GQ
1998年8月号
グランド・スラム
文:Devin Friedman
写真:Dewey Nicks


ミラノからパリ、ニューヨークまで、季節最上の装いは、
クラシックの1つ上を行く。ピート・サンプラスが
長所を引き立たせて着こなす


グレー・フランネル
ただ素晴らしい。明るいグレーと最新流行のブレンドが、このクラシックを非常にクールにする --- 文字どおり、そしてスタイル的に。

ウール/コットン/ポリウレタン混紡の3つボタン、センターベンツ・スーツ:1,595ドル。ドナ・キャラン・コレクション。ナイキ・コットンポロ:40ドル。革の編み上げ靴:295ドル。ブルーノ・マグリ。ピート自身のウィルソン・ラケット。


遅刻、特に自分のものは、ピート・サンプラスの心をかき乱す不完全さの1つである(他に不適当な睡眠の環境、そぐわないシューズ、あるまじきラケットの状態などがある)。そしてピートは午前10時からの、LGE スポーツ科学センターでの練習に遅れている。つまり、どこにいるにせよ、彼はおそらく頭にきているだろう。

だが、他の者は気にならないようだ。日焼けした腹をこすりながら床に寝そべっている4人のテニス・ガイは、特に心配な様子も見せず、はっきりしないヨーロッパのアクセントで喋っている。ピートのトレーナーであるパット・エチェベリーは椅子に寄りかかり、昼食を鶏にするか魚にするか、熱心に考えている。

ジム・クーリエが練習コートから汗まみれで戻ってくる。4人の男たちは気だるげな様子のまま「やあ、ジーム」と声をかける。ジムはこの男たちを知っているが、名前は覚えていないようだ。彼らがここでトレーニングしているのかどうか、誰もよく知らない。いずれにせよ大した問題ではない。

パットとジムはスケジュールについて話し合っているようだが、ハッキリとはしない(パットはチリ出身で、ケンタッキーの奥地で英語を学んだのだ)。それからジムは「さよなら、 ジーム」のコーラスに送られ、300ヤードのドライブでオーランドの輝きの中へ帰っていく。そこにはゲート付き居住区画と手入れの行き届いた草地があり、好きに土曜日を過ごせるのだ。

数分の間、 LGE はテニススター不在となる。かいつまんで言えば、スポーツ界が感じるであろう空虚さを警告している。もし今春と同様にピート・サンプラスが ATP ランキング・ポイントを大量に失い続け(数日前、彼はマルセロ・リオスという名のポニーテールのチリ人に、ナンバー1の座を奪われた)、下位あるいは2ケタ台まで姿を消すならば。

10時35分、ピートが入ってくる。集団が「やあ、ピート」と声をかけ(ピートという単語は誰にでも発音可能だ)、ピートは「やあ、みんな」と言う。クーリエと同じく、親しげだが名前は覚えていないようだ。

35分の遅刻だが、ピートに慌てた様子はない。これには1つないし3つの理由が考えられる。(1)ピートは心配事を内に秘める傾向がある。数年前に胃潰瘍ができたのも、そのためだ。

(2)ピートのデフォルト表現は、ジャック・ニコルソン的なニヤニヤ笑いで、足の治療に悩まされている時でさえ、薬に満足しているように見せる。

(3)椅子によりかかっているパット・エチェベリーは、これまでテニスに関する問題の解決法を見出してきたとピートは考えている。

「さて」と、ピートはアンドレ・アガシのより少し大きなテニスバッグを肩から下ろし、宣言する。「僕はいま、正式にオーランドの住民だ。君のなすがままだよ、パット」

ナイス・ライン
これはより優しげで、緩やかなピンストライプだ。ネクタイ会社よりTシャツ会社にふさわしい。

ストレッチ・ウールのピンストライプ3つボタンスーツ:2,600ドル。シルクの丸首セーター:740ドル。共にジョルジオ・アルマーニ。

ピートは家を購入する手続きのために遅れたのだ。その家は5,300平方フィートの広さで、 LGE のような郊外型レジャー・スポーツ施設内の、ジム・クーリエと同じゲート付き分譲地にある(隣人にはゴルファーのアーニー・エルス、フットボール選手のジム Harbaugh、気むずかし屋のコーチ、ルー・ホルツ等がいる。いまのところ、ニックが留守の間 --- 彼はマーク・オメーラにマスターズで敗れた ---、ピートはニック・ファルドの家に滞在している)。

タンパで8年暮らした後、ピートはパット・エチェベリー --- 剛毛で厚い胸板の超人的トレーナー --- を追って、この地へ移ろうとしている。彼は90年代初期にピートを鍛えたが、ピートは彼をもう必要としないと判断したのだ。いまはそれを思い上がりだったと考えているが。

「最近、時に……」と、ピートは練習の後に説明する。「つまり、僕はグランドスラムで勝ってきたし、いまでも世界ナンバー1かそこらだけど、もしかしたら……燃え尽きたとは言いたくない。時に体調がいまひとつだったのかもしれない。いろいろな事が起こった」


気さくなツイード
ラルフは3つボタンのジャケットとノータック・パンツで、この学者風スタンダード商品を今風にした。我々はさらに1歩進め、蝶ネクタイをやめてオープン・シャツ、黒い V-ネック・ヴェストを加える。

ラムウールの杉綾織りセンターベンツ・スーツ:995ドル。コットンシャツ:60ドル。カシミヤヴェスト:335ドル。すべてポロ/ラルフ・ローレン。ソックス:ポロ/ラルフ・ローレン靴下。革の編み上げ靴:495ドル。ラルフ・ローレン・フットウェア。
ピートとパットには、それ以上の出来事をぜひ防止してほしいものだ。なぜならピートの後には、名前も発音できない、このジムにいるような選手たちしかいないからだ。

彼らの誰も、Jud Buechler がマイケル・ジョーダンに取って代わったほど有効には、ピート・サンプラスに取って代われそうもないからだ。

テニス界は再び、80年代後期にかいま見た、暗い状況へと落ち込むかもしれない。あの時代、 ステファン・エドバーグやマッツ・ビランデルといった男たちが、誰がより着実に我々を退屈させられか知るために戦っていたのだ。

ピート・サンプラスが大人しくそんな2週間の一員とならないよう、我々は願わなくてはいけない。

ピートは残りのキャリアの初日を始めるため、練習コートへと向かう。パットは腰に手を当てながらオフィスから出てきて、不明瞭ではあるが、何か深遠な意味のあるらしき事を怒鳴る。

ピートは笑って頷き、グルーチョ・マルクスのような太い眉を上げる。そして首を振る。

「パット」と、彼は練習コートへと向かいながら言う。「何を言ったのか、ちっとも分からないよ」


「おお、ピートは長い髪が好きだ」と、ピートのエージェントであるジェフ・シュワルツが大声で言う。2人組ポリス映画の初台詞のように。「そうだろ、ピート?」

「ああ」と彼は言う。「特にチビな若造のがね」

自宅を購入した翌日、ピートとジェフはマルセロ・リオスのポニーテールについて話し合っているのだ。ピートがこれまで練習してきたタンパのサドルブルック・リゾートを歩きながら、彼らは愉快そうに鼻を鳴らし、植込みにつばを吐き散らす。

ピートがバスルームにいる間に、ジェフは言う。「おそらくピートには、ハッパをかけるものが必要だったのだ。ちょっとばかり自己満足に陥るのは、人間の性だからね」

ピートの102週連続ナンバー1在位が終わりを迎え、ジェフはより大きい全体像を捉える事ができる。それは、彼がリオスのエージェントでもあるからかもしれない。

だが、ジェフは核心を突いている。26歳にして、ピート・サンプラスは史上最高のテニス選手であろうとされている。我々もまたこの事について、少しばかり独りよがりになっていた。

我々は彼が舌を出しすぎるとか、毛深すぎるとか、フジツボみたいに1位の座から離れないとか、審判につばを吐かないとか、あるいは AK-47 ライフルを車のグローブボックスにしまってないとか、年とった「イェンテル」のスター(訳注:バーブラ・ストライサンド)に向けてセンターコートで投げキッスしないとかいう事ばかりを気にしている。

アメリカがかつて最もピート・サンプラスに惜しみない注目を払ったのは、1996年だった。その時も、彼の胃の中身はテクニカラーで放送されたのに、彼がUSオープンで優勝した時はゴミ箱行き扱いだったのだ。

だから、もしピート・サンプラスの偉大さに我々が興奮するためには、チリの小人(リオスは5フィート9インチである)への巻き返しを図るドラマチックな2週間が必要だというのなら、それでよろしい。

もしピートが今年もナンバー1で終わると、5年連続だったジミー・コナーズの記録を破る事になる。

冬の白
黒いバイクショーツでトレーニングを始める前に、テニスをする紳士はシンプル、かつエレガントに装う……このように。

カシミヤ・ボートネック・セーター:1,095ドル。綿/ナイロン混紡のノータック・パンツ:350ドル。共にマーク・ジェイコブス。ソックス:ドレ-ドレ。ナイキ・スニーカー:90ドル。

この記録を破る事と、競技者の不滅の敷居をまたぐ事は、ピートが独りで(彼のために働く人々を除くと、フロリダには友人がほとんどいない)衛星テレビの300チャンネルでスポーツ・ハイライトをさっと見渡しながら(それが彼の余暇の大かたを過ごす方法である)、深夜ベッドに入る前に(彼はいつも遅くまで起きている)考える事である。

そして塀に囲われた家の奥深くで、もし統計上で無比のパンテオンに入る権利を手に入れたら、起こるかもしれない事をピートは想像する。連続出場2,131日目に球場でカル・リプケン・ジュニアを迎えた愛情の爆発を。混沌(遅刻、痛む足、チリの若造によるまぐれの勝利などなど)は、もはや彼に手を出せないであろう様を。

彼はついに、現実によって汚される事のない何かを持つであろう。そしてその時、おそらく、ピートは安らぐ事ができるのだろう。


あらゆる肉体がプロの運動競技に適応してきたように、ピート・サンプラスの身体には敏感な汗腺がある。だから、オーランドの練習コートはたった(華氏)60度なのに、シャツを湿らせるのにピートはおよそ37秒しかかからない。

彼は練習パートナーであるサルジス・サルグシアンという名前の、背の低い顎髭のアルメニア人と、まずベースラインでの打ち合いから始める。サルジスの兄(弟?)によれば、4月この日の時点でサルグシアンは74位である。ポール・ハーヒュースとフアン・アルベルト・ヴィロカの間で、名前を認知されるには、まさに百万マイルの位置にいる。

腹をこすっていた1人、銀色のラップラウンド・サングラスをかけた背の高いイタリア人の男が球出しをする。彼がここで働いているのかどうか、誰もよく知らない。

何回かのボレーの後、ピートはコート脇に小走りで戻り、バッグから他の6本のラケットを出して振る。

彼は常に、少なくとも7本のウィルソン・プロスタッフを持ってきている。ベータマックス・ビデオと同じくらい重く、技術的にも専門性を要するものだ。

彼は屈んで、リタリン(訳注:子供の運動過剰症の治療に用いる中枢神経刺激薬、塩酸メチルフェニデートの商品名)不足の幼稚園児のように、ラケットを次々に持ち替える。


シーリングコート
男はすべからく、カウボーイ気分になる1着を持つものだ。そしてシーリングコートは、テンガロンハットよりずっと実用的だ。

スエードのシーリングコート:3,035ドル。カシミヤ・タートルネック:280ドル。デニム・ジーンズ:210ドル。すべてグッチ。

イタリアン・レザー
大きくて恐しい、たちの悪い男どもが着そうな、ゴツくて恐ろしい、下品な革ジャンとは対照的だ。このコートは柔らかく、しなやかで、そして落ち着いた茶色で、とても感じがいい。

3つボタンの革コート:2,900ドル。ウールのクルーネック・セーター:600ドル。ウールのノータック・パンツ:500ドル。革のブーツ:525ドル。すべてベルサーチ。
互いに打ちつけたり、しばらく笑いかけたり、身につけるには長い時を要するであろう優雅なやり方で、何気なくラケットをくるくる回したりしている。その間、 サルジスは根気強く待っている。

ピートは優れたテニスを長い間してきて、ラケットとは一風変わったこだわりの関係を作り上げてきた。ピート使用のプロスタッフを生産してきたウィルソンが、カリブ海の工場を閉鎖して台湾に生産の拠点を移した時、ピートはトロピカル製(訳注:セント・ヴィンセント)のラケット100本以上を買いだめした。なぜなら、彼が言うには、相違を見分けられたからだ。

ピートのカリブ製プロスタッフのハンドルには、カスタム仕様のバット・キャップが装備されている。それは彼の特に低い握りに合わせて、やすりで削られている。それから薄い鉛のテープで覆われ、390グラムの重さになる。

また、他の選手はストリングスのテンションにおざなりだが、ピートはストリング・テンションに関してはカバラ主義者(訳注:神秘的哲学を持つ)である。

たとえば、クレーの時には33.5キロでガットを張り、気温が低いと33キロ、湿度が高いと34キロにする。彼はラケットを左の掌に軽く打ちつければ、テンションが1ないし2グラムずれているかどうかを言い当てられるのだ。

つまるところ、プロツアーの中で、ピートのプロスタッフはおそらく最も小さいヘッドで、ストリングスは最もきつく張られている(どんな隠喩的仮定でも勝手にやってくれ)。スイートスポットの大きさはフェース面積に比例し、テンションに反比例する。

したがって、ボールがネットを越えてきさえすれば、ゼリービーンズより僅かに大きいだけのエリアで、ボールを正確に真ん中で捕らえるよう、ピストル・ピートはポジション取りしなければならない。彼が大騒ぎもせずにこのポジションにつける事は、ピートに関する秘密の言葉の例証である。すなわち、彼はツアー最高の、生まれつきのアスリートなのである。


今日、ピートはパットと共に週6日間のトレーニングを始める。フレンチ・オープンは1カ月足らずに迫っている。ピートはフレンチで優勝した事がない。そして、パットの協力にもかかわらず、今年もさっさと負けるだろう。

ピートのゲームであるパワーテニスは決定的なサーブが要だが、クレーではより扱いやすくバウンドする。その上、クレーコートの試合に勝つ事が生計の唯一の手段である選手が、あそこにはどっさりいる。

「フレンチではどんなラウンドにも、誰を打ち負かす事も可能のスペイン人がいる」とジェフ・シュワルツは言う。

リリーフ・ピッチングや農業関連産業のように、テニスは取り分を区分けされている。この場合はサーフェスごとのスペシャリストたちに。

90年代にピートがしてきたようにゲームを支配する事の可能な人間は、誰も地平線に姿を現していない。たとえばリオスは、ハードコートでは有力者と見なされるが、カウンターパンチャーで、芝ではあまり効力がない。

「スポーツセンター」との関係について、ピートが他に考えるのは、何らかの「エピック・バトル」における次期マッケンロー、ボルグあるいはレーバーによってではなく、一連のマイナーな小ぜり合いにおけるマイナーな選手たちによって、彼は貶められるであろうという事だ。


ニュートラルな領域
さっぱりした単彩の見かけ上の、微妙なバリエーション:共にうまくやって行く、うまの合う色だ。

ウールの綾織り3つボタン、センターベンツ・スーツ:2,080ドル。綿/ポリアミド/エラスチン混紡シャツ:416ドル。ウール・タイ:105ドル。すべてジル・サンダー。

ダッフルコート
少年ぽいカジュアル・コートは、冬の風をさえぎる。あるいは交通を。

ウールのフード付きコート:1,400ドル。メリノ/カシミヤ混紡のタートルネック:850ドル。ウールの1タック・パンツ:350ドル。すべてジャンフランコ・フェレ。革の編み上げ靴:140ドル。ボストニアン。

スタイリング:Losi (ジョン・フリーダ・サロン)。
撮影場所:サドルブルック・リゾート&スパ。フロリダ州タンパ。
「僕は昨年ハノーバーにいた」と、ピートはウェイトルームに向かいながら話す。「見回して、多くの若い選手たちが出てきていると思った。テニスの新しい時代だ。いまは僕対若手だ。真のライバル関係の時代が恋しいよ」

LGE のフィットネス・バンガローの中で、ピートはテニスの新時代に向けてトレーニングを始める。1時間かけて次々とエクササイズ器機を渡り歩く。

たくさんのウェイト・トレーニング、ほんの少しのストレッチング --- ピートは「ストレッチあるいはヨガ、あるいはリベラルな民主党のざれ言のどれにも」与しない。

彼は一種のアスレチック・コーヒーテーブル上で、ステップを伴うエクササイズをする。それからウェイト・トレーニングに移る。

各セットの終わりで、ピートはダンベルを落とし、しかめっ面が鏡に映る。パットは肥大症の従者のように、静かに重りを代える。その間、彼は馬に囁くように、ピートの耳に決まり文句をもぐもぐ言う。「もっと高く挙げるんだ!」「おい、お前は一生ネコちゃんでいるつもりか?」

ウェイトの後は、StairMaster(訳注:エクササイズ・マシーンの1つ) でスプリントのシリーズだ。セットの間、ピートはブツブツ言う。「あと2回、2回だけ」と。だが2回よりはるかに多くが待っている。

パット・エチェベリーと StairMaster は、小物が群雄割拠するツアーに対抗する最後の砦なのだ。そのツアーは、のっぽのフランケンシュタイン、チェコのペトル・コルダがウインブルドンで勝ち、チビのチリ人マルセロ・リオスがUSオープンを支配し、あらゆるクレーコート大会でスペイン艦隊が棍棒で殴り合うような所だ。

ピートが備えているのは、名もなき(少なくとも発音的には)集団を受け止めていく1年、キャリアに向けてなのだ。大物が減少した事による最後の立場。この後、ATP ツアー・コンピュータの不可思議な論理のおかげで、ピートは1週間でナンバー1の座を取り戻す。キャリアで最も不名誉な敗戦を喫してさえ。そしてその1週間後にはアトランタで、キャリアでやっと3つ目のクレー大会優勝を遂げる。

彼はもう1ラウンド、スプリントをする。
「あと2回だけ」と、自分に言い聞かせる。「あと2回だけ」



「GQ」にピートのファッション・モデル写真が掲載されていると知った時の驚きたるや! 多分こんな事は最初で最後だろうと、すぐさま書店に走りましたとも。チラッと見ただけで嬉し恥ずかし(^^; 購入後すぐ喫茶店に飛び込み、心ゆくまで堪能したものでした。

添えられた記事は少々うがった見方で、鼻につく文体! ま、ファッション雑誌ですからね。大切なのはあくまでもピートの写真。私のお気に入りは、深い赤のダッフルコートのもの。はにかんだ笑顔で佇むピートの、なんと愛おしい事!

雑誌が発売された当時、その彼らしからぬ?行動の真意をメディアにも取り沙汰されましたが、ピートは「60年に一度くらいは、こういう事もしてみてもいいかと思っただけ」と、そっけないお答え。「ピートちゃん! そんなハレー彗星か阪神タイガースみたいな事言ってないで、もそっと女性ファンを喜ばせてちょうだ〜い!」なんて思ったものです。

その後、ここでのモデルぶりを認められたのか?、ピートはジョルジオ・アルマーニと非公式の契約を結び、プライベートではアルマーニを着るようになりました。結婚式のタキシード、引退セレモニーのスーツもアルマーニ。2000年の秋には、夫婦でアルマーニのパーティーにも出席していました。