その根源にあるのは、西欧近代的自我です。私は私、同じ私、それは独特の存在で、そこには個性がある。そう考える。身休については、払だって、それを認めます。イチローの真似をしろといわれたって、できません。高橋尚子の真似をしろといっても、できないでしょう。
だって、あれは身休の能力ですから。でも、心つまり意識の活動、正確にはその結果については、根本的には個性を認めるわけにいきません。 個性を心の成果にまて拡張したのが、近代の問違いのはじまりですよ。 私はそう思っているんです。だから共同体が壊れた。
論文で他人の脳ミソをうっかり使うと、叱られます。剽窃だといわれる。これはむずかしい言葉ですな。要するにドロボーですよ。逆に、独創的だということになると、方法である著者の脳ミソか誉めてもらえる。うまくいけば、ノーベル賞がもらえます。そういう人は「頭がいい」ってことになる。つまり「使える脳だ」ってことじゃないですか。それに比べたら、たいていの人の脳は、「使えない脳」ってことになる。
じゃあ、そり独創的な業績が、だれにもわからないほどむずかしかったら、どうなりますか。世間には認められませんな。・・・つまり独創的な業績とは、勉強すれば、だれにでもわかるけど、たれでも気がつくほどには、フツーのことじゃない。「だれにでもわかる」ってほうに重点を置けば、偉大な業績とはきわめて平凡なものです。なぜかって、だかにでもわかるからですよ。あたりまえじゃないですか。でも「だれでも気がつく」というほうに重点を置けば、ふつうは気がつかないんだから、独創ってことになります。それだけのことでしょうが。
フツーを重ねるとトクペツになる?
変な例ですが、ほかに例を思いつかないから、それをあげておきます。それは美男美女という例です。いちいち美男美女というのも面倒くさいから、とりあえず美人ということにしておきます。
ふつうの女性の顔写真を百人分集めて、コンヒュータで重ね合わせます。そうすると、むろんいささかピンボケ顔になりますが、それでも美人になるんです。これって、なかなかむずかしいでしょ。だって、フツーの顔を百重ねたって、フツーの顔にしか、なりようがないじゃないですか。ふつうはそう思う。でも、実際はそうじやないんですよ。なんと美人になっちゃうんですよ。これが。なんでだろうって、考えましたな。フツーの顔を重ねていくと、どんどんフツーになるのではなくて、どんどん 「特別な」顔になっていく。ネッ、ここでわかるような気がしませんか。フツーの考えを 「重ねて」いくと、だんだん、「ノーベル賞級の考え」になっていくんですよ。つまりどこに誤解があるかというと、美人とは、稀な資質だと考えるところにある。そうじやなくて、「あまりにも、あたりまえ」のことが、本質的なことなんですよ。