養老孟司 「運のつき」 マガジンハウスより
by 遠山 勉

最近刊行された養老先生の「運のつき」を読んでいたら、「真似」・「独創」についての記述があったので、ご紹介します。
これまで様々な方が論じてきた方向とは全く異なった方向からのとらえ方で、極めて興味深いものです。

私見として、「創造とは、既知と既知の組み合わせであり、その組み合わせに知恵を要する」とする立場からすると、養老先生の言う、「独創的な業績とは、勉強すれば、だれにでもわかるけど、たれでも気がつくほどには、フツーのことじゃない。」というところ、「ふつうの女性の顔写真を百人分集めて、コンヒュータで重ね合わせると、美人になる。・・・フツーの考えを 「重ねて」いくと、だんだん、「ノーベル賞級の考え」になっていくんですよ。」という点に共通するように思えます。

以下、重要な点を抜粋させていただきます。



 真似には価値がない。それが西洋近代的自我の要求です。だから真似禁止するんです。 禁止すれば、同じようなものはでてきません。そりゃそうでしょうでてきませんわ。そうしておいて、ピカソは個性的だという。本当に個性的なら真似を堂々と許したらいいじゃないですか。本当に個性的だってことは、真似ができないってことでしょう。できないんなら、真似を禁止する理由はない。だって、鑑賞者に同じような感動を与える贋作だったら、ホンモノと価値は同じじゃないですか。

 その根源にあるのは、西欧近代的自我です。私は私、同じ私、それは独特の存在で、そこには個性がある。そう考える。身休については、払だって、それを認めます。イチローの真似をしろといわれたって、できません。高橋尚子の真似をしろといっても、できないでしょう。

だって、あれは身休の能力ですから。でも、心つまり意識の活動、正確にはその結果については、根本的には個性を認めるわけにいきません。 個性を心の成果にまて拡張したのが、近代の問違いのはじまりですよ。 私はそう思っているんです。だから共同体が壊れた。


 論文で他人の脳ミソをうっかり使うと、叱られます。剽窃だといわれる。これはむずかしい言葉ですな。要するにドロボーですよ。逆に、独創的だということになると、方法である著者の脳ミソか誉めてもらえる。うまくいけば、ノーベル賞がもらえます。そういう人は「頭がいい」ってことになる。つまり「使える脳だ」ってことじゃないですか。それに比べたら、たいていの人の脳は、「使えない脳」ってことになる。

 じゃあ、そり独創的な業績が、だれにもわからないほどむずかしかったら、どうなりますか。世間には認められませんな。・・・つまり独創的な業績とは、勉強すれば、だれにでもわかるけど、たれでも気がつくほどには、フツーのことじゃない。「だれにでもわかる」ってほうに重点を置けば、偉大な業績とはきわめて平凡なものです。なぜかって、だかにでもわかるからですよ。あたりまえじゃないですか。でも「だれでも気がつく」というほうに重点を置けば、ふつうは気がつかないんだから、独創ってことになります。それだけのことでしょうが。


フツーを重ねるとトクペツになる?

 変な例ですが、ほかに例を思いつかないから、それをあげておきます。それは美男美女という例です。いちいち美男美女というのも面倒くさいから、とりあえず美人ということにしておきます。

 ふつうの女性の顔写真を百人分集めて、コンヒュータで重ね合わせます。そうすると、むろんいささかピンボケ顔になりますが、それでも美人になるんです。これって、なかなかむずかしいでしょ。だって、フツーの顔を百重ねたって、フツーの顔にしか、なりようがないじゃないですか。ふつうはそう思う。でも、実際はそうじやないんですよ。なんと美人になっちゃうんですよ。これが。なんでだろうって、考えましたな。フツーの顔を重ねていくと、どんどんフツーになるのではなくて、どんどん 「特別な」顔になっていく。ネッ、ここでわかるような気がしませんか。フツーの考えを 「重ねて」いくと、だんだん、「ノーベル賞級の考え」になっていくんですよ。つまりどこに誤解があるかというと、美人とは、稀な資質だと考えるところにある。そうじやなくて、「あまりにも、あたりまえ」のことが、本質的なことなんですよ。