模倣と創造の日本史
弁理士 遠山 勉
ライシャワーの日本史(講談社学術文庫 1500)他を参照し、日本にどのように海外の文化が流入し、日本独自の文化が発達してきたのかを検証し、日本人のオリジナリティに迫ってみたい。
この記事は、知財ブログからの転載です。(05/02/25)(07/04/03更新)
☆模倣と創造の日本史(序)
☆模倣と創造の日本史(1)
☆模倣と創造の日本史(2)
☆模倣と創造の日本史(3)
☆模倣と創造の日本史(4)
☆模倣と創造の日本史(5)
☆模倣と創造の日本史(6)
☆模倣と創造の日本史(7)
☆模倣と創造の日本史(8)
☆模倣と創造の日本史(9)
☆模倣と創造の日本史(10)
☆模倣と創造の日本史(11)
☆模倣と創造の日本史(12)
☆模倣と創造の日本史(13)
☆模倣と創造の日本史(14)
☆模倣と創造の日本史(15)
☆模倣と創造の日本史(16)
☆模倣と創造の日本史(17)
★模倣とは何か
☆模倣と創造の日本史(18)
☆模倣と創造の日本史(19)
★模倣される日本
☆模倣と創造の日本史(20)
☆模倣と創造の日本史(21)
☆模倣と創造の日本史(22)
★模倣と創造<書の世界
January 31, 2005
模倣と創造の日本史(序:ライシャワーの日本史より)
エドウィン・O・ライシャワー(1910〜1990)著、「ライシャワーの日本史」を読んだ。古代から1980年までの日本通史である。氏は日本生まれで、ハーバード大学教授、駐日大使を歴任。外国人として、世界的視野から日本通史を客観的に紹介しているのが本書である。
この本を読んだ理由は、かつて、なぜ日本が太平洋戦争に突入したのかを、ライシャワー氏が極めて公平な視野から客観的に説明していたことを、覚えていたからである。
もう一つ、本書を読もうと思った理由がある。日本史の中から「日本人の模倣と創造」の歴史を見出してみたいと思ったからである。数ある歴史書から「ライシャワーの日本史」を選んだのは、上記ような、ライシャワー氏の客観的な歴史観からみて、おそらく、本書から重要な情報が得られるであろうと思ったからである。
もちろん、氏は、「日本人の模倣と創造」をテーマに本書を著したわけではない。しかし、氏の興味が「日本人」である以上、日本人のアイデンティティは如実に表れており、日本人がどのように外国から文化を取り入れ、そのオリジナリティを発揮してきたかについても、至る所で表されている。
氏の分析力・洞察力は見事である。
日本は狭い国土の、海に囲まれた島国。気候は温和。豊かな雨。緑豊か。地理的には「古代世界」の東のはずれで孤立した状態。資源には恵まれていない。このような地理的条件が、日本人の独自性を育んできた。ライシャワー氏によれば、「日本民族は、借用とものまね以上のことは何もしなかったではないか、とよく言われるが、この指摘はまったく事実に反している。地理的に孤立していたため、日本人が意識して海外から学んできたことは確かであるが、同時に他から隔絶したいたことにより、同程度の他の規模の他の地域に比べても、とりわけ特異な文化を発展させることが可能だったのである」という。
今後、この「ライシャワーの日本史」から、日本人が、どのように外国から文化を取り入れ、そして、自身のオリジナリティを確立していったかを、「模倣と創造の日本史」と題して紹介してみたいと思う。
February 01, 2005
模倣と創造の日本史(1)
日本語がどこに由来しているかについて、ライシャワーの日本史には記載がない(他の書物によると、日本語はスリランカあたりの部族の言葉に近いらしい。かつては中央アジアの月氏国あたりが起源といわれていたが・・・)。しかし、ライシャワーは言う。日本文化の特異性は、日本語が他の言語とかけ離れていたものであったため、いっそう促進された・・と。日本語の中にはおびただしい量の中国語が入り込んでいる。しかし、日本語と中国語の間には英語との違いに匹敵する相違がある。
地理的相違と言語的相違は、日本人の自己意識を増長し、他者との相違を敏感にさせた・・とライシャワー氏は見ている。これは、日本人に有利に働いた。日本人はナショナルアイデンティティの点で何らの問題に突き当たらなかった。
ライシャワー氏のこの指摘を鑑みるとき、日本人は、他の国の優位性を容易に意識でき、それをスムーズに取り入れる土壌が資質として有していたのだといえよう。
しかし、日本には、8世紀までの間、大陸から多くの人々が流入し、同時に、文化も導入している。これは文化を模倣したというものではない。文化の融合である。
縄文時代の土器のデザインは非常に多彩で、独創的である。その後の弥生時代、青銅器は明らかに中国のそれを模倣したものがあるが、それは紀元前3世紀の中国統一によって引き起こされた移動の結果もたらされた可能性が大きい。
February 08, 2005
模倣と創造の日本史(2)
ライシャワーの日本史によれば、日本語と中国語とは、日本語と英語のちがいに匹敵するほどの相違がある・・・が、それにもかかわらず、中国語の表記に対する知識など、日本人は5世紀までには身につけていた。
7〜8世紀にわたる中国は世界でも最先端の科学技術を有していた。日本は、中国を見習い、この大国のレプリカを作ろうとした。遣隋使、遣唐使の派遣。仏教を媒体とした文化の伝来。中国の官僚支配制度の模倣である冠位12階の制度の導入。中国歴の採用・・など。平城京、平安京は唐の都を模したものである。政治、宗教、芸術、建築、土木等、あらゆるものを中国に学んだ。
しかし、9世紀後半から中国からな学ぶことに熱心でなくなってくる。日本語の表記法に漢字をそのまま当てはめることが無理であったためか、日本語に適した表記法が現れる。かな文字の発達である。源氏物語という固有の日本文学が生まれた。同時に、絵画、彫刻、建築も徐々に日本的特徴を帯びてくる。
どうやら、日本語の独自性が独自の文化を発生させた源泉であったようだ。
February 16, 2005
模倣と創造の日本史(3)
ライシャワーの日本史には、古代における日本文化の発達については、あまり詳しくはない。そこで、「中国と日本の歴史地図」(武光 誠、ベスト新書)を参照し、古代日本における中国の影響を調べてみた。
以下、古代における中国と日本の関係から、どのように日本の文化が発展したのかを見てみたい。
この部分の記事ですが、匿名の方(おそらく歴史研究家)の方より、引用部分(「中国と日本の歴史地図」(武光 誠、ベスト新書))の内容が正確でないとの指摘がありましたので、削除し、改めて、信頼できるであろ文献に基づき、再掲させていただきます。
February 23, 2005
模倣と創造の日本史(4)
ライシャワーの日本史によれば、かな文字の発達につき、「ふしぎなのは、一千年も前に自分たちの言語にふさわしい表音文字を発達させた日本人が、なぜいまだに日本語表記において漢字という重荷を捨てきれないでいるのか、ということである。」という。
アルファベットの文化の人にとって、「カナ文字」だけの世界は理解できるが、その中に漢字を織り交ぜることが理解できないのであろうか。
カナ文字が発明された以前から、カナ文字に相当する言語は文字としてではなく、日本語として存在していたはずである。そこに中国から漢字が伝わり、当初はそれを仮の表記文字として使っていたが、その不便さに、カナ文字が生まれたのであろう(素人考えであるが)。
しかし、漢字自体は、表意文字であり、一字で特定の意味を表示できるという便利な文字である。元来の日本語の音を表示するだけのカナ文字と、表意文字である漢字を併用することで、豊かな表現が可能となる。
まさしく、日本独自の融合技術である。カナ文字の発明で、日本語は極めて柔軟性のある言語となった。現代でも、多くの外来語をカタカナにより容易に日本語として取り入れることができるのも、この柔軟なカナ文字のおかげである。
日本が素早く西洋文化の移入できたのも、この言語の柔軟性にあると思う次第である。
March 08, 2005
模倣と創造の日本史(5)
ライシャワーの日本史(講談社学術文庫)等によれば、 大宝律令(「律」は刑法にあたり、「令」は行政法その他にあたる)の制定によって、天皇を中心とした二官八省(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の官僚機構を中心に据えた中央集権体制が確立する。
役所で取り扱う文書には元号を使い、印鑑を押すことなどはこれにより定められたとのこと。律令制は唐の制度の模倣である。
すべての土地および国民は、国家の所有とされるという公地公民制が導入されたが、新田開墾のため、723年に新しく新田開墾をした者に三代の間、私有化できるという決定(三世一身法)がなされ、さらには、より効果的な新田開墾のため、三世一身法から20年後(743年)に墾田永年私財法が施行され、私有権の永代保有が認められた。
これをきかっけに、裕福な貴族の私有墾田である荘園が拡大していき、荘園制度が確立していく。その結果、中央政府である朝廷は無力化し、貴族である藤原氏が皇室と姻戚関係を結びつつ政治の実権を握っていく。なお、科挙の制度も当初導入されたようであるが、試験制度で公平に人材登用していく制度は、藤原氏の姻戚登用には向かなかったし、そもそも、人材そのものが少なかったので定着しなかったようだ。
「藤原氏は、黒幕となって傀儡を背後から操るという、以後の日本人の典型的支配形態に先鞭をつけた。日本の歴史を通じて、名目上の支配者かブルー婦が、実は、ほかの人間かグループに踊らされているというケースは、実は例外ではなくむしろ通例なのである。」
その後の武士(征夷大将軍 )による朝廷支配、鎌倉幕府における北条による将軍家の支配・・・・明治〜昭和初期における官僚・軍部による政治支配形態も同様であり、この政治形態の模倣である。
このような政治形態は、かならずしも日本だけでみられるものではないが、中国を模倣したものではない。日本の歴史的には日本オリジナルであろう。出る釘が打たれないようにするための方便か。日本人が自己主張しないことを価値観とするのはこの点に起因するのかもしれない???。
March 21, 2005
模倣と創造の日本史(6)
ライシャワーの日本史(講談社学術文庫)によれば、鎌倉時代より荘園制度から武士による封建制度に移行していく。「日本と西欧の封建制度は実によく似通っている。どちらも中央集権的な皇帝支配の概念と、部族組織とか個人的忠誠にもとづく絆とかいった土着の伝統とがないまぜになって生まれたものと思われる。」 この2つの要素の混合は、日本と西欧にしかないとのこと。日本の封建制度は唐と古代日本社会の氏姓制度から来ている。
西欧の封建制度は、背景のローマの律法主義により、法律尊重主義的になり、それは民主制度への下地となっていく。日本の封建制度は、背景の中国の儒教による倫理的忠節を強調したものとなり、今でも、強力な指定関係や、親分子分の関係などに引き継がれている。
○現代日本の派閥政治はまさに、親分子分の関係だ。とすると、民主政治の中に封建制度の遺産が残っているということか。
ところで、鎌倉時代に、日本はモンゴル(元)からの降伏要求に「No」の回答を出す。歴史的に初めて、外国にノーを主張した例であろうか。これにより、2度の元寇が起きるが、日本は幸いにも2度とも蒙古軍を追い払うことに成功する。このときに、日本が元に征服されていたら、日本文化はどのようになっていたであろうか。元の支配政策にもよったであろうが、日本がより中国的(蒙古的)になって
いたであろうことは疑いのないことと思われる。鎌倉幕府の英断には敬意を表する。
March 25, 2005
模倣と創造の日本史(7)
「切腹」・・はどうやら、日本オリジナルらしい。ライシャワーの日本史によれば、「絶望的な状態におちいった武士が自殺するという習慣は、はじめは辱めや拷問を避けるために行われたのだが、のちになると、むしろ主君に対する忠誠心を表明するという意味合いが強くなった。これもこの時代(鎌倉時代)に始まった・・。」
○中国儒教の倫理的忠節が、日本の武士階級で「切腹」という形に昇華・熟成されたというのであろう。その是非はともかく、これも一応日本独自の創造といっておこう。
鎌倉時代までには、新しい仏教も中国から伝搬される。空海(弘法大師)による真言宗。最澄(伝教大師)による天台宗。さらに、日本において、法然による浄土宗、その弟子親鸞による浄土真宗、日蓮による日蓮宗が開かれる。また、栄西により臨済宗が、道元により曹洞宗が中国から導入される。これらは、当然日本の文化に影響を与えている。
April 02, 2005
模倣と創造の日本史(8)
鎌倉時代の後、足利時代になると、政治的安定は維持できなかったが、禅僧らによる中国との商業、文化の交流がより活発となった。また、倭寇とよばれる海賊的な商人も増えた。そこで、幕府は、明朝発行の割符(勘合符)を持った正式な商人のみが明朝との貿易を可能とする、勘合貿易を導入する。
この時代、技術の進歩は著しく、米の収穫量も増加している。刀剣や絵を描いた扇や屏風が中国に輸出され、特に刀剣は当時最高級品として扱われた。一回の勘合貿易で輸出された刀剣の本数は3万本に上ったとのこと。
文化的には、禅僧により、漢詩文の復興、儒学の導入、山水画、枯れ山水(造園)、座禅時の喫茶の導入(後の茶の湯に発展)、などが行われ、わび・さびという審美感が発展する。玄関、襖、障子、床の間、畳という和風住宅様式の原型もこの時代に確立した。(参照:ライシャワーの日本史:講談社学術文庫)
○日本文化が中国の影響を受けてはいるものの、足利時代では、現代日本の文化的特質を基礎作る独自文化の発展が見られたようである。文化というものは、他の文化の模倣をベースとするものの、最終的には模倣が模倣でなくなり、独自文化を生み出していく。知財もまたそういうものである。特許法も、単に模倣を禁止するのではなく、むしろ適法な模倣は、産業の発達を促進する発明の有効利用として奨励しているのである。よって、「模倣」=悪と短絡的に決めつけることはできないのである。禁じなければならない模倣よりは、むしろ推奨されるべき模倣の方が、そのウエイトが大きい。
April 10, 2005
模倣と創造の日本史(9)
今回は、「知価革命」堺屋太一(PHP文庫)の中から、日本人が中国から模倣しなかった「文化」を紹介しよう。
堺屋氏の指摘によれば、日本人は優れた中国の技術は導入したものの、中国から流入する思想には首をひねった。中国の道教、宦官、同姓不婚の習慣、神仙道(役行者、久米仙人)は拒否された。模倣しなかったのである。そして、「あるものを習得し、他のものを峻拒するというのは、単なる選択ではない。自らの基準によって消化し改造することである。日本人は、自国と先進中国との発展段階の大きな差によってそうする必要に迫られた結果、実に学び上手な改造好きな民族になった。」というのである。
このようなことを日本人にさせたのは、日本の地理的な位置であると堺屋氏は指摘する。中国から遠からず近からずの位置が「消化」と「拒否」を可能にしたのである。
但し、拒否の基準となったものは何かについて、堺屋氏は指摘していない。当時の日本の思想的な共通意識は何であったのだろうか。このあたりを解明していくと、日本人のオリジナリティの根源がわかるのかもしれない。
May 22, 2005
模倣と創造の日本史(10)
1543年、種子島にポルトガル商人が漂着し、火縄銃を伝える。日本人はこの鉄砲を完璧に模倣し、さらに改良を加え、またたくまに広めた。その普及率は同時代のヨーロッパ以上であったようだ。漂流リストアップblogによれば、1543年には、鉄砲の内ネジの技術が日本人には伝わらなかったが、のち1544年、
種子島にやってきたポルトガル船に乗っていた鉄砲鍛治が、種子島に内ネジの技術を伝えたとのこと。かつて、NHKの番組で見た記憶があるが、この内ネジの技術導入のため、種子島の住人は自分の娘をポルトガル人に嫁がせたらしい。
鉄砲により、戦国時代の戦術、城のあり方も変わる。模倣が新たな革新を生む。
参照:ライシャワーの日本史(講談社学術文庫):Ever Green Forest-漂流 漂流リストアップblog
June 08, 2005
模倣と創造の日本史(11)
戦国時代最も発達したものの一つとして、城郭があるのではなかろうか。日本の城はかなり、オリジナリティ豊かである。建築の要素技術としては、古来中国からの技術導入もあったろうが、美しい天守閣の独自性は高いのではなかろうか。皆さんはどう思いますか?
日本のお城データベース
城郭探訪目次
June 29, 2005
模倣と創造の日本史(12)
戦国時代の信長、秀吉、家康からその後の徳川三代までに確立された封建制度は同時代のヨーロッパのどの王国よりすぐれていたとのこと。日本のように孤立した国でなければとうてい存続不可能という。ご存知のように、江戸幕府は大名制を維持するが、それには「親藩」「譜代」「外様」のランクが作られた。幕府は次第に象徴的になる将軍職の下に老中・若年寄という最高評議機関が置かれ、さらにその下に奉行他多くの役職があった。江戸時代の発明的な制度は、「参勤交代制」である。大名に1年おきに江戸屋敷と国もととを往復させる制度により、人質制度を兼ね、さらに、経済的負担を強いて、幕府への反旗を翻す余裕を持たさないようにした。しかし、このための財源を得るため、大名は事藩の経済改革を迫られ、封建制には予想しにくいまでに商業が発達したといわれる。参照:ライシャワーの日本史(講談社学術文庫)
江戸時代には平和が続き、その結果文化が発展する。鎖国の制度は、さらに日本の独自性を養うこととなる。知財の観点からすると、将軍吉宗の布告した「新規法度」がある。これについては、富田徹男氏の知的財産権雑考8 http://t4tomita.lolipop.jp/pnb/pnb08.html を参照されたい。華美な風潮を是正しようとするもので、必ずしも技術の発展を阻害したものではないらしい。また、同氏のhttp://t4tomita.lolipop.jp/book/ipmk/ipmk04.htmlによれば、個人の発明に対しては販売を独占する株が与えられた。このような株としては江戸町奉行、加賀藩、大坂町奉行の事例があるようだ。
このように、江戸時代には、日本の産業発達の土壌が培われた。
August 11, 2005
模倣と創造の日本史(13)
明治維新後、日本は急速に近代化の道を進む。名目上は天皇制を「復活」させ古き時代にもどるかに見えるが、実際には欧米の近代的中央集権制を摸した。「富国強兵」をモットーに、士農工商の階級制度を廃し、徴兵制による近代的軍隊を構築した。これはフランス後にはプロシア(ドイツ)に倣った。新政府は、廃藩置県等により、旧勢力である大名や、武士階級の力をそぎ落としていく。そして、明治維新後わずか10年で、全く新しい近代国家の制度を導入してしまう。日本人の適応力、身変わりの早さには、驚きである。
経済の分野でも、銀行制度をアメリカやベルギーを参考に導入し、税制も地租を収穫高で納めていたのを税金で納める形に転換する。新政府は、全国に電信線を敷設して通信設備を整え、郵便制度も導入、鉄道も開設した。さらに、近代化を進めるため、留学生が選抜され、イギリス、ドイツ、フランス、アメリカへと派遣された。
このように、明治維新に始まる日本の近代化は、欧米からの学び、模倣に始まる。参照:ライシャワーの日本史(講談社学術文庫)
September 12, 2005
模倣と創造の日本史(14)<日本の教育制度の確立
ライシャワーの日本史(講談社学術文庫)では、古代日本から江戸時代終焉までが133頁、その後の明治時代から現代までが325頁と、圧倒的に近代・現代史の分量が多い。通常の日本人は古代日本から第2次大戦頃までをまんべんなく学ぶが、それ故、これほど近代・現代史を学ばないように思える。
しかし、明治以降を詳細に学ぶことは、現在を理解し、将来へ向かうために極めて重要と思える。
ライシャワーの日本史によれば、明治政府は、近代国家に幅広い普通教育のシステムが不可欠なことを認識していた。1871年文部省設置。義務教育を導入。1907年からすべての児童が学校へ通うようになる。義務教育の小学校6年制の上の教育については、政府は主に男子向けの中学校と高等学校という複合システムを推し進め、その上に帝国大学を設け、東京大学をその頂点とする仕組みを作った。教育制度は、欧米のそれとはちがって全く新規に作られた。ほとんどが官製で、当時の欧米の教育制度にありがちな、貴族的雰囲気とか宗教色とは全く無縁で、事実はるかに合理的かつ世俗的で、国家指向の強いものであった。
「教育とは、何よりも近代国家に必要なさまざまな熟練技術を学ばせ、従順で有能な国民を訓練するための政府の一手段とみなされたのである。・・・この高度に合理化された教育制度が日本の社会を大きく変えることになった。」・・「初等教育は、どう考えるかではなく、何を考えるかを人民に教え込む手段となっていた」・・「日本は、教育制度を通じ、国家への服従と画一性を意識的に国民に植えつける近代全体主義の手法におけるパイオニアであるというかんばしくない栄誉を担っているのである」
★上記の教育制度は、日本が西洋に追いつくために取られた、戦略であり、それ自体は、オリジナリティがあたといえよう。しかし、「国家への服従と画一性を意識的に国民に植えつけた」ことは、かなりの影響を与えている。第2次世界大戦の敗戦により、国家への服従という呪縛は形式的には解かれたものの、「画一性」については、なかなか抜けきれないでいる。教育制度自体が、「量産体制」の教育システムである。「どう考えるかを教え、知識創出型の教育が望まれよう。それが知財創出の基である。
October 24, 2005
模倣と創造の日本史(15)<近代国家の創造
ライシャワーの日本史(講談社学術文庫)は、日本が近代国家を形成するにあたり役だったこととして、日本が島国として地理的に孤立していたこと、鎖国によりそれいっそう強化されたことを指摘する。
「日本に渡来するものはすべて海路を経てやってくるので、明らかにそれと知ることができる。日本人は、他の諸民族とは異なり、日本文明の大半が海外から舶来されたものであることを、長期にわたって認識してきた。だからこそ彼らは、19世紀のこのときも、西欧から学べること、学ばなければならないことがたくさんあることを何の困難もなく認識できたのである。
日本は決して後進国ではなかった。遅れをとっていたとしても、それは科学技術の分野においてのみであった。集団としての統制力や協調のための技量などにおいては、西欧のどの国より進んでいたのものと思われる。
明治維新が成功したいま一つの重要な要素は、指導者がゆっくりと、しかも実務的に事を運んだことで、その方が日本には適しているとみなしたからであった。・・・・しかも、彼らは間違っていることに気付けば、すでに手がけたものもさっさと放棄して、うまくいくまで新しいものを試してみるなど、試行錯誤を恐れない点で実務性に富んでいた。」
以上は、ライシャワー氏の明治維新におけれ成功要因の解析であるが、こうした、日本人の学ぶ姿勢と試行錯誤を恐れない柔軟性が日本の創造を生んだものであろう。そこには、海外から知恵をもらうという「模倣」をベースにしながらも、それを上手く使って、日本にふさわしい創造的な国作りがあったのといえる。
December 17, 2005
模倣と創造の日本史(16)<政治制度の模倣
ライシャワーの日本史(講談社学術文庫)を参照すると、明治政府は、文明社会の一員として欧米から認めてもらうため、政治制度も模倣せざるを得なかった。欧米式の憲法を制定し、欧米式の政治制度を採用することとなる。伊藤博文は、ヨーロッパの各国を視察したが、特に、ドイツとオーストリアに集中しているという。この2国は君主の権威が強大で、議会の力は制限されていた。日本の国情にあっていると思われたのである。
ドイツの憲法学者を招き、西洋からみて十分権威があり、実質的に日本の実情に合う憲法を作った。天皇の権威を守るため、元老制を作り、天皇の大権こそが彼らに権威を与え、彼らによる支配を正当化するものとした。また、欧米の憲法の背後にキリスト教があることに対応して、キリスト教に代わる精神のよりどころを天皇制に求めた。天皇は「神聖にして侵すべからず」ということになった。さらに、
天皇の地位を枢密院という最高諮問機関で囲む一方、国会の均衡を保つために、イギリス議会を模倣して貴族院を設置した。また、内閣制を導入するとともに、ドイツにならった官僚制度が導入された。
このような政治制度の充実は、確実な成果を生む。イギリスは、1894年、治外法権を破棄するこ
とに同意する。
December 28, 2005
模倣と創造の日本史(17)<帝国主義の模倣・・模倣の行き着く先
ライシャワーの日本史(講談社学術文庫)によれば、明治政府は、西洋の政治制度を模倣して立憲政治をスタートさせると同時に、当時のイギリスやフランスの採っていた帝国主義をも模倣した。
開国と同時に、それまでの遅れを取り戻さんとばかりに、西洋諸国の文明を学び、追いつけ追い越せと突っ走ったのであった。その気質は現代においても未だ残っている。舶来ブランドに傾注し、それを持つことが今なお社会的ステイタスである。
さて、ここで、明治政府がどのように帝国主義を模倣したのか、その歴史をたどってみる。
1976年:日朝修好条規締結(日本は朝鮮半島を国防上の戦略要地とみなす。一方清国は、朝鮮を属国とみなしていた。よって、半島をめぐって日清両国の覇権争いが生じた)
1894年:日清戦争開始
1895年:2月、威海衛占領。4月、日清戦争終結(下関条約)、12月、ロシア、フランス、ドイツの3国干渉で遼東半島返還。(「帝国主義のゲームがどれほど無軌道なものであり、他の民族がその競争に対等に入り込んでくるのを欧米列強がいかに嫌うかを、身をもって教え続けた」(ライシャワーの日本史))
1898年:ロシア、フランス、ドイツ 清国を領有。遼東半島をロシアが占領。日本が占領した北支の軍港威海衛をイギリスが手中にする。
1902年:日英同盟(西洋国家と非西洋国家との間のはじめての対等な軍事同盟)
1904年:日露戦争
1905年:ポーツマス条約(日本へのサハリン割譲)
1906年:南満州鉄道株式会社設立
1910年:韓国併合(朝鮮から強敵の中国とロシアを追い払った日本は、欧米のだれからも何の抗議のないままに、朝鮮半島を平穏の内に併合した)(ライシャワーの日本史より)
1914年:第1次世界大戦。日本はドイツに宣戦布告。青島占領、旧ドイツ領を占領。
1915年:対華21箇条の要求。
1919年:ベルサイユ講和会議(日本は世界の五大列強の一つとして参加した)
1920年:ドイツと和平回復。北太平洋の旧ドイツ領諸島を委任統治。
1931年:満州事変。
1932年:上海事変。満州建国宣言
以上のように帝国主義の模倣は成功したかに見えた。「明治の指導者は1868年、欧米列強の軍事的脅威から安全で、しかも完全に対等な国、日本を生み出すために立ち上がった。そして長命な指導者に関するかぎりその在世中に、まさにそれをやり遂げたのである。」(ライシャワーの日本史)
帝国主義を模倣することには、上記のような正当な理由があった。しかし、その模倣の行き着く先は、ご存知のように、第二次世界大戦であり、帝国主義は淡くも消え去るのである。
☆☆☆ ここで、言いたいことは、帝国主義の是非ではない。知財的観点からみた模倣ということの意味である。明治政府は、何も帝国主義を当初から模倣したかったわけではなかろう。欧米の列強に追いつくため、当時の欧米列強が持っていた価値観すべてを模倣したのである。法律、文化、政治、経済、軍事すべてのシステムを模倣した。それが正しいと思ってのことである。よって、模倣することに対し、罪悪感はない。それが世界の常識だった時代なのである。
単に「追いつけ追い越せ」の発想で、先に行くものの価値観に迎合し、それを単に模倣していくというやり方が、決してよき結果にはならないことを、上記の歴史は語っているのではなかろうか。知財シーンもまったく同じではないか。そう思う次第である。
参考HP:「帝国主義」の国際政治過程と日本
December 29, 2005
模倣とは何か>価値観の模倣
昨日の記事「模倣と創造の日本史(17)<帝国主義の模倣・・模倣の行き着く先」を書いていて、一つ気づいたことがある。今まで、模倣とは単に現実の対象物のコピーであり、それ以上のものではないと思っていた。しかし、そのような「模倣」の前段階として、「価値観の模倣」があるのだということに気がついた。
何かを模倣しようとする時、まず、対象物が他に与える価値感に共鳴し、その価値感を模倣する。当該価値観に共鳴しない限り、対象物を模倣しようとは思わないであろう・・。その価値観に共鳴した者は、当該価値観を共有する。すなわち、その段階で、価値観のコピーが当該共鳴者に生じる。その共鳴者は、当該価値観を他に伝搬したくなる。そこで、その価値観を利用し、その価値観を含む何らかの「モノ」を作り、社会に提供しようとする。
ここで、新たに作られる「モノ」として、いくつかの形態がある。
(1) 価値感の具現化を性急に欲するあまり、当該対象物をそのままコピーしてしまう場合
(2) 価値感をそのまま伝えるにしても、具現化する対象物に何らかの変化を与える場合
ここで、加える変化の度合いが大きくなるほどオリジナリティは高いものと評価されよう。
そして、その変化があまりにも大きく、価値観さえ変容させてしまう場合がある。そのときこそ、今度は真のオリジナリティと言える新たな創造物が創出される。
よって、対象物が放つ価値観が何かを見極めることが、重要なことであると言えよう。
January 12, 2006
模倣と創造の日本史(18)
ライシャワーの日本史(講談社学術文庫)を参考に、模倣と創造の日本史を書いているが、今読んでいる、「東大講義録・文明を解く」堺屋太一:講談社、も大変参考になる。前回の記事では、模倣と創造の日本史(17)<帝国主義の模倣・・模倣の行き着く先と題して、日本が第2次世界大戦に突入するにあたって、帝国主義という価値観を模倣した点を指摘したが、「東大講義録・文明を解く」では、日本人の価値観がどのように変遷してきたのかを指摘しつつ、近代史を説明している。
堺屋氏によれば、江戸時代前まで、日本の科学技術は欧米とそれほど代わりはなかった。むしろ、鉄砲などは、世�Eトップクラスであったという。しかし、徳川時代になると、「安定」を望むあまり、「独創性」を禁止する。
氏によれば、徳川時代以来の正義感と美意識が生むコンセプトと制度は次の通りである。
(1)徳川時代
・正義(安定・様式美)・コンセプト(封建制・武士文化)・制度(自給領国・流派主義)
(2)明治時代
・正義(維新・文明開化)・コンセプト(富国強兵・殖産興業)・制度(中央集権・官僚啓蒙)
(3) 昭和初期
・正義(勤勉・忠勇)・コンセプト(産業拡大・軍国主義)・制度(官軍主導・画一主義)
(4) 戦後
・正義(効率・平等・安全)・コンセプト(経済成長・絶対平和)・制度(官民協調・職縁社会)
これらの見方が正しいか否かはともかく、このような価値観の相違が時代を作ってきたことは間違いない。
氏は指摘する。「日本は明治以来、外国から技術や制度や組織を取り入れる模倣主義だった。・・独創は悪いことだという江戸時代以来の流派感覚があります。このために明治以来、個性と独創性は非常に悪いものだという社会的風潮が作られました。・・・個性のことを日本では「癖がある」といいますね。・・また「独創」のことを「我流」といいます。これは明らかに軽蔑用語です。・・この風潮は今でも続いています。たとえば、外国から翻訳してもってくると非常にありがたがられますね。・・・外国模倣ということがまず日本にはありました。」
☆今でも続くこのような社会的風潮・・先日記事にしたように、外国ブランドが日本でも大流行な理由もこのような社会的風潮が下地にあるように思える。真の知財立国を目指すのであれば、このような基礎的レベルでの意識改革が必要なようだ。
さて、帝国主義の行き着いた先が、敗戦という破局だったわけであるが、戦後の日本はどのような価値観になり、その結果どのような創造をしたのであろうか。
ライシャワーの日本史(講談社学術文庫)によれば、「当時、多くの日本人が痛切に感じたことは、過去の時代の軍国主義と独裁主義の行き着く先が破局であったからには、アメリカ人が称揚する民主主義、さもなければ他の欧州諸国の社会主義であれ共産主義であれ、およそつい最近まで日本の指導者が糾弾してやまなかったものこそ正しい指導概念であるにちがいない、ということであった」としている。日本は、「経済を再建しようとするなら、相互に門戸を開いた平和な世界で貿易に活路を求めるしかなかった。」・・・「アメリカ人は、まるで洪水のように、新しい考え方や制度をたてつづけに持ち込んだ。」
持ち込まれた制度は、イギリス型の議会政治制度であり、大正デモクラシーにおいて不完全ながら育成されたものであった。象徴天皇制として天皇制が残され、民主化がなされた。敗戦により、模倣というより、強制的に民主主義が導入されたのである。
戦後において、「アメリカと西ヨーロッパの民主主義諸国は、大きな憧憬の的であり、アメリカに対しては、強いあこがれと親愛感があり、ことアメリカのものならば、1から10まで模倣するほどの熱の入れようであった。」
さて、この結果、戦後の日本はどうなったであろうか。それは、皆さんご存知の通りであろうが、引き続き、その模倣とその結果の創造について研究してみたい。(つづく)
February 09, 2006
模倣される日本
『模倣される日本−映画、アニメから料理、ファッションまで』(浜野保樹、祥伝社、2005年)を読んでいる。
まだ、読んでいる途中であるが、おもしろい。この本の内容は、私がこのブログで紹介している、「模倣と創造の日本史」の最終章に相当するが、ここでちょっとだけ紹介させていただく。
黒澤明監督作品が海外の映画監督の手本となっていることは、誰でも知っていると思うが、手本とされているのは彼の作品だけではないことが数多く紹介されている。
模倣される日本という題であるが、適法な模倣は「手本」であり、誇らしく思ってよい。日本人は「創造的」なのだ。
関連ブログ:
インテリジェンスさん:http://tig.seesaa.net/article/11167927.html
にわか京都人さん:http://blog.livedoor.jp/daikontyann/archives/50354421.html
戦後日本の驚異的な復興は、日本人の独自性といってよい面がある。その原動力は日本人の特性にあろう。ライシャワーの日本史(講談社学術文庫)において、ライシャワー氏がみた日本人の特性はどういう点であったろうか。
★ライシャワー氏が見た日本人の特性
★戦後日本復興の要因
上記日本人の特質に加え、戦後の復興を支えた独自性は次のようなことであった。
おそらく、これらは今更指摘するまでもなく、言われ尽くされてきたことであろう。さらに、日米安全保障条約のおかげによる低い防衛コストなどがさらに経済発展を助長したなど、他にも様々な要因があったことも指摘されている。
模倣と創造の日本史(序:ライシャワーの日本史より)で紹介したことが思い浮かぶ。日本は狭い国土の、海に囲まれた島国。気候は温和。豊かな雨。緑豊か。地理的には「古代世界」の東のはずれで孤立した状態。資源には恵まれていない。このような地理的条件が、日本人の独自性を育んできたという点である。「日本民族は、借用とものまね以上のことは何もしなかったではないか、とよく言われるが、この指摘はまったく事実に反している。地理的に孤立していたため、日本人が意識して海外から学んできたことは確かであるが、同時に他から隔絶したいたことにより、同程度の他の規模の他の地域に比べても、とりわけ特異な文化を発展させることが可能だったのである」(ライシャワーの日本史)
February 20, 2006
模倣と創造の日本史(21)
模倣と創造の日本史を考察するにあたり、ライシャワーの日本史(講談社学術文庫)を参考にさせていただいたが、この本は、1981年の著作になっており、ライシャワー氏は1990年に故人になられた。
よって、現代史の部分を若干補足する必要があるのではと思い、「文明の衝突と21世紀の日本」サミュエル・ハンチントン(集英社新書)を購入してみた。この本は、文化・文明の相互関係について研究したもので、その観点から、日本を孤立国家とみている。
これまでにも述べたように、同一の文明・文化は、情報・価値観において共通してしている。しかし、ハンチントン氏は指摘する。「多くの日本人がアメリカに移住してアメリカ社会に同化しているが、ハワイを除いて、日本を離れた移民はたいてい日本の文化的共同体の一員ではない」と。
古代・中世において、日本はまぎれもなく中国の文化的影響下にあったが、中国文明そのものではなく、独自性を築いてきた。これに対し、明治以降は、西欧文明を模範とし、近代化に励み、西欧に追いつくことを目標としてきた。戦後における躍進はまさしく西欧化したと思える。
しかし、氏は指摘する。「日本が特徴的なのは、最初に近代化に成功した最も重要な非西欧の国家でありながら、西欧化しなかったという点である。西欧化せずに近代化を成しとげることは、1870年代以来の日本の発展の中心的なテーマだった。その結果できあがった社会は、近代化の頂点に達しながら、基本的な価値観、生活様式、人間関係、行動規範においてまさに非西欧的なものを維持し、おそらくこれからも維持しつづけると考えられる社会である」と。
氏の見方が正しいか、正しくないかは、ここでは保留したい。私などは、「日本は西欧化した」と思っていたくちなので、このように評価されていることに若干の驚きを隠せない。というより、外国からみると、十分独自性のある文化をもっているのだ、ということである。ジャパン・オリジナリティが存在するようだ。
「模倣される日本」浜野保樹(祥伝社新書)には、日本文化が諸国の模倣の対象となっていることを指摘する。
日本文化 (模倣の対象・人) |
影響を受けた作品・人
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深作欣二 |
キル・ビル(タランティーノ) |
隠し砦の3悪人 黒澤明
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スターウォーズ |
7人の侍 黒澤明 |
荒野の7人 プライベート・ライアン |
羅生門 黒澤明 |
アイアン・メイズ HERO 暴行 |
用心棒 黒澤明 |
荒野の用心棒 ラストマン・スタンディング |
狂った果実 石原慎太郎
|
勝手にしやがれ |
リング・呪怨 |
リメーク版 |
攻殻機動隊 |
マトリックス |
AKIRA |
ターミネーター |
他にも様々な作品がある。特にアニメは日本文化の特徴だ。
ドラゴンボール、セーラームーン、宮崎作品(もののけ姫、千と千尋の神隠し)などなど。世界でいちばん有名な日本人は、鳥山明さんだそうだ。
日本文化もまんざらではない。
ワープロ時代からパソコンになった今日まで、22年間ずっとキーボード入力をしていたら、漢字が書けなくなってしまった。やばいなぁと思い、書道でもやってみようか、と思い、「書」を書く愉しみ(武田双雲:光文社新書)を読んでみた。
書の世界で、古典の作品を模倣することを、「臨書」というそうだ。
というそうだ。
★なるほど、と思いつつ読み進むと、武田氏はさらに言う。
「小学校で習ったお習字教室では、お手本通りにひたすら写すことをやらされました。書いたものを添削する先生は間違い探しゲームをやっているようなもの」・・・・「寸分違わず模倣はできない」・・・「劣等感が増すばかり」
「お手本を模倣することは素晴らしいことであるが・・それが最終目標になってはもったいない・・・・あくまでも個としての自分を表現する、からだの中からあふれ出てくる力を言葉に文字に変換し、筆で表現していく作業こそが真の書道の魅力」という。
★そうだそうだ、これは知財の分野にも通じますね。「形臨」、「意臨」は、侵害ですね。「背臨」というとこれは利用発明のようなもの。独創性は、最後の「創作」ですね。
武田氏は、臨書を楽しみなさいと言っている。しかし、臨書が目的ではいけないと言う。知財もそうだ。模倣は創造の前提として必ず必要。模倣を通じて、先人の考えやこれまでの技術の意義を確かめる。先人の知恵に敬意を表し、それを応用して独創性を出す。
ところで、武田氏は、古典だけでなく現代作品も臨書してみようと勧める。ただ、古典の方が重みがあるという。そして、『先人達は古典に敬意を込めて「臨書」という言葉を作ったのでしょう』と言っております。『偉大なる書に臨む、という謙虚な気持ちが漢字から想像できます』とのこと。
★知財の分野もこうあって欲しいものですね。