分、テニス版のデッドマン・ウォーキングという様子だった。足を引きずって歩く死人か? まさにそうだった。ポイントからポイントへ、コートエンドからコートエンドへ、サイドからサイドへ、足を引きずっていた。そしてポイントの最中にサンプラスが何本かのショットを見送り始めると、苦い思い出が甦ってきた。この第5セットは、サンプラスが2年前に同じコートで、別のしぶとい外国人と対戦した状況ときわめて似通っているようだった。しかしハイメ・イサガは、サンプラスを倒していた。アレックス・コレチャは、自分の当面の名声はサンプラスを嘔吐させた男としてのものだろうと考えながら歩み去った。

第5セット・タイブレーク、1-1。サンプラスの気分の悪さはさらに悪化していた。そしてラインを離れて、あてもなく数フィート後ろへと下がった。彼は立ち止まり、身体を折り曲げた。嘔吐するにつれて、身体が上下にうねっていた。ボールボーイがタオルを手に走り寄り、汚れを拭った。そしてサンプラスはどうにか次のポイントを勝ち取った。

サンプラスが今にも息絶えそうに見える一方で、コレチャは実に生き生きと勢いがあり、マッチポイントを握った。サンプラスは7-8でサーブを打ち、ボールを捕らえるために身体を右方向へと伸ばし、そしてフォアハンド・ボレーを放った。

サンプラスには2回のマッチポイントが訪れたが、1回目はフォアハンドをネットにかけて6-5となっていた。2回目は、驚くべき時速90マイルのセカンドサーブ・エースによってセットされた――デュースコート・ワイドへのエース。次に起こった事は、コレチャのダブルフォールト、そして彼は膝を突いた。ほんの数秒の出来事だった。彼は素早くネットに駆け寄り、ぞんざいな握手ではなく温かい抱擁をした。

勝利が確保され、次の任務は回復となった。イワニセビッチとの準決勝には2日間の猶与があった。イワニセビッチはステファン・エドバーグにとって最後のグランドスラム大会を準々決勝で終わらせていた。彼にとっては過去最高のオープン成績でもあった。

回復への試みはすぐに始められた。サンプラスは試合後の記者会見に出席できなかった。脱水症状とケイレンを起こしており、2リットルの点滴を受けた。それは彼の肉体的回復を助けた。彼の心を助けられるのは時だけだった。試合後、彼の心は再び乱れ、故ティム・ガリクソンが「あの試合を切り抜けさせてくれた」と、涙ぐみながら恋人に語った。

シュナイダーはできる限りの仕事に取り組んだ。サンプラスは、筋肉に蓄積された乳酸を減らし、必ず起こる筋肉痛を和らげるためにマッサージを受けた。シュナイダーは肉体的回復に集中し、心と精神も回復する事を願っていた。栄養摂取と運動に関して、慎重に計算された計画が続いた。翌日は国立テニスセンターに近寄らない事で、1つは容易に片がついた。しかしもう1つは、思いもよらない方法でその夜に始められた。

「我々は食事に出掛け、パンケーキとスクランブルド・エッグを食べた」とシュナイダーは語った。「翌朝はパンケーキとイングリッシュ・マフィンにした」

それから、手際を要する部分が続いた。

「私はピートに多少の運動をさせたかった。身体を消耗させるほどではないが」とシュナイダーは語った。「それで、ロングアイランドに住む私の友人宅へ出掛けた。彼はコートを持っているんだ。快適で静かだった。煩わしさはなし。ピートはポール・アナコーンと、軽く1時間ばかりヒッティングを行った」

高炭水化物の栄養摂取も続けられた。昼食にはパスタとピザ。夕食も同じだったが、少量の肉が加わった。「タンパク質も少しばかり必要だからね」とシュナイダーは言った。

できる限りの回復をはかるとともに、サンプラスの準決勝の対戦相手は、イワニセビッチという最も望ましい相手だった。彼の強烈なサーブはポイントを短くする。まさにサンプラスが必要とするものだった。最小限のエネルギー爆発を必要とし、持久力はあまり求められない試合。

イワニセビッチに対しては、サンプラスはフィリポウシス戦と同じシンプルで明快な戦略を用いる。踏み止まり、そして相手にサーブ以外のショットも打たせる事。その戦略により、サンプラスはストレートセットの勝利へあと一歩のところまで来た。イワニセビッチを褒めるべきだが、彼は第3セットのタイブレークでゲームのレベルを上げ、4つのマッチポイントを逃れた。

だが2回目のマッチポイントは、6-5でサンプラスがダブルフォールトを犯して、すり抜けていったのだった。イワニセビッチがサービスウィナーで11-9として、タイブレークを終わらせると、もう1セットやる事になったサンプラスはひどく怒っていた。

「タイブレークを落とした後、何も前向きに受け止められず、ひどい気分だった」とサンプラスは語った。「第4セットに入って最初の3〜4ゲームでは、僕は(マッチポイントで)なんて愚かなプレーをしてしまったんだと考えていた。だが落ち着きを取り戻そうと努め、『まあ、僕はまだ1セットをリードしているし、かなり良いプレーをしている』と考えるようにしたんだ」

彼は充分に良いプレーをし、第8ゲームでサービスブレークを果たして試合を終わらせた。

「コレチャ戦とは全く違う試合だった」とサンプラスは語った。「ゴランとだと、ジェットコースターに乗っているみたいなんだ。彼が何をしてくるか、分からないからね」

準決勝にも見所はあったであろうが、コレチャ戦の試練の前には霞んでしまった。サンプラスの少年時代からのライバル、マイケル・チャンとの決勝戦もまた。

チャンは準決勝でアガシの順調な勢いを止めたが、サンプラスに対してはほとんど何も残っていなかった。もう1つのストレートセット勝利――6-1、6-4、7-6(7-3)――は、サンプラスに4回目のUSオープン・タイトルをもたらした。1968年に「オープン時代」が始まって以降、それを成し遂げたのは他に2人の男だけである。ジミー・コナーズは5回、ジョン・マッケンローは4回、オープンで優勝した。

しかしコレチャ戦の勝利と同様に、スコアや各種数字はほとんど何も物語ってはいなかった。

決勝戦が行われた日は、ティム・ガリクソンの45回目の誕生日だった。双子の兄弟トム・ガリクソンは、コーチではないがサンプラス陣営にとって不可欠な一員であり、このタイトルはティミーへの捧げ物であるとを承知していた。彼はその場に居合わせ、ひそかに祝った。

ティム・ガリクソンが5月3日に亡くなって以来、サンプラスの心に食い入っていた痛みを、ついに振り切るかも知れない終結についてデレイナ・マルケイは語った。

「今日、僕は一日じゅう、そして試合の間じゅう、ティムの事を考えていた」とサンプラスは語った。「僕は今でも彼の精神を感じるし、彼はこの場にいないけれど、僕の心の中で生きているんだ。彼の助けがなかったら、僕はチャンピオンになっていなかっただろう。トロフィーを掲げた時にトムを見た。素晴らしい瞬間だった」

「終わって、ただ嬉しいよ。これは間違いなく僕の1年を救ってくれた」

*        *        *

サンプラスはチャンピオンとしてニューヨークを去った。しかし前方には新たな障害が姿を現していた。決勝戦の後、ポール・アナコーンはメディアのメンバーに、サンプラスは本格的な健康診断を受けるかも知れないと告げた。試合中に繰り返される衰弱の原因でありうる健康上の問題を、正確に把握する事が目的だった。1週間後、トロントのグローブ&メール紙が、サンプラスは貧血症を抱えているかも知れないとレポートした。レポーターであるフリー・ジャーナリストのトム・テビューは情報源を明らかにしなかったので、信用性にはいささか問題があったが。

話は真実なのではないかという憶測が高まるなか、サンプラスと彼のトレーナー、シュナイダーは、コメントを拒否した。結局のところ、他の情報源がテビューの話を裏付けた。貧血症は治療可能な医学的症状で、素人はしばしば血液中の鉄分不足と定義する。それは血液中の赤血球数が不足する事を意味する。貧血症を抱える人々の大半は疲労しやすい、少なくとも、そうでない人々よりも疲労しやすい傾向がある。

何があろうとも、自分のキャリアは健康状態によって妨げられる事はないだろうとサンプラスは語った。多分ないだろう。しかし、それは今後の厳しい試合において、ある要因とはなり得るだろう。いずれにしても、貧血症の存在は、クーリエやコレチャの主張、とりわけ、サンプラスは時に疲労を装っているという疑惑を沈静化させるだろう。

この症状を抱えながらもサンプラスが成し遂げてきた事は、彼が持つ8つのグランドスラム・タイトルに全く違った光を投げかける。

さらに多くの栄光を。


<終>