模倣と創造の研究

模倣のモラルと創造のアイデンティティ確立の提唱/仮説の検証

弁理士 遠山 勉


1.はじめに  特許等の知的財産権に携わっておりますと、どうしても、創造性、特に日本人固有の創造性に関心を向けざるを得ない場面に遭遇することがあります。特に、平成5年改正不正競争防止法では、模倣行為の禁止規定が新たに設けられ、法律上、初めて「模倣」という文言が導入されました。この模倣と創造との間には密接な関係があり、全ての模倣が「悪」とはいえません。むしろ模倣こそが創造への道標といってもよいでしょう。しかるに、すべての模倣を「善」であるとして放置するならば、社会秩序に混乱を来し、創作の奨励にならないことは、知的財産権制度の歴史から明らかでしょう。
 特許、実用新案、意匠、商標工業所有権法四法に、不正競争防止法、著作権法などを含めた知的財産権法は、模倣の善し悪しの最低限のボーダーラインを定めたものであり、これらは、模倣してはいけない最低限のルールを定めている一方、特許法などでは、発明(創作)の保護(模倣の禁止)とともに、発明(創作)の利用(模倣の奨励)を図っているわけです。
 このようなことを考えますと、模倣と創作との関係はとりもなおさず知的財産権の侵害、非侵害の問題であるとして、それ以上の議論は不要であるかのようにも思えます。しかし、それでは、人間の持つ資質としての「創作性」、特に日本人の創作性を解明するには至りません。
 近年、諸外国、特に米国で日本企業が特許権侵害訴訟で訴えられ、敗訴する例が多数見られました。これらのいくつかは意図的なジャパン・バッシングという面もなきにしもあらずでしたが、他方、これらは、法律上での単なる侵害論以前に存在する、日本人と欧米人との間の創造性に対する考え方の相違によるのではないかとも思えます。
 ここでは、法律上の模倣の是非に止まるのではなく、法律を含めた社会科学一般として、あるいは、自然科学的側面から人間の「模倣」行為を研究し、再評価するとともに、今や経済的にも技術的にも先進国となった我が国に要求される「創造性」とは何かを探求してみたいと思います。

2.徳大寺有恒氏の「真似の掟(洗練かパクリか)」
 個人的な趣味から、自動車評論家、徳大寺有恒氏が展開する自動車文化論が好きで、氏の記事をよく読ませていただくわけでありますが、その中の一つ「クルマの掟」(二玄社)に「真似の掟」と題して以下のような記述がありました。
 「7〜8年前、パリ・サロンでアウディ80が発表された。日本のメーカーの人たちはアウディ80を取り巻いてそのトランクのヒンジばかりを眺めていた。・・・数年たったころ日本のトランクのヒンジは一斉にアウディ80に似た形状となって製品化された。もちろん、ぎりぎり特許には抵触しない方法でである。メルセデスのW124シリーズが発表されたときも全く同じことだった。メルセデス124は大型化するテールランプとトランクの兼ね合いを考えた結果、テールレンズを斜めに切った。するとやはり6〜7年後、日本の車の3割ほどがテールランプを斜め切りにして登場した。
 自動車メーカーにとっては、他社の技術を研究して、どうやって自社のオリジナリティとしていくか、が重要なのだ。日本の車を見た場合、オリジナリティが全く追求されておらず、真似で終わってしまっていると言わざるをえない。」  氏はいつものことながら日本の自動車メーカーに厳しいのですが、これは氏が日本の自動車メーカーを愛するが故のことでしょう。
 しかし、これとは逆の場面がなきにしもあらずといえます。自動車のテールランプを見た場合、トヨタ自動車のRV車「カリブ」のテールランプと同様のテールランプをボルボ850が採用しております。
 また、メルセデスのW124の斜めのテールランプ以前に、トランクとテールランプとの境が斜めの車がなかったかといえば、実はジャガーのテールランプがそうでありました。
 日本人とか外国人といった区別に限ることなく、新技術が既存の技術の上に成り立って行くのは当然のことであり、その際、何らかの「真似」や「模倣」を避けることは不可能なことでありましょう。そして、このこと自体は何ら卑下することではありません。
 問われるべきは、模倣したこと自体ではなく、「模倣の程度」でありましょう。

3.タルドの模倣説
 模倣について研究しようと思い、文献を調べてみると、「模倣」を正面からとらえた文献は以外にも多くありません。その中で、注目に値するのが、社会学者ガブリエル・タルドの模倣説を基礎に「模倣」について論じた「模倣の社会学」(横山 滋:丸善ライブラリー)であります。その中から、「模倣」を考える上で必要と思える点を数箇所抜粋してみます。

 『タルドは、社会を捉えるにあたって、3つの概念を設定した。「模倣」「闘争」「発明」という概念である。ある「発明」がなされるとそれらが「模倣」されて伝搬し、いくつもの模倣の流れが生まれる。ある発明と発明とが結び付くこともあれば互いに反発しあうこともある。前者の場合は「論理的結合」と呼ばれ、新たな発明を意味する。後者の場合からは、発明と発明との「闘争」が生じ、タルドのいわゆる「論理的決闘」が行われる。』

 『発明とは、それまでに存在したいくつかの発明の模倣から生まれるものだと、タルドは考えている。』
 『発明が模倣されていくということは、「観念(信念)」や「欲求」の伝搬ということになるだろう』
 『模倣された発明は、伝えられるうちに、特定の個人の中で他の模倣と出会うこととなる。一つの模倣は、ある時にはすでに存在している他の模倣と対立する。新しい模倣より既存の模倣の方が強ければ、新しい模倣が消滅するし、新しい模倣の方が強ければ、新しい模倣が古い模倣にとって代わる。別ななるときには、模倣は他の模倣と結合して新しい発明を生み出していく。』
 『大小を問わず、発明というものは無から有が生じているわけではないうということである。大科学者の中には、それまでの全ての業績を覆すような発明や発見をする人がいる。それはあたかも無から有が生じたかに見える。しかし、歴史に残るような大発見をするような大科学者たちも、実は多くの先人の業績に負っているものである。ニュートンは、謙虚に、「もし私が、より遠くを眺められたとすれば、それは巨人たちの肩にのったからであります。・・・」と言っている(島尾永康『ニュートン』岩波新書)。

 また、発明は、同業者の集団や聴衆によって支えられることも重要だという指摘が、ルイス・コーザーの『知識人と社会』などでされている。最近の実例としては、アメリカのベル研究所やイギリスのキャベンディシュ研究所の例などが挙げられるであろう。天才的な科学者達の集団は、・・研究者達の間に共通の知識・認識の平面を作りあげる。その平面の中で競争関係に巻き込まれる。その中で様々な力が作用しあって大発明が生まれるのであろう。
 ともすれば、私たちは、まわりからの情報をまったく遮断しなければ、オリジナルな発想はできないし、発明などできるはずがないというふうに考えがちであるが、・・・・むしろ模倣こそが重要で、問題は、その結果として得られる様々な領域についての知識や経験をどう組み合わせるかという点にあることを教えている。孤独な人間の孤独な努力でできることには限りがあるということなのであろう。』
 以上から明らかなように、タルドは「模倣」を必然のことと考えており、模倣なくして社会は成り立たないとしています。私達の行動様式を振り返ったとき、ファッション、音楽、芸術、その他社会そのものの現象の多くが、模倣を伴っていることが理解できるでしょう。このように、「社会は模倣の上に成り立っている」ことをまず認識しておきましょう。


まねって何だ(模倣の種類)

ホームページに戻る