スマッシュ
1993年7月号
ストーリー ピート・サンプラス
少年時代
文:マインツアー・アンデルセン


幼い頃の思い出は大切にしまっておいたほうがいい。新緑のまぶしさが、
これから起こることの素晴らしさを予感させるように、まだ若い芽をつけていない
少年の可能性だって、どんなに世界を驚かすのか誰も予想できないからだ。

いまピート・サンプラスという1本の樹が大きく成長しようとしている。思い出という
葉をたくさんたたえながら。この先、いったいどこまで伸びていくのだろうか。


ぼくが初めて君に注目したのは、全米オープンでアガシを破った時だった。彫りの深い顔が印象的で、なにやら西欧の神話に出てくる偶像のような威厳が漂っていた。当時まだ19歳ということで、ずいぶん話題になったものだ。

あれから、3年か。君はあの頃に比べてちっとも変わっていないんだってね。いや、プレースタイルのことじゃない。レンドルが「性格が正直で、親切な青年だ」とベタ褒めする、君の人間性のことだよ。

友人の女性ジャーナリストもこう言っていた。「いくら賞金を稼いでも、やさしさと真面目さを失わない」と。

トーキョーで世界ランキング1位になったと聞いたけど、おそらく君のことだから、特別に偉くなったなんて意識することはないんじゃないかな。

ぼくは、君がここにたどり着くまでに、運命的な要素がかなり関わってきたのじゃないかと感じているんだ。それを証明するには、君の生い立ちから追ってみる必要がある。

自宅の地下室で見つけた古いラケット

ピートは父ソテリウスと、母ゲオルジア・プロオウストロウスの3番目の子どもとして、1971年メリーランド州ポトマックで生まれた。男2人女2人兄妹である。ギリシャ生まれの父は政治亡命者としてアメリカに渡った。
(訳注:実際は前の代からの移民と思われる)

65年、それまで住んでいたシカゴを後にし、首都ワシントンへ移り住んだ父は、ゲオルジアと知り合い、結婚。妻も19歳
(訳注:25歳との異説あり)でアメリカに渡った移民の一人だが、英語がわからず勤め先の美容院で苦労したという。

ソテリウスは政府の宇宙開発関連のエンジニアとして勤務するが、4人の子どもを抱えていたことから、夜は隣のバージニア州マクリーンのレストランの共同経営者として夜おそくまで仕事をするほどの働き者だった。

7年間懸命に働いた結果、ある程度の貯金もでき、父は大きな決心をした。「西へ行こう。あそこには暖かい太陽がある」

寒い東海岸は地中海育ちの両親にとり苦手な土地であったが、仕事のことで新天地を探す目的もあった。さっそく移動の準備が始まった。自家用フォードの屋根に家財道具を積み、6人と1羽のオウムを乗せ、一家は大陸を横断した。まるでヘミングウェイの小説のようだが、「新天地へ向けて希望を持った7日間だった」から、それほど重苦しい旅ではなかった。

カリフォルニアへ引っ越す直前、幼いピートは自宅の地下室で古いウッドのラケットを見つけた。たぶん家の誰かが遊びで使っていたものだ。ピートは物珍しげにラケットを握った。生まれて初めて。ボールがあったので壁を相手に打った。飽きることなく、数時間も。ぼくは思う。
"最初の運命" だったのだ、と。

カリフォルニアではトーランス市の郊外に家を構えた。6歳になったピートと2歳上の姉ステラの楽しみは、休日のラケット遊びだった。街の公共駐車場の片隅にある無料のテニスコートは彼ら2人の絶好の遊び場だった。

父はヒマさえあれば、2人をそこに連れて行ったが、息子の壁打ちがあまりにも上手なのにビックリした。バックハンドでも簡単にこなしてしまうのだから、無理もない。

夢中でボールを打つ2人に父はバケツ1杯のボールを買い与えてやった。この方がスクールへ行くより安いからという経済的な理由もあったが、本音は別にあった。

父はテニスを「上流階級のスポーツ」として見ていた。自分の子どもがテニスに熱中しても上流階級とは無縁の家柄だけに、早いところ "熱さまし" をさせて「普通の子どもに育てたかった」のだ。

ところが、ピートを近くで見ていた大人たちのねらいは違っていた。

ある時、父のもとに2人の男が寄ってきた。そして静かに説得するように語った。「息子さんはたいへんな才能をお持ちです」彼らはピート少年をずっとウォッチしていたらしい。そして自分たちのクラブへの入会を熱心に勧めた。1979年、ピートがまだ7歳のことであった。

最初は無関心だった父だが、ピートが関心を示すので断りきれず、やむなくある日、そのクラブを訪れることにした。自宅のランチョ・パロス・ベルデスの近くにある「ジャック・クレーマーテニスクラブ」がそれだった。ピートは目を輝かせて父に言った。「お父さん、すごいよ、ここは。フェンスが付いているし、コートだって雨が降ってもすぐにできるヤツだよ」

さほど関心を見せない父のもとへ、眼鏡をかけた学者タイプの男性が寄ってきた。男性は軽く会釈した。「あの……」と父。「息子にテニスを教えてくれるといっても、いくらかかるものでしょうか?」父の戸惑いが読めたのか、男性は一瞬考えてハッキリ答えた。「いりません。息子さんをコーチするのは、私の生き甲斐になるかもしれませんから」彼こそ後にピート・サンプラスを選手として育成したピーター・フィッシャー博士だ。この出会いこそが、後の運命を決したのである。

レーバーのファンだったフィッシャー博士の実験

ジャック・クレーマーTCは地元医師などかなりハイソサエティが加盟するクラブだ。フィッシャー博士は州一番の小児科医と言われ、IQ190を誇る。当時、州のランキング上位に入るジュニア選手のコーチをしていたが、指導はあくまでも余暇の一部だった。だが、指導する相手がサンプラスになってから、博士は仕事の一部として、強く意識していった。

才能ある人間をさらに伸ばすということは、医師にとってある種の "実験" とはいえまいか。自分の探求心をくすぐるし、成功すれば、その実験結果に満足できるからだ。

ともあれ、博士はピート少年の育成プログラム作りに取りかかった。コーチには自分のほか、スマッシュやフォアハンドの得意な医者仲間を加え、さらにはフットワークのためのコーチもつけた。かつてトレーシー・オースチンを教えて世界一に育てたロバート・ランズドープだ。

博士の頭のなかには、常にある選手のイメージがあった。「大ファンだ」というロッド・レーバーである。「レーバーこそ最高の選手。つねに私の憧れだった。彼はどんなサーフェスでも勝利した。そして自分が望むようにゲームを支配できた」と絶賛する。

そのレーバーを上回る選手を育成することは、博士にとって、きっと偉業を達成するかのごとく、魅力にあふれた仕事であったはずだ。いや、仕事というより使命と感じたかもしれない。

古い16ミリフィルムを出してはレーバーの昔のプレーをあれこれと分析し、ピートの将来像とオーバーラップさせていた。フィルムは一人で観るよりも、サンプラス家でピートと一緒に観ることが多かった。

サンプラス家にはしばしば出入りし、一緒に食事をする機会も増えていく。まるで家族の一員のようだった。食事をしながらも博士はピートの技術、戦術について討論するのを好んだ。

2人の関係は全米を制した際、「右脳、左脳のようだ。ピートには直感が、私には分析力が求められるからだ」と自らを評した。そしてこうも言った。「だからこそ、2人で補い合っているのだ」

9歳でピートは初めてジュニアの大会に出場する。だが、結果は1回戦負け。当然である。彼は12歳のグループに出場したのだから。博士は常にピートを、1つも2つも上のレベルで競わせた。

14歳になり、博士はバックハンドの両手打ちをやめさせた。「歴史的に見ても、サーブ・アンド・ボレーの選手でバックハンドが両手打ちの選手などいないから」というのがその理由だ。

9歳のころからサーブ・アンド・ボレーをやらせていたが、この変更はピートにとり、つらい試練だった。初めて片手打ちをしたところ、ボールは屋根より高く跳ね上がり、柵を越えてしまったのである。ピートが悔しさのあまり大泣きしたのを、父はハッキリ記憶している。

だが、バックハンドを改良してから、それまで苦労なく勝ってきた相手に負けるようになっても、「子どもがカップを制するなど、どうでもいいこと」という博士の考えで、勝利は度外視された。目標は高く、遠いものだからだ。

負けたゲームの後、ピートは同じ言葉を聞かされた。「またひとつ、新しいことを学んだね」

ピートの少年時代の物語は、これで終わりにしよう。全米オープン初制覇、世界一……ピートの物語は、ここから限りなく続いていく。けれど、ピートのファンならわかるはずだ。世界一になった今でも、彼が少年時代と何ら変わらないことを。それでも続きを知りたい方は、いずれまた、近いうちに ---。