アメリカ版テニス
1996年3月号
勝者がチャンピオンになる
文:John Feinstein


1995年初頭、テニス界は「ライバル関係」がトップ・ストーリーになる事を願っていた。ピート・サンプラス対アンドレ・アガシの関係が、テニスを救う事を。

12カ月以上が過ぎ、「ライバル関係」はいまだテレビ・コマーシャルの中で、起こるのを待っている。そういう時がなかったわけではない。偉大なというほどでもないが、優れた2回のグランドスラム決勝戦(オーストラリアンとUSオープン)があった。

また、両者は時に見事なテニスを見せ、1位の座は行ったり来たりした。だがボルグ/マッケンロー時代、あるいはマッケンロー/コナーズ時代、あるいはベッカー/エドバーグ時代にさえ、いまだほど遠かった。それは1996年、あるいはもっと遠い未来にやって来るのかもしれない。

しかし1995年は、我々に特別なものを与えてくれた。我々にチャンピオンを与えてくれた。ヒーローを与えてくれた。ピート・サンプラスを与えてくれた。

もしカル・リプケンがあのように注目すべきスタイルで、ルー・ゲーリッグの連続出場記録を破っていなかったら、サンプラスが「スポーツ・イラストレイテッド」誌の「今年のスポーツマン」に選ばれていたはずだ。

現役の男子テニス選手が、この賞の有力候補になった最後の時は、いつだっただろうか?

アーサー・アッシュは亡くなる前年、キャリア後の業績によりこの賞を受賞した。しかし最近のテニス界1位の選手たちは、いずれも候補にはなり得なかった。1人として、テニスをして金を儲ける機械以上の存在にはならなかった。

「ピートが成したのは、男子テニス界でアーサー以来、誰よりも見事にトップである事に対処してきたという事だわ」
1995年、近くから誰よりもよくサンプラスを見てきたマリー・カリロは言う。「テニスを切り離しても、彼はただ素晴らしい人間よ。彼は常にそうだった。違いは、現在は遙かに多くの人々が、それを知っているという事」

逆境は、常にヒロイズムの一部である。それは確かにアッシュの物語の一部であった。同じく、コート上であまり感情を見せないからと、若きアッシュがしばしば退屈とレッテルを貼られた事は何の意味もない。初めてスターとして登場した頃は、彼は物静かで、引っ込み思案でさえあった。彼がより雄弁に発言するようになったのは、キャリア終盤、そしてデビスカップ監督としてであった。

アッシュの記念碑的な業績と並ぶところまで、サンプラスが行く事はおそらくないだろう。ほとんど誰も、人生でそのレベルには到達しない。

しかし彼が成長し続けるのを見守るのは、魅惑的だ。昨年、初めて、彼は退屈ではないのだと人々は知った。彼には感情がある、強烈なサーブとスイート・スマイルを持つ単なる子供以上の存在であると知った。

サンプラスは1995年の間じゅう、彼のコーチ・友人であるティム・ガリクソンの病気と関わってきた。最も忘れがたいイメージは、オーストラリアでジム・クーリエに対し、準々決勝の第5セットを闘い抜くサンプラスの姿、彼の頬を流れる涙であった。

誰もがその試合、あるいは再放送を見た。その試合はサンプラスのイメージを永遠に変えた。もちろん、それは彼が予定していた事ではなかった。ほとんどすべての有名アスリートが、エージェントや靴会社にイメージ作りを頼る時代、サンプラスは人間性を見せる事で、彼のイメージを変えたのだ。

1995年の2番目に感動的な瞬間は、何百万もの人が見たわけではなかった。実際は、ほとんど誰も見なかった。それはラスベガスで行われたデビスカップ準決勝、対スウェーデンに勝利を確定した後の、無意味な最終シングルス試合での事だった。サンプラスが*ステファン・エドバーグと対戦した時、何ゲームかの間、トム・ガリクソンに代わってティム・ガリクソンが監督の椅子に座ったのだ。
訳注:実際はマッツ・ヴィランデル。

カリロは何が起こっているか気づき、言葉に詰まるほど感極まった。それがプロデューサーの注意を引き、トムの代わりにティムが座っている映像を撮られてしまったほどだった。

その年を通して、あらゆる感情的な激動を通して、サンプラスは --- 疑いなくアガシの挑戦を受け --- より優れたテニスプレーヤーになっていった。95年にはウインブルドンとUSオープンで優勝し、サンプラスは今や7つのグランドスラム・タイトルを獲得している。彼は8月には25歳になる。もし彼が健康なら --- それは常に大きな「もしも」だが --- 彼には、12の男子グランドスラム・シングルス・タイトルという、ロイ・エマーソンの持つ史上最多記録をしのぐ妥当なチャンスがある。
だが真に特別な存在になるためには、テニス選手は自身のデビスカップ記録を作り上げなければならない。サンプラスは昨年以前はそれを成していなかった。実際は、彼の最悪の思い出のいくつかは、デビスカップでのものだった。

昨年の決勝で合衆国がロシアと --- 遅い、赤いクレーの上で --- 対戦する事になった時、サンプラスが端役以上の存在になるとは思われなかった。

しかしその時、アガシの胸筋のケガという形で、運命が介入した。サンプラスは最も苦手なサーフェスに出陣し、最後にはケイレンで倒れながらも、初日にアンドレイ・チェスノコフを打ち破った。

彼は24時間も経たないうちに戻ってきて、トッド・マーチンとチームを組んでダブルスに勝利した。その日、彼がプレーするとは誰も予想していなかったのだ。そして日曜日には、動揺したエフゲニー・カフェルニコフを圧倒し、優勝を決めた。

特に今日では、勝者とチャンピオンの間には大きな相違がある。ディオン・サンダースは勝者であるかもしれないが、彼はチャンピオンではない。グレッグ・ノーマンは勝者だが、チャンピオンではない。マイク・タイソンは勝者だが、チャンピオンではない。

チャンピオンとは、容易でない時に勝利する者である。身体的技量だけでは足りない時にも、勝利を成し遂げる者である。リプケンはチャンピオンである。シュテフィ・グラフはチャンピオンである。ハキーム・オラジュワンはチャンピオンである。そして今や、サンプラスはチャンピオンである。

1995年以前、彼は勝者であった。しかしまだ次のステップへ進んでいなかった。まだその必然性がなかったからだ。1995年、彼には選択肢があった:人生が厳しくなって潰れるか、あるいは新しいレベルへと昇るか。

サンプラスは昇った。そうする事で、彼は1995年を我々の喝采に、そして我々の涙に値するテニス・イヤーとした。