ピートのジュニア時代の記事
  1. 1986年6月 ジュニア・デビスカップ選考会の発表
  2. 1987年4月 「イースターボール」のディフェンディング・チャンピオン敗れる
  3. 1987年4月17日(ピート15歳)
  4. 1987年5月 サンプラスの戦績は54勝0敗へ
  5. 1987年5月 サンプラスは完璧なシーズンを送る
  6. 1987年7月 ジュニア・デビスカップ選考発表
  7. 1987年7月 オリンピック・フェスティバルで金メダル獲得
  8. 1988年3月 インディアン・ウェルズの驚き
  9. 1988年3月 12年後、若者はテルシャーに敗戦をもたらした

    *後年プロになった人、また知名度のある人はカタカナ表記。


1.ロサンジェルス・タイムズ
1986年6月15日(ピート14歳)
ジュニア・デビスカップ選考会の発表

6月22日〜7月4日、UC Santa Barbaraでジュニア・デビスカップの選考会が開催される。UC IrvineのテニスコーチGreg Pattonが少年16歳の部・18歳の部のチーム監督を務める。

選考会によばれた選手:16歳の部---ピート・サンプラス(Rancho Palos Verdes)、Giora Payes(Los Angeles)、マイケル・チャン(La Costa)。18歳の部---Steve Oliver(Westlake Village)、カール・チャン(La Costa)、Mike Briggs(Newport Beach)、ジェフ・タランゴ(Manhattan Beach)。


2.1987年4月15日(ピート15歳) マイアミ・フロリダ州
「イースターボール」のディフェンディング・チャンピオン敗れる

水曜日、ノーシードのDean Cohenがディフェンディング・チャンピオンで第2シードのFrancisco Montana(Miami)を6-3, 7-6(7-4)でアップセットし、「オメガ・イースターボール・ジュニア・テニス大会」の少年18歳の部の準々決勝に進出した。

Cohen(North Miami Beach)はトップシードのジョナサン・スターク(オレゴン州Medford)、第15シードのJose Ayala(フロリダ州Sunrise)、第9シードのピート・サンプラス(カリフォルニア州Rancho Palos Verdes)等に加わった。

スタークはエラーが多かったが、DoralカントリークラブでChris Gambino(ニュージャージー州Matawan)を6-2, 1-6, 6-3で下した。Ayalaは第7シードのDavid DiLucia(Norristown, Pa.)をアップセットした。

サンプラスもまた驚きの勝者で、第6シードのJohn Falbo(Charleston, W.Va.)を6-3, 6-4でアップセットした。
<以下略>




3.1987年4月17日(ピート15歳) マイアミ・フロリダ州

トップシードのジョナサン・スターク(オレゴン州Medford)と第3シードのマイバイ・ワシントン(ミシガン州Swartz Creek)は金曜日、Doralカントリークラブにて「イースターボール・ジュニア・テニス大会」少年18歳の部の準決勝で勝利した。

スタークは第9シードのピート・サンプラスを6-4, 3-6, 6-3で下し、ワシントンは第8シードのGeoff Grant(マサチューセッツ州Sudbury)を6-3, 6-3で下した。
<以下略>


4.ロサンジェルス・タイムズ
1987年5月30日(ピート15歳)
サンプラスの戦績は54勝0敗へ
文:Barbie Ludovise

対戦相手達の意見によると、パロス・ベルデス高校2年生のピート・サンプラスは負ける事もあり得るという。
彼には弱点があると彼らは言う。ベースラインに釘づけにし、ネットに近づけない事。しかし、何をするにせよ、彼にロブは上げない事だ。

それがRob Grant(Corona)がサンプラスについて聞いた事だ。Edison高校で金曜日に行われる「南地区テニス少年個人選手権」準々決勝前までのサンプラスの成績は、53勝0敗である。

「君は彼の弱い側にボールを送らなければいけない」とGrantのコーチJose Ninoは言った。「彼をずっと走らせれば、優位に立てる。私を信じろ」
Grantはそれを信じたようだった。そして少しの間、柔らかいトップスピンとコーナーラインすれすれのショットでサンプラスを混乱させた。しかしGrantはリードする事はできず、敗れた。スコアは6-3, 6-3だった。

サンプラスは準決勝に進出し、本日10時30分、Newport BeachのBalboa Bayラケットクラブで第3シードのBill Behrens(Rolling Hills)と対戦する。
BehrensはWilly Quest(Long Beach Wilson)を4-6, 7-6, 6-2で下した。

もしサンプラスがBehrensに勝てば、午後の決勝で、今期の最もタフな相手であろう第1シードのMike Briggs(Corona del Mar)と対戦する。Briggsは準々決勝でAndrew Sheppert(San Marino)を6-3, 6-4で破り、準決勝でBill Miller(Santa Barbara)と対戦する。

「Behrens戦もいい試合だったろうが、ピートはシーズンを通してBriggsとの対戦に備えてきた」とパロス・ベルデス高校のコーチJohn Fullertonは語った。「Behrensもピートについて同じ事を言うだろうね」

ピートの次の対戦相手に指導するとしたら、どんな事を言うと聞かれ、Fullertonは冗談ぽく答えた。「多分、いかさまをしろと言うね。他の方法はないと思うよ」
<以下略>


5.1987年5月(ピート15歳) Southern Section Tennis Championships
サンプラスは完璧なシーズンを送る
文:John Fawaz, Times Staff Writer

パロス・ベルデス高校2年生のピート・サンプラスはあまりに良いので、公平ではないようにさえ見える。とても良くて、若くて、クールだ。

サンプラスは土曜日にNewport BeachのBalboa Bayラケットクラブで行われた「南地区テニス少年個人選手権」決勝において、Bill Miller(Santa Barbara)を 6-2, 6-1で下してタイトルを獲得し、完璧なシーズンを締めくくった。

選手が感情をよく見せる事で知られるこのスポーツにおいて、15歳のサンプラスは新鮮な存在だ。彼は試合中にほとんど喋らない。彼が唯一見せる感情は、たまにショットをミスした後に、ニコッと笑う事だけだ。彼はリラックスし、自己抑制できているだけでなく、非常に良いのだ。

「それが僕の最善の方法なんだ」とサンプラスは語る。「僕はそんなに感情的じゃない。悪いショットに悩んだりせず、ただ次のショットに向かうだけだ」

シーズンを通して、彼は高校の試合では無敗で58セットを取った。高校のコーチJohn Fullertonが冗談ぽく「サンプラスを破る唯一の方法は、いかさまをする事だ」と言ったのは正しいのだろう。

おそらくMillerの助けとなるものは何もなかった。今朝の準決勝では、彼はベストのテニスをして第1シードのMike Briggs(Corona del Mar's)をアップセットした。

それによって決勝に進んだが、Briggsとサンプラスを同じ日に破るのは、Millerには少しばかり過ぎた期待だった。
「僕は満足している」とMillerは言った。「僕は決勝でとてもいい試合をした。だけど同じ日に2回本当にいい試合をするのはむずかしいよ」

サンプラスは最初のサーブでエースを打ち、試合の主導権を握り、第1セットは3-2までお互いにサービスゲームをキープした。第6ゲームでMillerが40-15とした時には、このパターンが続くように見えた。しかしサンプラスはMillerのバックハンドを攻め、ラリーで打ち勝ち、4-2とリードした。

それがMillerの最後の抵抗で、以後はサンプラスがパワフルなサービスと深いボレーで試合をコントロールした。
「僕は決勝でとても自信を持っていた。彼はもう少し発奮するかと思った」

「この男(サンプラス)は恐ろしいほどの選手だ」とSanta Barbara高校のコーチJack Trigueiroは語った。「彼のアプローチショットはとても深く、Billに力を出させなかった」

サンプラスの勝利により、南地区の少年・少女個人の部のチャンピオンは同じ家から出た事になった。サンプラスの姉ステラは、12月に少女個人の部門のタイトルを獲得していた。弟と姉が両方のタイトルを獲ったのは初めてである。
<以下略>


6.1987年7月2日(ピート15歳) カリフォルニア州ROHNERT PARK
ジュニア・デビスカップ選考発表

Mike Brown(フロリダ州Sebring)、Davis Diluscia(Norristown, Pa)、John Falbo(バージニア州Charleston)、ピート・サンプラス(カリフォルニア州Palos Verdes)は16人で行われた選考会で勝利し、ジュニア・デビスカップ少年18歳の部のチーム11人のメンバーに入ったと木曜日に発表された。

他の7人はジュニア・ランキングとプレーぶりで、すでに選出されている。
Martin Blackman(New York City)、ジム・クーリエ(フロリダ州Dade City)、 Chris Garner(ニューヨーク州Bay Shore)、Al Parker(Claxton, Ga.)、ジョナサン・スターク(オレゴン州Medford)、マリバイ・ワシントン(ミシガン州Swartz Creek)、デビッド・ウィートン(ミネソタ州Excelsior)である。

11人のメンバーは全員、来週カリフォルニア州Burlingameで行われる「ナショナル・ハードコート選手権」に出場する。ブラッド・スタイン(Fresno)がコーチ、Gregg Patton(カリフォルニア州Irvine)が監督である。


7.1987年7月21日(ピート15歳)
オリンピック・フェスティバルで金メダル獲得

15歳のピート・サンプラス(カリフォルニア州Rancho Palos Verdes)は、火曜日、「U.S. オリンピック・フェスティバル」にてChris Entzel(ネバダ州Las Vegas)を6-2, 6-1を破り、金メダルを獲得した。

<中略>

第1シードのサンプラスは3-1リードとした後、サービスゲームを落としたが、4試合でわずか2回目だった。
「自分にすごく腹が立った」とサンプラスは語った。「できるだけ早く、もう一度ブレークしたいと思ったよ」

サンプラスは次のゲームをブレークし、続く6ゲームを取り、第2セットは4-0リードとした。
「暑くて消耗した」とEntzelは言った。「この暑さの中で0-4からカムバックするのは厳しい。それでも僕は自分のプレーにかなり満足している。持てる力をすべて発揮したし、僕の今年ベストの大会だった」
<以下略>


8.1988年3月(ピート16歳) インディアン・ウェルズ
インディアン・ウェルズの驚き

<略>

16歳の高校生ピート・サンプラスにとって2回目のプロ大会だったが、第10シードのエリオット・テルシャーを7-5, 6-3でノックアウトし、午後の最高の驚きを引き起こした。両者は同じパロス・ベルデス地区の住民である。

この試合は生徒対先生の対決であった。サンプラスは過去6年間、テルシャーと一緒に練習・トレーニングをしてきたのだ。

「僕はいいプレーをしたし、彼はあまり調子がよくなかったみたいだ」と、パロス・ベルデス高校に通う5フィート8インチ、130ポンドのアマチュアであるサンプラスは言った。「それが僕に有利に働いた」

物静かで自信を持っている若者は、8カ月前に両手バックハンドからより多才な片手バックに切り替えた。最近の結果は上出来だが、あと2〜3年はプロに転向する気はないと言っている。


9.ロサンジェルス・タイムズ
1988年3月3日(ピート16歳) インディアン・ウェルズ
12年後、若者はテルシャーに敗戦をもたらした
文:Lisa Dillman

エリオット・テルシャーは、Rancho Mirage の Mission Hills カントリークラブで Cliff Richey と対戦した時に彼がどう感じたかを、12年後に悟る事になろうとは考えてもみなかった。

テルシャーは水曜日、自宅から近いグランド・チャンピオンズ・リゾートで16歳のピート・サンプラスと対戦した時、1976年に Richey から挙げた勝利の事が思い出された。
しかしながら今回、10代の若者の勢いを止めようとするのは28歳のテルシャーの方だった。再び若さの方が優勢だった。

サンプラスはキャリア最大の勝利を記録した。70万2,500ドル大会「ニューズウィーク・チャンピオンズカップ」2回戦で、7-5, 6-3でテルシャーを破ったのだ。

「12年前の同じ大会だった」とデビスカップ監督トム・ゴーマンは、驚きに頭を振りながら語った。「同じ事が起こった。10代の若者対ベテラン。エリオットはいま、あの時 Cliff Richey がどう感じたかが分かると言っていたよ」

2〜3時間後にプレスと会った時、テルシャーが最初に言及したのは Richey との試合の事だった。
「厳しいね」と第10シードのテルシャーは言った。「自分が17歳の時に Cliff Richey と対戦した事を思い出すよ。彼が経験した事を、いま自分は理解できる。とても厳しい。あの時、僕は本当に自由にプレーした。いまピートにそれは簡単だろう」「始めたばかりの頃は簡単だ、誰も何も期待してないからね。やる事のすべてがボーナスのようなものだ。最初の方が気楽なんだ」

サンプラスとテルシャーは、この試合をパロス・ベルデスでやる事もできただろう。実際、彼らは何回もそこでプレーしてきた。テルシャーはパロス・ベルデス・エステーツの出身で、サンプラスはランチョ・パロス・ベルデスに住んでいるのだ。しかしプロの大会でやったのは初めてだった。

サンプラスにとってこれは2回目のプロ大会だったが、テルシャーのゲームに慣れていた事は、勝利の手助けになったと考えていた。「僕は彼のゲームを知っているし、彼は僕のゲームを知っている。だから自信があった。彼が何をしても驚く事がなかったから」とサンプラスは言った。

ビッグネームが多数出場する、権威ある大会の3回戦に進んだ事こそ、サンプラスを驚かせた。彼は予選から出場し、2回戦では予選第1シードの Todd Nelson を敗って本戦出場を果たしたのだ。本戦の1回戦では、37位のラメシュ・クリシュナン相手に第3セット・タイブレークで5回のマッチポイントをはねのけて、勝利を手にした。

テルシャーは、25位というランキングと、1987年末までには20位以内まで戻った昨年の優秀な成績から言って、相当厳しいテストと見えた。

しかしサンプラスは緊張した様子も見せず、第1ゲームでテルシャーをブレークした。テルシャーは第6ゲームでブレークバックし、5-5までキープし合った。第11ゲーム30オールでテルシャーがフォアのロブをオーバーし、サンプラスはテルシャーをブレークした。そしてフォアボレーを決め、第1セットを取った。

第2セットでも、互いに早い時点でブレークし合った。テルシャーがサンプラスのサービスをブレークして3-3タイにした後、サンプラスはすぐまたブレークし、さらに次のテルシャーのゲームもブレークした。

「いい選手に負けたと感じている」テルシャーは語った。「彼はいい選手だ。それが基本だ。クリシュナンを破ったんだから明らかだね。あの時点で彼はいい選手だった。そして僕はそれを練習や対戦を通じて以前から知っていた」

「僕は命懸けでプレイしたわけじゃないが、少々ためらいがちだった。彼はサービスもボレーもよく、攻撃的だ。僕はいいサービスを打ち、ボールを深く入れ続ける必要があった。彼は頭がいい。彼は僕のセカンドサーブに対して前に詰めてきた。短い球が来た時はいつも、それを打って前に出た。彼をネットから遠ざけるような深い球を打たなかった時は、試合を通して僕にプレッシャーをかけ続けた」

ネットゲームの強みは、いつもサンプラスのトレードマークだったわけではない。少し前は、彼のサービスもネットゲームも弱く、優れた両手バックハンドを打っていた。しかし注目すべき先見性で、彼と彼の長年のコーチ、ピート・フィッシャーは、それではジュニアでは勝てても、プロとしての成功にはより時間がかかると悟ったのだ。

新しい戦術は簡単に身についたわけではなく、それは片手バックとネットラッシュで臨んだ最初の夏のジュニア大会で現れていた。1986年には18歳以下のランキングが56位に下がり、いかなる主要な国内ジュニア大会でも3回戦を突破する事がなかった。

「非常にきつかった」とサンプラスはスイッチについて話した。「僕は両手打ちに戻りたかったが、コーチはそのままで行くよう僕に言い聞かせたんだ」

片手打ちを快く感じるまでに8カ月かかり、再びジュニアで素晴らしい結果を挙げるまでには、さらにもう少しかかった。昨年の夏、ナショナル・ハードコート大会決勝に進んでマイケル・チャンに負け、USオープン・ジュニアでお返しにチャンに勝った時には、移行はとても賢明な措置だったように見え始めていた。

「片手バックハンドにはいろいろと苦しみがあったが、彼はそれと戦った」と、フィッシャーは最近になって自国のテニス雑誌で語った。「しかし彼は両手打ちでは発展性がなかった。それではネットプレーもできなかった。いまや彼の片手バックは、両手打ちだった時よりよくなった。またそれによって他の事ももっと多くできるようになった」

それはテルシャーとの試合でも立証されていた。次は、サンプラスは第8シードのエミリオ・サンチェス(スペイン)と対戦する。水曜日の試合の敗者としては、テルシャーはそうすぐには忘れられないだろう。
「彼にはベストを祈るよ」とテルシャーは言った。「僕は彼を知っているが、いい子だ。しかし対戦する時には、相手が誰であろうと勝ちたい。これは僕にとっては少しばかり厳しい敗戦だったよ」

それでも結果はともかく、テルシャーは記者会見場を去る時に、試合前にサンプラスと話した事についてジョークを言った。「サボり学生を補導する学校の係員は、彼が学校に行っていない事を知ってるのかどうか聞いたよ」