アメリカ版TENNIS
1999年5月号
孤独な生きる伝説
文:Sally Jenkins


ピート・サンプラスは「退屈」というレッテルにウンザリし、
彼の記録的な業績が軽視されている事に飽き飽きしてきた。
しかし耳にしたかもしれない事とは反対に、彼には燃え尽き状態の兆しさえない。



もし本当にピート・サンプラスを知りたいなら、努力しなければならない。まず第一に、ビバリーヒルズの平地から、有名人の邸宅が建ち並ぶ峡谷を抜ける曲がりくねった道路を、上方へ何マイルか辿らなければならない。やがて、狭い自動車道路をふさぐゴシック様式の鉄の門に至る。少し待った後、門は振動しながら、さも嫌そうに開く。次に、丘陵の斜面に続く急な階段を幾つも登らなければならない。そしてようやく、そびえ立つユーカリの木々と生け垣に隠れた、木とレンガのだだっ広い建物に到着する。

重いドアノッカーをドンドン叩く。ゆっくりした、引きずるような音は威嚇的に聞こえるかもしれない---もし少し後に皺くちゃのTシャツ、スウェットパンツにスリッパ履きのサンプラスが、頭を掻きながら、そしてまさに弟のような様子で現れなかったら。彼はひどくシャイだが、高所にある彼の隠れ家に、誇らしげに歓迎してくれる。

「隣家の人は僕を見る事ができないし、僕は彼らを見る事ができない」と彼は言う。「僕は*ハワード・ヒューズさ」
訳注: (1905-76) 謎や伝説に満ちたアメリカの大富豪。実業家・飛行家・映画プロデューサー。

ロサンジェルスではサンプラスだけが、生活し、そして人に見られない事を選ぶであろう。もし試みてもハリウッドへ行き着く事はできないだろうと、彼がいつも言ってきた事をそれは裏付ける。そう、だから彼はベネディクト峡谷を上った所にあるケニー・Gの古い家を買ったのだ。2マイル下まで何もなく、テニスコート、プールと、煩わしい隣家を見下ろす素晴らしい眺めを持っている。しかし彼が整形美女と共に、ロデオ・ドライブをぶらつく姿を見つける事はないだろう。あるいはGwyneth Paltrowの隣りのテーブルで、ヤギのチーズとスモークした鴨のラビオリを食べたがる、痩せこけた妖婦と一緒に列に並ぶ姿も。

サンプラスは厳密に言えば保養所として、峡谷の頂上にある彼の新しい家を1998年終わりに買ったのだ。記録的な6年連続年末1位を維持してきた事に対して、それは彼自身への褒美であった。彼はそれを偉業であり、並ぶものはないと思っているが、過小評価されてきた。

彼は新しい4寝室、農場主の家スタイルの休暇用家を、即座に使い勝手の良いものにした。彼はクリスマス休暇をそこで過ごし、とても気に入ったので、さらに大きな道標であるロイ・エマーソンの史上最高グランドスラム優勝回数12にあと1つという位置にいたにも関わらず、オーストラリアン・オープン欠場を決めた。それは唐突で、論議がまき起こった。それはあと1本のホームランでロジャー・マリスと並ぶ時に、マーク・マクガイアが打席に立つのを断念する事にも等しかった。

サンプラスの理由は単純であった:彼は疲れていた。1998年のシーズン、その間に彼はウインブルドンで優勝し、ロッド・レーバー、ビヨン・ボルグと並ぶ11個目のグランドスラム・タイトルを獲得したが、彼をただもう消耗させた。それはまた、彼に次の事を知らしめた。

27歳になり、彼の世代最高のプレーヤーとしての日々は限られてきており、彼のキャリアには、フレンチ・オープン優勝といった成し遂げていない事が幾つか残っているという事だ。しかしサンプラスがしてこなかった大切な事はこれである:彼は自分の勝利を正当に味わってこなかった。また観客にも正当に評価されてこなかった。

後に続く人々は、サンプラスに人気も幸福も与えてこなかった。実際、これまでの6年間は奇妙なほど感情的に単調で、個人的な喪失により痛切な傷跡が記されてきた。1994年には良き友人ヴィタス・ゲルレイティスの早過ぎる死があった。96年にはコーチのティム・ガリクソンが脳腫瘍で亡くなった。そして昨年、子供時代のコーチであり助言者だったピート・フィッシャーが、子供への性的虐待で有罪判決を受けた。全てに対し、サンプラスは大いなる内向者として対処した:口を固く閉ざし---そして胃潰瘍を悪化させた。

「僕は何回も唇を噛んできたから、(傷口を縫う)ステッチが必要だよ」と彼は言う。


疑いもなく、彼は休息を必要としていた。



サンプラスが新しい食卓に就くと、淡い色の木の床は、殆ど空っぽの家に椅子の音をこだまさせる。彼の本拠地はフロリダのオーランドのままで、そこで彼はトレーニングし、所有物の大半は残されている。しかしロサンジェルスの家が、彼がよりいたい場所である事は明白である。

「ここは僕がラケットを手放す場所になる」と彼は言う。

このように直裁な声明は、サーキット11年目を迎え、サンプラスがもはや少年のチャンピオンではないという事を思い出させる。実際、彼は今キャリアの最終段階に差しかかってきている。新しい家に大金を使うという決定は、歴史への最後の突撃のために、自分をリフレッシュさせる努力の一部であると彼は言う。

「年齢を重ねるにつれて、僕は自分がしている事、成し遂げてきた事を少し楽しむようにしたいと感じている」と彼は言う。

「これは価値があるのか? 僕がしている事は価値があるのか?と考える。もし勝利を楽しまないなら、それは価値がない。僕はこのレベル、いわば人々が期待する高いレベルでやってきた。つまり、僕は全てに勝つと思われている。ある種の奇妙な意味では、それは面映ゆい事だ。けれども時には、それがどれほど難しい事か、人々に正しく認識してほしいと感じる」

サンプラスの家には、まだ家具の大半が入っていない。それでも最低必需品と見なすものは取り付けたが:大スクリーンのテレビ、革のソファ、ビリヤード台、スクリーン付き電話、そして恐らく最も重要なもの、彼の11個のグランドスラム・トロフィー。どっしりとした銀色と金色のカップは、居間の暖炉の隣にある造り付けの本棚にきちんと纏められている。

サンプラスはその前に立ち、注意深くそれぞれを調べる。丁重に、彼は訪問者にウインブルドン・カップを持ち上げるよう勧める。「見た目ほど重くないんだ」と彼は言う。

その所有者もだ。間近で見ると、史上最高の偉人の顔はこのように見える:強いカールのかかった黒髪の下の、感受性豊かな茶色の目。口元は、にっこり笑うか、あるいは少年ぽいバチ当たりな言葉を吐き出していない時には、弁解の余地のないほど敏感だ。

長い、無精ひげを生やした顎は男性モデルのようで、かすかに歪めているのは、かつて傷付き、わずかに頑固な様子に見せる。

そして内部には、ほんの少しばかりクソったれ野郎にもなり得る男が潜んでいる事を伺わせる。彼の兄ガスがかつて言った事だが、「ピートが感じよく接するからといって、その相手を本当に好きとは限らない」

それはサンプラスが否定しようとはしない告発である。

彼はスラム・トロフィーと並んで置かれている6つのガラスの塊を示す。それらはサンプラスが世界1位のプレーヤーである事に対し、過去6年間、毎年受け取ったトロフィーである。それらは彼の最も大切な、そして彼にとり、最も高価な代償を払った褒美の中に入る。サンプラス以外の誰も、どんな代償から生み出されたかを知らない。コート上でサンプラスのように無頓着に見えるには、とてつもない努力が必要だという事、そして10年の半分以上の間1位であった者なら、ただ感じが良くて温和で、少しばかり努力の跡が見られ、神経過敏なだけの筈はないという事を理解するセンスを持っている者でさえ、どんな代償が伴うのか知り得ない。

「最も悲しむべき事は、ピートはとても簡単そうに見せてきたので、彼がどれほど優れているか人々が理解しないという事だ」と彼のコーチ、ポール・アナコーンは言う。「人々はそれを知り得ない。彼を見て『それほど大変そうには見えない』と言う。素晴らしいプレーをするために、彼がとてつもない骨折りをしているように見えないのだ」

実際、1998年の最後の3カ月は、サンプラスのキャリアの中でも最も苦しいものだった。彼は1位の座を保つ事に取りつかれ---できるかどうか確かではなく、オーストラリア人のアイドル、パトリック・ラフターと小柄なポニーテールのチリ人、マルセロ・リオスに追われていた。

サンプラスはこの8年間で最も少ない4大会に優勝しただけで、トップの地位を確定するため、シーズン最終の8週間に、窮余の努力で7大会に出場する事を余儀なくされた。普段はチャンピオン級の眠り屋が、眠れなくなってきていた。彼は食欲を失い、ぶっきらぼうになった。終わった時、彼はかろうじて1位の座にくっついていた。

しかし彼が成し遂げた事の重大さを、誰も理解していないようだった。その代わりに、彼は1回しかグランドスラムで優勝しなかったから、2つのメジャータイトルを獲得した1993年、94年、95年、97年に比べると良くない年だったと言われた。

「(1位の)記録は、僕にとっては重大なものだった」と彼は言う。「僕はそれに取りつかれていた、なぜならその重要性を知っていたから。つまり、僕はそれが何を要するか知っている。生活の中のたくさんの事を断念しなければならない。ほぼ全て。すべての局面で」

「1位になり、1位に留まるために必要な3つのものがある:ゲーム、ハート、頭脳だ。ある者たちは全てを少しずつ持っている。ある者たちは3つの内2つを持っている。だがそれを1年や2年でなく6年やるためには、それらの全てを必要とする。1位になる事を望まなければならない。そして僕は誰よりもそれを望んでいる」

「あの最後の2〜3カ月、僕がそれをした事は素晴らしかった。しかし楽しくはなかった。悲惨だった」


サンプラスが退屈だと見なされる事は、我々の道義的な腐敗の確かな徴候である。途方もない史上最高の偉大さの、何がそれほど退屈なのか? そのゲームは深い想像力に富み、全くもって楽々とやっているように見せるプレーヤーの、何がそれほど退屈なのか? そして、本物の聖像破壊者であり、対抗者と「時」に抵抗する事、仰々しい評判や並外れて俗悪な態度に満ちあふれた時代に、首尾一貫して慎み深い謙虚なチャンピオンである事を恐れない男の、何がそれほど退屈だというのか?

しかし史上最高の偉大さについて1つの本質的な真実は、そこに至る事、その方法・理由、それは退屈であるという事だ。レーバーやエマーソン達を追うというサンプラスの仕事は、実際には、精神をすり減らす企てであり、口では言い表せないほどの集中、1オンスのエネルギーも無駄にしないため何時間もホテルの部屋で横になっている事、ホテルの部屋のテレビ・チャンネルを変え続ける事、「望むと望まないとに関わらず、毎食パスタを食べて飲み下す事」についての問題であったと彼は言う。

それでもし彼のひたむきな追求に、表現の不足、侘びしさがあったとしても、何の不思議があるだろうか? そしてもしサンプラスが自分自身の勝利を正当に評価してこなかったなら、観客もまたそうしなくて何の不思議があるだろう?

諺がある:「偉大な名と共に生きながらえる事は難しい」
サンプラスはこれを分かっている。それが、アンドレ・アガシが屈託ないポスターボーイを演じた一方、彼は自分の名声に覆いをかけ、ある種の分かりにくさを身に付けてきた理由である。恋愛に関する選択でさえ、意識的に有名人である事を避ける、いわゆる女優らしくない女優、健全なキンバリー・ウィリアムズをサンプラスは選んだ。

「キンバリーは女優で、彼女自身のキャリアを持っているが、とても地に足の着いた人間だ。それが僕には重要な事だった」と彼は言う。「彼女はハリウッド風のきらびやかさや性的魅力に囚われていない。僕は今よりも有名になる事は望まないよ」

それでも、彼がメジャーで優勝しても「スポーツ・イラストレイテッド」の表紙に載らない事は、そのたびに彼をイライラさせる。ナイキがテニス広告に他の誰かを使うたびに、彼の感情はくじかれる。

「何回も顔をピシャリとやられてきたら、そのうち麻痺してくるよ」と彼はかつて言った。

しかし彼はまた、彼自身がそうした立場を選んできた事を理解している。「僕が本当は何を考えるているか分かる? 両方を得る事はできないって事だ。人気と結果両方を得る事はできない。僕はその事について考えてきた。ロックスターのイメージを持ち、なおかつ何年間も1位でいる事はできない」

非常に異なったサンプラスが存在する。血がにじむまで唇を噛んでいない時には、最高の応酬ができる男だ。「誰かが下らない事や迷惑を仕掛けてきたら、僕は苦もなくお返しをできるよ」と彼は言う。もう1人のサンプラスは、早口であかぬけした男ゲルレイテスと、ひやかしや大胆な行動に苦もなくつき合えた。彼は拳を振り上げる口汚い男。対戦したイギリス人のアンドリュー・フォスターを騒々しく応援する、 ウインブルドン・サイドコートの敵対的な群衆に、反道徳的な挨拶をした事もあった。

2年前にセンターコートでウィリアムズに投げキスをしたように、時には派手な表現をする男。ブラックジャックをするために、思いつきでベガスへ出かける衝動的な男、あるいは個人用シテイション・ジェットのレンタル権を購入する浪費家。皮肉と楽しみ両方を込めて、「もし僕が本当はどう感じているか言ったら、僕を理解する事さえないだろう」と言う男である。

もし初期のマスコミ経験がそれほどトラウマとなっていなかったら、そういうサンプラスをもっと見られたのだろうか? それは興味をそそる考えである。1990年に初のUSオープン優勝を遂げた時、彼はまだひどく内気な19歳の少年であった。

サンプラスは「僕が始めから終わりまで読んだ数少ない本の1つ」と冗談を言うJ.D.サリンジャー著「ライ麦畑でつかまえて」のホールデン・コールフィールド、疎外感を抱く若い孤立主義者と類似点を持っていた(今でも持っている)。コールフィールドのように、サンプラスは孤独で、つるむ事を拒否し、まやかしをひどく嫌った。しかし2人は1つの決定的な点で違っていた:コールフィールドは明白な反逆者で、サンプラスは失望した反逆者であった。

「僕は良い子だった。学校へ行き、親に言われた事は全てした」とサンプラスは言う。「彼は途方もない反逆者だった。学校を逃げだし、したい事をした。僕はそれに敬服したのかな。ある者たちは他の人々を身代わりとして生きるんだ」

サンプラスは高校では親友がいなかった。テニスにのめり込んでいたので、他人と話をするという単純な能力を身につける事がなかった。そしてオープンで優勝し、トークショー・サーキットに突っ込まれた。そこでは彼は全くぎこちなく、役立たずであった。あの頃の自分を振り返り、サンプラスは言う。「その子供は本当に未熟だった。誰も彼に何も教えてやらなかった」

「僕はポッと出の、何かしら並外れた事をした内気な子供にすぎなかった。それはおとぎ話だった。自分が何をしたのか分かっていなかった。そして僕のゲームはまだ整っていなかった。その後、僕はあらゆるテレビ・ショーに出演した。そして『こんなのは全然好きじゃない』と思ったんだ。僕はただ放っておいてほしかった。全ての状況に熱狂していなかった。僕はいわば狼の群に投げ込まれたようだった」

その時点から、テニスに関する悪い事の全てがサンプラスの責任になった。スポーツの景気後退は彼の責任になった。テレビ視聴率の低迷は彼の責任になった。

彼は大衆とじゃれ合わない、機械人形だ、どのようにゲームをプロモートするか分かってない。告発はありとあらゆる所から来た。

そして今でもそうだ。最近、最も痛烈な批判が、意地悪でおしゃべりな元チャンピオン、ジョン・マッケンローから来た。彼を「利己的」と呼び、デビスカップで常にプレーするのは拒んだ事について「伝統の核への短剣」であると言った。

守勢に立ったサンプラスは、自分が大衆のお気に入りかどうかという事は気に懸けないと決心した。彼にとって重要な唯一の事は記録であった。「僕が気に懸けるのは勝つ事だけだ」と彼は言った。「僕はラケットに物を言わせる」

ラケットは彼の公的表現の主要な形態になった。1995年オーストラリアン・オープンで、ガリクソンの死に至る病について知った後、準々決勝・対ジム・クーリエ戦の最中に涙にむせび始め、彼の世界的に有名な自制の全てが崩壊した時まで。

テニス界で最もプライベートな男が、コート上で泣いたり吐いたりしたというのは一風変わった事実である。彼は叙事詩のような1996年USオープン準々決勝・対アレックス・コレチャ戦の最中には、コート上で吐いたのだ。その試合を乗り越えた後、ガリクソンの思い出を胸に抱き、タイトルを獲得した。

「分かってる、分かってるよ」と彼は言う。「ものすごく皮肉な事だ。僕はテニスコート上で、誰よりもいろいろな事を見せてきたんだからね。泣いたり、吐いたり。説明なんてできない。僕は心理学者じゃない」

しかし、それらのエピソードはサンプラスを開放的にしなかった。もし何かあるなら、彼をいっそう閉鎖的にした。人々が自分を理解する、あるいはより好きになるために悲劇が必要だなんて、何かが根本的に間違っていると感じた。

彼はメルボルンでの号泣にきまり悪い思いをし、彼がついに人間性を見せたという示唆には怒りを覚えた。彼は自分の不屈の精神と、プライバシーを保つ能力をいつも誇りに思ってきた。泣いたのはあまりにも個人的な事であった。

「みんなは僕がコート上ではロボットであると思い込んでいる」と彼はその後言った。「何人かの選手が『ピートも人間的だと知れて良かったよ』と言っていたのを聞いたが、僕はそれを侮辱だと受け止めた。僕はみんなと同じくらい人間的だよ」

マスコミもまた、彼の人生を厄介なものにしてきた。1995年に3年連続でウインブルドンの栄冠を獲得するまで、サンプラスはロンドンのタブロイド紙からひどい非難を浴びてきた。それらは「WIMBLE-YAWN(あくび)」「SAMPRAZZZZZ」といった見出しで彼を侮辱した。しかし「Three-Pete」の後には、突然イギリスじゅうで称賛の的になった。そして彼がしたのは、勝ち続ける事だけであった。

「優勝した最初の年、僕は退屈という事だった」と彼は言う。「優勝した2年目、僕はやっぱり退屈という事だった。そして3年目に優勝すると、僕は最高という事になった。そして僕はと言えば、何1つ変えていなかった。1つとして」

しかし最近、勝利だけでは恐らく充分ではないという事を彼は認め始めた。サンプラスの態度は微妙に、徐々にうちとけてきた。昨年11月、ドイツのハノーバーで行われた年末選手権では、1位を追い求める苦しみの間でさえ、彼はまだ有無を言わせぬチャンピオンではないという無遠慮な示唆に対処していた。彼が記録を破ろうという大会に、アメリカのジャーナリストは誰も来ていなかった。

「ガッカリした」とサンプラスは言う。「マクガイアと(サミー)ソーサの競争ほど歴史的ではないにしても、僕は二度と起こらないかもしれない事をしていると感じていた。これはそういう範疇の事だ。そして僕は考えていた。それは僕のせいなのか、マーケティングのせいなのか、メディアのせいなのか? つまり、僕には分からない。恐らく全てが少しずつ関わっての事だろう。僕はいつも非常にプライベートな人間できたし、あまり多くの事をしたいとは思わない。でも来年は、しなければならないと思っている」

「僕はキャリアを通して、誰もゲームを見ていない、視聴率が低いという事を耳にし続けてきた。そして僕はその事について、あまり多くの事をしなかった。しかし今後2〜3年、僕は徐々にもっと露出していくだろうと思う。もっとマスコミや公の場所に現れたり、トークショーに出演しなければならないように感じている」

彼は言葉を切り、皮肉っぽい表情を浮かべる。「この数年で僕は大いに変わったからね。そうだろ? かなり開けっぴろげになった」



真にサンプラスを作り上げた男に会った事のある者は、テニス界に殆どいない。それは彼の父親、サム・サンプラスであろう。カリフォルニア州パロス・ヴェルデスに住む退職したエンジニアだが、インタビューを断り、稀に大会を見にくる時には、彼と妻のジョージアはカメラに映らない席に座る。彼の心配性は有名である。息子がプレーする時、全く見ている事ができないのだ。

サンプラスが子供の頃、サムは彼を大会へ連れて行き、車から降ろした。子供はコートへと歩いていき、父親に手を振った。サムは手を挙げて応え、それから背を向けて立ち去ったものだった。恐ろしくて見守っていられなかったのだ。

「僕は、この小さな11歳の子供は、年長の子供たちと対戦し、独りぽっちだと感じていた」とサンプラスは言う。「僕が感じたものは孤独だった。まあ、いささか話が重くなってきたかな。だが多分、そこで僕は独立心と、コート上での有りようを身に付けたのだろう。僕は1人でコートにいた。父親はいつも散歩に行っていたからね」

同じ年、サンプラスがロサンジェルスのシュリーブポートで14歳以下の大会に出場した時、名声の気まぐれさについて、サム・サンプラスは息子に教訓を与えた。サンプラスがデビッド・ウィートン、当時の最もホットなジュニアの1人を打ち負かした後、大勢の群衆から称賛された。「シュリーブポート・タイムズ」のレポーターから、初めてのインタビューを受けた。彼は大試合に勝ち、そして突然、もはや独りぽっちではなかった。

次の日、サンプラスは1-6、1-6でマリバイ・ワシントンに負けた。試合が終わり、彼はコートサイドに座ってガックリしていた。荷物をバッグに詰めていると、父親がやって来た。

「ピート、あそこをご覧。あれをご覧」と彼は言った。同じレポーターがワシントンにインタビューしていた。「そういう事なんだ」

彼の子供時代を通じて、同じテーマが教え込まれた:勝利はお前を優れた人間にはしない。人気は、通り過ぎる一時的なものである。

サム・サンプラスは、テニスの進歩に対してどれだけ費用がかかるかをピートに明らかにした。また経済面だけでなく、時間的拘束やストレス、天才児を育てる一方で他の3人の兄弟にも充分にしてやる苦労に関しても明らかにした。「父は、それ(息子のテニスの才能を伸ばす事)は価値があるのかと疑問に思った時もあった」とサンプラスは言う。

スター扱いされそうになると、息子は常に父親から次のアドバイスを受けた:「ピート、マスコミには幸運だったとだけ言いなさい」

ともかく、サム・サンプラスは横柄なテニス・パパになる事なく、なんとかピートを保護してきた。そして息子がフィッシャーという助言者を見いだした後は、サンプラス氏は進んで身を退いた。

「父は僕にチャンスをくれた」とサンプラスは言う。「そして僕はいつもその事を感謝するだろう。そうするには、とてつもない人格を要する。誰かにテニスを託すために、いわば息子を手放すようなものだからね。父は全てのレッスン料を支払ってくれた。しかし身を退く事を選んだんだ」

サム&ジョージア・サンプラス夫妻が、息子のプレーを生で見た唯一のグランドスラム決勝戦は、1992年USオープンであった。そしてその時、彼はステファン・エドバーグに4セットの辛い敗戦を喫した。

「それは修正される必要がある」とサンプラスは言う。彼は両親に、いつか彼が勝つ決勝戦に臨む事を希望している。

だがウインブルドン決勝に達するたびに、サンプラスは同じ電話をする。パロス・ヴェルデスに電話をかけ、飛行機でロンドンまで見にきてくれるよう両親に頼む。「なぜ来てくれないの?」と彼は尋ねる。

毎回、同じ答えを受け取る。サム・サンプラスはあまりに心配で、あるいはあまりにも迷信深いか、あまりに控えめなため、来られないのだ。彼は息子の邪魔になるだろうと考える。「ああ、ピート、お前はよくやっているよ」と彼は言う。

サンプラスはツアーを回っている時には、週に3〜4回両親と電話で話をするが、最近になればなるほど、彼らにコートサイドにいてほしいと感じている。

「この2〜3年、僕は彼らと一緒にいられなかった事を寂しく感じている」と彼は言う。サンプラスがゲルレイティスとガリクソンを喪った辛い2年の間、ピートと父親は特に近い関係になった。ガリクソンの葬儀の後、サンプラスは父親と長い会話をした。ピートは考え得る最悪の札を配られたと感じていた。たいていは孤独だった青春期の後、彼はついに仲間に出会った---そして奪われた。

サム・サンプラスは共感してくれた。彼は母親と2人の姉妹を乳ガンで喪っていた。彼は息子に「お前は自分がそれをやり過ごせるとは思わないだろう。でもお前はそうするんだよ」と言った。サンプラスに彼が幸運で、他の人たちが羨むようなキャリアと果報を持っている事を思い出させた。「これが人生だ」と彼は言った。「そしてお前はただ、対処する方法を見いださなければならないんだよ」

それから彼は、かつて11歳の息子に話して聞かせた事を繰り返した。「そういう事なんだよ」と彼は言った。



サンプラスは自分がより前の時代、そして多分異なった国:オーストラリアにいたら、もっと心地よかったであろうと、心から信じている。彼は少年時代、レーバーやエマーソン、ケン・ローズウォールのフィルムを繰り返し繰り返し見て過ごした。長い、滑らかなストロークは、彼らに触発されたものである。

彼はその礼儀正しい、寡黙な世代に親近感を感じてきた。彼らはネット際であっさり握手をするだけの男たち、決して自分の怪我についてあれこれ言ったりせず、沈黙がスポーツマンらしい態度としていた男たちであった。そのオーストラリア人達にとっては、優雅に膝を曲げたテニスのストロークそれ自体が自己表現であった。サンプラスにとってもまた、その通りである。

「僕が我慢できない事は何か分かる?」とサンプラスは言う。「軽率にまくしたてる人達だ」

彼は一度レーバーとテニスをした。あまりに素晴らしく純粋な経験だったので、その思い出は色鮮やかな形でサンプラスの心に焼き付いている。それは1994年ウインブルドンでの、おとぎ話のような6月の午後であった。

大会開始の数日前で、会場にはごく少数の会員しかいなかった。咲き誇るバラのつるは、親愛の情を表すかのようにオール・イングランド・クラブのフェンスに絡まり、芝のコートは特に青々と豊かに思われた。その美しさを愛でるため、会場内を散歩せずにはいられなかった。

サンプラスはまさにそうしていた。練習後に外のコートを歩き回っていると、レーバーとフレッド・ストールがヒッティングをし、それをローズウォールが見ているところに出くわした。その日は太陽が光り輝いていたが、彼らの白いテニスウェアには敵わなかった。

サンプラスは立ち止まり、じっと見つめた。彼の口は少し開き、レーバー、新たにペイントされた垣根と同じくらいクリーンなストロークを持つ、小柄でこざっぱりした男に見とれていた。

ストールは、サンプラスが憧れの眼差しでレーバーを見つめているのに気付いた。「ラケットをお取り、ピート」とストールが言った。

サンプラスは戸惑うように自分の服をちらっと見た:グレーのTシャツにチェック柄のバギーショーツ、ソックスなしでデッキシューズを履いていた。「おいで」とストールが促した。

「なんて素晴らしいんだ」サンプラスは言った。「少し打ち合わなくっちゃ」彼はバッグからラケットを取り出し、大股でコートに入っていった。「僕はクラブの規則を全て破っている」

「かまいませんか?」と彼が尋ねると、「こちらこそ大いなる光栄だよ」とローズウォールが口を利いた。彼は加わった。

その時、クラブの役員である1人の紳士がやって来た。彼はその光景とコート上の男たち---レーバー、ローズウォール、ストールは文句のない白いウェアで、サンプラスはだらしない服装---を見渡した。

たとえ服装規定に引っかかろうが、サンプラスにこの機会を取り逃がす事はできなかった。「お願いです」と彼は役員に言った。「史上最高のプレーヤーが3人もいるんです」

4人はその男がサンプラスを止めるかどうか見守った。「けっこう」少し後に彼は言い、続けなさいというジェスチャーをして規則破りの男に背を向けた。「私はオフィスに戻るとするか」

30分間、サンプラスは殆ど口を利かずに、3人の偉大なオーストラリア人とラリーをした。彼はランニング・フォアハンドのウィニング・ショットを打った。「お見事」とレーバーが静かに、称賛するように言った。

サンプラスをのっぴきならなくする、捻りの利いたバックハンド・スライスをローズウォールが打つと、ストールは若者にコーチした:「肘を上げなさい、こうだ」そしてサンプラスは深い、回転するバックハンドを打った。

「この若者は覚えが早い」ストールが感心するように言った。

サンプラスはネットに詰めた。ローズウォールは鋭い、コンパクトなバックハンドで彼を抜いた。「ジーザス」サンプラスは言った。

次にサンプラスがネットを試みた時、ローズウォールはアレー沿いに柔らかいスライスのバックハンド・パスを打った。「いただきだ」とサンプラスが言った。

その後、彼らはコートサイドで椅子を囲んだ。サンプラスはかつての日々について、3人にあれこれ質問を始めた。「試合の前には何を食べたのですか?」とレーバーに尋ねた。

「ウインブルドン決勝の前には、私はオーストラリア式朝食:ステーキと卵を食べたよ」とレーバーは言った。サンプラスはちょっとビックリして眉を上げた。

質問は続いた。1年に何大会くらい出場したのか? ラケットのテンションはどのくらいだったか? レーバーはサンプラスに、かつて試合の前にファンへのサインを断った逸話を聞かせた。断られたファンは激怒し、レーバーのテニスシューズからラベルをむしり取ったのだった。意味するところは明白であった:サンプラスは皆を喜ばせられる訳ではない。それなら自分自身に忠実である方が良いだろうという事だ。

やがてサンプラスの好奇心は満たされ、握手をして彼らは別れた。彼は日の降り注ぐ近くのベンチに座り、この出会いについて深く考えた。「彼らとボールを打ち合うだけで、僕の手をいい感触にしてくれた」と彼は言った。「僕たちはほんの少しずつお互いを見せ合ったように感じた。僕は何ができるかを披露し、彼らは僕に何ができるかを披露してくれた」

それは今日までサンプラスにとって唯一の、レーバーとの長時間の邂逅であった。その後の数年間、彼らはただ握手するか、あるいは電話で短い話をするだけだった。昨年の夏、レーバーが心臓発作に見舞われた時、サンプラスは彼に回復を祈ると電話をした。レーバーはしばしば、できる限りサンプラスの試合を見ていると発言してきた。しかしまた彼らの間には、長い沈黙の期間がある。それは気楽な会話ではない。両者ともあまりにシャイで、あまりに控えめなため、躊躇なくもう一方を会話に引き込んだりできないのだ。

例えば、グランドスラム記録を破りたいというサンプラスの大望について、彼らは一度も話し合った事がない。「恐らく僕たちは決して話さないだろう」と彼は言う。「それは奇妙な事だ。僕たちは共に承知しているが、僕たちの性格はとても似ているので、その事については決して話さないといった感じだ。決してしないだろう。つまり彼は、ぐるりと首を巡らして彼が見えた時、僕が『この人こそ男だ』と言う恐らく唯一の人だ。彼は多分、自分が僕のアイドルであるという事実に居心地が良くないだろう。僕は彼について話し、彼は僕について話をしてきた。そして実際に対面して話をするよりも、むしろ書かれたものを通して、お互いについてもっと知るかのようだ」

レーバーはサンプラスが「アンタッチャブル」と呼ぶ、選り抜きのグループの中にいる。特別なカテゴリーのアスリートから成る、品位のオーラを纏った「殿堂入り」の人々である。その地位に値する他の人達はマイケル・ジョーダン、ウェイン・グレツキー、そしてレイカーズの偉人でバスケットボール事業団の現副会長テリー・ウェストである。ウェストはサンプラスのゴルフ仲間になっている。

彼のリストから明らかに抜けているのは、前の世代における2人の1位のアメリカ人テニスプレーヤー、マッケンローとジミー・コナーズである。彼らは2人とも、激しさやファンサービスが欠けているとサンプラスを非難してきた。


「この数年、以前の選手たちがポンポンまくし立てるのを聞いてきた」と彼は言う。「しかしレーバーあるいはローズウォールが、今日の選手たちについてナンセンスな話をするのを一度も聞いた事がない。そしてそれは、僕もそのようでありたいと望むものだ。僕にとっては、それがアンタッチャブルだ。自分は偉大だと言う必要なく、自分が素晴らしい事を知っている人達」

稀にレーバーがサンプラスについて公に語る時、彼は「まくし立てない」。その代わりに、彼らしい簡潔な賛辞を述べる。「ピートは最も必要な時に、自分のベストのテニスを呼び出す能力を持っている」とレーバーは言う。「それは偉大な者がする事である」



サンプラスは己の内に、 未だに悔い改めない「怠け者」を潜ませている。オーストラリアン・オープンをサボった間、彼はラケットを殆ど見る事さえなかった。大半の時間はゴルフコースにいて、ある週末にはペブル・ビーチ、サイプレス・ポイント、スパイグラス・ヒルを回ったりしていた。エフゲニー・カフェルニコフがオーストラリアで優勝し、出場しなかったサンプラスの気前の良さに感謝していた時でさえ、彼はカリフォルニア州のラ・キンタで行われた、プロ&有名人ゴルフ大会「ボブ・ホープ・クライスラー・クラシック」でティーアップしていた。

しかしサンプラスの欠場は、一時的な燃え尽き症候群でも、あるいは思春期後の反抗でも、ただ怠惰に身を任せたものでもなかった。欠場する事によって、我々が未だ完全には気付いていない事を、サンプラスは認識していた:彼はテニスのベテラン世代に入ってきているという事。

サンプラスは8月で28歳になるが、自分のゲームを護ろうとしていたのである。彼は10週間の休み(高校以来、競技テニスから離れた最長期間)を取った。それは、近代テニスでは事実上誰もしなかった事---30代でグランドスラム優勝を競う---をしたいと望んでいるからだ。

ボルグ、マッケンロー、マッツ・ヴィランデルが最後のスラム優勝をしたのは、全員25歳の時であった。エドバーグは26歳。ボリス・ベッカーは28歳。イワン・レンドルは29歳。不老のコナーズでさえ、1983年USオープンで最後のタイトルを獲得したのは31歳であった。サンプラスは最後のグランドスラム・トロフィーを掲げる時、彼らの誰よりも年長でありたいと望んでいる。


サンプラスがメルボルンへの24時間のフライトをやめたもう1つの理由は、この時点では、もう1つのオーストラリアン・オープン・タイトルを必要としていないからであった。彼が本当に欲しいのは、未だに欠けているもの:フレンチ・オープンである。それが休暇を取った理由である。そしてそれが、休止期間が終わった時、空っぽの部屋の1つにジム設備を備え、コーチのアナコーンを呼び寄せ、熱烈にトレーニングを始めた理由である。

「私がこの5年間に見てきたより、彼は今さらにハードにトレーニングしている」とアナコーンは言う。「ピートには得体の知れないところがある。彼が何をしているのか、あるいはその理由を人々は理解しない。しかし彼は今後の数年間、何を欲しているかについて、極めて明確なビジョンを持っている。それは非常にシンプルだ。彼はフレンチで優勝したいと望んでいる。そしてグランドスラム記録を破りたいと望んでいる」

前者は簡単には達成されないであろう。クレーはサンプラスのゲーム、あるいは彼の疑わしいフィットネス・レベルに決して適していなかった。彼はローラン・ギャロスにおける9回の試みで、1回準決勝に到達しただけだ。そして3回の5セットマッチをくぐり抜けた後、極度に疲れ切り、カフェルニコフにあっさりと敗退した。

しかしサンプラスが健康を保つと想定すれば、グランドスラム新記録はまず確実に彼のものになるであろう。たとえ全盛期を過ぎているとしても、サンプラス、テニス界で抜群の芝プレーヤーは、6年間で5つ獲得したウインブルドンの栄冠に、さらに追加する事が運命づけられているように見える。記録は「僕に続けさせるだろうものだ」と彼は言う。

ラフターは最近、サンプラスにさらなるモチベーションを提供してきた。彼は2年連続USオープン優勝を勝ち取り、そしてそれにより、歴史へのサンプラスの突撃を延期させた。

昨年8月にラフターがシンシナティで彼を負かした時、普段は冷静なサンプラスがぶっきらぼうになった。彼とラフターの相違について尋ねられ、「10個のグランドスラム」と切り返したのだ。しかしUSオープン準決勝でオーストラリア人に再び負けた後、サンプラスは無造作に声明を修正した。「今は9個だ」と言った。彼はラフターが近づくのを望んでいない。

「率直に言って、彼がオープンのトロフィーを掲げているのを見ると、不機嫌になるよ」とサンプラスは言う。「それは僕であるべきだというように感じるんだ」

引退する前にそうありたいとサンプラスが望むものが幾つかある。もっとゴルフをしたい。もっと両親と一緒に過ごしたい。そして最終的に、彼が目指しているもの:今までで最高のテニスプレーヤーとして認められたい。

「僕は自分が偉大だとは言わない」と彼は言う。「でも、たとえ言わないにしても、心の奥深くでどう感じるか分かっている。僕はここに座って、自分が史上最高だなんて決して言わない。それは僕の性格とは相容れない。でもこう言うだろう。もし素晴らしいプレーをした後、あるいは素晴らしい練習セッションの後でコートを去る時、そんな時には、僕はゲームをマスターしたように感じる」

おざなりの評論家は決して完全には、サンプラスの真価を認識できないのかもしれない。恐らく、彼がどれほど優れているか本当に分かっている唯一の人たちは、他のアンタッチャブルだろう。サンプラスはあまりにも簡単そうに見せる。サーブする時、彼の腕は結び目付きのロープのようである。彼のグラウンドストロークは、あやまたない自然さで展開する。彼のフットワークはとても効率的で、素速さは略奪者のようなので、ポイント、試合、そして大会全体さえも、催眠術のようなリズムで通り過ぎる。彼のゲームが努力の賜物であるという事実は、いつも元気のない無関心そうなボディ・ランゲージ、うなだれた寡黙な肩などのせいで、見過ごされる傾向にある。彼は自身の偉大さを省略しているのだ。

しかしたとえ充分に彼を評価できないとしても、少なくとも彼をもう少し良く知ろうとする事はできる。「僕はトークショーの王様に変身したりはしないよ」と彼は言う。しかし少し後に、言葉を和らげる。「でも僕は人々に、僕が気に懸けているという事を示したいと思っている。僕は皆と同じくらい気に懸けているよ」

その言葉と共に、サンプラスはさよならを言い、彼の隠れ家に引き返し、そしてドアを閉じる。



この号の「TENNIS」表紙には「Pete Sampras --- Portrait of a Pissed-off Champion(不機嫌なチャンピオンの肖像)」と見出しが付けられ、物議を醸しました。ピート自身も「いかにも売らんかなの見出しで、残念だ。僕は不機嫌なんかじゃない。内容も僕が話した事を反映していなかったし、評価していない」と語っていました。

筆者のサリー・ジェンキンズは、いささかうがった見方・表現をする傾向があり、それ故の「脚色」も多分にあるかと思いますが、一方でsamprasfanzの女性ファンからは「胸にキュ〜ンとくる内容だった。ジェンキンズはピートに恋しているに違いない!」なんて感想もあり、ま、受け止め方は人それぞれって事でしょうか。

<参考:サリー・ジェンキンズの記事>
スポーツ・イラストレイテッド 1993年7月12日号
「4日のロケット」

スポーツ・イラストレイテッド
 1994年2月7日号
「グランド・スラミングス」

スポーツ・イラストレイテッド 1994年9月5日号
「ナチュラル・ボーン・キラー---生まれついての殺し屋」

スポーツ・イラストレイテッド
 1995年7月17日号
「素晴らしい勝利」

ワシントン・ポスト
 2003年8月25日
「偉大な人物が上品に去る、彼ならではの流儀で」