微分法と物理学

炉辺夜話情報科学編第5夜

「物理学は,近似の学問である,」とは,学部の頃の指導教官の言である.我々にとって,山や谷は,巨大なものであり,無視し得ない存在である.しかし,地球と月の運動を問題にするときには,地球の表面の凹凸は考えない.更に,太陽と地球の関係の問題では,地球は,球にもならず,点にしか過ぎない.

地球と月の距離は,約 36 万キロ.地球の直径は,ざっと 1 万キロであり,月との距離の約 0.03 倍である.一方,海溝の底と山の頂上の高低差は,最大で,ざっと 2 万メートル.月との距離の 約 0.00006 倍.だから,これは無視できる.

地球と太陽の距離は,ざっと 1 億キロである.地球の直径は,その 0.0001 倍である.従って,これも無視できる大きさである.

物理現象には,それぞれに固有なスケールというものがある.例えば,波なら,その波長が,およそのスケールである.スケールより,桁違いに小さければ,それは無視できる.ラジオの中波(AM)の波長は,100 メートル単位の長さがあるから,ラジオにとっては,大概の建物は「透明」という訳だ.

この「近似の学問」の典型を,質点(点状の物体)の力学に見ることができる.質点の複雑な運動も,ある瞬間と,その前後の極短い時間に限れば,単純な等速直線運動と見なすことができ,その極短い時間の運動を積み上げれば,全体が分かるはず,というのは「物理学的素朴な世界観」である.

この「極短い時間なら,等速直線運動と見なせる,」ということを具体化したのが,数学の(物理学者のニュートンの手になる)微分法である.高校辺りでは,微分法を微分商の極限で導入しているが,より本質的には「曲線の線型(直線)近似」である.この近似をもう一段精確にすれば,「テイラー近似(展開)」となる.

微分商より,線型近似の方が本質的であることは,微分法を線型空間上の関数に一般化してみれば分かる.この場合に現れるのは,微分係数ではなく,線型関数である.また,微分多様体では,接線型空間上の線型関数である.

数学は,関係の学問,関係が織りなす構造の学問とでも言えようか.

ならば,情報科学は,どんな学問だろうか?そもそも,「情報」とは何だろうか?

商品と商品情報を比較してみれば分かるように,情報は手間を掛けずに複製が可能である.情報自体には,重さもない.物と違って,それ自体を運ぶ必要はなく,様々な媒体に載って流通する.

しかし,情報が実体から完全に自由かというと,そうでもない.ご存じのように,物理学の基本原理に「光速度不変の原理」,「特殊相対性原理」があり,これを組み合わせれば,光より速いものはないことが導かれる.情報が何らかの媒体を必要とする以上,光速より速く流通することはない.これは,媒体が物理的実体であることから来る制約のようにも思えるが,案外,情報自体が持つ何らかの原理が働いているのではなかろうか.

情報を伝えるということ(通信分野)と,情報を処理するということ(コンピュータ分野)は,違うことなのだろうか.通信の場合は,伝えるべき情報を変えないことを本旨としており,「処理」とは対立するようにも思われる.しかし,社会の中の情報は,変形しながら伝わっていく.これを,「処理」+「通信」と考えることが,本当に正しいのだろうか.ひょっとしたら,情報は,処理される対象ではなく,もっと能動的な本性を持っているのかも知れない.

情報科学は,まだ原理のない科学のように思える.学際領域として既存学問領域の種々の原理が入り乱れている.情報科学に固有の原理がほの見えてきたとき,学問としての情報科学が始まるのだろう.