弱者バンザイ

炉辺夜話情報科学編第16夜

一人の武士が路傍の茶屋に入ったとき,遠くから若侍が「その男は人殺しだぞぉ」と叫んだ.途端に,店の婆さんは,茶も出さず猛然と逃げ出してしまった.

武士は,福井のお抱え武芸者だった男で,名を昂軒(こうけん)という.人を殺して出奔.その際,江戸へ向かう道筋を言い置いていた.人を殺したが名分はあると言うことであろうし,武芸に対する自信の現れでもあろう.若侍は,その討手の六兵衛.こちらは,上意討ちの書面を携えてはいるが,藩きっての臆病者で知られている.

この六兵衛,昂軒に追いついたのは良いが,武芸では到底かなわぬ相手に思案していたところ,不覚にも,昂軒を追い越してしまった.後ろから昂軒に声を掛けられた六兵衛はびっくり.「人殺し」と叫んで逃げ出した.と同時に,回りにいた往来の衆も逃げてしまった.そんな事から思い付き,消耗作戦に出たのであった.「人殺し」のお陰で,昂軒は,一杯の茶も飲めない.宿に入ろうとすれば,六兵衛が「人殺し」と叫ぶ.体よく宿を断られたり,女中は盥をひっくり返すやら,逃げ出すやら.無理して上がっても,ろくろく相手にして貰えない.途中,六兵衛の身の上にほだされて,「およう」がお手伝いに加わったから,昂軒もたまらない.交代で「人殺し」と叫ばれ,休む間もないのであった.

精根尽き果てた昂軒は六兵衛を呼び止め割腹すると言うが,六兵衛はそれを止める.この暑さでは,首を持って帰ろうとしても腐ってしまう.代わりに,髻(もとどり)を切ってくれ,と六兵衛は言うのである.

これは,山本周五郎作「ひとごろし」の粗筋である(以下の引用は,新潮文庫「ひとごろし」から).この話には,臆病者は登場するが,英雄は一人もいない.気骨のある武士らしい武士も登場しない.武芸者である昂軒は,「武芸というものは負けない修行だ,強い相手に勝ちぬくことだ…けれどもこんどの事でおれは知った,強いものに勝つのが武芸者ではない,ということを」「強い者には勝つ法がある,…それは武芸の一面だけであって全部ではない,――それだけでは弱いもの,臆病者に勝つことはできないんだ」と言って,自害しようとするのである.六兵衛は,自分は臆病者だと言って憚らない.「きさまそれでも侍か」と言われて,「私はこれでも侍だ」と答える.「そんなきたない手でおれを困らせようというのか」「あなたには剣術と槍という武器がある,…あなたの武芸の強さだけが,この世の中で幅をきかす,どこでも威張ってとおれる,と思ったら,…大間違いですよ,…」と切り返すのである.

この世の中をネットワークと見たとき,そこには役割の違いはあっても,強弱上下の違いは本来ないのである.インターネットを構成する光ファイバーとルーターは,OSI 参照モデルでは階層が異なる.しかし,それは,上下を意味するものではなく,役割の違いに過ぎない.また,ルーティングの機構も,基本的に局所的であり,全体を統括する物があるわけではない.(例外は,ディレクトリー・サービス.)つまり,相互依存の関係にあるのである.武士といえども,食べもし,眠りもするのだ.そして,それらは,農工商の人々が担っている.武士が農民を略奪するということは,彼らが農民の持つ物を必要としているということを意味している.つまり,彼らの弱みに他ならないのである.それを農民が自覚したとき,つまり,武士の論理ではない農民の論理の役割に気が付いたとき,初めてこのネットワークは完成するのである.

インターネットがもたらすもの.その最大の効果は,このネットワークの成立ではなかろうか.それまで,情報は,マスメディアを通じて一方向に流れていた.放送や新聞がその代表であり,出版物も,出版社の目に適った物だけが世に出るのである.特色のある小出版社も多数あるが,出版流通から見れば僅かなものである.ところが,インターネットには,市井の人の声が載る.この声が,人々を走らせることも間々あるのだ.六兵衛の「人殺しだぞぉ」の叫びのように.

勿論,「弱者の力」だけが強くなり過ぎるのも危険である.それでは「上下」が逆転しただけのことなのだから.そうではなく,常に,相互依存の自覚と緊張が必要なのである.誰もが声を挙げる.それを評する人がいる.マスコミが報道する.それを評する人がいる.人々は,他の人の声を聞き,評を見,裏付けを探し,価値付ける.そして,行動を起こす.支援の呼び掛けに応じ,煽動には冷静な評を載せるのだ.

ネットワークは,ヒエラルキーではない.相互依存のシステムである.だから,インターネットでは,一つの要素が欠けても,ネットワークは動く.もう一つの要素が欠けても,まだ動く.かと言って,これは,それぞれの要素の価値がゼロだと言うことを意味するわけではない.何故なら,インターネット自体には,何の意味もないからである.インターネットの目的は,様々な階層で各要素同士を結ぶことにある.その結合の仕方が柔軟にできているということなのだ.

六兵衛は「およう」を連れて福井へ帰り,行かず後家だった妹も嫁に行った.弱者もなかなかに,したたかである.

おように言及した部分を若干修正.(2000年7月30日)

<追記>(2000年7月30日)

先日,故開高健が「象を撃つ」*(ジョージ・オーウェル)に言寄せて,支配者は支配される者に支配されると語っていることを発見した.さすがに表現が冴えている.

* この短編は,平凡社ライブラリ「象を撃つ オーウェル評論集I」に収録されている.