テニスジャーナル
1996年8月号
1996フレンチ・オープン・レポート
もうひとりのチャンピオン
サンプラスが見せた夢への執念
文:Takayuki Kinoshita


   もしテニスが、勝ち上がった回数だけではなく、その内容、対戦相手のレベルをも
   判断材料として、チャンピオンを決定する競技であったとしたら……。

   これは、現実にはまったく有り得ない空想にすぎない。しかしピート・サンプラス
   が、このままフレンチ・オープンのタイトルを獲得することなく、選手生活を終え
   るようなことになれば、今大会はその「空想」とともに印象づけられることになる
   かもしれない。

   まるで、ボルグにとってのUSオープン、レンドルとローズウォールにとってのウイ
   ンブルドンと同じように ---。


サンプラスとレッドクレーの相性

もともと、サンプラスとこのレッドクレーの最高峰イベントとは、相性が良くなかった。今大会まで、彼は、合計6回この大会に出場している。その勝敗数の内訳は20勝6敗。数字としては悪くないが、チャンピオンの資格があるとは、とうてい言いがたい。

89年の初出場のときにはチャンに2回戦で敗退。92年から94年はすべて準々決勝で、それぞれアガシ、クーリエ、ブルゲラに敗退。そして昨年は、1回戦でシャーラーにフル・セットの末に敗れてしまっている。

言うまでもなく、その中でチャンとクーリエとブルゲラは、歴代のチャンピオン・リストに名を連ねている(しかもクーリエとブルゲラの名はそのリストに2回登場する)。またアガシにしても、2度の準優勝経験を持ち、クレーが得意であることには変わりない。つまり、今から振り返ってみれば、大会中盤以前でサンプラスが顔を合わせていたのは、赤土の強豪であることが多かったのだ。

ただ、それは不運とまでは言い切れない。フレンチ・オープンほどのビッグ・イベントでチャンピオンになりたければ、その顔合わせを避けて通ることは、むしろ不可能だからだ。

ましてサンプラスほどの実力者である。クレー以外では、何度も同じような激戦区を勝ち抜いてきている。

しかし、今大会でのサンプラスは明らかに不運につきまとわれていた。「これまでのグランドスラムの中で、もっともタフなドロー」1回戦後、サンプラスは自らのNo.1シードのドロー・ポジションについてそう語っている。

フレンチ・オープンは、伝統的にATPランキングに準じてシード順位を決定している。そして、このひと月前までは、世界No.1はサンプラスとアガシ、そしてムスターの間でめまぐるしく交替し、誰がNo.1シードとなるのかは見当がつかなかった。

たまたまサンプラスが4月中旬から後半にかけて、香港と東京で連続優勝したため、ランキングが安定。その結果、皮肉にもサンプラスが、今大会もっともきびしいドローを引き当てることになってしまったのだ。

タフすぎた、No.1シードのドロー

彼は、まず1回戦で、グラウンド・ストロークの強打を得意とし、ここではかなり危険な相手と言えるマグナス・グスタフソンを降した。次にサンプラスは、その後の1週間の間に、2度も歴代チャンピオンと戦わなければならなかった。

2回戦でのブルゲラ戦、準々決勝でのクーリエ戦である。しかもこの2試合ともフル・セットにもつれ込み、ふたつ合わせて6時間29分、総数92ゲームという大接戦となった。

これだけでも相当な消耗戦と言えるが、サンプラスの不運はそれで終わらない。もちろんその2試合の間にも、2日とあけず試合は組み込まれ、過去に負けた経験のあるトッド・マーチンや、オーストラリアの新鋭スコット・ドレイバーなど、気の抜けない相手による果敢な挑戦を退けなくてはならなかった。

その結果、準決勝が行なわれるまでの11日間の間に、サンプラスが戦った時間とゲームの総数は、ほかの3人とは比べられないほど、膨大なものとなった。

たとえば、そのときの対戦相手であり、その後優勝を果たしたカフェルニコフは、それまでに148ゲーム、8時間38分間、戦っている。それに対しサンプラスは、203ゲーム、13時間44分を費やしている。

その差は55ゲーム、5時間6分。楽な内容なら5セット・マッチで2試合、3セット・マッチで3試合分の労力に相当する値である。

またその一方、対戦相手のランキングの数字を累積してみると、両者の差はさらに明らかになる。カフェルニコフが326で、サンプラスが182。もちろん、数字が若いほうがよりタフな相手と対戦していることになる。

2回戦で対戦したセルジ・ブルゲラ。サンプラスにとっての最初の難関は、いきなり元チャンピオンとの対戦となった。フル・セットの戦いとなり、体力をかなり消耗した。
じつはサンプラスは今大会中ずっと、試合後のマッサージとストレッチ、そして大量の水分摂取を欠かすことができなかった。数字からもわかるように、疲労が蓄積し、その限界近くに達していたからである。

ただ、それでも準決勝の第1セットをタイブレイクで失うまでは、その疲労感の自覚はそれほど強くはなかったようだ。むしろその日の朝の練習では「気分良くボールが打てていた」ぐらいだった。

しかし、そのタイブレイクを境に、サンプラスは心身ともに疲れ果ててしまう。とくに「脚力から、バネが失われてしまい」、躍動感みなぎる彼本来のプレイは、それ以後、見られることがなくなってしまったのだった。

サンプラスのもうひとつ不運

サンプラスにとって、もうひとつ不運だったのは、このときのパリの気候だった。準決勝の3、4目前から、気温は軒並み30度を越え、湿度も高く、寝苦しい夜が続いた。パリではおそらく頻繁にあることではないはずだ。
オフ・コートではディナーをともにとることもあるトッド・マーチンとの3回戦は、2度目のフル・セット・マッチとなった。スコアは3-6、6-4、7-5、2-6、6-3。

サンプラスは大会当初は、この暑さを歓迎していた。10度以下を記録した大会初日以降、気温は日を追って上昇。ただ、それも28度程度が最高で、しかも空気が乾燥していた。

このような条件下では、コートが硬くなり、バウンドが速くなる。ビッグ・サーバーに有利なコンディションとなるのである。だが暑さが度を過ぎると、メリットよりもデメリットが大きくなってくる。体力の問題である。

カフェルニコフとの準決勝の最中、温度計は34度を表示していた。サンプラスがさらに体力の消耗を加速させることになったのは、皮肉にも、彼が大会当初歓迎していた、この暑さが原因だったのである。

その結果サンプラスは、「精神的にも、肉体的にも、そして感情的にも」、これまで経験したことのない疲労感に襲われて、第2セットを0-6のスコアで落としてしまう。
長年のライバルであり、フレンチ・オープンで敗戦の経験もあるジム・クーリエとは、準々決勝で対戦。2セットダウンのピンチに立たされたが、気力を振り絞って勝ち抜いた。

サンプラスがパリに愛される理由

サンプラスがこの2、3年、アガシとともにパリの人々に愛されるのには、理由がある。もしどちらかがローランギャロでチャンピオンとなれば、彼らのタイトル・リストに四大大会すべてが揃う。そうなれば、69年のロッド・レーバーのグランドスラム達成以来、5人目の快挙となる。パリジャン、およびパリジェンヌはテニスとテニスのプレイヤーの知識に明るく、それがグランドスラムの定義から外れているとはいえ、いかに偉大なことであるかを熟知しているのだ。

また、サンプラスは、ここまで、3回のフル・セットを勝ち抜いてきた。彼らはその姿を目の当たりにしている。今回は、サンプラスに勝たせてあげたい。第2セット終了時点で、観客のほとんどがそう感じていたとしても、人情としてまったく無理はなかった。

結局、第3セットに入っても、観客の思いは通じることはなかったが、それでもサンプラスは「全力を尽くした」。冒頭で非現実的な空想をしたのは、彼がこの試合ばかりでなく、つねに、タイトルに並々ならぬ意欲があることをアピールしてきたからだ。タフすぎるドローに腐ることなく、黙々とボールを追いかけてきたからだ。そして準決勝まで勝ち上がってきたにもかかわらず、いくつかの不運が重なり、そこで力尽きてしまったからだ。

もしかするとローランギャロは、サンプラスの鬼門なのかもしれない。しかしだとしても、チャンピオンに匹敵するほど、今大会での彼の闘争心が激しいものだったのは、たしかなのである。