ニューヨーク・タイムズ
1990年9月10日
ビッグサーブの背後にある仕組み
文:Samantha Stevenson(アレクサンドラ・スティーブンソンの母親)


サンプラスの家から数分のローリング・ヒルズ・エステートにある「ジャック・クレーマー・ テニスクラブ」は、今日では会員権が14,000ドルで売買されているが、そのライブラリーには、かつての名選手たちのフィルムがあった。

「我々は誰よりもレーバーのフィルムを見たものだった」昨日フィッシャーは、USオープン・タイトルを懸けてサンプラスのサーブがアンドレ・アガシを圧倒するのをテレビで見た後に語った。「レーバーはあのような滑らかなモーションをしていた。ラウンドモーションでは肩が動き、腰が動き、全てが上方へと協働していき、そして振り下ろされ、爆発する。レーバーはパワーを得るために爆発しなければならなかった。そしてピートは確かに爆発する」医師であるフィッシャーの知識は、サンプラスのサーブを生体力学的に完成する手助けをした。

フィッシャーは語った。「彼はバスケットボールを投げつけているように見える。肩と腰から同時に大きい回転力を得る。回転を戻す代わりに、彼はボールへ直接それを伝え、よって大きい筋肉から全てのパワーを得る。彼はボールを強く打つために小さい筋肉を使わない。小さい筋肉は、ボールを導くためにを使うのだ。彼はかなり前方にトスを上げる」

「我々が行ったドリル練習の1つは、彼がボールをトスしてから、私がサーブ(の種類とコース)をコールするというものだった。彼の反応はとても速いので、サーブを読む事は不可能だ。彼は同じモーションからキック、スライス、フラットを打ち分けられる。それが、彼があんなにも多くのエースを取れた理由の1つだ。時速122マイルの速さだけではエースを取れない。適切な場面で適切なスポットへ打たなければならないのだ」

サンプラスはビル・チルデン、ジョニー・ダグ、エルワース・バインズ等がビッグサーブ&ボレーのゲームをしていた1920年代、30年代の先祖返りである、と多くのテニス専門家は考えている。現在バインズは79歳で、最近になって心臓手術から回復し、腎臓透析を受けている。彼は昨日、カリフォルニア州ラ・キンタにある自宅のテレビで試合を見た。

「彼は素晴らしい選手だ」とバインスは語った。彼は元国内チャンピオンで、サーブは時速132マイルを計測した。そしてパンチョ・ゴンザレスと共に、パワーサーブの模範と見なされている。

「あそこにいるのは私だ。私も同じプレーをしたものだった。サーブ&ボレー。彼はさらに向上できるが、どこまで行くかは分からない。彼のサーブを上手くさばく事はできない。彼のサーブは信じがたいものだ。それは試合に勝つ武器だ。彼に弱点があるとは思わないよ」

「私は多分1〜2インチ背が高かった。長い腕と長い足を持っていた。もっとヒョロッとしていた。現在、サーフェスは異なっている。もっと速い。ラケットの強度はより優れている。だが彼のサーブ&ボレー・ゲームは、思い出を呼び戻す」

サンプラスの父、ソテリオス・サンプラスは、息子のテニスを進化させてくれたフィッシャーの役割を称えて、彼を「恐らく最も頭の良いコーチ」と称した。

フィッシャーは語った。「初めて彼のヒッティングを見た時、私には分かった。彼は7歳で、できる限り激しくスイングし、ラインに打ち、そして微笑んでいた。彼は自分がボールで何をできるか見るのが好きだった。そして常に、他の誰もできない事ができた」

「彼は良い子だった。手に負えなかったが、他のティーンエージャーほど手に負えなくはなかった。初めて片手バックハンドに取り組んでいた時、私はボール出しをしていたが、彼はイライラするとボールをフェンスの上にまで飛ばしていたものさ」

サンプラスのUSオープン・タイトルは、ヨンカーで生まれ育ったフィッシャーに複雑な感情をもたらした。2人は昨年のオープン前に別れていたからだ。今年の夏に短期間、フィッシャーのコーチングに対する支払いについて正式の合意を取り交わす事で、意見の相違を修復しようとしたが、失敗に終わった。

「1989年頃まで、私はピートよりも多くの金を稼いでいた」とフィッシャーは語った。「投資を上手くやってきたのだ。だがピートは、私がこれまで無料でしてきた事に対して、なぜ報酬を望むか理解できなかった。彼に話したよ。私はそれに値するからだと。私は金を必要としないし、君も必要としない。しかし私はそれに値する。厳密にプライドの問題だと。他の誰かに言われたのなら、恐らく彼を煩わせなかっただろう」

現在サンプラスはジョー・ブランディのコーチを受けているが、試合後に CBS 放送でマリー・カリロと行ったインタビューの中で、直接フィッシャーの功績を称えた。「僕は目的志向が強いが、当時のコーチだったピート・フィッシャーは、グランドスラムで優勝する事をいつも強調してきた。彼の存在がなかったら、僕が今ここにいたか分からない」

1989年の冬、イワン・レンドルは若いアメリカ人選手と一緒にやりたいと言った。サンプラスは精力的な練習のため、コネチカットにある世界最高選手の自宅へ行った。しかしフィッシャーは、レンドルはサンプラスの努力に対する心構えには感心しなかったと言った。

フィッシャーは語った。「レンドルは私に、彼の調子はひどいものだと言ったよ。彼はこつこつ努力する事を望まないと。ブライアン・ゴットフリードは、彼に目標を書き留めるよう言った。だが当時、彼は何も目標を持っていなかったのだ」

数年前にノーチラス(スポーツクラブ)の会員登録を2人分して、「私はより強くなったが、彼はならなかった」とフィッシャーは語った。

昨日、フィッシャーは彼の希望と努力のすべてを裏付けた100ドルの賭けに勝った。9年前、サンプラスは1992年までに少なくともUSオープンの準決勝に進出すると、彼は賭けていたのだ。

「彼に紐でラケットを縛り付け、ハンドル部分でボールを打たせる事もできただろうが、それでも彼は良いショットを打っただろう。彼にはそういう天性があるのだ」

サンプラスが自宅へ帰ってきたら、フィッシャーは彼に電話をかけようと目論んでいる。「私は自分の夢が実現するのを見る機会を得た」とフィッシャーは語った。「私自身はウインブルドンでプレーする事ができなかった。自分がピートの身体に入る事はできなかった。だが恐らく、ピートの身体に私の脳を入れる事ができたのだろう」