テニス・クラシック
ハード・コート --- プロテニスツアーの真実
著:John Feinstein(1991年)
訳:小林 公子


このストーリーは、ESPNのスポーツキャスターやUSAツデー紙のライターとして活躍するジョン・ファインスタイン氏が、1990年、プロテニスのツアーを1年間にわたって取材したときのレポートです。毎号、1回完結で、いろいろなエピソードが語られていきます。

最終回 フラッシングメドウの奇跡

USオープンは、その年のグランドスラムタイトルの最後を飾る祝祭だ。
喧噪とジェット機の騒音がめくるめくその舞台、フラッシングメドウは、
夏の終わりを告げる日ざしと、人々の熱気でいつもむせ返っていた。
だが、めまいにも似たその鼓動は、やがて訪れる奇跡の足音だったのかもしれない。


USオープンには出場しないよりはしたほうがいいだろうと思いながら、テニスプレーヤーたちは集まってくる。

だれもが愛し、そして嫌うグランドスラムなのだ。選手の輸送手段はひどいものだし、スケジュールときたらめちゃめちゃだ。ロッカールームは狭いし、練習コートも十分に与えられない。天候も残酷なほどに厳しい。それなのに、選手たちはみんな、やってくる。

なぜならば、コートのサーフェスが速くもなく遅くもなく、ちょうどいい具合なのだ。グラスコーターでもここのハードコートなら勝つことができるし、クレーコーターでも十分戦える。サーブ&ボレーを得意とするプレーヤーにも、ベースラインで頑張るプレーヤーにも勝機は巡ってくる。

それともう一つ、USオープンはその年の締めくくりであり、夏のクライマックスなので、みんな出場するのだ。このあと、賞金たっぷり、ポイントも取りやすい二つのツアーが11月まであるのだが、ほとんどはインドアで行われる秋のトーナメントであり、どうしても熱気に欠けるものとなる。

90年のUSオープン、最初の週、そこにあるのは熱気ならぬ暑さだけだった。ひどいものだった。最初の5日間、*1)ナショナルテニスセンター
は巨大なサウナと化したのだ。暑さと湿度がだれをも惨めにした。かんしゃくを起こすプレーヤーが多く、初めの4日間、暑さが最高潮に達したときには、コート上の行為に関して、20人のプレーヤーが罰金の処置を受けたのだった。90年のそれまでの三つのグランドスラムでは、28人のプレーヤーが罰金を払わされている。これは6週間のトーナメント期間のトータルだ。

しかし、プレーヤーにとって、いいニュースが一つだけあった。飛行機がなくなったことだ。この場所でトーナメントが開催された最初の日から12年の間、隣接するラガーディア空港から離陸する飛行機の爆音が、もろにスタジアムを襲っていたのだ。大して気にならない日もあるが、定期的に悩まされる日もある。風しだいなのだ。

しかし、選手の苦情にこたえるために、USTA(アメリカテニス協会)がニューヨークの外に会場を移すといううわさが広まって、ついに市長のデイビッド・ディンキンスが乗り出した。熱心なプレーヤーであり、ファンであるディンキンスは、ある計画をひねり出した。ラガーディア空港の13ある滑走路のうち、スタジアムの上を通過する1本を2週間の大会開催中だけ使わないようにしようというものだ。

これはいいニュースだった。しかし同時に、当然のことながら質問がわき上がった。もし、その滑走路を使わなくても危険がないのなら、ことしで13年目、今までがまんしてきたのはいったい何なんだ、というわけだ。

選手たちは飛行機に悩まされなくなって、大喜びだったし、USTAがテレビの放映権で得た金の一部を使って、施設の改善を図るという話にも活気づけられていた。選手の輸送にいつも混乱を来していたが、それは彼らもわかっているとおり、ニューヨークではしかたのないことなのだ。

だれもがイライラし、腹を立てているのは、USオープンのスケジュールだ。オーストラリアンオープン同様、USオープンも、ナイトマッチがある。

しかし、オーストラリアでは使用されているコートは1面なので、4人のプレーヤーだけが夜のシングルスをすることになっているし、最初の2ラウンドが終わると、シングルスはライトの下では1試合だけが行われることになる。

USオープンでは、2コートがナイトマッチのために使われ、7時半開始ということになっている。しかし、ありがたいことにテレビの放映があるために、決して7時45分より前にはスタートしない。毎年、2、3日はスケジュールが大幅に遅れ、すべてが押せ押せになってくる。これに悪天候でも加われば、スケジュールはめちゃくちゃだ。

さらに、トッププレーヤーたちを怒らせるスケジュール上の問題が一つある。ほかの三つのグランドスラムは最後の4日間、まったく同じ日程をたどる。女子の準決勝は木曜日、男子の準決勝は金曜日、女子の決勝は土曜日、そして男子の決勝が日曜日という具合だ。つまり、男子、女子とも決勝進出者は準決勝のあと1日の休みがとれるようになっていて、いい状態で試合ができるよう配慮されている。

USオープンでは、準決勝は女子が金曜日に、男子は土曜日に行われる。女子の決勝は土曜日なのだが、男子の準決勝に挟まれているし、男子のダブルスの決勝は女子の準決勝に挟まれている。そして、男子の決勝は日曜日だ。つまり、決勝進出者は休む日もなく、プレーすることになる。

そして、準決勝の2試合目に出場した選手のほうが、最初の試合の選手より休養をとる時間が少なく、疲れもとれにくいという不公平を生んでいる。それにも増して都合が悪いことは、土曜日の朝、目を覚ました二人の女子のファイナリストが、自分が何時にプレーをするのか、皆目わからないことだろう。男子の準決勝の第1試合が終わって、初めて始まるものなのだから。

どうしてこうなるかというと、すべてはテレビのためなのだ。USオープンはCBS-TVと提携している。USAネットワークも多少かかわってはいるが、主な提携先はCBSだ。CBSはあまりにも多くのエージェントと契約しているので、どのクライアントをどのコートに割り当てたのかわからなくなって、しばしばネットワークに問い合わせるほどなのだ。

一例をあげてみよう。ダン・ゴルディーは90年のUSオープンに出場していたが、協賛会社との契約はほとんどもう切れかかっていた。彼のエージェントであるトム・ロスは契約の更新を交渉中だったが、ゴルディーの成績がいまひとつだったので、難しそうだった。ゴルディーが12シードのピート・サンプラスと試合をすると知ったロスは、CBSのテニスプロデューサーに電話をして、サンプラスとゴルディーがどのコートに入るかを尋ねた。夜のショーコートということだった。

ロスにとっては完ペきだった。テレビで放映されるショーコートなのだ。ゴルディーがサンプラスと試合をすることは問題ではなかった。彼はそのコートに入ることになっていたのだ。ナイキやそのほかの会社のことを計算に入れて、CBSが彼をそのコートに配置したのだ。だから彼はそこにいた。だれもわかっていることだった。

あるとき、レポーターたちが、USTA会長、デイビッド・マーキンにトーナメントが何から何までテレビに牛耳られていると批難したことがあった。そんなことはない、とマーキンは怒りを込めて否定した。「テレビ関係者からもらっているのは、助言だけだ。決定はあくまで私たちがやっている」

そう宣言した直後のことだった。マーキンはスタジアムコートの選手たちの出入り口のすぐ近くに立っていた。ジェニファー・カプリアティとアンケ・フーバーが第1ラウンドの試合のために、スタジアムに入ろうとしていた。そのとき、トーナメント・レフェリーのケイス・ジョンソンが突然、二人を制止した。

「申し訳ないが、お二人とも、もう少しここにいてください」ジョンソンは言った。「テレビが今コマーシャルをやっているので、それが終わるまで、この通路にいてほしいと言っています」

ピート・サンプラスはホテルの部屋で、ジョン・マッケンローとエミリオ・サンチェスの試合を見ていた。その夜、彼もトーマス・ムスターと試合をすることになっていたが、スケジュールが遅れていて、どうやらコート入りは8時過ぎになりそうだった。

彼はテイクアウトのパスタを買うためにいったん外へ出たが、また部屋に戻り、試合の結末を見届けた。「ジョンが勝つだろうと思ったよ」彼は言った。「観客が作り出すアドレナリンでジョンは活気づいているからね。もう一方のプレーヤーのほうがずっとうまくやっているのに、どうしても勝てないってことがあるよね、時々。これはそのいい例だと思うよ」

サンプラスは大きな試合の前、心静かに過ごすコツを心得ていた。初めてのグランドスラム挑戦、その4回戦で世界の7位に位置するムスターと試合をすることは、彼にとっては一大事業だ。しかし、サンプラスは今までの3試合に満足していたし、サービスさえうまくいけば、勝機があることを確信していた。

彼は静かにパスタを食べてから、コートへと向かった。しかし、ロッカールームに着いてみると、心静かな状態ではいられなくなった。「パスタの何かが悪かったみたいだ」彼は言った。「胃がだんだんおかしくなってきた。そのとき、オーストラリアの4回戦でノアと試合をする前、脚の付け根がひきつったことを思い出したんだ。でも、もうそんなことはないだろう、と自分に言い聞かせた」

最初の2セットは、その再来そのものだった。第1セットはタイブレークヘともつれ込み、サンプラスは三つのセットポイントを握っていた。が、あがってしまって、立て続けに5ポイントを与え、このセットを失った。第2セット、彼は奮起して5−1とリードしたが、また調子を乱し、タイブレークになった。胃はシクシクと痛み、頭が思うように働かなかった。

「自分をしった激励しなくてはいけなかった」彼は言った。「自分に言ったんだ。 "カモン! ピート。これはほかならぬUSオープンなんだぜ。第2週、お前は見物人になりたいのか? それともゴルフをしたいのか? いや、違う。今、このタイブレークに全精力を投入しなくては。もし、これを失えば、もうばん回は不可能だ"」

彼は7−3でタイブレークをものにした。試合の流れは変わり始めていた。サンプラスはサービスの調子を取り戻し、ムスターは精彩を欠き始めた。サンプラスの胃は相変わらず痛んでいたが、頭の中からそのことを追い出していた。夜が更けていくにつれ、彼は力強くなり、4セットで決着をつけた。

マッケンロー対サンチェス戦、*2)マリーバ対ナブラチロワ戦に続いてはいたが、彼の勝利は波風を立たせなかった。ほんの小さな番狂わせだった。だれもがサンプラスにはムスターに勝つ力があると思っていたし、そのとおりになっただけだった。しかし、サンプラスにとっては、この勝利は大きな意味を持ったものだった。単にUSオープンの4回戦だったからというだけではなく、イワン・レンドルと試合をするチャンスをつかんだからだ。

「USオープン決勝戦のレンドルを見ていたことがあるんだ」彼は言った。
「初めてのUSオープン決勝進出だったと思う。僕は11歳だった。みんなが*3)相手の応援をしていたんで、僕はレンドルの味方になったんだ」

6年後、レンドルが世界のナンバーワンであったとき、サンプラスは17歳、ピカピカのプロ1年生だった。レンドルは*4)マスターズの間中、サンプラスを*5)グリーンウィッチに招き、練習相手を務めさせた。レンドルは若いプレーヤーと練習することが好きなのだ。二人は来る日も来る日も熱心に、積極的に、そして挑戦的にコートの上を走り回った。サンプラスはレンドルを失望させなかったし、レンドルもサンプラスを失望させなかった。

「彼は僕に、ほんとうのプロがどういうものかを教えてくれた」サンプラスは言った。「一度だけ嫌だな、と思ったことがあったね。僕をバイクに乗せて、落ちそうになるまで飛ばしたんだ。でも、彼から学んだことがいっぱいあったよ。彼が繰り返し、繰り返し、僕に言ったのは、グランドスラムがいかに大切かってことだよ。彼は言ってた。もっと若いときに、これがわかっていたらなあって」

レンドルをとても尊敬はしていたが、サンプラスには彼を破るひそかな自信があった。テニスに携わる人ならみんな知っていることだが、ウィンブルドンでの敗退が、レンドルの気持を揺さぶっているのは明らかだった。すべてのトーナメントのすべての試合に勝ちたいという渇望は、もう彼の中に見ることはできなかった。USオープンの前、彼はたった一つ、ニューヘブンのトーナメントに出場したが、緒戦でマラビーヤ・ワシントンに敗れている。

サンプラスはレンドルが2回戦でミヒャエル・シュティッヒと戦っているのを見ていた。シュティッヒは背の高い、21歳のドイツ人で、コンピューターランキングを上昇中のプレーヤーだ。しかし、ハードコートのレンドルにはまだまだ及ばない。

それにもかかわらず、レンドルは4セットの苦しい戦いの末、やっと彼を下したのだった。「二人の差をそんなに感じさせなかった」サンプラスは言った。「レンドルはもちろん今だって偉大だ。でも、過去の僕が知っているころとはだいぶ違っているね」

サンプラスは試合当日、神経質になって、ロッカールームからプレーヤーズラウンジへ行き、そこからトレーニングルームヘ、またプレーヤーズラウンジへ戻るといった具合で、一か所にとどまることがなかった。レンドルのほうは、ロッカールームでトニー・ローチと静かに試合の始まるのを待っていた。もう8回もUSオープンの決勝に進出している彼にとって、何も新しいことはなかった。

ラウンジで目立つものは、コーチや側近たちがみんなかぶっているピンクのレイバンの帽子だ。新しい流行? ある意味ではそうかもしれない。テレビカメラがスタンドで観戦するコーチ、家族、友人たちを何回も映し出すことに着目したレイバン関係者が、試合中、レイバンの帽子をかぶってテレビ画面に登場したい人を募り、500ドルを支払ったのだ。テレビを見ている人々は、新しい流行に興味を抱いた。なにしろ、夜になってもみんなこの帽子をかぶっているのだから。

サンプラスの側近は、いつでもだれよりも少なかった。レンドルと試合をする彼がコートに入るのをボックスで見守っているのは、コーチのジョー・ブランディとエージェントのイワン・ブルンバーグだけだ。二人とも帽子はかぶっていなかった。サンプラスはほんの少し神経質になっていたが、ムスター戦のときよりはましだった。日曜日に彼がテイクアウトをしたイタリア料理店は客を一人失った。彼はその夜、試合の前にチキンを食べたのだった。

試合はジェットコースターのようだった。大切なときにサービスを決めたサンプラスが、最初の2セットをものにした。しかし、レンドルは、彼のキャリアからいって、この舞台でこのまま滑り落ちることはしなかった。次の2セットはレンドルのものだった。サンプラスは疲れを感じ始め、イライラしていたが、レンドルは徐々に強さを増してきていた。しかし、第4セット、0−4とリードされていたサンプラスが、再び勢いを得て5−4となり、さらに二つのブレークポイントを握るまで追いついた。が、結局はそれを生かすことができず、5−5となった。

レンドルは危機を脱して、このセットを取ったが、サンプラスは試合をつかみ取った感触を持ったのだった。「第4セットでばん回できたのがよかった。心理的に大きなプラスになったね」後に彼は言った。「もし、イワンが第4セットを簡単に取ったなら、そのままの調子で第5セットもきたと思うよ。でもそうじゃなかったから、僕は、チャンスは十分あると思いながら、第5セットを楽な気持で始めることができたんだ」

ばん回することで試合をイーブンに戻したレンドルも、チャンスありと、気をよくしていた。しかし、1−2の時点で、彼は13個目のダブルフォールトを犯し、調子を乱していった。サンプラスのリターンが好調だったので、レンドルはセカンドサービスを完全なものにしなくてはと思い、結果としてそれがミスを犯すことにつながったのだ。

レンドルはとりあえずブレークポイントを切り抜け、二つのゲームポイントを握った。が、サンプラスはのっていて、再びブレークポイントを得て、レンドルにノータッチのクロスコートのフォアハンドを見舞ったのだった。レンドルは怒ったようにラケットをコートに投げつけた。1−3とリードされて、レンドルはサンプラスのサービスを破ることの難しさを身にしみて感じていたのだ。

サンプラスはこのまま調子を維持しょうと懸命だった。「勝てそうだという感触は持っていたよ」彼は言った。「でも、試合が終わるまでは、そのことを考えないよううにしていたんだ」

一度だけ危機があった。レンドルが2-4でブレークポイントを握ったときだ。サンプラスは大きな深呼吸をして、サービスエースで切り抜けた。そして、またこの試合23本目のエースを放った。

ゲームの締めくくりもエースだった。3ポイントとも、レンドルはボールに触らずじまいだった。彼の表情がストーリーの結末を語っていた。次の6ポイントで、すべては終わった。

4時間を超すマラソンゲームであり、人々を驚かす番狂わせだった。今まであまり知られていなかったが、これで知名度がぐっと上がったサンプラスだった。
インタビュールームに入ってきたサンプラスは、ライター、カメラマン、テレビ関係者が部屋の隅から隅までぎっしり詰まっているのを見て、静かに言った。「もう、皆さん、おそろいでしょうか」

このように、サンプラスの人生はこの試合を境にして、大きく変わったのだった。もはや期待の新人でもなければ、上り調子の若いアメリカ人でもなかった。彼はスターだった。19歳になったばかりの、USオープンのセミファイナリストなのだ。それもレンドルを破っての準決勝進出なのだ。

レンドルは静かに敗戦を見つめていた。ウィンブルドンの準備のためにはらった犠牲のため、フレンチのみならず、USオープンの勝機をも逃してしまったことに気づいていた。「チャンスがあったのはわかっているんだ」彼は言った。「でも、たとえ同じ局面に立たされたとしても、僕はまた同じことをやるだろうね」

あくまでもマッケンローがデビッド・ウィートンを、その夜、破るという前提に立ってのことだが、サンプラス対マッケンローの準決勝については、「もし、サンプラスがプレーヤーX、あるいはプレーヤーYと試合をするのなら、彼が勝つと思う」レンドルは言った。「でも、マッケンローと試合をするのだと、サンプラスが意識をしたら、負けるね」

レンドルはしばらくの間、黙っていた。「ほんとうのことを言うと、僕はサンプラスが好きなんだ」彼は言った。「彼ならプレッシャーを跳ねのけることができると思うよ」

サンプラスにとって、新しい世界が開けてきた。彼はブランディ、ブランバーグ夫妻といっしょに食事をしに出かけたのだが、そこでサインを求められたり、見も知らない人々から励ましのことばをかけられた。初めての経験だった。部屋に帰り着いたときには、もうすっかり疲れてしまっていた。

「でも、一睡もできなかった」彼は言った。「僕はベッドの上に座って考えていたよ。世界のナンバーワンを、彼の得意とするコートで破ってしまった。そんなことが、こんなに早くやってくるなんて、信じられなかったんだ」

幸せなことに、奇妙なスケジュールのおかげで、サンプラスはレンドル戦のあと、2日間休むことができた。マッケンローは好調を保ったまま、ウィートンを3セットで破った。ウィートンもそれまでの試合ぶりはなかなかのものだったが、マッケンローと戦う準備はできていなかった。マッケンローはサンチェスとの試合以来、すっかり自信をつけ、観客も依然として、彼の味方をしていた。

ウィートンに落ち度はなかった。年頭、オーストラリアの予選からスタートした彼は世界の30位以内の成績で一年を終えるだろう。マッケンローはウィートンを有望な若者と評したが、準決勝の話になると、ウィートンとの試合とはまったく違ったものになるだろうと言った。「サンプラスはウィートンよりずっと上だよ」彼は言った。「試合の経験も多いしね」

ニューヨークはもう大騒ぎだった。アメリカ中と言っていいかもしれない。アンドレ・アガシとボリス・ベッカーの準決勝が、"2番目" の試合になるなんて、世界のどこでも考えられないことだ。土曜日、アガシとベッカーとの試合は午前11時の開始となった。CBSがベテランと新鋭の試合をゴールデンタイムに当てたかったからだ。今度だけはしかたがないと、だれもが思った。

アメリカのテニス界にとって、すばらしい日がやってきた。86年、USオープンの準決勝に到達したアメリカ人は、ティム・ウィルキソン一人だけだった。そして4年後の今回、5人の準々決勝進出者を見るまでに至った。

マッケンローが85年に決勝に出場して以来、アメリカ人がファイナリストになることはなかったのだ。今、アガシがベッカーを破ったことにより、アメリカは、84年以来初めて、男子のチャンピオンの誕生を確約されたのだった。

USTAは復興を旗印に、さまざまな試みを重ねてきたが、その成果が結ばれたとは言えなかった。今のアメリカのトッププレーヤーたちは、USTAのプログラムが作り出したものではない。たった一人、マイケル・チャンだけが*6)ホセ・ヒゲラスからクレーコートのコーチを受けた成果を上げているが、ほかの選手たちは家族が、個人的なコーチが、そして本人の願望が作り出したものなのだ。

観客にとっては、そんなことはどうでもよかった。コートにいるマッケンローだけが関心の的だった。水曜日のレンドル戦で英雄になったサンプラスは、今度は悪役を演じることになったが、心の準備はできていた。

「観衆がジョンの味方なのはわかっているよ」金曜日の朝、彼は言った。「僕がもしスタンドにいたら、やっぱりジョンを応援するからね。わかっているんだけれど、それを封じ込めなければならない。試合は、水曜日のレベルをどちらが維持できるかで決まると思うんだ。どちらかのペースが落ちると思う。それが僕でないことを願うね」

水曜日のレンドル戦、サンプラスは全人生をかけるつもりで戦ったのだ。木曜日の朝、ウルフのデリカテッセンで、食事をしたとき、ブランバーグはセルジオ・タッキーニとの再契約がついにまとまったことを彼に告げた。新しい契約は5年間で、少なくとも400万ドルが保証されている。もし、成績が上がれば、もっと高くなることもありうるという。
「普通、トーナメントの最中、イワンはビジネスの話はしないんだ」サンプラスは言った。「でも、レンドル戦のあと、ボーナスのつもりで彼は言いたくなったんだと思う」

レンドルを破り、とてつもなく金持ちになったサンプラスだが、マッケンローを相手にして実力が出せなかったと言い訳をしたところで、だれも批難する人はいないだろう。しかし、そうはならなかった。彼は何本もノータッチのサービスエースを見舞い、マッケンローがそれを意識する前に、第1セットを6-2でものにしてしまった。

第2セット、マッケンローはひたひたとゲームへの集中を高めてきた。ブレークされたが、奇跡的なハーフボレーでブレークバックし、4-4とした。サンプラスは完ペきなリターンを2本マッケンローの足もとに返し、またブレークポイントを握った。マッケンローは、そのリターンを警戒するあまり、セカンドサービスに力みすぎ、ダブルフォールトを犯した。サンプラスはサービスを心静かに放って、セットを自分のものとした。

いったい何が起こっているのだろうか。今までの2試合を壮麗に戦ってきたマッケンローが、こんなにもほんろうされるなんて……。ある意味では、マッケンローはネットの向こうに、79年ころの自分自身を見ていた。若く、向こう見ずで、自信たっぷり、そしてどんな相手をもたじろがせるサービスを唯一の武器として戦っていた自分自身を見ていた。

もちろん、違いはあった。サンプラスの態度だ。彼は決して悪ガキではなかった。1ポイント、1ポイント、積み重ねていくようにプレーする。ひらめきではプレーしないし、突進もない。泣き言も言わなければ、わめくこともしない。

「前はいつでもこうではなかったんだ」彼は言った。「14歳のころ、まだ両手でバックハンドを打つベースライナーだったときには、しょっちゅう泣き言を言っていたよ。でもあるとき、*7)ロッド・レーバーのビデオを見て、心に決めたんだ。"これだ。僕はこういうふうにプレーしたいんだ"。それからは、なるべくそう振る舞うことにしたんだよ」

彼はうまくやった。観衆は皆、マッケンローのミラクルショットを期待していたが、サンプラスのすばらしさを認めざるをえなかった。マッケンローは奮起して、第3セットを手中にした。観衆は依然として熱狂的にマッケンローを応援していたが、サンプラスはめげなかった。その日、16本目のサービスエースで第4セットをスタートさせ、マッケンローのサービスを破って4-2とした。そして最後もサービスエースで締めくくったのだった。

マッケンローは最後の熱狂的な喝さいを受けながら、コートを去った。がっかりはしていたが、打ちのめされてはいなかった。「自分がまずかったとは思っていないんだ」冷静に彼は言った。「彼の力にはじき飛ばされてしまったんだ。必要なときに、彼はサービスエースを取ることができるんだよね。今、彼はのってるんだ。いいことだよ。いい人材をテニス界は得たと思う」

サンプラスはムスター、レンドル、マッケンローを退けた。あと一度、同じようなことが起こるだろうか、それが問題だ。

決勝の1時間前、へレン・ジンマンは*8)ニック・ボロテリーに巡り会った。ヘレンの夫は、40年以上もUSオープンの番組をプロデュースしているハロルド・ジンマンだ。

「ヘレン!」彼女の肩をつかんで、ボロテリーは言った。「きょうがどういう日か、わかっている? これから何が起こるかわかっている? 今までのすべてのトーナメントのことを忘れてよ。ウィンブルドンもフレンチも忘れてよ。アンドレが自国のトーナメントのチャンピオンになるんだよ。ヘレン!」

ヘレン・ジンマンはそうは思っていなかった。アガシでさえ、そうだった。なぜなら、あとになって雄弁にそのときのことを話しているが、彼はUSオープンのタイトルを取りにいったのだが、102分後には "しりをけとばされて" 戻ってきてしまったのだ。

サンプラスは長い歴史のうえでも記憶に残るような試合をした。彼は一度もサービスを落とさなかった。ボリス・ベッカーのサービスを10回も破ったアガシだが、3セットでたった3回のブレークポイントを握っただけに終わった。6−4、6−3、6−2だった。

サンプラスの快挙を知らないのは、ソテリオスとジョージアのサンプラス夫妻だけだった。息子がUSオープンに優勝しているとき、彼らはショッピングモールをブラブラして時間をつぶしていた。
「オヤジは見ていられないんだよ」笑いながら、サンプラスは言った。「ムスター戦のときは時間をつぶすために9マイルも走ったんだ。僕が試合に出ると、とても神経質になって何かしないではいられないんだね。大抵、走っているんだよ。ことしは僕の試合のたびに走ったので、11キロも減量したんだ」

サンプラス夫妻は、この日曜日はそう時間つぶしをする必要がなかった。3時ちょっと過ぎ、ソテリオスとジョージアは電機屋をウロウロしていた。テレビを見ていた人に、ジョージアは2時間前に始まったばかりの試合がもう終わったかどうか、つい尋ねてしまった。

「ああ、終わったよ」男は言った。「サンプラスの野郎がアガシをやっつけたぜ」「ほんとうなの? なんということでしょう」ジョージア・サンプラスは言った。「うちの息子なのよ。息子がUSオープンに優勝したのよ!」

彼は確かに優勝した。アガシは観衆に向かって、精いっぱい気張ったスピーチをした。「より上手な者がきょうの勝利を手にしたんだ」後にアガシは、サンプラスをラスベガスに連れて帰りたかったと言った。「彼が手にするものは何でもゴールドに変わった。そんな彼をカジノで解放してやりたかった」

しかし、サンプラスの将来の可能性についての質問に、アガシは答えなかった。「ここでその話はよそうよ」彼は言った。「おれたちが彼をよく知る前に、彼はいろいろ成果を上げてしまったからね。これから真価がわかるんじゃないの」

サンプラスは、ムスター、レンドル、マッケンロー、そしてアガシを8日間で破ってきた。彼はUSオープン史上、*9)最年少のチャンピオンなのだ。それは確かに何かを証明している。「僕にとって、何が問題なのか、わかっていますか?」彼は言った。「テニスを続けていくうえで何が起ころうとも、僕はいつだってUSオープンのチャンピオンとして見られるんだ。それが問題だ」
それはまったく正しかった。



*1) ナショナルテニスセンター アメリカのニューヨーク州にあるUSオープンの会場、フラツシングメドウ・ナショナルテニスセンターのこと。そのセンターコートは別称、かつてのジャズ・ミュージシヤンの巨匠の名をとって、ルイ・アームストロング・スタジアムとも呼ばれる

*2) 
マリーバ マリーバ三姉妹のうちの長女マニュエラ。このときナブラテロワとは4回戦で当たり、ファイナルセットの末に破っている

*3) 
相手の応援 82年、レンドルが初めてUSオープンの決勝へ進んだときの相手は、この年8年ぶりのウィンブルドン優勝を果たしたばかりのコナーズ。彼はレンドルを破りこのUSオープンに4年ぶりに優勝し、ナンバーワンに返り咲いた

*4) 
マスターズ 現在年末にドイツで開催のワールドチャンピオンシップスにあたり、ATPツアーが始まる90年より前に、アメリカのマジソンスクエアガーデンを会場に開催されていた
*5) 
グリーンウィッチ レンドルの自宅のある、アメリカ・コネチカット州のグリーンウィッチ

*6) 
ホセ・ヒゲラス スペイン人。53年3月1日生まれ。82・83年とフレンチオープン・ベスト4の成績を上げ、クレーコート・スぺシャリストとして70年代半ばから80年代半ばまで活躍した

*7) 
ロッド・レーバー オーストラリア黄金期の一人。男女を通じて唯一、62・69年と2回のグランドスラムを達成した。38年8月9日生まれ

*8) 
ニック・ボロテリー アンドレ・アガシを育てた上げたコーチ。ジム・クーリエとモニカ・セレスは、彼との確執を理由に彼のアカデミーを離れ、その後、ともにナンバーワンとなった

*9) 
最年少チャンピオン サンプラスは当時19歳1か月で、この記録はいまだに破られていない