ピートのデビュー当時の記事

  1. 1989年3月 インディアンウェルズのアップセット
  2. 1989年6月 アガシとチャンはフレンチ・オープンを勝ち上がる
  3. 1989年6月 チャンは近所同士のサンプラスに勝つ
  4. 1989年8月 オハイオ州メイソンにて
  5. 1989年8月 マッケンロー、ビランデル敗れる
  6. 1990年8月 サンプラスはテニス界の階段を駆け上がる


1. 1989年3月(ピート17歳) インディアンウェルズ
インディアンウェルズのアップセット

火曜日、70万2,500ドル大会「ニューズウィーク・チャンピオンズ・カップ」2回戦で、2度のディフェンディング・チャンピオンであるボリス・ベッカー、第2シードのステファン・エドバーグはストレートセットで勝ち、ワイルドカード出場のピート・サンプラスは第9シードのアーロン・クリックステインをアップセットした。

<中略>

17歳のサンプラスは5人のワイルドカード出場の1人に選ばれ、サーブ&ボレーゲームを駆使して大会最初の番狂わせを引き起こした。サンプラスはクリックステインを5-7, 7-6 (8-6), 7-6 (7-4)で破った。
「僕はネットで勝つように努めた。いま、これが僕のゲームだからね」と113位のサンプラスは語った。

第1セットを落とした後、サンプラスは第2セットのタイブレークで4-3とリードした。その後サンプラスの続けざまのダブルフォルトで、クリックステインは6-4とリードした。15位のクリックステインはコート中央へのサービスエースで勝利したかに見えたが、判定はアウトだった。

彼の抗議は聞き入れられず、結局ダブルフォルトを犯し、サンプラスを試合に戻してしまった。10代の若者はこのタイブレークを取り、第3セットのタイブレークも7-4で取った。

「今日勝てたのはとても幸運だった」サンプラスは言った。「第3セット、彼は落胆しただろうけど踏みとどまった。タイブレークの重要なポイントを獲れたので、僕は勝つ事ができたんだ」

クリックステインは「論議となったサービスの判定がすべてだった。命を賭けてもいいけど、あれはラインにかかっていた。そりゃイライラしたよ。あれで試合が終わったと思うね」と語った。

<以下略>


2. ニューヨーク・タイムズ
1989年6月2日(ピート17歳)
アガシとチャンはフレンチ・オープンを勝ち上がる
文:Nick Stout

若いアメリカ人の見本市のような日に、アンドレ・アガシとマイケル・チャンはローラン・ギャロスのセンターコートで簡単に勝利を収め、フレンチ・オープン3回戦に進出した。

アガシは、ソウル・オリンピックで知名度を上げた24歳のイタリア人Paolo Caneを6-2, 6-2, 6-3で下した。プロ2年目で19位のチャンは第15シードで、ジュニア時代に共に成長した旧友ピート・サンプラスを6-1, 6-1, 6-1で下した。
そして目下売り出し中のもう1人のアメリカ人、フロリダ出身のジム・クーリエは、ジム・ブラウンを6-0, 7-5, 6-1で下し、3回戦でアガシと対決する。

チャンとサンプラスは共に17歳で、お互いに何回となく対戦してきたが、プロとしては今回が初だった。「もう1人のプロ選手と対戦するというより、主要なライバルと対戦してるみたいだった」とサンプラスは語った。

チャンは昨年3回戦でジョン・マッケンローに敗れたが、時に釣り仲間でもあるサンプラスに同情的だった。
「センターコートでの試合は、ピートには厳しかっただろう。彼は僕が昨年マッケンローと対戦した時のようだった。突然、自分が世界で最も有名なコートの1つにいると気づく:神経質になるよ。ピートは今日の出来よりずっといい選手だ。もし僕らがサイドコートで対戦したら、もっと接戦になっただろう」

18歳で47位のクーリエは喜んでいた。「ここ2カ月くらいで、僕のベストテニスだった」
クーリエは今年早い時期の大会で、アガシに敗れはしたが、3-6, 6-3, 7-5のフルセットまで行った。そして、ここでアガシと当たるチャンスについて楽観的に語った。
「ファンも興奮するに違いない。僕らはお互いに再び対戦するのを楽しみにしていると思うよ。僕たちは似たようなゲームをする。コートで決闘し、いい方の奴が勝つんだ。それが僕ならいいな」

第5シードのアガシはより現実的で、クーリエは遅いクレーのサーフェスに悩まされるだろうとぶっきらぼうに語った。「彼はサービスやストロークのウィナーで勝ちにいくけど、僕のは相手を疲れさせる戦法だからね」

しかし、アメリカ人のクレーコート・プレーヤーの新しい波があるのかもしれないと認めた --- とりわけ彼自身とチャン、そして水曜日にコナーズを破ったジェイ・バーガーだ。

「アメリカ人はクレーで育ってないから、ヨーロッパ人のメンタリティに慣れるのに苦労する。ヨーロッパ人はポイントが長くないと居心地が悪いけど、アメリカ人は速いポイントが好きだからね」


3. 1989年6月2日(ピート17歳)
チャンは近所同士のサンプラスに勝つ
文:Thomas Bonk

マイケル・チャンとピート・サンプラスは互いに30マイルと離れていない所に住んでいるが、木曜日にフランスで2時間足らずの試合をするため、7,000マイル以上もの旅をした。

南カリフォルニア出身の、子供時代からのライバルである2人の17歳の若者は、フレンチ・オープン2回戦で対戦し、チャンが6-1, 6-1, 6-1で勝利した。

これはプロとしての2人の初対戦だったが、同時にジュニア時代からのライバル同士の、最も新しい対決でもあった。チャンは Placentia 出身で、サンプラスはランチョ・パロス・ベルデス出身である。

ローラン・ギャロスのレッドクレーのセンターコートは、家から遠く離れ、そこで2人は最終試験のために詰め込み勉強をし、ラケットを振る超人的な能力をテストされていたのかもしれない。この日はチャンの方が優秀だった。

サンプラスは、これは自分が選んだ仕事だと語った。「僕はいま、大人の世界に飛び込んだ子供だ」
もし「普通の人生」を送っていたらどうなっていたか、サンプラスは考えてみた。「ごく一般的だっただろう。大学へ行き、学位を取り、就職して結婚し、家を買って落ち着くといった具合に」

サンプラスもチャンも、一般的な人生を選ばなかった。そして彼らの才能は、おそらく彼らのキャリアは特別のものになるだろう事を示唆している。まだとても若いので、他のテニス仲間とは区別して見られているかもしれないが、チャンはそれを否定した。

「誰も年齢など気にしないよ。ただ相手を負かしたいと考えるだけだ。たとえ僕より若い相手と対戦したとしても、それは変わらないよ」
実際、チャンはイワン・レンドルと対戦する可能性が高まっている。レンドルは29歳だが、より重要なのは、彼は1位だという事である。

<以下略>


4. USA TODAY
1989年8月17日(ピート18歳)
オハイオ州メイソンにて
文:Doug Smith

ピート・サンプラスの名前は、必ずしもいつも、アメリカ10代のトッププロ中に含まれているわけではない。しかし18歳のサンプラスは、間もなくその仲間入りをすると信じている。

「僕のプレースタイル(サーブ&ボレー)は、アンドレ、マイケル、ジムよりも上達するのに少し時間がかかるだろう。彼らは力強いストローカーだが、僕のようなプレースタイルは、身につけるのも、それを心地よく感じるのも、もうちょっと厳しいんだ」

サンプラスは水曜日、ソ連のアンドレイ・オルホフスキーを7-5, 2-6, 6-4で下し、ATPチャンピオンシップ(シンシナティ?)の3回戦に進出した。彼は第3セット0-2ダウンから、5ゲームを連取した。「僕の強さのレベルは上がったり下がったりしていた」

クーリエとサンプラスは今大会の第4シードだが、とても速くトップのダブルスチームの1つとなった。サンプラスは現在シングルス94位だが、安定性を身につけ、近いうちにシングルスでもトップ選手になるだろうとクーリエは考えている。

「彼は僕ら(自分自身、アガシ、チャン)の誰よりも才能がある。彼は時に天才的なプレーをする。いいプレーができない時にも勝つやり方は、まだ見つけ出してないようだけれど、いずれそれも身につけるだろう」

1位のレンドルと親交を深め、サンプラスはプロツアーを違った面から見つめる機会を得た。昨年ニューヨークで開催された「ナビスコ・マスターズ」の最中、彼はコネチカット州グリーンウィッチにあるレンドルの自宅で、1週間彼と一緒に練習したのだ。

「イワンの食事の取り方や、大きな大会中に毎日いかに準備するかを知るのは興味深かった。彼はいかにすべきかを僕に教えてくれ、1位でいるためには何をしなければならないか、僕は学んだ」

サンプラスは1987年の「USTA Boys 18 Hardcourts」大会でセミファイナリストとなり、インディアンウェルズでラメシュ・クリシュナンとエリオット・テルシャーに勝った後、昨年プロに転向した。
「当時彼らは30位以内で、僕はプロに転向する準備ができたと感じたんだ」


5. ワシントン・ポスト
1989年8月31日(ピート18歳)
マッケンロー、ビランデル敗れる --- USオープン第4・5シードが2回戦で追い出された
文:Sally Jenkins

USオープンでは、確かにアップセットはこれまでもあった。しかし今夜の2回戦で起こった2つは予想外であった。ジョン・マッケンローは予選上がりのポール・ハーフースという名のオランダ人に、4セットで敗れた。スウェーデンのディフェンディング・チャンピオン、マッツ・ビランデルは、ポトマック生まれの91位、18歳のピート・サンプラスに5セットで敗れた。

サンプラスは第5セットで、第5シードのビランデルのサービスゲームを2回ブレークして、4本のブレークポイントをしのぎ、3本のエースで逃げ切った。5-7, 6-3, 1-6, 6-1, 6-4の勝利は、トップ10選手相手の、彼の初めての勝利だった。それはまた、カリフォルニア育ちの才気に富む10代選手の、目覚ましい勝利だった。

USオープンでディフェンディング・チャンピオンがこんなに早く敗れたのは、1973年にイリー・ナスターゼがアンドリュー・パターソンに敗れて以来である。
「初めは、僕が本当にビランデルに勝てるなんて思ってなかった。でも彼がいくつかチャンスをくれ、僕はそれを生かす事ができた。僕がどんなプレーをするかにかかっていた。彼が負けにいったのではなく、僕が勝ちにいったんだ」

<中略>

敗戦はビランデルにとり、必ずしも驚くべき出来事でもなかった。彼は昨年ここでの優勝により1位になって以来、不可解なほど意欲に欠けており、従ってシードも5番目だった。

今年彼は2回準決勝に進んだだけで、1回も決勝に進出しておらず、5位にまで落ちていた。オーストラリアン・オープンでは2回戦で敗れ、フレンチ・オープンでは準々決勝敗退、そしてウインブルドンでは準々決勝でマッケンローに敗れていた。

「こんな悪いプレーをしてガッカリしている。グランドスラム大会ではすべて敗退しているが、それは問題じゃない。しかし自分のプレーには失望した。これは0-0のサッカーの試合のようだった。ひどいもんだ」

ビランデルは敗れるべくして敗れ、サンプラスはただその相手にすぎなかったのかもしれない。彼は今月始め18歳になったばかりだが、アンドレ・アガシ、マイケル・チャンに次ぐ、アメリカ期待の若手の1人と見なされてきた。彼は昨年、準々決勝1回、準決勝1回進出という成績を挙げている。幅の広いゲームの持ち主で、ベースラインでも上手いプレーをするが、素晴らしいボレーも持っていて、それによりビランデルを際限なくイライラさせた。

サンプラスは語る。「彼に勝つ意欲があったのかは分からない。彼の頭の中を何がよぎっているのか言うのはむずかしい。彼はもっといいプレーをすると思っていた」

ビランデルは必死になって、サンプラスのサービング・フォー・マッチを阻止しようとした。最終ゲームでは15-40を含む4本のブレークポイントを得ていた。しかしサンプラスは最初の1本をサービスウィナーで逃れ、2本目ではセンターへの見事なエースを放った。10代の少年の足を釘づけにするフォアのリターンで、ビランデルはさらにブレークポイントを握ったが、サンプラスは強烈なフォアのアングルウィナーで挽回し、再びセンターへのエースを放ち、マッチポイントを掴んだ。

そこで彼はダブルフォールトを犯した。ビランデルはそれを生かし、前へ詰めてくるサンプラスの足元にバックハンドを打ち、4本目のブレークポイントを握った。しかしサンプラスはオープンコートをいっぱいに開けたまま、フォアの逆クロスでしのいだ。そしてそのゲーム3本目のエースを放ち、再びマッチポイントを握った。ビランデルの次のリターンはフォアに逸れ、サンプラスは空中にジャンプした。
「もしマッツとプレーするなら今年だったろう。彼は苦しんでいたから」

<以下略>


6. ワシントン・ポスト
1990年(ピート18歳)
サンプラスはテニス界の階段を駆け上がる
3大会優勝後、かつてのパロス・ベルデス高校の選手は世界14位になる
文:Stuart Matthews

もうすぐ19歳を迎え、このところサンプラスは毎朝、成熟の面倒事の1つ --- ひげ剃りに取り組んでいる。しかしまだ、ひげ剃りをさぼっても、将来のウインブルドン・チャンピオンと目されるアメリカ期待の星の無精ひげの間からは、バラ色の頬が見える。先週サンプラスは、未来がいかにバラ色か、ホットな若い才能とチャンピオンの間の差はいかに小さいかを披露した。

それはUCLAで開催された「ボルボ・ロサンジェルス大会」の準決勝だった。ウインブルドン・チャンピオンのステファン・エドバーグは6-2, 6-7, 6-1で勝利したが、サンプラスは世界2位のエドバーグを含むすべての人に、強い印象を植えつけた。

エドバーグは語った。「彼はとても危険なプレーヤーだ。もう少し経験を積めば、すぐにでもトップ10選手になるだろう。もし彼が努力し続ければ、とてもいい選手になる要素をすべて持っているよ」

土曜日の準決勝で、サンプラスはすべての武器を披露した。試合は2人の第一級サーブ&ボレー・スペシャリストの対決だった。サンプラスはしばしばエースを放ってエドバーグに不意打ちを食らわせ、1stサービスは常に時速115マイル近辺のスピードを保っていた。

彼はまたエドバーグの高く弾むロケット・サービスによく対抗し、何本もの鋭いバックハンド・ウィナーを、ネットに詰めようとするスウェーデン人に対して放った。サンプラスのウィナーの数はエドバーグより多かった。試合を分けたのは経験の差だった。サンプラスが放つ見事なショットに対し、エドバーグはさらに良いショットで応えたのである。

「僕は必要なショットは全部持っていると思う」サンプラスは語る。「問題はそれを全部、同時にうまくまとめ上げられるかどうかだ」
サンプラスのプレーを見ていると、それをやり遂げる時はそう遠くないと思われる。彼は素晴らしい年を送っている。3大会で優勝し、ランキングは14位にまで上がった。

今週サンプラスは、USオープンに向けてのハードコート大会の1つ、オハイオ州メイソンの「ATPチャンピオンシップ」でプレーしていた。トロントの大会に続き、2大会連続で準決勝に進出した。

パロス・ベルデス高校2年の時には、サンプラスは56セットを連続で落とさず、カリフォルニア南地区の4-Aタイトルを獲得した。翌年、ほとんど後づけのようにプロに転向した。

1988年4月、サンプラスは学校を4日間休み、インディアン・ウェルズの大会に参加し、そこで2人のトッププロ、ラメシュ・クリシュナンとエリオット・テルシャーを続けざまに下した。彼は高校を中退し、7,000ドルのチェックを受け取ってアマチュア時代に別れを告げたのだ。

サンプラスは今年の好成績を、シーズン前に取り組んだトレーニングのおかげと考えている。彼はニック・ボロテリー・テニス・アカデミーからジョー・ブランディを新しいコーチに迎え、ブランディは毎日5時間のテニスの練習に加え、ウェイト・リフティングとランニングを彼に課した。

それはすぐさま結果となって現れた。サンプラスはシドニーで準々決勝に進出し、マッツ・ビランデルに敗れた。ミラノでは準決勝に進出し、イワン・レンドルに敗れた。

それからサンプラスは優勝に向かって突き進んだ。2月のフィラデルフィアの大会では、ティム・メイヨット、アンドレ・アガシ等を下して決勝に進み、今年のフレンチ・チャンピオン、アンドレス・ゴメスを下して優勝し、ランキングは20位の壁を破った。

この大会は、サンプラスが2年前アマチュアとして初めて参加したプロ大会で、その時は予選を勝ち上がらなければならなかったが、その同じ大会でゴメスに7-6, 7-5, 6-2のストレートで勝利し、タイトルを獲得したのだ。「コンディショニングが最大のファクターだ。そのおかげで、今年僕はここまで来られた」

ウインブルドンの前週には、サンプラスはイギリス・マンチェスターの芝の大会で優勝した。
テニスの専門家たちは、もしサンプラスが彼の攻撃的なゲームの威力をうまく御せれば、テニス界最高のタイトルを獲得するアメリカ人になれると信じている。

しかし、今年のウインブルドンは、サンプラスにとって最も失望するものとなった。彼は不運なドローを引き当て、芝のコートのスペシャリストである南アフリカのクリスト・ヴァン・レンズバーグと1回戦で対戦し、タフな3セットで敗戦した。「僕はウインブルドンに向けていい準備をしたけれど、ここではいいプレーができなかった」

しかし翌週彼は立ち直り、東京の(エキシビション)大会で優勝した。「ウインブルドン優勝というのは、僕にとってはまだ現実的じゃない。僕は20代半ばでベストのテニスができるだろうと考えている。だからまだ何回もチャンスがある。自分に過大なプレッシャーをかけたくない」

そのゆったりしたアプローチの仕方が、サンプラスのキャリアの顕著な特徴であった。遡って14歳の時、両手打ちバックハンドからサーブ&ボレーゲームへと前進したのである。

それは、ベースラインからのカウンターパンチャーとなっていく大半のジュニア選手の性分に反するものであった。サンプラスは一歩先を行き、年上のより強い選手との対戦を求めた。
試合に勝つ事より、彼はハードヒッター相手に自分の攻撃的なゲームを磨いた。またその過程で、攻撃的プレーヤーにはきわめて重要な、即興的な芸術的プレーを学んだのだ。

「ジュニア時代は高いランキングじゃなかった。僕は自分のゲームを上達させるためにプレーしていたけれど、それがいま本当にうまくいっているよ。長期的展望に立った上での行動だった」

最初のコーチだった小児科医ピート・フィッシャーが身につけさせた、片手打ちバックハンドも報われた。サンプラスのリーチを広くし、状況に応じてスライス、フラット、トップスピンを打ち分けられるようになった。またアプローチショットに用いる事で、ネットにより速く詰めるのにも役立った。

6フィート、160ポンドのサンプラスには、ただ一つ弱点があるように見える。それは彼の頭の内部だ。彼は時々集中力が弱まる事を認めている。「第2セットで1ブレークアップしたら、もう試合が終わって相手と握手する事を、時々考えてしまうんだ。毎ポイント集中するように、いつも自分に思い出させなければならない」
サンプラスが己の内なる戦いに勝つ時は、相手もまた負かされている。

昨年のUSオープン2回戦で、サンプラスは巧みなベースライン・プレーヤーである、ディフェンディング・チャンピオンのマッツ・ビランデルに勝利した。うだるように暑くムシムシする中での、5セットの消耗戦であった。その試合では、サンプラスの集中力は衰える事がなかった。他の時もそうなるであろう。