エピローグ


テニス史に関するサンプラスのセンスについて、多くを物語る1つの逸話がある。とある午後、彼は練習をしながら、各選手が獲得したメジャータイトルの数について喋っていた。子供が隣の裏庭でプラスチック・ボール遊びをしながら、ペナント・レース中の打率の話に興じるように。

残念な事に、当時テニスのトレーディング・カードは作られていなかった。もしあったら、サンプラスは恐らく屋根裏にカードでいっぱいの箱を隠していただろう。頭にはたくさんの物語がしまい込まれ、心にはテニスの思い出と可能性が詰め込まれて。

「おい、ローズウォール2枚とコナーズ1枚を取り替えよう! ……なんだって? しない? コナーズは74年に2度、彼を負かしたんだ。そりゃ、ローズウォールはもう年配だったからね。でもコナーズ、彼はベストだった!」

サンプラスはベストになり得るだろう。

やがて。しかし、まだ先の話だ。

8つのメジャー・タイトルを獲得し、彼はロイ・エマーソンの史上最多記録まで4つと迫っている。だがサンプラスは25歳になったばかりだ。エマーソンは手の届く所にいる。

しかし「史上最高」という漠然とした称号は? 結局のところ、エマーソンの半ば過大評価された――6つの(当時は国内選手権だった)オーストラリアン・オープンタイトルを算入した――史上最多記録よりも、レーバー及び彼が2回成し遂げた正真正銘のグランドスラムの方が、さらに大きく立ちはだかっている。

「私は今のところ、史上最高リストの6番目にピートを据えている。そして彼は上昇あるのみだ」と、過去の選手たちが好きな元コーチ、ピート・フィッシャーは語る。彼はレーバーの次にお気に入りな選手たちを、理論的なランキングとしてドン・バッジ、ボルグ、コナーズ、マッケンローの順に据えている。

もう1つ、現代の運動選手は常に、前の時代の者より優れているという見解に基づき、サンプラスを現時点でトップに据える考え方がある。その事を考えるにあたり、1960年代、70年代のテニスをちょっと振り返り、その時代の選手たちがサンプラスのパワーと運動能力に対処している様を想像してほしい――あるいは1990年代の100位以内の選手たちと。

その線でいけば、90年代における8つグランドスラム・タイトルは、前の時代における15あるいは20タイトルに相当しはしまいか?

現代では楽な1回戦など存在しない。しかし1962年、レーバーが初のグランドスラムを成し遂げた年には、南アフリカのダブルス専門家ボブ・ヒューイットが世界8位だった。ドイツのウィリー・バンガートが世界10位だった。さらに見てみるか? 深い穴を覗いてみてほしい。

1970年代、80年代には、才能の層はかなり厚くなった。しかし現代におけるグラファイト・パワーの規準から見れば、テニスは児戯に等しかった。ロスコ・タナー、フィル・デント、ジョン・ニューカム等を先駆けとして、ビッグサーバーは確かに存在した。しかし今日見られるような全面的なパワーは前代未聞だった。

帰着するところは、純粋かつシンプルである。すべての時代からすべてのテニス選手が、彼らの絶頂期において一堂に会したと想定するのだ。そこでサンプラスは彼ら全員を倒さないだろうか?

もし彼が史上最高でないのなら、それでは誰が?

「彼は確かに(すでに)その座にいると思う」とロッド・レーバーは語った。「彼のゲームはとても確かだ、それが最も重要な事だ。現代のゲームにおいては、(私の時代のように)支配的になる事はない。優れた選手が非常にたくさんいるからね」

「ピートは優れたフォアハンドと素晴らしいサーブを持っている。ファースト、セカンドとも。ボレー技能も優れている。そしてネットでの予測もいい。だが、もう少しバックハンドに取り組む必要があると思う。彼が自信に満ちている時は、確信をもって打ち、上手くいく。自信がない時には、彼を落ち込ませる」

「私は彼を応援しているよ。彼が私のような過去の選手たちを認めてくれ、現代において我々の記録と肩を並べたいと望んでいる事をとても嬉しく思う。ピートの目標は、数多くのグランドスラム大会で優勝する事だ。自分の可能性に挑戦するには、目標を持たなければならない。だがピートはすでに偉大な選手として認められている」

『テニス・マガジン』誌の記者ピート・ボドは、史上最高論議におけるサンプラスの位置づけに関しては保留している。それは向上していけるが、 同じく容易に失速する事もあり得るとボドは考えている。しかし史上最高? ボドの口調は懐疑的だ。

「それについて推測できるには、ほど遠い段階だ。(そのような推測は)時期尚早だと思う」と彼は語った。「実際に起こった事のみによるアプローチをしなければならない。今のところ、エマーソンとレーバーが……(意味があるものとして)それらのグランドスラム・タイトルに重きをおかなければならない。(優勝回数で)彼らと並んで初めて、細かいところを検討し始める事ができると思う」

ボドはまた、サンプラスがフレンチ・オープンで優勝する事も必須条件だと考えている。

「各グランドスラム大会で1度は優勝する事――それが必要だ」とボドは語った。「(サンプラスの将来にとって)大きな危険性は、彼が(長期的に)どんなモチベーションを持つかだ」

「昔は、プレーヤーはそういった問題を抱えていなかった。自分たちのしている事を本当に誇らしく思っており、定まった課程があった。自分たちが送る生活をありがたく思っていた」

「ピートには確かに史上最高の選手となるチャンスがある。だが年間グランドスラムの勝利者と彼を並べるのは非常に難しい」

「彼は史上最高の1人になり得ると思う」とトム・ガリクソンは語った。「彼のプレーぶりはとても自然で、楽そうだ。年に1,000本ものエースを打てば、ゲームはより容易だ。そして彼はナンバー1としての責任を本当に良く果たしている」

ジョー・ブランディはティム・ガリクソンの前に、1990〜91年シーズンの間サンプラスのコーチを務めた。ブランディは、フロリダ州ブラデントンにあるニック・ボロテリー・テニスアカデミーで長年インストラクターをしてきたが、サンプラスのキャリアが始動する手助けをした。

ボロテリー・キャンプで6週間の集中トレーニングを積んだ後、サンプラスは1990年1月にオーストラリアン・オープンに向かい、4回戦まで進出してヤニック・ノアに敗れた。その直後にブランディは契約を交わし、彼らは本格的に取り組み始めた。

サービスリターン、ファーストボレー、バックハンド・スライス、ショット選択――それらはサンプラスの弱点だったとブランディは振り返る。「彼はそれら4つの分野すべてで向上した。それが、現在彼が素晴らしいチャンピオンでいる理由だ」とブランディは語った。

「良い思い出だ。私は何らかの貢献をしたのだ」

ブランディはまた、サンプラスがベストと見なされるには、フレンチ・オープンのタイトルを得る必要があると考えている。そしてボド同様、彼はそれを得ると考えている。

「彼は順調にやってきた。将来はさらに良くなるだろう」とブランディは語った。

*        *        *

1996年の夏は、サンプラスにとって人生の新しい段階への始まりだった。ヨーロッパで抱えていた感情的な重荷から解放されて、彼はタンパの自宅に戻り、ティム・ガリクソンのいない生活に順応し始めた。

予定していたオリンピック出場は、サンプラスがタホ湖でジョギング中に右足のアキレス腱を傷めたためキャンセルされた。彼はその地で有名人ゴルフ大会に参加していたのだ。

怪我を癒やすために1週間の休養をとった後、USオープンまでにトップフォームを取り戻そうと、サンプラスはトレーニングを再開した。

「ハードコートは彼の最も得意なサーフェスだ」とトム・ガリクソンは語った。「彼は夏の間にオープンの準備をしなければならない」

「あそこで僕は自分のベストテニスをしていたい」と、サンプラスはヨーロッパ滞在中に語り、オリンピックはフラッシングメドウの二の次である事をはばかりなく認めていた。

短期的将来に向けての疑問は、どれくらいサンプラスがベストテニスをしたいと望むか、あるいはプレーしたいと望むのかどうかである。なにしろ、25歳という年齢で――1996年8月12日には――彼は歴史とのレースで有利な立場にいるのだ。

あの忘れがたい初のUSオープン優勝以来、彼にはあちこちに谷間があっただけで、深刻なスランプはなかった。もし必要だと感じるなら、彼は容易に休養、あるいは長い中断さえも正当化する事ができるだろう。

重要な点は、サンプラスは向上を目指しているという事だ。

「僕は今でも自分のゲームにさらなる要素を加えようとしている」と彼は語った。「チップ&チャージをより試みている。自分のスタイルでもう少し攻撃的になる事、セカンドサーブでもっとサーブ&ボレーをするつもりだ。そういった要素を加えて、何をしてくるか分からないようになろうとしている。そしてもちろん、すべてのショットをもっと上手く打てるようになる事」

「良いプレーをしていなくても、僕の評判が助けになる時もある。対戦相手がマッチゲーム、あるいはマッチポイントを迎え、硬くなったような場合だ。長年かけて、とにかく踏み止まる事を学んできた。何だって起こり得るからね。その点は、少し向上してきたと思う。競う心を持ち、精神的に踏み止まる事」

「いつか歴史の本に記されたいと望んでいるよ。それが目指しているものだ」

彼はすでにそうなっている。25歳という年齢で、伝説に。

伝説はすでにテニスを越えて行く。まさに彼のアイドルがそうしたように。サンプラスはチャンピオンであり良き人間である。彼はメディアにも協力的で、その何人かとは友人付き合いさえしている。これもまた、旧き時代への先祖返りである。1995年、ヨーロッパでの大失敗へと出発する1週間前に、サンプラスは「タンパ・トリビューン」紙でプロモーション撮影を行う事に同意した。写真は、サンプラスが1994年ウインブルドン優勝をレポートした新聞を読んでいる、というものだった。サンプラスは20分間、汗びっしょりになりながらも、ふさわしいショットが撮れるまで一言の文句もなく座り続けた。

彼は友情を真剣に受け止めている。フランキー・マルチェシーニは友人である。タンパでレストランを経営する59歳の彼は、4年前にパスタをサンプラスに供した。そして親しい父親と息子のような関係になった。

彼らはゴルフをする――タンパに移り住んだ頃は孤独を好むサンプラスだったが、今や3つのクラブに所属している。彼らはマルチェシーニの自宅で、共にチャリティ・テニスの行事を行っている。そして彼らは語り合う。人生について。将来について。

「ピートは私を第2の父親と呼んでくれる。だが私は彼の父親のようでありたいと思った事はない」とマルチェシーニは語った。「私はただ彼の友人でありたかった。だがこう言おう。彼のような子供がいたら、とても誇りに思うだろうと」

「彼は私のためなら何でもしてくれるだろうと思う。時々、テニス(用品)が詰まったナイキからの大きな(サプライズ)パッケージを受け取る。一度、彼は自分のラケットを15本も贈ってくれた。それには彼のサインが書かれていた。彼は私の好きなように利用してくれと言ったよ」

サンプラスはあまねく好かれている、あるいは、少なくとも尊敬されている。彼のライバルたちの間で、決して真に対等とは見なされ得ない者たちの間でさえ。

ここに1つの話がある。タンパに住むプロ選手マーク・カイルは、1991年にクウィーンズ大会でサンプラスを負かした。カイルはダブルスの専門家で、シングルスの最高順位は167位だった。そして彼はグランドスラム大会のシングルスでは1勝しか挙げた事がなかった。これらの点はサンプラスに対して効き目があった。

「もし君が新聞に、僕がマーク・カイルに負けたと書いたら、一生君と口をきかないからね――真面目に言ってるんだよ」サンプラスは昨年、その敗戦を思い出させた記者に冗談を言った。

「彼は僕に会うといつも、ロッカールームでも大会でも、『君は僕の最悪の敗戦だ』と言うんだよ」とカイルは語った。「彼は冗談で言っているんだが、彼はそういった類の男だ。からんでくるんだよ」

サンプラスはまた、タンパのレストランで朝食をとる時に、マーク・カイルが独りでいる事に気づくと、彼に誘いかける類の男でもある。「いい奴だ」とカイルは言った。

とても良い人間なので、誰かが辛辣な言葉を直接サンプラスに浴びせるのを見かける事はほとんどあり得ない。実際、誰かが本当に彼を追い詰めた言葉を聞くには、91年USオープンの敗戦に対して彼が「ほっとした」と答えた事件にまで遡らなければならない。

ムスターはナンバー1論争がピークに達した1996年早期に、トップのアメリカ選手全体を非難した。しかしアガシが主要な標的であった。サンプラスは巻き込まれた格好だった。クーリエはサドルブルックでのトレーニング仲間だったが、サンプラスに負ける事には明らかに倦んでいた。フレンチ・オープン準々決勝の後、サンプラスの疲れた様子はいくぶん見せかけだとほのめかし、大いに批判した。それはいささか負け惜しみの感もあるようだった。しかしクーリエはすぐに自説を翻し、かけ引きではなくサンプラスの勇気をはっきりと認めた。

サンプラスへの敬意の深さは、アガシによって最も証拠づけられる。彼はサンプラスの主要なライバル――少なくとも、96年半ばにブルックがらみで起こったスランプ以前は――であり、同時に一番の賞賛者でもある。サンプラスについて語る時、アガシはナイキの販売戦略にほとんど関心がないようだ。

テニスに関して、彼はサンプラスに自分とは違う何もかもを見ている。アガシは恐らく考えているだろう、自分が何になり得たか――あるいは、なり得なかったか――もし自分にライバルの恵まれた才能と運動能力があれば、と。

「僕はピートとの対戦を楽しんでいる。彼がプロの運動選手として体現してくれるものをね」とアガシは語った。「ピートは僕をより良いプレーヤーにしてくれた。そしていろいろな意味で、僕の可能性に気づかせてくれた。ピートと対するには、異なったレベルに進む必要があると感じている」

「それに彼は、僕から2つのグランドスラム・タイトルを奪ったしね」

サンプラスの性格、「いい奴」である変わらぬ性向は、元コーチであるフィッシャーを大会のタイトルと同じくらい喜ばせる。

「それは(私にとって)非常に重要な事だ」とフィッシャーは語った。

「ピート・サンプラスのような男と関わってきて、自分を恥じ入る事は決してない」

「それは楽しみだった。心躍る経験だった」

サンプラスが未完成の仕事に向かう間は、その心躍る経験はもうしばらく継続するだろう。

すでに大いなる存在である伝説は、現在も進行中なのだ。