2003年  
誰が史上最高のプレーヤーか?
文:Paul Fein


「同じ時代におらず、重要な場で対戦した事のないアスリート同士を
比較・評価するのは、経験を積んだテニス記者が踏み込んではならない罠である」
---アル・レイニー /著名なスポーツ記者の「Covering The Court -- A Fifty-Year
Love Affair with the Game of Tennis
(コートをカバーする事--
テニスとの50年の恋愛)」1968年著より

アル・レイニーでさえ、彼自身のアドバイスを無視する誘惑に抵抗できなかった。3つ後の文で、彼は主張する。「1914年の若々しいデビスカップ経験から、1960年代後期までに見てきたどんな選手も、全盛期のチルデンを倒せたとは思えない」

レイニーが自分の考えをさし挟まずにはいられなかったのも、不思議ではない。「誰が最も偉大か」という討論は、あらゆるスポーツで盛んに行われる。ジョーダン、マジック、あるいはバード? アリはルイスを打ち負かせただろうか? メイズはルースより優れていたか? ペレ対マラドーナ、タイガー対ジャック、マリノ対モンタナはどうか? 情熱的なファンは愉快な議論が大好きで、お気に入りの選手が称賛されたり、あるいは史上最高リストの下に追いやられると、熱情は燃え上がる。

レイニーの35年来の選択は、オープン化以前の時代なら適切かもしれない。しかし1969年に2回目の年間グランドスラムを達成したロッド・レーバーが、多くの目利きの間で「史上最高」とされる事についてはどうか? ある者たちは同じくらい熱烈に、チルデンやレーバーほど華やかなショットメーカーではないものの、恐ろしく有能なビヨン・ボルグが、その神話的な栄誉を得ると論ずるであろう。

ESPNクラシックでボルグ、ジミー・コナーズジョン・マッケンローの試合を観る30代以下の世代にとっては、これら中背の名手たちが、獰猛なまでにパワフルなピート・サンプラスからセットを取れるとは想像できない。さらに、3人の素晴らしいチャンピオンたちを忘れないようにしよう。1930年代のドン・バッジ、40年代のジャック・クレーマー、50年代のパンチョ・ゴンザレスだ。



我々の戦いを始める前に、私には告白する事がある。子供の頃、私は同じくらいの体格、左利き仲間のレーバーをアイドルとしていた。そして、あっと言わせる多様なショットの全てを真似ようとさえした。多数のフィルムは観たものの、私は初期の偉人たちの全盛期を生で目撃した事はない。それ故に、この討論に不可欠な基本ルールを定める:主観性は排除する。1920年代のニューヨーク知事、アル・スミスがよく言った「記録を見よう」のように。

「記録」を分析する最もフェアな方法は何か? 私は8つの基準を提言する。そしてどんな1つの基準も、決定的に討論を解決するものではない事を強調しておく。









グランドスラム

「史上最高の選手たちを振り返る時、我々は彼らが優勝したグランドスラムの数を見る」と、サンプラスは1995年に断言した。それほど手間いらずで単純なものでもない! しかし確かに、グランドスラムの数は厳しく考慮される。

サンプラスは14個のスラム・タイトル---決して破られないかもしれない記録---で、ここでは議論の余地なく最高位に君臨する。全てのメジャー大会に、平等な位階が授けられる訳ではない。だが「ピストル・ピート」は「ビッグ4」の開催場所では最も高名なウインブルドンで、「近代」記録である7つの栄冠を得た。

5つのタイトルは、宿敵アンドレ・アガシ---ローラン・ギャロスのタイトル獲得で、異論はあるがグランドスラム・ランクで2位タイに位置する---と対戦した忘れがたい初優勝と最後の優勝を含め、USオープンでのものである。サンプラスはオーストラリアン・オープンで、さらに2つのタイトルを獲得している。

キャリア中期の比類なきサンプラスだけが、自慢でなく「2つのメジャー大会で優勝しない限り、良い年ではない」と宣言する事ができた。サンプラスの履歴における紛れもない大きな裂け目は、フレンチ・オープンである。しかしそれは、より後期についてである。

ロイ・エマーソンは、パーティー好きと練習熱心では並ぶ者がないが、---「エモは私が知っている誰よりも、バーと練習コートに最後までいた」アーサー・アッシュ談---「キャリア」グランドスラムを含む12個のメジャー・タイトルを獲得し、サンプラスに次いで2位に位置する。

しかしながら、エマーソンのトロフィーの内6つは、最も評価されないオージー・オープンで獲得されたものである。

レーバーとボルグは11個のスラム・タイトルで、3位に並んでいる。レーバーのタイトル中8つは、1962年と1969年に年間グランドスラムを達成した時のものである。年間グランドスラムについて、アガシは正当に「いかなるスポーツにおいても、最も偉大な業績」と称した。バッジは1938年1度だが、その偉業を達成した唯一の他の男子選手である。

ボルグは、初期はサーブ&ボレーヤーではなかったが、どちらのストロークも上達させ、「近代」記録である5年連続ウインブルドン優勝を達成した。同じく記録である6回のフレンチ・オープン優勝と共に、これらはわずか8年間で成し遂げられた。たった2週間でローラン・ギャロスのクレーからウインビーの芝へとスイッチするのは、テニス界における最も手ごわい挑戦の1つである。それでもなおボルグは、1978年から1980年まで3度、連続優勝を果たした。

「ビッグ・ビル」チルデンは10個のメジャー・タイトルを獲得した。内7つはフォレスト・ヒルズで、3つはウインブルドンにおいてである。その中には1930年から37年までの、彼の最後のツール・ド・フォース(離れわざ)も含まれる。

コナーズ、フレッド・ペリーケン・ローズウォールイワン・レンドル、そして今なお現役のアガシは、全員8つのスラム・タイトルを獲得している。好戦的なコナーズは、芝・クレー(Har-Truと呼ばれるやや速いもの)・ハードコートという3つのサーフェスにおいて、堂々たる5つのUSオープン・タイトルを獲得している。驚くべき業績であり、破る事のできない記録でもある。イギリス最後の、そして最も華麗な男子チャンピオンであるペリーは、「キャリア」グランドスラムで名高い。








デビスカップ

スポーツ界最古の、そして最も有名な毎年の国別団体戦は、しばしば、そして誤って「誰が最も偉大か?」という討論では見落とされる。確かに、以前の栄光はいささか失われている。なぜなら少数派のプロ選手たちは、国の代表を務めるよりもお金とランキング・ポイントをより気に懸けるからである。

「デビスカップでキャリア最高の、そして最悪の時を経験すると言われている」と、正直なオーストラリア人パトリック・ラフターはかつて語った。そして同国人のエマーソンは、勝負のかかった試合における15勝0敗(チャレンジ・ラウンドで9勝0敗)という完璧な成績でのみ恍惚感を経験した。

チルデンは典型的なフィラデルフィアの家柄出身の都会人で、25勝5敗という輝かしい成績を挙げた。チャレンジ・ラウンドでは13連勝という特筆される事柄もある。フランス「四銃士」が1927年、彼の老化した34歳の肉体をついに疲れ果てさせる前には、「リトル・ビルジョンストンの手助けも受けて、合衆国の7年連続デビスカップ優勝(1920〜26年)で先頭に立った。
ボルグは1972年、ニュージーランドの注目選手オニー・パランに対する驚異的なカップデビューの勝利で、たった15歳で冷静な物腰を初披露した。それから彼は1975年に最初のカップ優勝をスウェーデンにもたらし、記録的な33連勝を含む、37勝3敗という華やかなキャリア成績を残した。
ボリス・ベッカーの38勝3敗というカップ成績は、かなりの称賛に値する。ミハエル・シュティッヒが現れるまで殆どサポートがなく、また殆ど常にダブルスもプレーした事を考えると、さらにセンセーショナルである。レーバーは数少ないが(プロ転向のため)、確固たる16勝4敗のカップ成績を誇る。ペリーは出場した4回のチャレンジ・ラウンドでシングルスに全勝し、自国を1933〜36年の4年連続カップ優勝に導いた。34勝4敗という彼の生涯カップ成績は、最高の部類に属する。

マッケンローはしくじり(彼は不品行のかどで、1回のタイで4回罰金を科されたのだ!)、2000年にデビスカップ監督を解任される前には、堂々たる41勝8敗の成績と5回の優勝への途中で、選手としてよりうまく愛国的な熱情を向けていた。アガシは30勝5敗の成績を挙げ、同じく印象的だ。

サンプラスは1992年、スイスに対する合衆国の優勝に貢献した。そして1995年には、クレーでホスト国ロシアに対して3勝2敗の優勝を果たし、ヒロイックにそれを推進させた。アンドレイ・チェスノコフを打ち負かした後、ピートが痛ましいケイレンと極度の疲労で倒れ、コートから運ばれていき、そして戻ってきて決勝に決着をつけたのを、誰が忘れられるだろう? 
しかし「最も偉大な世代」(アガシ、ジム・クーリエマイケル・チャンと彼自身)が支配する事も可能だった時期、サンプラスはしばしばデビスカップを無視した。15年のプロキャリアの間、16回のタイに出場しただけで、15勝8敗というささやかな成績である。



支配の度合い

最も重要な場面でどれほど優っていたかを裁定する事は、チャンピオンを比較する際に同じく有益な筈だ。ここではサンプラスが抜きん出ている。彼の最も素晴らしい持ち物だとかつて語ったポルシェのように。サンプラスはグランドスラム決勝戦で、14勝4敗というとてつもない記録を残した。ボルグの11勝5敗、レーバーの11勝6敗、チルデンの10勝5敗という成績と比較してほしい。

実はレンドルは誰よりも多い、19回のスラム決勝に進出している。しかし彼は11回の苦い敗戦を喫したばかりに、7つ以上のメジャー・タイトルを持つ、勝利より敗戦の方が多い唯一のチャンピオンとなってしまった。エマーソンの12勝3敗という決勝戦の成績だけが、2桁スラム優勝者の中で(パーセンテージ的に)サンプラスを凌ぐ。しかし彼は全盛期にアマチュアとしか対戦しなかった事を考慮すると、その権威はあっけなく下がる。

サンプラスの場合は、優勝した14回のグランドスラム決勝での並はずれた圧倒性により、さらに強調される。彼はだた対戦相手を負かしただけでなく、通常叩きのめした。「ピストル・ピート」が失う事もあり得た28セットの内、実際に落としたのは7セットだけだった。そしてサンプラスが5セットを強いられたのは、ただの1度だった。

ロケット・サービスのゴラン・イワニセビッチが、1998年ウインブルドン決勝でそこまで彼にもつれ込ませた。しかしその時でさえ、サンプラスは最終セットではクロアチア人を6-2で粉砕した。(興味深い事に、シュテフィ・グラフ---オープン時代に最も成功した女子チャンピオン---は、22回のスラム決勝の勝利の内、13回3セットを強いられた)

持続的な支配力は、他の方法でも測る事ができる。サンプラスは1993〜1998年に、6年連続年末1位という信じがたい偉業を成し遂げた。髪を失い、胃潰瘍を進行させはしたが、それによりコナーズが持っていた1974〜78年の連続記録を凌駕した。それはオープン時代の記録である。一方チルデンはアマチュア時代の1920〜25年に、6年連続で1位だった。

当時、 A. ウォリス・マイヤーズという権威あるジャーナリストは、広く容認されるランキングを考案した。その後、世界じゅうのさまざまな雑誌も独自のものを発表したが、尊敬されるジャーナリストであるジョン・オリフ、ランス・ティンゲイ、バド・コリンズは、非公式ではあるが、一般に容認されるランキングを提示した。ATPコンピュータ・ランキングは1973年に始まった。誤った、そして広く非難された1990年代の「ベスト14」コンピュータ・ランキング・システムよりも、往年のジャーナリストによる考え抜かれた審査の方が優れていると証明された。

信じがたい事に、「ベスト14」方式では、トップ100人の選手は平均して40パーセント以上(!)の大会結果を捨てる事になったのだ。サンプラスは、滅多に早いラウンドでの敗戦がなかったとはいえ、1993〜98年の間、年に18大会のみを評価基準とされた事で、ひどい不利をこうむった。それにより彼の1位のランキングは、さらに印象的なものになる。

だが争う余地のないものは、大会タイトルという基準である。アマチュアだった1912年から1930年までの間、チルデンは出場した192大会の内、驚くべき138大会に優勝し、さらに28回決勝に進出した。その長期の支配には誰も及ばない。



全てのサーフェスにおける卓越

USオープンが1987年、クレー(1975年に芝のコートから変更)からデコターフ2のハードコートに替わるまで、4つのグランドスラム大会は芝とクレーでのみ争われた。最も高い評価は、年間グランドスラマーであるバッジとレーバーに行く。加えて、名高いキャリアの間に、少なくとも1回は全てのメジャー・タイトルを獲得したペリー、エマーソン、アガシが挙げられる。

コナーズと7回のスラム・チャンピオンであるマッツ・ビランデルは、オール・サーフェスの業績で星印がつく。ジンボは決勝でクレーの王様ボルグを堂々と4セットで下し、クレーで1976年USオープンに優勝したが、ローラン・ギャロスを攻略する事には失敗した。ヴィランデルは1983年と84年、芝のメルボルンで優勝したが、ウインブルドンでは準々決勝を通過した事がなかった。

中傷者はサンプラスを、ローラン・ギャロスで優勝していないとけなす。充分に公明正大だ。さらなるダメージは、彼は13回の挑戦で、決勝にさえ達しなかったという事である。

しかしサンプラスは、本当にクレーの適性がなかったのか? とんでもない。1996年には、コーチであるティム・ガリクソンが亡くなった数週間後、最終的にチャンピオンとなったエフゲニー・カフェルニコフに屈服する前に、彼は前2回の優勝者であるセルジ・ブルゲラとクーリエに5セットで勝利し、フレンチの準決勝に進出した。

しばしば見過ごされるのは、サンプラスの1994年イタリアン・オープン・タイトル---2番目に高名なクレー大会---である。ローマで、彼は決勝まで1セットしか落とさず、決勝ではベッカーに6-1、6-2、6-2で完勝した。「彼はまるで21世紀のようなテニスをしている」とベッカーが驚嘆した。

さらに、驚くべき事実がある。1991〜99年のATPツアー・クレー勝敗率で、サンプラス---テニス界第1級のサーブ&ボレーヤー---は、64勝26敗の成績(71.11%)で7位(最低60試合プレーした選手の内)にランクされた。これは54勝23敗のアガシ(70.13%)より上である。

ボルグは9回挑戦したが、USオープンでは優勝できなかった。しかし決勝に4回進出した事は称賛に値する。その内3回はハードコートである。不面目なのは、彼は比較的短い9年のスラム経歴の間、3回戦で負けた1974年の1度しかオーストラリアン・オープンに出場しなかった事である。

チルデンはフレンチ選手権(1925年まで外国のプレーヤーを受け入れなかった)に3回出場しただけだった。もう全盛期を過ぎていたが、それでも1927年と1930年には決勝に進出した。クレーマーはローラン・ギャロスに出場した事がないが、ゴンザレスは2回だけ出場のチャンスがあった。彼の3度目のスラム大会である1949年と、40歳の時の1968年である。それでも彼は両方とも準決勝に達した。

要するに、サンプラスの大嫌いなものはクレーであった。そしてキャリア後期には、フレンチで優勝するためには「神のなせる業が必要だ」と皮肉を言った。この事は認められる。スーパー・サンプラスは他の全てのサーフェスを征服した:芝で7つのスラム、アメリカのハードコートで5つのスラムと3つのマイアミ・タイトル(世界で5番目に重要な大会とも見なされる)、オーストラリアのスロー・ハードコートで2つのスラム、屋内ハードコートとカーペットで、高名なシーズン最終ATPツアー世界選手権での5つのインドア・タイトル。

サンプラスが1997年ウインブルドン準決勝で彼を制圧した後、畏敬の念に打たれたトッド・ウッドブリッジは「彼は人間だ、でも少しだけ」と、多くの犠牲者を代弁した。



競争の質と深さ

ゴンザレスは1995年に、40年前の彼の時代と現代のプレーヤーを比較して断言した。「もし私の時代に10人の素晴らしいプレーヤーがいたとすれば、今は100人いる。テニスのレベルは信じがたいものがある。ショットは目を見張るようだ。彼らはより敏捷で、より速く、精神的により強い。また賞金がかかっているから、より競争心旺盛だ」

ゴンザレスは同じく両時代のエリート・プレーヤーを比較して、遠慮せずに言った。「ピートは私が今までに見た者の中で、最も完成されたゲームを持っている。アンドレはこの5〜6カ月で完全に立ち直り、ピートと同レベルにいる。これら2人の男は、過去の誰をも徹底的に打ち負かすだろうと思う」

チルデン、エルズワース・ヴァインズ、ペリーがプロに転向した1930年代から、オープン時代に入った1968年まで、各地を巡業するプロにも、総じて弱くなったアマチュアにも、誇るべきトップスターは多くなかった。この基準をオープン時代に限定すると、1980年代が全てのサーフェスにおいて、最も強いトップ・プレーヤーたちに恵まれていたと思う。ボルグ、マッケンロー、ヴィランデル、レンドル、エドバーグ、ベッカー、全員グレート・チャンピオンだが、10年間の各部を支配した。したがって彼らの業績はいっそう優位に評価されるべきである。

逆に、ボルグが君臨した1970年代の中期から後期は、特に芝では、最も弱い時代であった。権威あるイギリスのジャーナリスト、レックス・ベラミーは、ボルグの5回のウインブルドン優勝の内、最初の4回を厳密に歴史的見地から評価し、「彼が現れたのは、ロッド・レーバー、ジョン・ニューカムスタン・スミスといった典型的なサーブ&ボレーヤーの素晴らしい日々が終わり、マッケンローがまだ出現していなかった時だった。マッケンロー以前の時期、ボルグが倒さなければならなかった最良のグラスコート専門家はロスコ・タナーだが、彼は最上クラスには及んでいなかった」と書いた。


1990年から現在までは、タレントの層の厚さはどんな基準から見ても途方もなく増した。かつてテニスはフォームが見所のスポーツだったが、スターが至る所で伏兵から奇襲を受けるようになるにつれ、しばしば全く予想のつかないものになった。

例1:賭け率66-1のミハエル・シュティッヒ(1991年ウインブルドン)、33-1のセルジ・ブルゲラ(1993年フレンチ)、そして66位のグスタボ・クエルテン(1997年フレンチ)といった勝ち目の薄い選手がグランドスラムで優勝した。例2:1996年には、13人の異なった選手が16のグランドスラム準決勝進出の地位をつかんだ。そして1997年には、グランドスラム大会における16人の男子準決勝進出者の内、9人がシードされていなかった。例3:1998年、トップ2シードが共にシングルス決勝に進出したのは、79のATPツアー大会の内5回だけだった。例4:1998年、2001年、2002年には、各々8人の異なった選手がスラム決勝戦に進出したのだ! バッジが92連勝した1937〜38年、彼のスラム決勝戦の3つは、驚く事に1時間以下だった1938年と、その異常な層の厚さを対比してほしい。

時代の変化を要約して、2001年にゴラン・イワニセビッチは語った。「今のテニスには優勝候補はいない。それがクレー、芝、ハードコートかどうかは問題でない。誰でも誰をも負かす事ができる」



往時と現在

過去と現代のチャンピオンを比較する時、競争の質と深さの点で、現代チャンピオンに軍配が上がる。しかし他の点では両者それぞれに、たくさんの支持すべき事柄を見いだす事ができる。メディアのプレッシャーは現在の方がはるかに広汎で、しかも押しつけがましい。そしてある選手たちは、義務づけられる記者会見や扇情的なタブロイド紙に腹を立てる。今日、ハードコート、あらゆるラウンドでのタフマッチ、10カ月間のシーズンなどの結果、かつてないほど頻繁に、そして深刻な怪我が増えている。

だが、今日の選手たちは何週間も大洋定期船で過ごす必要もなく、超音速ジェット機で世界を回る事ができる。せかせかとサイドを替えるのではなく、チェンジオーバーの90秒間は心地よい椅子にもたれ、ものを食べたりできる。そして小さい木製のラケットではなく、宇宙時代の巨大なラケットでボールを叩きつける事ができる。彼らは長引くセットの代わりに12ポイントのタイブレークを行う。そしてグランドスラムでは、7ラウンドをプレーするのに2週間がとられている。

一方1949年US選手権では、テッド・シュローダーは8日間で6ラウンド戦わなければならなかったのだ。また今日の運動選手は、トレーニングと栄養摂取の進歩から恩恵を受けている。そして大選手やそれに近い選手たちは、大会賞金・エキシビション・スポンサー契約などから前代未聞の報酬を得ている。



逃したチャンス

レーバーの支持者たちは、今まさに責めたてようとしている。我々は何度、彼らのスローガンを聞いてきた事か:「もし『ロケット』が全盛期の5年間(1963〜67年)に、プロであるという理由でチャンスを逃さなかったなら、どれほど多くのグランドスラム・タイトルを獲得しただろうか」

彼らの主張の裏面は、2つの部分への質問である:もしレーバーがゴンザレス、 ルー・ホード、ローズウォールや他の巡業プロと対戦しなければならなかったら、1960〜62年に優勝した最初の6つのスラムの内、何回勝たないかもしれなかっただろうか? 

レーバーはプロになって、最初の21試合の内19回ローズウォールとホードに負けた。そして後に「私はプロに転じるまで、最高の選手たちは誰かという事に気付かなかった。そして1963年初めの6カ月間、私の頭は打ちのめされていた」と認めた。第2に、レーバーは1964年にトッププロにのし上がったとはいえ、可能性がある21回の逃したメジャー大会の内、果たして何回の優勝ができたか、誰が知ろう?

ああ、「もし……だったら?」ゲームは誰でもできるのだ。2000年に、もし4つのメジャー大会の内3つが今でも芝で行われていたとしたら、サンプラスはいくつのグランドスラム・タイトルを獲得しただろうかと質問され、クーリエは「彼は今までに、30は行かないとしても、25は容易に獲っているだろう」と答えた。

もしレーバーが運命の犠牲者であったなら、オープン時代に乗じるにはあまりにも早く生まれた他のチャンピオンの不幸を考慮してほしい。ローズウォールは1957年プロに転向し、11年の全盛期を失った。同じく頑丈なゴンザレスは、1949年後期にプロに転向する前、5回のメジャー大会と1回のデビスカップ・タイで競っただけだった。彼は驚くべき18年もを失ったのだ! 

クレーマーはウインブルドン、フォレスト・ヒルズ、デビスカップに優勝した後、1947年に26歳でプロに転向した。さらに、同じ世代の多くの若者のように、彼は第二次世界大戦で母国のために戦い、初期の最良のテニス何年かを失った。

バッジは1939年プロに転向し、うぬぼれ屋のボビー・リッグズはその年、自分が滅多にないウインブルドン「トリプル」(3大会全て)で優勝する事に賭け、10万8000ドルを獲得した。両者とも軍隊にいた間に、全盛期の何年かを犠牲にした。しかしバッジはより重く、より遅くなり、戦争後は二度と同じレベルにはいなかった。

「私はドン・バッジを頂点に置く」とクレーマーは言った。「もしプロがグランドスラム出場を禁止されず、第二次世界大戦の中断がなかったら、彼は数知れないほど多くのメジャー・タイトルを獲得したであろう」

最後に、20世紀前半の時代、世界を巡る旅行はとても時間・費用がかかり、保証される経費はしばしばあまりにも低かったので、全てのグランドスラム大会に出場したアマチュアは殆どいなかったという事を考慮しなければならない。チルデン、アンリ・コシェルネ・ラコステ、リッグズ、クレーマーはオーストラリアンに出場した事がなかった。そしてバッジ、ヴァインズ、ジーン・ボロトラはただ1度だけだった。

1970年代や80年代にボルグ、マッケンローや他の選手たちがした弁解できないダウンアンダー欠場とは全く意味が違っていた。彼らはその大会は価値が低いと公言し、問題の多いすげない拒絶は悪化するばかりだった。フレンチの執行者フィリップ・シャトリエが活性化させる以前は、ある者たちもまた、残念にもローラン・ギャロスをスキップした。


初期の時代のプロ

戦後のプロゲームは、1日公演と種々の大きさのドローで行う従来型大会との入り交じったものだったが、世界第1級プレーヤーの殆どが参加していた。それ故に、そのトップ・ガンたちには「史上最高」という栄誉に対して、最高度の考察を必要とする。

ゴンザレスはどうか。彼は短いアマチュアの期間に、2つのUSオープン・タイトルを獲る猶予しかなかったが、他の偉人たちに匹敵するだろうか? 経験を積んだベテランであるクレーマーは、1949〜50年のゴンザレス最初のプロツアーでは、彼に96勝27敗で決着をつけた。しかしクレーマーが引退した後、猛烈に競争好きなメキシコ系アメリカ人は---「パンチョは彼のサーブで50ポイント取り、脅威を感じさせて50ポイント得る」とクレーマーはかつて語った---1954年のツアーでバッジ、パンチョ・セグラフランク・セジマンを倒し、プロ王者となった。彼は1961年まで君臨した。

1951年から1964年まで、ゴンザレスは記録である8つのUSプロ・タイトルを獲得した。そして1950年から1956年まで、世界プロ選手権と見なされるウェンブリーで4回優勝した。40歳の時、ゴンザレスは第1回USオープンにおいて、8-6、6-4、6-2という驚異的なスコアで、第2シードでウインブルドン決勝進出者のトニー・ローチに圧勝した。1969年には、老いを知らないゴンザレスはラスベガス大会でニューカム、ローズウォール、スミス、アッシュ(決勝は6-0、6-2、6-4)を破り、世界ランク6位に上った。

背中の関節炎で早期引退したため、クレーマーの履歴書はもっと短いが、 やはり見事なものであった。クレーマーのプロ王朝は、リッグズに対し69勝20敗でツアーを支配した1947年後期に始まった。ゴンザレスを96勝27敗で抑えた後、1950〜51年のツアーでは、クレーマーはすばしこく堅実なパンチョ・セグラを64勝28敗で圧倒した。1952年には主要なツアーがなかったが、「ビッグ・ジェイク」は世界プロ・タイトルを保持した。そして1953年シリーズでは54勝41敗で、アスレティックなオーストラリア人スターのセージマンに優った。

再び「もし……だったら?」ゲームに戻ろう。偏向は免れないものの、クレーマーは信頼すべき1979年の自叙伝「The Game: My 40 Years in Tennis(ゲーム:テニスにおける私の40年)」で、「1931年から1967年までの間、もしプロ・アマ双方に公開されていたら、ウインブルドンとフォレスト・ヒルズの予想される優勝者は誰だっただろうか」と推測した。クレーマーは各々5つを獲得したであろう。バッジはさらに6つのUSオープン・タイトルを付け加えたであろう。一方ゴンザレスはさらに7つのUSオープンと6つのウインブルドン・トロフィーで、最も恩恵をこうむったであろう。

多分より客観的なのは、レーバーが2回目のグランドスラムを達成した後、1969年後期に、オールタイムの偉人たちをランク付けしたテニス記者の一団であろう。彼らのトップ10は、順番に:チルデン、バッジ、レーバー、ゴンザレス、クレーマー、ペリー、アンリ・コシェ、ルネ・ラコステ、 ホード、ヴァインズであった。



この選者は、疑う余地なくサンプラスを史上最高と位置づける。彼のセンセーショナルなグランドスラム記録、驚嘆に値する支配力、複数のサーフェスにおける卓越、そして当今の厳しい競争(特にクレーで)を考慮すると、彼の欠点 ---フレンチのタイトルがない事とささやかなデビスカップ成績---は意味を失う。

主観的には、もし私が設定した基本ルールを破ってもよいなら、サンプラスはしばしば抜群のテニスをした。特に大試合の決定的な場面で。爆発的なファーストと無類のセカンド・サーブを大いに頼みとしていたが、彼はたくさんの他の武器を披露した:手堅いボレーとアスレティックなネットゲーム、非の打ち所のないスマッシュ、力強いランニング・フォアハンド、タッチショット、俊敏さとスピード、勇気、そしてスマートな戦略。そう、彼のバックハンドは、プレッシャーのかかった場面や長いラリーでは、時に失敗した。しかしそれは彼の唯一の弱点であった。

サンプラスの主要なライバルたち---キャリア初期のマッケンロー、ベッカー、エドバーグから「最も偉大な世代」の同輩アガシ、クーリエ、そして新しいスターのマラト・サフィンアンディ・ロディックまで---は、彼に最上級の賛辞を浴びせた。

最も典型的な事に、彼らは自分たちが今までに対戦、あるいは見た事のある最高の、そして最も完成されたプレーヤーであると、サンプラスを称賛した。確かに彼らはそうすべきである。サンプラスは彼らに負けるより勝つ事の方が多かった。そして彼らの中のベストと比べても、約2倍のメジャー・タイトルを獲得している。

1990年USオープン決勝でアガシを叩きのめした後、サンプラスは謙遜して自分を「カリフォルニアから来た19歳の若造」と称した。2002年USオープンにおける、最後のツール・ド・フォースの前には、誰もが彼をスランプに苦しむ終わった男と見なしていた時に、サンプラスは皆に思い出させた。「僕が何者か、そしてここで何をしてきたかを思い出さなければならない」

私は常に、サンプラスが何者であったかを記憶しているであろう---史上最高のテニスプレーヤーと。



私の史上最高トップ10

1.ピート・サンプラス

2.ビル・チルデン

3.ロッド・レーバー

4.パンチョ・ゴンザレス

5.ビヨン・ボルグ

6.ジャック・クレーマー

7.ドン・バッジ

8.ジミー・コナーズ

9.イワン・レンドル

10.ジョン・マッケンロー



チャンピオンへの賛歌

「我々残りの者は打てない、そして打とうと考えさえしないショットを、彼は打つ事ができる」---ジム・クーリエ、ピート・サンプラスについて(1991年)

「チルデンは対戦相手の届かない所にボールを打つ事について、常に1000もの手段を持っているように見える。彼は観客および対戦相手に、不思議な恍惚感を行使するようだ。チルデンは負けた時でさえ、彼は勝者より優れていたという印象を人々の心に残す。全ての観客は、彼は好きな時に勝つ事ができると考えているようである」---ルネ・ラコステ、ビル・チルデンについて「Lacoste on Tennis(ラコステ、テニスを語る)」(1928年著)より

「ロッド・レーバーは私のテニスの神様である。彼はとても謙虚で上品な人で、誰についても悪い事を何も言わない。たとえ彼にそれを言わせようとしても。彼は我々のベーブ・ルースである。彼は全ての事をした初めての男だ。ボールを強打する事、サーブ&ボレー、ベースラインから打つ事、そしてスライス」---ジョン・マッケンロー、ロッド・レーバーについて「Tennis(テニス)」マガジン(2002年)より

「彼はテニス界で過去最高の、生まれついてのアスリートである」---トニー・トラバート、パンチョ・ゴンザレスについて(1955年)

「ボルグを別の惑星に行かせるべきである。我々はテニスをする。彼は何か他の事をする」イリー・ナスターゼ、ビヨン・ボルグについて

「クレーマーは独特の雰囲気を持っていた。定義が難しい攻撃的なタイプのものだ。個人的な感情とは関係なかった。しかし彼は、全てのポイントに生死がかかっているかのようにプレーした」アドリアン・クィスト、ジャック・クレーマーについて「Tennis: The Greats (1920-1960)(テニス:偉人たち[1920〜1960年])」より

「彼は1年365日いつでも最も素晴らしい、過去最高のプレーヤーであると思う」---ビル・チルデン、ドン・バッジについて「My Story(自叙伝)」(1947年版)より

「1990年代初期を振り返り、コナーズが未だにいいプレーをしているという事で、1968年にオープン時代が始まって以降25年の間、彼は最高の男子テニス選手であったと文句なしに見なす」---アーサー・アッシュ、 ジミー・コナーズについて「Days of Grace(優雅な時代)」(1993年著)より

「レンドルという名前は、僕にとって何を意味するか分かるかい? 専念、努力、彼には多くの男のようなテニスの才能はなかったかもしれないが、誰もを圧倒した。僕は測り知れないほど彼に敬服している」---ピート・サンプラス、イワン・レンドルについて(1994年)

「テニスの才能に関しては、ジョンより優れた者を見た事がない」---アーサー・アッシュ、ジョン・マッケンローについて



アンドレの前途やいかに?

「私の史上最高トップ10」リストから彼を外した事に対して、アガシ愛好者たちが私の頭や肩を殴る前に、カリスマ的なラスベガンは非常に手ごわい競争の中で、わずかにチャンスを逃したという事に、特に言及しておこう。

アガシは11位に据えたが、それでも畏れ多いケン・ローズウォールより上である。「マッスル」はプロであった時期に、スラムでのプレーを禁じられた驚くべき11年もの全盛期を逸しているにも関わらず、彼のグランドスラム・タイトル合計8つはアガシのタイトル数と等しい。12位に据えたローズウォールは、スラムとデビスカップでさらに多くの成果を挙げたかもしれないが、我々がそれを知るすべはない。

13位に据えたフレッド・ペリーは、アガシと同じく8つのメジャータイトルと「キャリア」グランドスラムを獲得している。しかしペリーは次の点でアガシを凌駕していた。A) 3年間1位の座に就いた。B) 34勝4敗という優ったシングル成績で、イギリスを4年連続デビスカップ優勝へと導いた。C) より多くのウインブルドン(3つ)とUSオープンのタイトル(3つ)。もしペリーが27歳でプロに転じていなかったなら、彼もまた、恐らく履歴書にもっと多くのメジャー・タイトルを加えたであろうが……。

アガシのマイナス要因となるのは、彼は17年のシーズンで、年末1位に1度しかなっていない事。8つのスラム・タイトルの内4つを、最も権威の低いオーストラリアン・オープンで獲得している事。彼が有力とされた最初の3回を含め、複数のスラム決勝戦でまずいプレーをした事。スラム決勝戦で、彼は概して役不足の相手と対戦した事。8年しか5位以内に入っていない事。そしてキャリアの初期、オーストラリアン・オープンを8回、ウインブルドンを3回スキップした事などである。

レンドルの強力なスラム成績---3つのUSオープン、3つのフレンチと2つのオーストラリアンのタイトル、加えて2回のウインブルドンを含む、さらに11回という驚くべき多くのスラム決勝に進出---、1位に4年、2位に3年、そして3位に3年就いた事、94のキャリア・シングルス・タイトルなど、その支配力と長命さで、彼を*8位に据えた。
訳注:リストでは9位になっており、コナーズが8位となっている。筆者の書き間違いか?

コナーズは109のシングルス・タイトルという、オープン時代の記録を所有している。中でもタイ記録である5つのUSオープンと、2つのウインブルドンが光る。彼はまた、5年連続で1位の座に就いた。そして連続12年という驚異的な年月の間3位以内に留まり、史上最高リスト*9位の座を射止めた。
訳注:リストでは8位。

マッケンローの全盛期はレンドル、コナーズ、アガシより短かったが、より輝かしいものであった。マッケンローのスラム・タイトルはより少ない(7つ)が、より大きいものであった:4つのUSオープンと3つのウインブルドン。最も重要なのは、彼はデビスカップで華々しい成績を挙げた事だ。シングルスで41勝8敗、そして5つのカップ・タイトル。彼はまた4年連続で1位の座に就き、77タイトルを獲得した。

アガシのファイルは有効なままで、前途は明るい。もう1つメジャー・タイトルを獲れば、トップ10内に入る筈だ。もう2つならトップ8内に。彼を除外してはいけない!



史上最高論議は数多くあり、それぞれの選者がそれぞれの理由でランク付けしています。この記事はビル・チルデンの時代から現在まで、ほぼ20世紀全体を網羅・検討しているという点で、大いなる労作と言えるのではないでしょうか。私などはテニス史の中でしか聞いた事のない名前、もしくは全く聞いた事もなかった名前が満載! 

イメージが湧きやすいように、文中に登場した全選手の写真と生没年を添えました。これを探すのがまた大変でした!

実は私自身は、史上最高論議はそれほど興味がある訳でもない。テニス史のお勉強くらいの受け止め方です。私にとっては、ピートがオンリー・ワン!(^^;

<参考:ポール・ファインの記事>
オーストラリア版tennis 2000年6月号
ピート・サンプラスが心から語る

オーストラリア版tennis 2000年7月号
「僕の好きな人々」---ピート・サンプラス

2004年版
「サーブ&ボレーヤーはどこへ行ってしまったのか?」