日本語入力法の功罪

炉辺夜話情報科学編第10夜

ZDNet Wire(1998.09.19 Vol.1 No.051 〜 1998.10.24 Vol.1 No.078)のコラムに,「かな漢字変換プログラムは賢い方が良いか」と題する小論が載っていた.かな漢字変換プログラムの,否定の連続などを指摘する表現チェック機能や文脈に応じた変換候補を提示する「最適語選択機能(著者の一時的命名)」は過剰装備であると論じたものである.

端的に言えば,これらの機能は「余計なお世話」であるし,言語能力に悪影響がある可能性もある,と言うのである.

この論には頷ける点もあるが,文章を書いているときの「操作」や「心的過程」への妨害という点では,私はもっと根本的な問題があるように思う.

日本語を母語とする者が文を書こうとしているときは,その文を構成する仮名や漢字が既に心中に浮かんでいるのではないだろうか.だとすると,仮名(読み)を漢字に変換するという過程そのものが,既に余分な作業であろう.作家の井上ひさし氏は,ワープロは使う気にならない,という趣旨のことをどこかで述べている.変換したとき,書きたい漢字以外の文字を見るのは興醒めだ,ということらしい.

専門のキーパンチャーがかな漢字変換プログラムを使う場合は,学習機能を止めておくそうだ.さもないと,特定の漢字を出すのに,その読みに対して「変換キー」を押す回数が使うたびに変わってくるからである.これでは,とてもタッチ・タイピングにならず,仕事が捗らないことになる.学習機能を止めておけば,例えば,「かん+変換+変換」=「館」などと覚えておけば,英文並みのタッチ・タイピングが可能である.この使い方は,「かな漢字変換」ではなく,ある種のマルチ・ストローク入力と言えよう.この場合,基本となるのは,おそらく,単漢字変換である.これに,省入力のために,単語変換が加わるものと思われる(速記のように).

つまり,まともに文を書こうと思うのなら,「変換」していたのでは発想の邪魔なのであり,キーパンチの際には,「変換」作業に割く時間的余地がそもそもないのである.

所詮,かな漢字変換による日本語入力は素人さんのためにあるのである.

その上,多くの人の場合(私もその一人だが)ローマ字入力のハンディが加わり,漢字どころか平仮名の入力にも思考の中断を余儀なくされる.私はタッチ・タイピングに近いタイピング(自称)だが,ローマ字の母音がよく抜けてしまう.たまたま次の文字が同じ母音のときに抜け易い.多くの仮名は2ストロークになるが,指がまだ2ストローク目のときに頭の方は次の文字に移っていることが原因と思われる.それに追いつくように指が速くなれば良いのだろうが,ともあれ,現在,私は二重苦である.

心中には,書きたい言葉が(意味+読み+漢字)の形で浮かんでいる.ここから,読みだけを分離し,ローマ字に変換し,タイプし,かな漢字変換して,初めて,所望の表現を得る.しかるに手書きの場合は,この内の「タイプ」部分だけが必要なのであり,しかも文字化は体が覚えているので自動である.従って,仮名や漢字を機械的にマルチ・ストローク入力することを体得しない限りは,日本語入力における心的負担は無くならないのである.

井上ひさし氏が,マルチ・ストローク入力を修得し,JIS 補助漢字までサポートするワープロが出来たとして,さて,氏は何と言うだろうか.

ところで,もう一つかな漢字変換の「文化に対する罪」がある,と私は思う.方言や旧仮名遣いが入力できないのである.勿論,一文字ずつ入力すれば可能なのだが,これでは,私の場合,三重苦になってしまう.最近は,口語体を許容するものもあるようだが,各種の方言を含む辞書と学習能力を開発してもらわないと,日本の文化は貧しくなるばかりなのではなかろうか.

と,現行の日本語入力法をあげつらったが,良いところもある.誤って覚えた「読み」では変換してくれないから,「誤読」に気付かせてくれる.また,同じ言葉に対する違う表現にも気付く.例えば,「おじ」には,「叔父」と「伯父」の二通りの表記があり,辞書を引いてみれば直ぐに分かることだが,意味が違うのである.

要するに,かな漢字変換とハサミは使いよう,ということか.