テニスマッチ
1996年9/10月号
サンプラス、アガシ、チャン、クーリエ:みな成長してきた
文:Andrea Leand


ジュニア時代から良きライバル関係であった4人のアメリカン・ギャングは
90年代にプロテニスを支配してきたが、多くの点で共通点があり
--- そしてまた多くの点で非常に異なっている。


10年前、ジム・クーリエとマイケル・チャンは午前6時30分にはすでに起きていたが、ピート・サンプラスはまだベッドの中にいた。そしてアンドレ・アガシはその年、ジュニア・デビスカップのトレーニング・キャンプに参加していなかった。

いろいろな意味で、4人のオール・アメリカンのティーンエージャーたちが競い合い、ジュニアの大会あるいはテニス・アカデミーで一緒に騒いだ時から、大して変化はなかった。

クーリエとチャンはトップ10の順位を維持するために、何時間もの厳しい練習をいまでもしている。サンプラスは圧倒的な才能でツアーを支配している。そしてアガシは活躍しようがしまいが、最高の呼び物のままでいる。

しかしいま、10年間プロツアーで過ごし、4人の陽気な男たちは各々の個性と私生活を守り、それぞれの方向へ進もうとしてきた。しかし共有してきた経験により、彼らの人生は結びついてきた。

「ピートに関する最初の思い出は、彼は常に遅刻してきたという事だ」と、ジュニア・デビスカップの日々についてクーリエは回想する。

「彼は朝のランニングにも、練習にも遅刻してきた。彼が時間を守った唯一の事は食事だったね。我々がトラックでのドリルを終えた後、ピートはベッドから抜け出たばかりのような腫れぼったい目と眠そうな様子で現われたものだった。

しかし彼がそれらのドリルをしなったかどうかは重要ではなかった。なぜなら彼には才能があり、その他の事をしなくてもいいと知っていたから」

サンプラスが生まれつきの能力として持っていたものを、クーリエとチャンは意志の力で作り上げてきた。サンプラスはトレーニングに無頓着だったので、彼が自分の可能性に達するための情熱を持っているのかどうか、多くの者は疑問に感じていた。

クーリエとチャンがそれぞれの長所 --- マイケルのスピード、ジムの頑強さ --- を最大限まで強化してきた事には、誰も疑いを持たなかった。

しかしピートに関しては、それは別の物語であった。パズルのピースはすべてあった。しかしそれらを組み合わせる誰かを必要としていたのだ。

「ジムと僕は神が与えてくれたもので結果を得るために、おそらくよりハードに取り組まなければならなかったんだ」と、4人の中でいちばん年下のチャンは説明する。

「ピートとアンドレは、僕たちと同じくらいハードにやる必要を感じなかった。彼らは1日1時間ボールを打ち、それで充分だった。一方ジムと僕は日没までこつこつとボールを打っていた。神はテニスのために僕に速い足と心を与えたもうたが、僕はそれに感謝している」

アガシは子供の頃、父親が彼にニック・ボロテリー・テニス・アカデミーで暮らすのを許した事をありがたく思っていた。

父親の横柄な指導とは対照的に、ラスベガスから来たけばけばしい子供は、フロリダのニックの所では感情を発散する事ができた。たとえそれが何時間もテニスボールを打つ事を意味したとしても。

「アンドレの第一印象は覚えていない。彼の父親については1つある」と、同時期にボロテリー・アカデミーでトレーニングしていたクーリエは回想する。

「僕たちは共に14歳以下の大会に出場していた。そしてアンドレは準決勝に進出し、なにがしかのトロフィーを勝ち取った。僕が覚えているのは、アンドレの父親が彼からトロフィーを取り上げ、それをゴミ箱に投げ捨てるのを見た事だ。僕はそれが信じられなかった。いまでも信じられないよ」

クーリエは両親との親密な関係の中で成長した。母親は息子のテニスの上達において確かに重要な存在だった。しかし彼女はどこで親とコーチの間に線を引くべきか知っていた。

彼女は練習と試合に立ち会い、彼女の*最年長の子供の進歩を熱心に見守ってきた。彼らは緊密さを保っているが、最近はクーリエの親は大会に滅多についてこない。
訳注:実際はクーリエには姉と弟がいる。

一方チャンの母親は、いまでも彼のキャリアにおいて肝要な役割を果たしている。彼女はもう食事の用意はしないし、同僚の1人が述べたように「マイケルが練習の後に乾いた服を着ているかどうかチェックする」事はない。

しかし彼女と彼女の夫は、いちばん若い息子から離れる事は決してない。加えるに、マイケルの兄であるカールは、彼のコーチとしてフルタイムで共にツアーを回っている。

「ピートは、テニスに関わろうという燃えるような願望を両親が持っていない唯一の子であった」とニック・ボロテリーは論評する。彼はさまざまな機会に、彼のアカデミーにおいて各プレーヤーのホスト役を務めてきたのだ。

「ピートの親は、コーチのピート・フィッシャーに彼のテニスの上達を指導してもらう事に満足しているようだった。サンプラスとフィッシャーが時たまアカデミーでトレーニングをしに来た時、我々はコートを提供し、彼らは独自の事をしたものだった。とてもお粗末なメンテナンスだった」

若かりしアガシに対するボロテリーの印象は、彼は常に何らかの10代の混乱にいたという事であった。当時でさえアンドレにはきらめき・才能とカリスマ性があったが、同時に多くの情緒的問題を抱えていたとニックは言う。

「クーリエには何も問題はなかった」と、アガシとクーリエ両方を指導したボロテリーは述べる。「練習の後にドラムを叩かせておけば、ジムは機嫌が良かった。しかしアンドレには細心の維持管理が必要だった。いつも見守っていなければならず、24時間の仕事だった。

我々はあらゆるステージをくぐり抜けてきた:ケンカ、髪を染める事、耳にピアスの穴を開ける事。すべてだ。

アンドレの父親がいままでにした最良の事は、アンドレをアカデミーに連れてきた事だった。さもなくば、彼らは恐らく殺し合いをしただろう」

4人のそれぞれが、思春期の若者として異なった夢を持っていた。チャンは神の声をより身近に感じていた。アガシは父親から逃れる事を望んでいた。

クーリエは、彼自身の言葉で言えば「あらゆる少年たちが欲するもの --- ガールフレンドが欲しかった」と笑いながら言う。

そしてサンプラスは、そう、彼はウインブルドンで優勝する事を望む者であった。

「ピートは常に大きな夢を抱いていた」と故ティム・ガリクソンは、彼のスターである生徒について語った。「彼は国内ジュニア大会でただ金のボールを勝ち取る事を望んだりは決してしなかった。グランドスラムで優勝する事を望んでいた。そして世界1位になる事を望んでいた」

アガシとクーリエがフロリダのアカデミーでボロテリーの注目を引くために闘っていた間、サンプラスはフィッシャーの指導の下で才能を花開かせていた。

その小児科医はサンプラスに冷静な気質を身につけさせる事ができた。同時に、最高のテクニックを学ぶため、ロバート・ランズドープのようなトップのコーチの下へ彼を連れていった。

「ピートはグラウンド・ストロークを学ぶためにランズドープの所へ行き、サーブのためには別のコーチの下へ行き、そして次に競争と練習のためにフロリダへ行った」と、南カリフォルニアでサンプラスと共に成長したチャンは振り返る。

「彼は確かに、我々全員の中で最も完成されたゲームを身につけていった。彼が打てないショットは何もない。それが彼と我々残りとを分けるものだ。プロになる時までに、彼はすべてを身につけていた」

サンプラスはまた、彼の才能をフルに活かすための視野の狭さを持っていた。「ピートがキャリアを終えたら、何をしようとするか知りたいね」

以前のダブルスパートナーに何を最も聞いてみたいかと尋ねられた時、クーリエは感慨を込めて言う。

「しかしもし彼らの1人と一緒に、部屋で24時間過ごさなければならないとしたら、僕はアンドレを選ぶだろう。ピートとマイケルは、ただもうテニスに集中している。そして彼らはそれに満足している。アンドレと僕は年月をかけて興味の幅を広げてきて、話すべき多くの事があるだろう」

しかし彼らは、ボロテリー・アカデミーでのライバル関係については話すだろうか? 

クーリエの記憶にとって辛辣な出来事が、1989年フレンチ・オープン時に起こった。彼らの4回戦での対戦(クーリエが勝った)時、ニックはクーリエではなく、アガシの関係者席に座る事を選んだのだ。

当時ボロテリーは2人のティーンエージャーにとり、父親代わりの存在だった。そして彼は、どちらの子供がいちばん好きかを選択したのだった。

「あれは私がこれまでに犯した最も大きいミスの1つだった」とボロテリーは認める。次の年、彼はクーリエとの苦い別れを経験した。

「私はジムに対して、決してそのような事をするべきではなかった。間違っていた。私は選択をし、アンドレと共に進んだ。しかしやり直す事ができたらと思うよ。それは確かに彼らの競争意識に影響を与え、ジムを大いに刺激した」

「すんだ事だ」とクーリエは言う。彼は現在のコーチ、ホセ・ヒゲラスと組んだ。

「なぜニックがアンドレと一緒に行ったか、僕は理解しているよ。彼はとても華やかで、とても才能があった。ニックは僕にとても良くしてくれた。彼について何も悪い感情を持っていないよ。僕はただ先へ進んだんだ」

その別れと同時に、クーリエは世界1位へと上り詰めた。彼は自分を闘牛士からコート上の雄牛、何者にも止められなかったロッキー・バルボアへと変身させたのだ。

燃えるような暑さの中で練習していない時には、彼はバーベルを挙げるか、スプリント練習をするか、あるいは競い合っていた。

上達への情熱は、よりスマートな同僚たちを粉砕し、彼の能力を過小評価していた者たちの誤りを立証するという決意に匹敵していた。

「しかしトレーニングのやり過ぎだったかもしれない」と、いまクーリエは言う。

「少しばかり強迫観念にまでなってきていた。だが同時に、僕は本当にそうするのが好きだったんだ。僕はトレーニングに打ち込んだ。

そしてそれは、自分のテニスについて肯定的であり、モチベーションを保つのに役立った」

クーリエの成功はまた、サンプラス、眠れる巨人を目覚めさせた。親友が順位を急上昇させるのを見る事は、ひょろっとした右利きの男にやる気を起こさせた。

「ジムが1位になるのを見て、ピートがギアを入れたのは間違いなかった」と、1人の親密な友人は言う。「もしジムにできるなら、自分にもできるとピートは確かに感じただろう」

ガリクソンがコーチとしてサンプラスと組んで間もなく、ピートはクーリエ-アガシのライバル関係をトップへの3人のレースに変えた。

ツアーでの新人の日々、互いに与え合ったサポートは、生き生きとした競争意識に変わった。

3人ともフロリダでトレーニングをし、速いコートの大会をより好んだので、彼らの道はいつも交差した。そしてアメリカ・テニスの花形であった。やがて彼らは皆、同じ巨大ウェア・メーカーと契約しさえした。

しかしながら、ひとたびサンプラスとアガシが少しばかり上に出ると、クーリエはランキングを滑り落ちていくように見えた。

「ジムは負けるようになっていったが、何をすべきか分からなかった。彼はこれ以上さらに練習する事も、彼のゲームをもう1つ上のレベルに上げる事もできなかった」と、1人の現役選手は言う。

間もなく、すべてがピートとアンドレのショーになった:グランドスラムの決勝戦、コンピュータ・ランキング、そしてナイキのコマーシャルさえも。

クーリエは、2年間で2つのフレンチと2つのオーストラリアン・オープンのタイトルを獲得した後、1993年ATPツアー最終戦のチェンジオーバーの際に読書をしたりして、それ以来グランドスラムで優勝していない。彼はいまやキャリアにおいて挫折感を引き起こす段階に入ったのだ。主役を演じた後、舞台後方で苦労している。

「4人の男たちの中で、ジムが私に最も類似していると思う」とジョン・マッケンローは言う。「我々は非常に激しい、いかなる瞬間でも爆発可能な同じ気質を持っている」

仮りに自叙伝にタイトルをつけるとしたら、何とするか尋ねられた時、クーリエは「誰が本当にこれを読むだろうか?」と名付けるだろうと冗談を言った。

そしてかつてのジュニア・デビスカップのチームメイトがコート上で進歩し続ける間に、クーリエはあるいは、コート外でより多くの満足を見いだしてきたのかもしれない。

彼はREM と一緒にステージ上でドラムを叩き、流暢にフランス語を話す事を学んだ。そして、チャンが認めるように「ジムは我々の中で誰よりも良い社交生活を営んでいる。彼には常にガールフレンドがいる」

しかし皮肉な事に、グランドスラム・タイトルを勝ち取ったのは4人の中でチャンが最初であった。

さらに興味深い事に、次のグランドスラム・タイトルと結婚と、どちらが先にやって来るかと4人全員が訊かれた時、チャンだけが、結婚よりずっと前に次のグランドスラム・タイトルを獲得するだろうと確信していた。

アガシはブルック・シールズと婚約し、サンプラスはデレイナ・マルケイとステディな関係を続けているが、「僕は結婚に近づいてさえいない」とチャンは笑いながら言う。

しかしそれは、チャンを長年のライバルたちと隔てる唯一の事ではない。

アガシは最近の「GQ」の記事の中で、チャンはプレースタイルから何から、自分のする事すべてを真似していると公言し、チャンを狙い撃ちにしたかなりの悪口を言った。

アンドレはより強くなるためにウェイト・トレーニングをする、マイケルもそうする。アンドレはラスベガスに住んでいる、いまマイケルもそうだ。(実際にはネバダ州の反対側のヘンダーソンだが)

「僕はアンドレがその記事で使ったすべての言葉が理解できない。でも気にしてないよ」とチャンは言う。

「アンドレは基本的には良い人間だ。しかしこのところ僕はアンドレに何回か勝った。それで、僕がコート上で脅威だと思うから、彼はこういう事を言うのかもしれない」

実際に、チャンは今年のオーストラリアン・オープン、そして再びインディアンウェルズでアガシを打ち負かした。

昨年サンプラスに1位の座を奪われた後、アガシが立ち直ろうと苦闘する一方、チャンは家族・宗教的信念と共に、2人の間で上に立っている。

「僕はただテニスをするより、大きい神のお召しがあると感じる」とチャンは指摘する。「それは神のメッセージを伝える事で、それにより、できるだけ多くの人々に触れる助けとなる事だ。キャリアが終わった後も、僕は常にテニスに関わるだろう。しかし僕の真の召命は神へのものである」

アガシもまた、神との関係が彼の人生で最も重要だと言う。しかしいまひとたび、彼はコート上での答えと心の平穏を探しているように見える。

フレンチ・オープンとウインブルドンにおける散々な番狂わせで、再びゲームに対する彼の傾倒が問われている。コーチのニック・ボロテリーとの悲痛な別れ(以前にどこでこの事を聞いただろう?)と、キャリアを脅かす手首のひどい怪我の後、93年と94年にそうだったように。

あの時はコーチのブラッド・ギルバートと組む事で、アガシは立ち直った。だから今回、事態を好転させる手助けに、彼と最も親しい人々をあてにしている事は意外ではない。

しかしゲームの最も売り込み上手なプレーヤーにとって、単純な事は何もない。「皆がアンドレに『ゲームを救う』事を期待する」とギルバートは説明する。「そして彼の肩には多くの特別な責任がかかるのだ」

実際、これら4人のアメリカ人のスターは、彼らの間で15のグランドスラム・タイトルを獲得し、90年代のプロテニスを支配してきたが、何もいままでのままではない。

クーリエはランキング上の主要な位置を取り戻す答えをいまだに模索している。アガシはスター満載の結婚式を間近に控えてさえ、コート上で立ち直ろうとしている。

チャンは向上し続ける。しかし彼はまだ、2番目のグランドスラム・クラウンを勝ち取るという謎を解き明かしていない。

そしてサンプラスは、より多くのグランドスラムと歴史上の地位を追求して静かな情熱を燃やしているが、親しい友人でありコーチだった人の死をいまなお悼んでいる。

共に成長し、長い間共に競い、あるいは対戦してきた4人の若者にとって、未来はどのようになるのだろうか? それは彼ら自身にさえ謎のままである。

「10年、あるいは20年後でさえ、我々4人がロッキングチェアに座って、古き良き日々を追憶しているとは思わないよ」とクーリエは微笑む。

「けれども我々は繋がりを持ち続けるだろう。我々はみんな異なった方向へ進む。しかし常に絆はあるだろう、良かれ悪しかれ永遠の絆が」