テニスマガジン
1996年10月20日号
アングル・ショット
文:根本 晃一


今年最後のグランドスラム・イベント、USオープンは、ピート・サンプラスとシュテフィ・グラフの男女両第1シード、両ランキング・ナンバーワンプレーヤーの優勝で締めくくられた。ともに昨年に続く2連覇。サンプラスは4度目、グラフは実に5度目の栄冠だった。

サンプラスは今年唯一のグランドスム・タイトルを手にし、グラフは欠場したオーストラリアン・オープンを除く3冠を達成したわけだが、タイトルの数こそ違え、自らそれぞれ実力ナンバーワンをあらためて世にアピールしたばかりではなく、これは自らの意思は別として、王者、女王の称号がさらに確固たるもの、ふさわしいものとなったのが今回のUSオープンだったと私は思う。というのも今大会、ふたりはともに他のプレーヤーにはない、逆境ともいえる厳しい状況の中で2週間を戦い抜き、そして頂点に立ったからだ。

サンプラスは、5月に敬愛するコーチのティム・ガリクソンを亡くし、ショックのどん底に深く沈み込んだ。それほどガリクソンコーチはサンプラスにとって身近で必要不可欠な存在だったのだ、単なるコーチとプレーヤーという関係を超越した ---。しかし、サンプラスはその悲しみの淵から這い上がり、ふたたび戦い始めた。

フレンチでのチャンスを逃し、ウインブルドンの王座を他に譲りはしたが、最後の最後で大きなタイトルを手にすることができた。コート上に嘔吐し、意識が朦朧とするほどの肉体と精神の極限状態での厳しい戦いを切り抜け、ようやく辿り着いた先で手渡された優勝トロフィを掲げたその日は、奇しくも故・ガリクソンコーチの誕生日だった。

一方、グラフには、長年の肉体の酷使によって発生したケガの苦しみに加え、巨額の脱税の罪に問われる父親の問題があった。自分にテニスの手ほどきをしてくれた、血を分けた実の父親の、のっぴきならない窮地。しかも、よりにもよって、その公判は2週間に渡る自らの戦いがいよいよクライマックスを迎えるときに始まった。

気にならないわけはない。マスコミもかまびすしい。しかし、グラフはコートの上でただボールに集中し続けた。ひとりホテルの部屋にいるときはきっとざわついていた心をコートの上ではきっぱりと封じ込め、ライバルを倒して勝利を手にした瞬間には、眉間に現われていた探い苦悩は解き放たれ、そのあとにはこの上ない喜びの表情が姿を現したのだった。

亡きコーチの誕生日の勝利と、父親の公判開始から3日後の栄冠。人は、それをでき過ぎたシナリオと言うかもしれない。しかし、テニスの試合は、作られたドラマではない。勝った者が、結果的に最後で主役となる。周囲が勝手に期待して作り上げたシナリオ通りには事が運ばないことが多いのだが、ときに主役たるべき人間が、その通りに主役となることがある。

本来なら筋書などあるはずもない中で、周囲の思い描いた筋書き通りに事を進めることのできるその実力。その強運。それを兼ね備えたサンプラスとグラフには、だから「王者」と「女王」の称号がふさわしいと私は思うのだ。

サンプラスとグラフが初めてUSオープンのタイトルを取った頃、その称号はまだティーンエイジャーだった彼らには重すぎるものだった。90年、自ら曰く「カリフォルニアからやってきた若造」だったサンプラスは、プレーは驚くべきすばらしさだったが、トロフィを掲げるその姿はどこか場違いな感じで、頼りなげだった。

一方、グラフは88年、USオープン初タイトルによって年間グランドスラムを達成したのだったが、あまりの若さゆえか、苦労知らずのタイトル・コレクターにも見えた。だが、そんなふたりの80年代はもはや遙か遠く、長い年月を経て今、サンプラスとグラフは魅力あふれる成熟したテニスプレーヤーとなった。