Who weekly (オーストラリア)
1996年7月8日号
心のレッスン
文:Meg Grant


悲しみに暮れるテニススターは、彼の愛したコーチ・親友を悼む


彼の世代最高のテニスプレーヤーになるであろうピート・サンプラスは、3年連続ウインブルドン優勝を含め、7つのグランドスラム・タイトルを保有し、勝者として知られている。今年のオーストラリアン・オープンで彼をストレートで負かしたマーク「スカッド」フィリポウシスを、彼は先週ウインブルドンで破った。

しかしどんな敗戦も、5月にコーチのティム・ガリクソンがガンで亡くなった事ほど、彼を傷つけはしなかった。サンプラスは言う。「覚悟しようとする。だが実際に死なれると、悲しく空しい感情が残るものだ」

2人は生来の心の友というわけではなかった。サンプラスは24歳で、あり余る才能を持つシャイで寡黙な人間だが、USオープンでアンドレ・アガシを破って同大会の史上最年少チャンピオンになり、1990年には19歳でテニス界のトップランクに入った。ガリクソンは社交的で、堅固だが映えない能力を最高に活かすため、努力する男であった。12年のキャリアの間に、彼は4つのシングルス・タイトルと16のダブルス・タイトル(そのうち10個は、一卵性双生児のトムと)を獲得した。

その後マルチナ・ナヴラチロワ、アーロン・クリックステインといった選手をコーチしてきた。ガリクソンとサンプラスは1991年から、サンプラスが完璧と呼ぶコーチング関係を築いてきた。その過程で、彼らは人生でも稀な友情を生み出した。

1995年初頭、一連の失神発作の後、ガリクソンは oligodendroglioma と呼ばれる珍しい脳腫瘍と診断された。今年5月3日、彼はシカゴ郊外のウィートンで亡くなった。弁護士である43歳の妻ローズマリー、13歳のエリック、9歳のミーガンと共にそこで暮らしていたのだ。享年44歳であった。

5月7日にガリクソンの葬儀が行われた。それはサンプラスが生まれて初めて参列するものであった。「僕はガンのために友人を失った。そういう事が再び起こるのを防ぐために、できる事はなんでもしたい」と彼は言う。彼はガン研究・治療の基金、ティム&トム・ガリクソン財団に関わってきた。

ウインブルドンへ向かう前に、30歳のロースクール卒業生でガールフレンドのデレイナ・マルケイと暮らす、フロリダ州タンパの自宅に近いテニスクラブで、サンプラスは特派員メグ・グラントと話をした。亡くなったコーチについて話す時、張り詰めた感情のため、彼はしばしば涙ぐみ、口ごもった。



91年の終わり、僕はコーチを探していた。当時は世界4位だったが、僕をナンバー1に引き上げてくれる誰かが必要だと感じていた。

ツアーに参加し始めた頃、僕は大会でティムとトムに出くわす事があったが、2人を見分けられなかった。両方ともガリーと呼んでいた。彼らはコーチとして、大いなる評判を得ていた。

特に理由もなく、最初はトムに申し入れをしたが、彼には先約があった。そして僕は、年に26週間の旅行が可能な人を探していた。トムは、きっとティムが僕と話をしたがるだろうと言った。

そこでティムが、僕の暮らすブラデントン(フロリダ)にやって来た。そして僕がもっと良いプレーヤーになるために、何ができるかを話し合った。

彼は、自分はいわばブルーカラーのプレーヤーで、努力したが、多くの才能はなかったと話した。それは僕に当時欠けていたものだった。僕は心構えができていなかった。僕にはなにがしかの才能はあったが、少し……当てにならなかったという言葉が適当かもしれない。

僕たちが組んで、フルにやり始めたのは1992年だった。ティムはとても社交性に富んでいた。彼には数え切れない逸話があり、多くの友人がいた。ロッカールームをブラブラして、皆と話をするのが好きなんだ。

彼は年月をかけて、僕にもそれをしみ込ませていった。僕はシャイな子供だったが --- いまでもそうだけど --- 彼は、オフコートで僕が少し積極的になるよう仕向けてくれた。彼は最高の相棒だった。僕たちは何年も一緒にやっていくつもりだった。

1994年10月、僕はストックホルムの大会に出場していた。ホテルの自室で、ティムと僕は冗談を言ったり笑ったりしていた。それからティムはスケジュールをチェックしに階下に行ったが、戻ってこなかった。彼の部屋に電話をしたが、応答がなかった。午後11時、コーチの1人ボブ・ブレットが僕の部屋をノックした。事故があったと言った。

見たところでは、ティムは彼の部屋にいて、気を失っていた。彼はガラスのコーヒーテーブルに頭をぶつけ、鼻を打っていた。運よく部屋のドアが開いたままだった。もしそうでなかったら、おそらく彼は出血多量で死亡していただろう。別のコーチが通りかかり、ティムが床に倒れているのを見つけたんだ。僕はただ、彼は脱水症状で気を失ったのかと思った。ティムは体重を減らしたがっていて、ダイエットの最中であまり物を食べていなかったから。彼は病院に3〜4日入院した。

12月の始め、僕はミュンヘンでグランドスラム・カップに出場していた。ある晩、ティムと僕はホテルのラウンジにいた。彼が「この部屋はぐるぐる回っているのかい?」と僕に言ったのは、決して忘れない。僕は「いいや」と言った。彼は目眩がすると言い、寝にいった。

翌朝、彼は普通じゃないように見えた。彼は「家に帰る必要があるようだ」と言い、夜の間に吐いたとつけ加えた。僕は「飛行機に乗る前に、検査を受けるべきだよ」と言い、彼は病院に行って、たくさんのテストを受けた。病院側は、彼には軽い心臓病があると言った。ローズマリーが飛行機でやってきて、ティムは大会の間、病院に入院していた。

数日後、ティムは具合が良くなったようだったが、もっと多くの検査を受けるためにシカゴに戻った。彼は発作を起こし、心臓に問題がある(間違った診断)と診断を下された。

だが彼の主治医は、1月に僕とオーストラリアン・オープンに行くのは問題ないと言った。(そこでは)、僕の3回戦の直前に、彼はまた目眩を感じた。彼は医務室へ行き、僕はトムをつかまえ、そして彼らはティムを病院に連れていった。

彼はたくさんの検査を受けた。腫瘍があると、その時点でティムが知ったかどうか、今日に至るまで僕には分からない。だが彼がとても苦悩しているのが分かった。彼とトムは泣いていた。僕はおののいたが、彼らのために強くありたかったので泣かなかった。

4日間の入院後、ティムはシカゴに戻った。その時までに、僕は誰かから腫瘍について話を聞いていた。誰だか覚えていない。ハッキリしないんだ。

彼が朝に去った日、僕はジム・クーリエと(オーストラリアン・オープン)準々決勝で対戦した。6-7、6-7で最初の2セットを失ったが、頑張って次の2セットを取った。第5セットで、僕は精神的に参ってしまった。

内側では僕は本当に痛みを感じていた。そもそも試合には多くの感情がつきものだが、ティムが病院のベッドで泣いているイメージが浮かんだ。僕は取り乱して、2〜3ゲームの間、感情をコントロールできなかった……。泣くまいとしていたが、ある意味では楽になった。ただすべてを溢れだすままにしていたんだ。ジムが「ピート、大丈夫かい? 明日やってもいいんだよ」と言った。彼がふざけているのかどうかは分からなかったが、僕は怒りのようなものを感じた。平静を取り戻し、勝とうとした。

試合後、ティムに電話をした。彼はテレビで試合を見ていて、「ピート、ストレート・セットで勝ってくれよ。もう君が泣くのを見たくないからね」と言った。彼の声を聞くのは素晴らしかったよ。2〜3週間後、彼には4つのガン性の腫瘍があると、脳生検で確認された。ティムは診断について僕に話し、化学療法を受ける事になると言った。

トムは、腫瘍はゆっくりと大きくなっているので、うまくいけば治療によって腫瘍を小さいままに抑え、さらには消してしまう事もあるだろうと言った。脳腫瘍を抱えたままで、10〜15年生存している人もいるとつけ加えた。そういう事を聞くのは快かったよ。

だが次の2週間は厳しかった。ティムは怯えていて、彼の声からそれが伺われた。電話で泣いていた。それでも、彼の態度はとてもポジティブだった。決して不平を訴えず、「なぜ私なんだ?」とは問わなかった。

彼は1995年2月に化学療法を始めた。そして主治医がこれまでに診てきた誰よりも上手く、それに対処した。気分が悪くなる事さえなかった。

僕たちはいつだって、ティムはガンに打ち勝とうとしていると感じていた。再び一緒にツアーを回れるかもしれないと、僕は願っていた。彼はテレビで僕のプレーを見て、取り組むべき課題について電話するという形で、関わり続けてくれた。

その時期、ティムと僕はガンについては話をしなかった。彼のために僕ができるベストは、彼をチームの一員でいさせ、そして試合をして勝つ事だと感じていた --- 僕が勝つと、彼の気分は良くなったんだ。

オーストラリアの後およそ6カ月間、僕はティムに会わなかった。たくさんプレーしていたし、ある意味で僕は少し怖がっていたんだ。だがウインブルドンの後、僕はシカゴに行った。彼は懸命に闘っていた。

9月までには腫瘍はいくぶん小さくなっていた。そしてティムの主治医は(デビスカップ準決勝のアメリカ対スウェーデン戦を見に)彼がラスベガスに来る事を許可した。トムは合衆国チームの監督だったから、ティムはとても来たがっていたんだ。ロッカールームにいるだけでも、彼の精神には素晴らしい事だった。

僕が再びティムに会ったのは、今年の3月だった。彼は(ステロイド治療のため)むくみ、髪がなくなっていた。そして車椅子に閉じ込められていた。まだ話はできたが、考えをまとめるのに困難が生じていた。僕は彼にキスをし、彼は僕を見て、ピストルと呼んだ。しょっちゅう僕をそう呼んでいたんだ。

翌日、僕は大会出場のためアジアに飛んだ。戻ってきてから、トムとローズマリーと話をした。彼らは「もう何週間もないだろうから、来た方がいいと思う」と言った。ティムはさらに苦闘していて、喋るのが困難になっていた。その時が、彼は逝ってしまうのだと、僕がついに覚悟した時だったと思う。何よりも辛かったのは、ミーガンとエリックに会う事だった。彼らは強かった --- ある意味で僕よりも。

その旅行が、僕がティムに会った最後になった。帰る前に僕たちはドライブをした。それは僕が別れを告げる場だった。彼に会うのはこれが最後だと分かっていたので、僕はただ彼に話をした……。彼に僕が話すべき事を話した。彼がそれを聞いてくれたと思いたいよ。


ティムが亡くなったと僕に伝えたのは、ガールフレンドのデレイナだった。僕の外出中にトムが電話をしてきて、彼女に話したんだ。僕は散歩に出て、少しバスケット・ボールをしていた。その後、僕はトムに電話をした。彼の声はティムの声のように聞こえて、辛かった。

葬儀で、ティムと僕の間にあった繋がりについて話をした。ラスベガスで大勢の人と一緒にチームの部屋にいて、僕たちがどんな風だったか。会話を聞き、同じ事を考え、そしてお互いを見て、ただ微笑み合った事。僕は皆に「その微笑みがない事を、僕はこれから先ずっと寂しく思うだろう」と話した。

僕は1週間後にローマでプレーする予定だったが、準備ができていなかった。テニスの事を考える気にならなかった。喪に服する時間を取りたかったんだ。結末 --- もう彼と話をする事も、再び彼に会う事もできないのだという事実 --- を受け入れる事は、僕をそういう気持ちにさせた。

ティムは44歳で、身体に悪い事は何もせず、良い人間だった。--- そして僕たちから奪い去られた。それは、自分について考える事にも繋がった。テニスは素晴らしいスポーツだが、いつかは終わりが来る。そして人生の最も重要なものではない。いわばすべてを総体的に考えさせるものだった。父は本当に僕を助けてくれた。彼は乳ガンで2人の姉妹と母親を喪っていた。父は言った。「ピート、お前はとても守られて生きてきた。だが、これが人生だ。お前はお前なりのやり方でそれに対処し、受け入れなければならない」と。

僕はティムと共有した良い思い出について考えようとしている。冗談や面白い逸話。そして僕はトムと話をする。彼はかなり上手くやっている。僕たちはこれから先もずっと、近しい関係であり続けるだろう。そして、ありがたい事に、彼らは2人いるんだ。

ウインブルドンの後、僕はオリンピックに出場する。トムはチームの監督だから、楽しいだろう。金メダルを獲得するかもしれない。僕はティムの財団とアメリカ・ガン協会に協力していく。ティムのガンのように、まだ治癒できないものもある。そして我々は治療法を見いださなければならない。ティムの死を忘れる事はあり得ないが、僕は毎日をやり過ごそうとしている。そしていま、僕はちゃんとやっている。
大丈夫だよ。